「三願転入」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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ガンジス河の砂の数ほどの仏様が南無阿弥陀仏とお示しにも関わらず逃げてき たのがお前の歴史だよと宗祖はお示しです。「いずれにも ゆくべき道の 絶えたれば 口割りたもう 南無阿弥陀仏」ですと 自力無効を教示された善知識がおられます。 浄土真宗は阿弥陀様の本願他力回向のご宗旨でありました。 | ガンジス河の砂の数ほどの仏様が南無阿弥陀仏とお示しにも関わらず逃げてき たのがお前の歴史だよと宗祖はお示しです。「いずれにも ゆくべき道の 絶えたれば 口割りたもう 南無阿弥陀仏」ですと 自力無効を教示された善知識がおられます。 浄土真宗は阿弥陀様の本願他力回向のご宗旨でありました。 | ||
− | + | 四十八願中、十方の衆生と呼びかけられる願に三願ある。いわゆる、第十八、第十九、第二十の願である。 ([[大経上#P--18|大経 P.18]])<br /> | |
この三願に対する領解が、かえるの聴聞の喩えである。第十九願は聖道門から浄土門に入ったが、聖道門の行業(発菩提心 修諸功徳)をもって浄土を欣う者への願であり、手をついて阿弥陀如来の本願に帰依しているのだが、自力の頭が下がらないという誡めである。<br /> | この三願に対する領解が、かえるの聴聞の喩えである。第十九願は聖道門から浄土門に入ったが、聖道門の行業(発菩提心 修諸功徳)をもって浄土を欣う者への願であり、手をついて阿弥陀如来の本願に帰依しているのだが、自力の頭が下がらないという誡めである。<br /> | ||
第二十願は、名号の功徳性に着目し、聖道門の行を捨て、なんまんだぶを称えながらも名号を自己の修する行と勘違いしている者への願である。法の中にいながら法を求める様相を、水にいて雨を求める蛙に喩えている。<br /> | 第二十願は、名号の功徳性に着目し、聖道門の行を捨て、なんまんだぶを称えながらも名号を自己の修する行と勘違いしている者への願である。法の中にいながら法を求める様相を、水にいて雨を求める蛙に喩えている。<br /> |
2022年11月20日 (日) 12:53時点における版
三願転入云々ということで、古い記事をサルベージしてみた。 かえるを題材にして、本願の生因三願に対する衆生の姿勢を喩えた話である。
かえるの聴聞
最近は小生の住んでいる越前の田舎でも蛙が少なくなりました。結婚当初家内が蛙の鳴き声がうるさくて眠れないと言ったほど沢山蛙がいたのですが……。家の爺さんは昔自分が聞いた聴聞をよく小生にしてくれるのですが以下の三願 転入のおたとえは蛙の話です。
- 手をついて、あたまの下がらん、かえるかな (第一九願)
- 水にいて、雨を求める、かえるかな (第二〇願)
- 釣瓶(つるべ)にて、汲み上げられたる、かえるかな (第一八願)
小生はいわゆる三願転入派ではありませんが先達は面白いおたとえで御法義を 伝える為に苦労なされたのですね。
子どもの頃に小さな池の中にいる蛙が外に出ようとしているので、棒切れで蛙を上に乗せて池の外に出してやろうとするのですが、乗ったかと思うとピョンと飛び降りてしまいます。何回やっても棒切れに乗ったかと思うとピョンと飛び出すので業を煮やしてバケツで蛙を汲み出したことがありました。でも翌日になるとまたちゃんと池の中に戻って外へ出ようと跳ねていました。
- 三恒河沙の諸仏の
- 出世のみもとにありしとき
- 大菩提心おこせども
- 自力かなわで流転せり
ガンジス河の砂の数ほどの仏様が南無阿弥陀仏とお示しにも関わらず逃げてき たのがお前の歴史だよと宗祖はお示しです。「いずれにも ゆくべき道の 絶えたれば 口割りたもう 南無阿弥陀仏」ですと 自力無効を教示された善知識がおられます。 浄土真宗は阿弥陀様の本願他力回向のご宗旨でありました。
四十八願中、十方の衆生と呼びかけられる願に三願ある。いわゆる、第十八、第十九、第二十の願である。 (大経 P.18)
この三願に対する領解が、かえるの聴聞の喩えである。第十九願は聖道門から浄土門に入ったが、聖道門の行業(発菩提心 修諸功徳)をもって浄土を欣う者への願であり、手をついて阿弥陀如来の本願に帰依しているのだが、自力の頭が下がらないという誡めである。
第二十願は、名号の功徳性に着目し、聖道門の行を捨て、なんまんだぶを称えながらも名号を自己の修する行と勘違いしている者への願である。法の中にいながら法を求める様相を、水にいて雨を求める蛙に喩えている。
浄土真宗は、本願力回向のご法義であるから、全分他力(利他力)である。「本当に疑いなく私の国に生まれるとおもって、たとえ十声でも、なんまんだぶという私の名をを称えよ」というのが第十八願である。このなんまんだぶは、如来が本願に選択摂取して下さった行であるから、わたしが称えるのではなく本願の行がわたしに来ているということである。行も信も如来の側で成就して、こちら側ではなにもすることがない、まるで釣瓶で汲み上げられたかえるのようだと喩えるのである。我に手のなし南無阿弥陀仏である。
なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ