「果遂のちかひに帰してこそ」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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::自力の心にて名号を称えたるをば、ついに果たし遂げむと誓いたまふなり。 | ::自力の心にて名号を称えたるをば、ついに果たし遂げむと誓いたまふなり。 |
2020年12月18日 (金) 15:53時点における版
かすいのちかひにきしてこそ (浄土和讃 P.568)
『浄土真宗聖典全書』二 p370。国宝本の「果遂のちかひに帰してこそ」の左訓に、
- ジリキノココロニテミヤウガウヲトナエタルオバツイニハタシトゲムトチカイタマフナリ
- 自力の心にて名号を称えたるをば、ついに果たし遂げむと誓いたまふなり。
とある。御開山の意では、
と自力念仏から第十八願の選択の願海に入られた願功を果遂とされるのであった。
また、
- すでにもつて真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり。ゆゑに知んぬ、報仏土なりといふことを。まことに仮の仏土の業因千差なれば、土もまた千差なるべし。(真巻 P.372)
と、仮の浄土も大悲の顕現である報土中の化土とされている意から窺えば、まさに如来の本意(随自意)ではないのだが「弥陀の大悲深ければ」自力念仏を示す第二十願まで建てて、化土までは迎え取るというお心でもあろう。当然、これを聞いた上からは真門自力の称名を捨てて第十八願への本願力回向の救済に帰すべきであることはいうまでもない。