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「聖徳太子の文を…」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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御開山は僧ではなく在家であって日本で仏教を興隆した聖徳太子を和国の教主として尊崇されていた。自らを「[[非僧非俗]]」であるとされた御開山は、聖徳太子をいわゆる在家仏教の嚆矢と見ておられたものと思われる。<br />
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御開山は僧ではなく在家であって日本で仏教を興隆した聖徳太子を和国の教主([[正像末和讃#no90|正像 P.616]])として尊崇されていた。自らを「[[非僧非俗]]」であるとされた御開山は、聖徳太子をいわゆる在家仏教の嚆矢と見ておられたものと思われる。<br />
 
「聖徳太子廟窟偈」は、磯長の聖徳太子廟の立石に彫りつけてあったと伝えられる偈文。「廟窟偈」 「三骨一廟文」ともいふ。以下に『浄土真宗聖典全書』所収の「上宮太子御記」から『文松子伝』云、以下の偈文の部分を抜粋。
 
「聖徳太子廟窟偈」は、磯長の聖徳太子廟の立石に彫りつけてあったと伝えられる偈文。「廟窟偈」 「三骨一廟文」ともいふ。以下に『浄土真宗聖典全書』所収の「上宮太子御記」から『文松子伝』云、以下の偈文の部分を抜粋。
 
;聖徳太子廟窟偈
 
;聖徳太子廟窟偈
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偈文の大意を、 千葉乗隆師は、
 
偈文の大意を、 千葉乗隆師は、
 
:阿弥陀仏の慈悲は親が一人子を愛おしむように、全ての人々に降り注がれる。正しい仏法を興そうと、阿弥陀仏は西方浄土から日本の国に生まれた。
 
:阿弥陀仏の慈悲は親が一人子を愛おしむように、全ての人々に降り注がれる。正しい仏法を興そうと、阿弥陀仏は西方浄土から日本の国に生まれた。
:即ち太子の母は阿弥陀仏である。太子は救世観音、妻は勢至菩薩。弥陀、観音、勢至の三尊の形で現れても、元は一体である。日本での縁が尽きたので、西方浄土に帰ってゆくが、末世の人々を救うために、父母から受けた身体を、この磯長の廟屈に留め置く。この廟屈に参詣する者は、悪道を離れて極楽世界に生まれることができる。
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:即ち太子の母は阿弥陀仏である。太子は救世観音、妻は勢至菩薩。弥陀、観音、勢至の三尊の形で現れても、元は一体である。日本での縁が尽きたので、西方浄土にかえってゆくが、末世の人々を救うために、父母から受けた身体を、この磯長の廟屈に留め置く。この廟屈に参詣する者は、悪道を離れて極楽世界に生まれることができる。
 
とされていた。書写された末尾には、正嘉元歳 丁巳 五月十一日書写之 愚禿親鸞八十五歳 とあるので『大日本国粟散王聖徳太子奉讃』を制作された後に編纂されたものといわれる。(『浄土真宗聖典全書』の解説)<br />
 
とされていた。書写された末尾には、正嘉元歳 丁巳 五月十一日書写之 愚禿親鸞八十五歳 とあるので『大日本国粟散王聖徳太子奉讃』を制作された後に編纂されたものといわれる。(『浄土真宗聖典全書』の解説)<br />
  
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:遺留勝地此廟窟 三骨一廟三尊位
 
:遺留勝地此廟窟 三骨一廟三尊位
 
::勝地たる此の廟窟に遺(のこ)し留めて、三骨を一廟にするは三尊の位なり。(『浄土真宗聖典全書』「三骨一廟文」p981)
 
::勝地たる此の廟窟に遺(のこ)し留めて、三骨を一廟にするは三尊の位なり。(『浄土真宗聖典全書』「三骨一廟文」p981)
『御伝鈔』第二段 ([[御伝鈔#六角夢想|御伝鈔 P.1044]])の記述等から、御開山の帰浄として次下の「行者宿報設女犯」が取り上げられて性的懊悩から法然門下に入ったといわれることが多い。しかし「行者宿報偈」は御開山の結婚(妻帯)を示唆する偈文であり、法然門下の専修念仏に帰入する縁となった偈としては、この「廟窟偈」の文の方が御開山の意に親しいと思ふ。<br />
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『御伝鈔』第二段 ([[御伝鈔#六角夢想|御伝鈔 P.1044]])の記述等から、御開山の帰浄として次下の「行者宿報設女犯」が取り上げられて性的懊悩から法然門下に入ったといわれることが多い。しかし「行者宿報偈」は御開山の結婚(妻帯)を示唆する偈文であり、法然門下の専修念仏に帰入する縁となった偈としては、この「廟窟偈」の文の端緒となった十九歳のときの磯長参詣の逸話の方が御開山の意に親しいと思ふ。<br />
当時の女犯(淫戒)に関しては、『沙石集』「上人妻後事」には、白河法皇(1127-1192)が「末代ニハ。ツマモタヌ。上人年ヲ逐テ希ニコソ聞シ。後白川ノ法皇ハ。カクスハ上人。せヌハ佛ト仰せラレケルトカヤ。」と揶揄したように有名無実であった。ちなみに法然門下の隆寛律師、聖覚法印、幸西成覚房なども妻帯者であった。<br />
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当時の女犯(淫戒)に関しては、『沙石集』「上人妻後事」には、白河法皇(1127-1192)が「末代ニハ。ツマモタヌ。上人年ヲ逐テ希ニコソ聞シ。後白川ノ法皇ハ。カクスハ上人。せヌハ佛ト仰せラレケルトカヤ。」とあり「隠すは上人、せぬは仏」と揶揄したように有名無実であった。ちなみに法然門下の隆寛律師、聖覚法印、幸西成覚房なども妻帯者であった。<br />
 
高田派の伝持(『親鸞聖人正明伝』)では、御開山は十九歳の時に「機長聖徳太子の霊廟へ御参詣」した、とあるのだが「汝命根応十余歳(汝の命根は応に十余歳なるべし)」の号告が御開山の脳裏の基底にあり、十年後に、
 
高田派の伝持(『親鸞聖人正明伝』)では、御開山は十九歳の時に「機長聖徳太子の霊廟へ御参詣」した、とあるのだが「汝命根応十余歳(汝の命根は応に十余歳なるべし)」の号告が御開山の脳裏の基底にあり、十年後に、
 
:ただ後世のことは、よき人にもあしきにも、おなじやうに生死出づべき道をば、ただ一すぢに仰せられ候ひしを、うけたまはりさだめて候ひしかば、「上人のわたらせたまはんところには、人はいかにも申せ、たとひ悪道にわたらせたまふべしと申すとも、世々生々にも迷ひければこそありけめとまで思ひまゐらする身なれば」と、やうやうに人の申し候ひしときも仰せ候ひしなり。 ([[恵信尼#no1|恵信尼 P.811]])
 
:ただ後世のことは、よき人にもあしきにも、おなじやうに生死出づべき道をば、ただ一すぢに仰せられ候ひしを、うけたまはりさだめて候ひしかば、「上人のわたらせたまはんところには、人はいかにも申せ、たとひ悪道にわたらせたまふべしと申すとも、世々生々にも迷ひければこそありけめとまで思ひまゐらする身なれば」と、やうやうに人の申し候ひしときも仰せ候ひしなり。 ([[恵信尼#no1|恵信尼 P.811]])
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;『親鸞聖人正明伝』抜書き(真偽未詳)
 
;『親鸞聖人正明伝』抜書き(真偽未詳)
  
 建久二年草亥(十九歳)七月中旬の末に、法隆寺へ参詣のよしを僧正へ申したまいしかば許されき。やがて、立越て西園院覚蓮僧都の坊に七旬ばかり、ましまして、因明の御学問あり。幸の序なりとて、九月十日あまりに、河内国機長聖徳太子の霊廟へ御参詣ありてけり。十二日の夜より十五日に至るまで、三日三夜こもりて重々の御祈願あり。十四日の夜、親〈まのあたり〉に霊告まします。御自筆の記文に曰く、<br />
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 建久二年草亥(十九歳)七月中旬の末に、法隆寺へ参詣のよしを僧正へ申したまいしかば許されき。やがて、立越て西園院覚蓮僧都の坊に七旬ばかり、ましまして、因明の御学問あり。幸の序なりとて、九月十日あまりに、河内国磯長聖徳太子の霊廟へ御参詣ありてけり。十二日の夜より十五日に至るまで、三日三夜こもりて重々の御祈願あり。十四日の夜、親〈まのあたり〉に霊告まします。御自筆の記文に曰く、<br />
 
 爰仏子範宴、思入胎五松之夢、常仰垂迹利生。今幸詣御廟窟、三日参籠懇念失己矣。<br />
 
 爰仏子範宴、思入胎五松之夢、常仰垂迹利生。今幸詣御廟窟、三日参籠懇念失己矣。<br />
 
:ここに仏子範宴、入胎五松の夢<ref>高田派で伝持される「親鸞聖人正統伝」に、<br />
 
:ここに仏子範宴、入胎五松の夢<ref>高田派で伝持される「親鸞聖人正統伝」に、<br />
 
 御母吉光女、つねに菩提心ふかし。或夜、しきりに浮世の無常を観じ、西首して臥したまう。其夜の夢に、西方より金色の光明かがやき来り、身を遶ること三匝して、口中に入ること箭の如し。夢中に驚て西方に向い給えば、一の菩薩ましまし、長一尺許の五葉の松一本を持ち、これを授て言わく、吾は如意輪也。汝奇異の児を生せん、必ず是を以て名とすべしと云云。夢さめて、不思議の思いをなし、明旦有範卿、禁裏より退出を待て此事を語り給う。<br />
 
 御母吉光女、つねに菩提心ふかし。或夜、しきりに浮世の無常を観じ、西首して臥したまう。其夜の夢に、西方より金色の光明かがやき来り、身を遶ること三匝して、口中に入ること箭の如し。夢中に驚て西方に向い給えば、一の菩薩ましまし、長一尺許の五葉の松一本を持ち、これを授て言わく、吾は如意輪也。汝奇異の児を生せん、必ず是を以て名とすべしと云云。夢さめて、不思議の思いをなし、明旦有範卿、禁裏より退出を待て此事を語り給う。<br />
と、御開山の懐胎を、五葉の松の逸話としてあるのによるか。</ref>を思ふに常に垂迹の利生を仰ぐ。いま幸いに御廟窟に詣でて三日参籠の懇念に己を失す。
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と、御開山の懐胎を、五葉の松の逸話としてあるのによるか。なお御開山の童名を松若というと伝える。</ref>を思ふに常に垂迹の利生を仰ぐ。いま幸いに御廟窟に詣でて三日参籠の懇念に己を失す。
 
 第二夜四更如夢如幻。聖徳太子従廟内自発石扃、光明赫然而照於窟中。別三満月在現金赤之相。告勅言
 
 第二夜四更如夢如幻。聖徳太子従廟内自発石扃、光明赫然而照於窟中。別三満月在現金赤之相。告勅言
 
:二夜の四更に夢のごとく幻のごとく、聖徳太子廟内より自ら石扃をひらきて光明赫然として窟中を照らし、別して三の満月ありて金赤の相を現し、告勅してのたまわく。
 
:二夜の四更に夢のごとく幻のごとく、聖徳太子廟内より自ら石扃をひらきて光明赫然として窟中を照らし、別して三の満月ありて金赤の相を現し、告勅してのたまわく。
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:命終即入清浄土 善信善信真菩薩
 
:命終即入清浄土 善信善信真菩薩
 
::我が三尊は塵沙の界に化す、日域(日本)は大乗相応の地なり。
 
::我が三尊は塵沙の界に化す、日域(日本)は大乗相応の地なり。
::諦に聴け、諦に聴け、我が教令を、汝の命根は応に十余歳なるべし。
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::諦(あきらか)に聴け、諦に聴け、我が教令を、汝の命根は応に十余歳なるべし。
 
::命終りて即に清浄土に入らん、善く信ぜよ、善く信ぜよ、真の菩薩を。
 
::命終りて即に清浄土に入らん、善く信ぜよ、善く信ぜよ、真の菩薩を。
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2018年8月5日 (日) 13:20時点における版

しょうとくたいしのもん

 「聖徳太子廟窟偈」とする説と「親鸞夢記」の観音の夢告とする説がある。(恵信尼 P.811)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

御開山は僧ではなく在家であって日本で仏教を興隆した聖徳太子を和国の教主(正像 P.616)として尊崇されていた。自らを「非僧非俗」であるとされた御開山は、聖徳太子をいわゆる在家仏教の嚆矢と見ておられたものと思われる。
「聖徳太子廟窟偈」は、磯長の聖徳太子廟の立石に彫りつけてあったと伝えられる偈文。「廟窟偈」 「三骨一廟文」ともいふ。以下に『浄土真宗聖典全書』所収の「上宮太子御記」から『文松子伝』云、以下の偈文の部分を抜粋。

聖徳太子廟窟偈
大慈大悲本誓願 愍念衆生如一子
是故方便従西方 誕生片州興正法
我身救世観世音 定慧契女大勢至
生育我身大悲母 西方教主弥陀尊
真如真実本一体 一体現三同一身
片域化縁亦巳盡 還帰西方我浄土
為度末世諸有情 父母所生血肉身
遺留勝地此廟窟 三骨一廟三尊位
過去七仏法輪處 大乗相応功徳地
一度参詣離悪趣 決定往生極楽界
印度号勝鬘夫人 晨旦称恵思禅師[1] (『浄土真宗聖典全書』上宮太子御記p1005)

偈文の大意を、 千葉乗隆師は、

阿弥陀仏の慈悲は親が一人子を愛おしむように、全ての人々に降り注がれる。正しい仏法を興そうと、阿弥陀仏は西方浄土から日本の国に生まれた。
即ち太子の母は阿弥陀仏である。太子は救世観音、妻は勢至菩薩。弥陀、観音、勢至の三尊の形で現れても、元は一体である。日本での縁が尽きたので、西方浄土にかえってゆくが、末世の人々を救うために、父母から受けた身体を、この磯長の廟屈に留め置く。この廟屈に参詣する者は、悪道を離れて極楽世界に生まれることができる。

とされていた。書写された末尾には、正嘉元歳 丁巳 五月十一日書写之 愚禿親鸞八十五歳 とあるので『大日本国粟散王聖徳太子奉讃』を制作された後に編纂されたものといわれる。(『浄土真宗聖典全書』の解説)

なお、御開山がこの偈文の八句を抜き出した以下の「三骨一廟文」が金沢の専光寺に自筆として現存するという。

『三骨一廟文』
我身救世観世音 定慧契女大勢至
我が身(しん)は世を救(たす)くる観世音なり。定慧[2]契て女は大勢至なり。
生育我身大悲母 西方教主弥陀尊
我が身を生育せる大悲母は、西方の教主弥陀尊なりと。
為度末世諸衆生 父母所生血肉身
末世の諸の衆生を度(わた)さんが為に、父母所生の血肉の身を、
遺留勝地此廟窟 三骨一廟三尊位
勝地たる此の廟窟に遺(のこ)し留めて、三骨を一廟にするは三尊の位なり。(『浄土真宗聖典全書』「三骨一廟文」p981)

『御伝鈔』第二段 (御伝鈔 P.1044)の記述等から、御開山の帰浄として次下の「行者宿報設女犯」が取り上げられて性的懊悩から法然門下に入ったといわれることが多い。しかし「行者宿報偈」は御開山の結婚(妻帯)を示唆する偈文であり、法然門下の専修念仏に帰入する縁となった偈としては、この「廟窟偈」の文の端緒となった十九歳のときの磯長参詣の逸話の方が御開山の意に親しいと思ふ。
当時の女犯(淫戒)に関しては、『沙石集』「上人妻後事」には、白河法皇(1127-1192)が「末代ニハ。ツマモタヌ。上人年ヲ逐テ希ニコソ聞シ。後白川ノ法皇ハ。カクスハ上人。せヌハ佛ト仰せラレケルトカヤ。」とあり「隠すは上人、せぬは仏」と揶揄したように有名無実であった。ちなみに法然門下の隆寛律師、聖覚法印、幸西成覚房なども妻帯者であった。
高田派の伝持(『親鸞聖人正明伝』)では、御開山は十九歳の時に「機長聖徳太子の霊廟へ御参詣」した、とあるのだが「汝命根応十余歳(汝の命根は応に十余歳なるべし)」の号告が御開山の脳裏の基底にあり、十年後に、

ただ後世のことは、よき人にもあしきにも、おなじやうに生死出づべき道をば、ただ一すぢに仰せられ候ひしを、うけたまはりさだめて候ひしかば、「上人のわたらせたまはんところには、人はいかにも申せ、たとひ悪道にわたらせたまふべしと申すとも、世々生々にも迷ひければこそありけめとまで思ひまゐらする身なれば」と、やうやうに人の申し候ひしときも仰せ候ひしなり。 (恵信尼 P.811)

という「よき人にもあしきにも、おなじやうに生死出づべき道をば」という吉水入室の決断になったのであろう。


『親鸞夢記』

親鸞夢記云

六角堂救世大菩薩 示現顔容端政之僧形 令服著白衲御袈裟 端坐広大白蓮華 告命善信言、

行者宿報設女犯
我成玉女身被犯
一生之間能荘厳
臨終引導生極楽 {文}

救世菩薩誦此文言 此文吾誓願ナリ。一切群生可説聞告命。因斯告命 数千万有情令聞之 覚夢悟了。[3](『浄土真宗聖典全書』親鸞夢記云p1008)
覚如上人の『御伝鈔』に「かの『記』にいはく」として、

六角堂の救世菩薩、顔容端厳の聖僧の形を示現して、白衲の袈裟を着服せしめ、広大の白蓮華に端坐して、善信(親鸞)[4]に告命してのたまはく、「行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」といへり。救世菩薩、善信にのたまはく、「これはこれわが誓願なり。善信この誓願の旨趣を宣説して、一切群生にきかしむべし」と云々。 (御伝鈔 P.1044)

と、ある。


『親鸞聖人正明伝』抜書き(真偽未詳)

 建久二年草亥(十九歳)七月中旬の末に、法隆寺へ参詣のよしを僧正へ申したまいしかば許されき。やがて、立越て西園院覚蓮僧都の坊に七旬ばかり、ましまして、因明の御学問あり。幸の序なりとて、九月十日あまりに、河内国磯長聖徳太子の霊廟へ御参詣ありてけり。十二日の夜より十五日に至るまで、三日三夜こもりて重々の御祈願あり。十四日の夜、親〈まのあたり〉に霊告まします。御自筆の記文に曰く、
 爰仏子範宴、思入胎五松之夢、常仰垂迹利生。今幸詣御廟窟、三日参籠懇念失己矣。

ここに仏子範宴、入胎五松の夢[5]を思ふに常に垂迹の利生を仰ぐ。いま幸いに御廟窟に詣でて三日参籠の懇念に己を失す。

 第二夜四更如夢如幻。聖徳太子従廟内自発石扃、光明赫然而照於窟中。別三満月在現金赤之相。告勅言

二夜の四更に夢のごとく幻のごとく、聖徳太子廟内より自ら石扃をひらきて光明赫然として窟中を照らし、別して三の満月ありて金赤の相を現し、告勅してのたまわく。
我三尊化塵沙界 日域大乗相応地
諦聴諦聴我教令 汝命根応十余歳
命終即入清浄土 善信善信真菩薩
我が三尊は塵沙の界に化す、日域(日本)は大乗相応の地なり。
諦(あきらか)に聴け、諦に聴け、我が教令を、汝の命根は応に十余歳なるべし。
命終りて即に清浄土に入らん、善く信ぜよ、善く信ぜよ、真の菩薩を。



  1. 適当に読み下したので乞う校正。
    大慈大悲の本誓願は、衆生を一子のごとく愍念す。
    是の故に方便して西方より、片州に誕生して正法を興ず。
    我が身は救世観世音なり、定慧、契るに女は大勢至なり。
    我が身を生育する大悲母は、西方の教主弥陀尊なり。
    真如と真実は本(も)と一体なり、一体は三を現ずるも同一身なり。
    片域の化縁、巳に盡くれば、西方の我が浄土に還帰す。
    末世の諸の有情を度せんが為に、父母所生の血肉身を、
    此の廟窟を勝地として遺し留め、三骨一廟の三尊位とす。
    過去七仏の法輪の處(ところ)にして、大乗相応の功徳の地なり。
    一と度(た)び参詣すれば悪趣を離れ、決定して極楽界に往生す。
    印度には勝鬘夫人と号し、晨旦には恵思(慧思)禅師と称すなり。
    最後の勝鬘夫人以下の一文は、注釈が本文に紛れ込んだものと思ふ。
  2. 定慧。定の左訓にオトコ、慧の左訓にオムナとある。
  3. 親鸞夢記に云く、
    六角堂の救世大菩薩、顔容端政の僧形を示現して、白衲の御袈裟を服著せしめて、広大の白蓮華に端坐して、告命して善信に言く、
    行者宿報にして設(たと)ひ女犯するとも、
    我れ玉女の身と成りて犯せられん。
    一生の間能く荘厳して、
    臨終に引導して極楽に生ぜしめむ。 {文}
    救世菩薩、此の文を誦して言く、此の文は吾が誓願ナリ。一切群生に説き聞かすべしと告命したまへり。斯の告命に因(よ)て、数千万の有情にこれを聞かしめんと覚へて、夢悟(さ)めおわんぬ。
  4. 『教行証文類』の後序には「また夢の告げによりて、綽空の字を改めて、同じき日(元久二年(1205)七月下旬第九日)、御筆をもつて名の字を書かしめたまひをはんぬ」とあるので「女犯偈」を法然教団への入門(建仁辛酉の暦1201)の時とするには合わない。元久元年(1204)の『七箇条の御起請文』には範宴と署名されている。「女犯偈は」改名の夢告と見る方が親しいと思ふ。
  5. 高田派で伝持される「親鸞聖人正統伝」に、
     御母吉光女、つねに菩提心ふかし。或夜、しきりに浮世の無常を観じ、西首して臥したまう。其夜の夢に、西方より金色の光明かがやき来り、身を遶ること三匝して、口中に入ること箭の如し。夢中に驚て西方に向い給えば、一の菩薩ましまし、長一尺許の五葉の松一本を持ち、これを授て言わく、吾は如意輪也。汝奇異の児を生せん、必ず是を以て名とすべしと云云。夢さめて、不思議の思いをなし、明旦有範卿、禁裏より退出を待て此事を語り給う。
    と、御開山の懐胎を、五葉の松の逸話としてあるのによるか。なお御開山の童名を松若というと伝える。