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「現代語 総序」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

(親鸞が親鷲になっていたので、修正)
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 誠なる仰せではありませんか、私たちを摂め取って捨てぬとの真実の言葉、世にたぐいなき正法は。この真実の教えを、はからいなく聞き受けて、決して疑いためらってはなりません。
 
 誠なる仰せではありませんか、私たちを摂め取って捨てぬとの真実の言葉、世にたぐいなき正法は。この真実の教えを、はからいなく聞き受けて、決して疑いためらってはなりません。
  
 ここに愚禿釈の親鷲は、まことに慶ばしいことに、遇いがたいインド・西域の聖典をはじめ、中国・日本の祖師たちの御釈にいま遇わせていただくことができ、聞きがたい教えをすでに聞かせていただくことができました。これによって浄土真宗の教行証のおみのりを敬い信じ、ことに如来の恩徳の深いことを知らせていただきました。そこで、聞かせていただいたおみのりをこころから慶び、わが身に獲させていただいている教えをたたえさせていただくために、この書を著すのです。
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 ここに愚禿釈の親鸞は、まことに慶ばしいことに、遇いがたいインド・西域の聖典をはじめ、中国・日本の祖師たちの御釈にいま遇わせていただくことができ、聞きがたい教えをすでに聞かせていただくことができました。これによって浄土真宗の教行証のおみのりを敬い信じ、ことに如来の恩徳の深いことを知らせていただきました。そこで、聞かせていただいたおみのりをこころから慶び、わが身に獲させていただいている教えをたたえさせていただくために、この書を著すのです。
  
 
 
 
 
 
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2010年8月13日 (金) 12:48時点における版

出典:梯實圓著 教行信証「教行の巻」第一刷 発行:本願寺出版社
このページは、聖典と一体化してこそ意味があるので転載禁止です。

 ひそかに想うに、人の思いをはるかに超えて万人を包む広大な本願は、渡りがたい苦悩の海を渡したまう大いなる船であり、すべての人をさわりなく救いたまう阿弥陀仏の光明は、私たちの無智の闇をやぶって、心に真実の明るさをもたらす、太陽のように輝く智慧の徳そのものです。

 それゆえ浄土の教えを説くべき機縁が熟するや、提婆達多は、阿閤世太子をそそのかして父王殺害という道悪をおこさせ、それによって浄土往生の行業(念仏) を授けるにふさわしい救済の対象が現れたので、釈迦如来は葦提希夫人に、安養浄土を願生すべきところとして選定せしめられたのでした。

 この 『観無量寿経』 の教説によって、大悲還相の菩薩たちは、仮に提婆や阿閣世や、葦提希となって我らの前に現れ、阿弥陀仏が苦しみ悩むすべてのものを平等に救おうとされていることを知らせ、仏陀の大悲は、五逆罪や謗法法のもの、さらには成仏の縁が絶えているといわれる一闡提を正しき救いの対象として、それに真実の道を恵み与えようと思し召していることがわかります。

 それゆえ自他不二、生死一如とさとりきわめた阿弥陀仏の無上の徳を円かに具えている名号は、人びとの煩悩悪業をそのままさとりの徳にかえていく智慧のはたらきをもっており、阿弥陀仏よりたまわった金剛堅固の信心は、私たちの疑いを除いて、さとりを完成させるはたらきをもつ真理そのものであることがわかります。

 こういうわけですから、浄土真宗は、下劣な凡夫も行いやすい真実の教法であり、どのような愚かなものも易く、しかも速やかに往生することのできる成仏の近道です。釈尊がその一代に説かれたさまざまな教えのなかで、この海のような広大無辺な徳をもつ本願の教法に勝るものはありません。

 煩悩に汚れた穢土を厭い、清らかな涅槃の浄土を願いながら、自力のはからいをまじえて本願を疑うから、歩むべき行道に迷い、まことの信心の何たるかを知らずに惑い続け、心は迷妄に閉ざされて暗く、さとらねばならない大切な事柄についてはあまりにも無知であり、しかも身に具えた悪は重く、障りの多いものは、とりわけ浄土往生を勧めたまう釈迦如来の発遣を仰ぎ信じ、最も勝れたさとりへの道である本願に帰依して、如来よりたまわったこの行にひたすら奉え、ひとえにこの信心を崇めなさい。

 ああ、このような力強い本願力には、いくたび生を重ねても値(あ)いたてまつることは難く、清らかな真実の信心は、無量劫を経ても、獲る機会はなかった。思いがけなくも、いま行信を獲、本願を信じ、念仏をもうす身になったものは、遠い過去世からの阿弥陀仏のお育てのご縁に思いを致して慶べ。もしまた、このたびも疑いの綱に覆い隠されて本願の法をいただかないようなことがあれば、ふたたびまた永劫の迷いを続けねばなりません。

 誠なる仰せではありませんか、私たちを摂め取って捨てぬとの真実の言葉、世にたぐいなき正法は。この真実の教えを、はからいなく聞き受けて、決して疑いためらってはなりません。

 ここに愚禿釈の親鸞は、まことに慶ばしいことに、遇いがたいインド・西域の聖典をはじめ、中国・日本の祖師たちの御釈にいま遇わせていただくことができ、聞きがたい教えをすでに聞かせていただくことができました。これによって浄土真宗の教行証のおみのりを敬い信じ、ことに如来の恩徳の深いことを知らせていただきました。そこで、聞かせていただいたおみのりをこころから慶び、わが身に獲させていただいている教えをたたえさせていただくために、この書を著すのです。