「疑」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
6行目: | 6行目: | ||
}} | }} | ||
:→[[疑蓋]] | :→[[疑蓋]] | ||
+ | *➡[https://www.kanjipedia.jp/kanji/0001309600 疑]<br /> | ||
法然聖人は『選択集』で「信疑決判」し、 | 法然聖人は『選択集』で「信疑決判」し、 |
2019年11月28日 (木) 22:06時点における版
ぎ 疑
(梵)ヴィチキトサー vicikitsá の訳。心所(心のはたらき)の一。仏教の真理に対して心がためらい決定しないこと。信に相対する。 倶舎宗では不定地法の一。唯識宗では六根本煩悩の一。なお広義では、一般に煩悩でない疑いをも含める。疑いの気持ちが入り乱れて決定しないことを網にたとえて疑網(ぎもう)という。自らを疑い、師を疑い、法を疑うのを三疑という。(仏教語辞典)
- →疑蓋
- ➡疑
法然聖人は『選択集』で「信疑決判」し、
- 当知生死之家 以疑為所止 涅槃之城 以信為能入
- まさに知るべし、生死の家には疑をもつて所止となし、涅槃の城には信をもつて能入となす。
と、疑えば生死に迷うのであり、信ずればよく涅槃へ入るといわれた。
そもそも信の反対語は不信なのだが、法然聖人は疑といわれた。御開山はこれを承けられて「正信念仏偈」で、
- 還来生死輪転家 決以疑情為所止 速入寂静無為楽 必以信心為能入
- 生死輪転の家に還来ることは、決するに疑情をもつて所止とす。すみやかに寂静無為の楽に入ることは、かならず信心をもつて能入とすといへり。
とされておられた。