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出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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だいきょういん 大教院
 
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 神道国教化政策を推進し[[教導職]]を養成・統括するため、明治初年に設立された中央機関。明治政府は明治5年 (1872) に[[三条教則]]を発布し、それを国民に徹底するために[[教導職]]を置いた。政府は[[教導職]]に神官だけでなく僧侶も任用して仏教の統制を図り、[[三条教則]]を骨子としない布教を禁止した。[[大教院]]はこうした政策のもとで設立され、神仏合同ながら、神道が支配的な力を持ち、僧侶にも神道の儀礼を行うことが求められた。これに対して本願寺派の島地黙雷らが政教分離、信教の自由を主張して[[大教院]]分離を訴え、明治8年 (1875) に本願寺派、大谷派、高田派、木辺派の真宗四派が[[大教院]]から分離すると、その後まもなく[[大教院]]そのものが解散した。(浄土真宗辞典)
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 神道国教化政策を推進し[[教導職]]を養成・統括するため、明治初年に設立された中央機関。明治政府は明治5年 (1872) に[[三条教則]]を発布し、それを国民に徹底するために[[教導職]]を置いた。政府は[[教導職]]に神官だけでなく僧侶も任用して仏教の統制を図り、[[三条教則]]を骨子としない布教を禁止した。[[大教院]]はこうした政策のもとで設立され、神仏合同ながら、神道が支配的な力を持ち、僧侶にも神道の儀礼を行うことが求められた。これに対して本願寺派の[[島地黙雷]]らが政教分離、信教の自由を主張して[[大教院]]分離を訴え、明治8年 (1875) に本願寺派、大谷派、高田派、木辺派の真宗四派が[[大教院]]から分離すると、その後まもなく[[大教院]]そのものが解散した。(浄土真宗辞典)
 
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2023年5月27日 (土) 01:12時点における最新版

だいきょういん 大教院

 神道国教化政策を推進し教導職を養成・統括するため、明治初年に設立された中央機関。明治政府は明治5年 (1872) に三条教則を発布し、それを国民に徹底するために教導職を置いた。政府は教導職に神官だけでなく僧侶も任用して仏教の統制を図り、三条教則を骨子としない布教を禁止した。大教院はこうした政策のもとで設立され、神仏合同ながら、神道が支配的な力を持ち、僧侶にも神道の儀礼を行うことが求められた。これに対して本願寺派の島地黙雷らが政教分離、信教の自由を主張して大教院分離を訴え、明治8年 (1875) に本願寺派、大谷派、高田派、木辺派の真宗四派が大教院から分離すると、その後まもなく大教院そのものが解散した。(浄土真宗辞典)

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