「含花未出」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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− | + | 『観経疏』「定善義」p.412の地観の文。 | |
− | + | 四 明修因正念 不得雑疑 | |
+ | :四には因を修すること正念にして、疑を雑ふることを得ざれといふことを明かす。 | ||
+ | 雖得往生 含華未出 或生辺界 或堕宮胎 | ||
+ | :往生を得といへども、華に含まれていまだ出でず。 あるいは辺界に生じ、あるいは宮胎に堕す。 [[観経疏 定善義_(七祖)#P--412]] | ||
− | + | の「含華未出」、「或生辺界」、「或堕宮胎」の語によって、御開山は「仏不思議の弥陀の御ちかひをうたがふつみとがをしらせんとあらはせなり」として「誡疑讃」として和讃された。 | |
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+ | この仙洞田医師の示される文は『無量寿経』智慧段p.76に説かれる、 | ||
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+ | 【43】 そのときに慈氏菩薩(弥勒)、仏にまうしてまうさく、「世尊、なんの因、なんの縁ありてか、かの国の人民、胎生・化生なる」と。仏、慈氏に告げたまはく、「もし衆生ありて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修してかの国に生れんと願はん。仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。しかるになほ罪福を信じ善本を修習して、その国に生れんと願ふ。このもろもろの衆生、かの宮殿に生れて寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞の聖衆を見たてまつらず。このゆゑに、かの国土においてこれを胎生といふ。 | ||
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+ | が元である。御開山は「化身土文類」p.378で引文されておられる。 | ||
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+ | 如来よりたまわった往生の行であり仏智の顕現である〈なんまんだぶ〉を称えながら、それを自らの善根であると誤解するから、辺地や宮胎に堕してしまうのである。御開山が「しかるになほ罪福を信じ善本を修習して、その国に生れんと願ふ」と示されたように、自らの為した因果の罪福を信じ、「貴賤緇素を簡ばず、男女・老少をいはず、造罪の多少を問はず、修行の久近を論ぜず」p.245という因果を超越した仏智の不思議である、平等の救いである本願の教説を受容(信)しないから、浄土に往生しても「仏を見たてまつ」ることがないのである。仏を見たてまつることがないということは。真の還相の菩薩として衆生救済が出来ないことであり、これが、まるで自分を「蚕繭の自縛するがごときし」 | ||
+ | の繭で自らを覆うような「信罪福心(罪福を信ずる心)」なのであった。 |
2016年12月6日 (火) 02:35時点における版
『観経疏』「定善義」p.412の地観の文。
四 明修因正念 不得雑疑
- 四には因を修すること正念にして、疑を雑ふることを得ざれといふことを明かす。
雖得往生 含華未出 或生辺界 或堕宮胎
- 往生を得といへども、華に含まれていまだ出でず。 あるいは辺界に生じ、あるいは宮胎に堕す。 観経疏 定善義_(七祖)#P--412
の「含華未出」、「或生辺界」、「或堕宮胎」の語によって、御開山は「仏不思議の弥陀の御ちかひをうたがふつみとがをしらせんとあらはせなり」として「誡疑讃」として和讃された。
この仙洞田医師の示される文は『無量寿経』智慧段p.76に説かれる、
【43】 そのときに慈氏菩薩(弥勒)、仏にまうしてまうさく、「世尊、なんの因、なんの縁ありてか、かの国の人民、胎生・化生なる」と。仏、慈氏に告げたまはく、「もし衆生ありて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修してかの国に生れんと願はん。仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。しかるになほ罪福を信じ善本を修習して、その国に生れんと願ふ。このもろもろの衆生、かの宮殿に生れて寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞の聖衆を見たてまつらず。このゆゑに、かの国土においてこれを胎生といふ。
が元である。御開山は「化身土文類」p.378で引文されておられる。
如来よりたまわった往生の行であり仏智の顕現である〈なんまんだぶ〉を称えながら、それを自らの善根であると誤解するから、辺地や宮胎に堕してしまうのである。御開山が「しかるになほ罪福を信じ善本を修習して、その国に生れんと願ふ」と示されたように、自らの為した因果の罪福を信じ、「貴賤緇素を簡ばず、男女・老少をいはず、造罪の多少を問はず、修行の久近を論ぜず」p.245という因果を超越した仏智の不思議である、平等の救いである本願の教説を受容(信)しないから、浄土に往生しても「仏を見たてまつ」ることがないのである。仏を見たてまつることがないということは。真の還相の菩薩として衆生救済が出来ないことであり、これが、まるで自分を「蚕繭の自縛するがごときし」 の繭で自らを覆うような「信罪福心(罪福を信ずる心)」なのであった。