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出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

 
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御開山は「正信念仏偈」で、天親菩薩の本願力という語によって、他力という成仏法をあかされた曇鸞大師を
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:天親菩薩論註解 '''報土因果'''顕誓願
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::天親菩薩の『論』を註解して、報土の因果誓願に顕す。
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:往還回向由他力 正定之因唯信心
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::往還の回向は他力による。正定の因はただ信心なり。
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と、浄土教の往生報土の因果を、「報土因果」と示され、それは阿弥陀仏の本願の因果に拠るのだとされた。この世でさとりを開く仏教と、浄土に往生して「往還回向由他力」のさとりを開く仏教の綱格の違いは、当然に別の因果関係に基ずくのであった。
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「自業自得」の因果による救済論と、「大悲必然」としての仏因仏果の救済論の綱格の違いである。 →「[[amida:真仮論の救済論的意義|真仮論の救済論的意義]]」<br />
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以下、通仏教の因果論を示す。
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因果 (いんが)
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:① 原因と結果のこと。結果を生じさせるものが因で、その因によって生じたものが果である。時間的な因果関係では、因は時間的に前にあり果は後にあるから、これを因果異時という。しかし束ねた藁(束藁)が相互によりかかって立つような場合も場合も広い意味での因果関係で、このような空間的因果関係では因果同時である。唯識派では、種子から種子を生ずる関係は因果異時で、種子から現行を生じ、現行によって種子を薫ずる関係は因果同時であるとする。六因・五果の中では、異塾因と異熟果との関係、および同類因・遍行因と等流果との間の関係はいずれも因果異時で、倶有因・相応因と士用果との間の関係は因果同時であり、能作因と増上果との間の関係はその両方に通ずる(→因 →果)。また同類因と等流果との間の関係は、前時の自己が因となって後時の自己を生ずる関係であるから、これを自類因果という。
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:② われわれの行為(業)について異時の因果を立てるとき、善の業因には必ず善の果報があり、悪の業因には必ず悪の果報がある。これを善因善果・悪因悪果というが厳密には善因楽果・悪因悪果というべきである。善なる業を因として善なる業を生じて、善業が相続して行く場合もあるが、これがまさに善因善果である。
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:善悪の業因があれば、必ずそれに相応した楽苦の果が報い、因果の理が厳然として乱れることのないのを因果応報といい、因果の理を無視して認めず邪見に陥ることを因果を撥無するという。
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:③ 因果の関係を実践修道の上にあてはめると、修行の因によってさとりの果を得ることになるから、これを修因感果、酬因感果という。「感」とは果を招くことである。
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:④ すべての外道の説を四種に分類して外道四執または四執という。即ち、邪因邪果は万物生起の原因を大自在天の能力に帰するもの。無因有果は、現在の現象世界を果として認め、その果についての因はついに求めがたいと否定するもの、有因有果は、現在の現象的世界を因として認め、その因に対する果はついに求めがたいと否定するもの。無因無果は、その両方を否定して因果を撥無するもの。
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:また別に二類に分ける。因中有果論は、バラモン教およぶ数論[派]の唱えた説で、果として現れる現象世界は必ず因の中に内具しており、従って因と果は性質が等しいと見るもの。これに対して因中無果論は、バラモン教に対するいわゆる一般思想界、および勝論[派]の唱えた説で、独立した多くの根本要素(即ち因)が結合して現生世界(即ち果)ができていると見るから、因と果は性質が不等であり、因の中に果はないとする。あるいはむしろ果中有因論といってもよい。
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:⑤ 善悪の業因によって楽苦の果報を招くことを表す異熟因・異熟果と、その中で特に福徳(世間的な善悪)によって人天の楽果を招く福因・福果と、智慧を修習してさとりの果を招く智因・智果との三種の因果関係を、三因三果という。(仏教学辞典)
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2018年1月10日 (水) 11:22時点における版

因果

 物事が起る原因となるものを因といい、それによって引き起こされた結果を果という。

ただし、仏教では、物事がおこる原因には果を生じさせる直接原因である因と、因を助成する間接原因である縁があるとし、因果という時の因は、因と縁を含めているのである。

この因(因縁)と果を合わせて因果という。因縁果の略称。

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

御開山は「正信念仏偈」で、天親菩薩の本願力という語によって、他力という成仏法をあかされた曇鸞大師を

天親菩薩論註解 報土因果顕誓願
天親菩薩の『論』を註解して、報土の因果誓願に顕す。
往還回向由他力 正定之因唯信心
往還の回向は他力による。正定の因はただ信心なり。

と、浄土教の往生報土の因果を、「報土因果」と示され、それは阿弥陀仏の本願の因果に拠るのだとされた。この世でさとりを開く仏教と、浄土に往生して「往還回向由他力」のさとりを開く仏教の綱格の違いは、当然に別の因果関係に基ずくのであった。 「自業自得」の因果による救済論と、「大悲必然」としての仏因仏果の救済論の綱格の違いである。 →「真仮論の救済論的意義
以下、通仏教の因果論を示す。

因果 (いんが)

① 原因と結果のこと。結果を生じさせるものが因で、その因によって生じたものが果である。時間的な因果関係では、因は時間的に前にあり果は後にあるから、これを因果異時という。しかし束ねた藁(束藁)が相互によりかかって立つような場合も場合も広い意味での因果関係で、このような空間的因果関係では因果同時である。唯識派では、種子から種子を生ずる関係は因果異時で、種子から現行を生じ、現行によって種子を薫ずる関係は因果同時であるとする。六因・五果の中では、異塾因と異熟果との関係、および同類因・遍行因と等流果との間の関係はいずれも因果異時で、倶有因・相応因と士用果との間の関係は因果同時であり、能作因と増上果との間の関係はその両方に通ずる(→因 →果)。また同類因と等流果との間の関係は、前時の自己が因となって後時の自己を生ずる関係であるから、これを自類因果という。
② われわれの行為(業)について異時の因果を立てるとき、善の業因には必ず善の果報があり、悪の業因には必ず悪の果報がある。これを善因善果・悪因悪果というが厳密には善因楽果・悪因悪果というべきである。善なる業を因として善なる業を生じて、善業が相続して行く場合もあるが、これがまさに善因善果である。
善悪の業因があれば、必ずそれに相応した楽苦の果が報い、因果の理が厳然として乱れることのないのを因果応報といい、因果の理を無視して認めず邪見に陥ることを因果を撥無するという。
③ 因果の関係を実践修道の上にあてはめると、修行の因によってさとりの果を得ることになるから、これを修因感果、酬因感果という。「感」とは果を招くことである。
④ すべての外道の説を四種に分類して外道四執または四執という。即ち、邪因邪果は万物生起の原因を大自在天の能力に帰するもの。無因有果は、現在の現象世界を果として認め、その果についての因はついに求めがたいと否定するもの、有因有果は、現在の現象的世界を因として認め、その因に対する果はついに求めがたいと否定するもの。無因無果は、その両方を否定して因果を撥無するもの。
また別に二類に分ける。因中有果論は、バラモン教およぶ数論[派]の唱えた説で、果として現れる現象世界は必ず因の中に内具しており、従って因と果は性質が等しいと見るもの。これに対して因中無果論は、バラモン教に対するいわゆる一般思想界、および勝論[派]の唱えた説で、独立した多くの根本要素(即ち因)が結合して現生世界(即ち果)ができていると見るから、因と果は性質が不等であり、因の中に果はないとする。あるいはむしろ果中有因論といってもよい。
⑤ 善悪の業因によって楽苦の果報を招くことを表す異熟因・異熟果と、その中で特に福徳(世間的な善悪)によって人天の楽果を招く福因・福果と、智慧を修習してさとりの果を招く智因・智果との三種の因果関係を、三因三果という。(仏教学辞典)

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