「道」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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Ⅲ (どう) 仏果。仏のさとり。 ([[証巻#P--340|証巻 P.340]], [[浄文#P--482|浄文 P.482]],[[讃阿弥陀仏偈 (七祖)#P--171|讃弥陀偈 P.171]]、[[往生要集上巻 (七祖)#P--868|要集 P.868]]) | Ⅲ (どう) 仏果。仏のさとり。 ([[証巻#P--340|証巻 P.340]], [[浄文#P--482|浄文 P.482]],[[讃阿弥陀仏偈 (七祖)#P--171|讃弥陀偈 P.171]]、[[往生要集上巻 (七祖)#P--868|要集 P.868]]) | ||
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Ⅴ (みち) 神道を指す。([[御伝鈔#P--1058|御伝鈔 P.1058]]) | Ⅴ (みち) 神道を指す。([[御伝鈔#P--1058|御伝鈔 P.1058]]) | ||
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天地宇宙の間には、形のあるものと形のないものとがある。五感によってとらえられるものは形より下にあるので、'''器'''といわれ、それ以上のものは、形のないもので、'''道'''という。この『易経』の形而上の語から現象を超えたもの、または現象の背後にあるもの、根源的なものを対象とする学問を「形而上学」と呼ぶようになった。 | 天地宇宙の間には、形のあるものと形のないものとがある。五感によってとらえられるものは形より下にあるので、'''器'''といわれ、それ以上のものは、形のないもので、'''道'''という。この『易経』の形而上の語から現象を超えたもの、または現象の背後にあるもの、根源的なものを対象とする学問を「形而上学」と呼ぶようになった。 | ||
− | 《道》という漢字は、長く通じている「みち」、ひいて、みちを行く、「みちびく」意を表わす。ここから正しいすじみち、方法、手段の意を持ち、老荘(道教)ではタオとして宇宙の根本原理をいう語として用いられた。また道には「いう(言) | + | 《道》という漢字は、長く通じている「みち」、ひいて、みちを行く、「みちびく」意を表わす。ここから正しいすじみち、方法、手段の意を持ち、老荘(道教)ではタオとして宇宙の根本原理をいう語として用いられた。また道には「いう(言)」という意味もあり、六字釈の命の八訓で道をあげておられる。道の言うという意味では禅の語録の表現ではよく使われ、現代でも報道と熟語されて使われている。<br /> |
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仏教では、この道という漢字を、梵語マールガ mārga(目的に至らせる通路、行うべき道)の翻訳語として使用したり、梵語ガティ gati(趣、六趣、六道の道など)の訳としたり、また梵語ボーディ bodhi(覚りの智慧)の音写語の菩提の意味としても使われた。このように仏教で、道という語は、①真理そのものを顕わす場合と、その②真理を悟る智慧を顕わす場合と、その③真実の智慧に至る過程を顕わす場合と、そして④歩むべき実践法の(梵語チャリャー caryā)を顕わす場合があるなど、非常に広い意味を持っているので、文脈に沿って読む必要がある。 | 仏教では、この道という漢字を、梵語マールガ mārga(目的に至らせる通路、行うべき道)の翻訳語として使用したり、梵語ガティ gati(趣、六趣、六道の道など)の訳としたり、また梵語ボーディ bodhi(覚りの智慧)の音写語の菩提の意味としても使われた。このように仏教で、道という語は、①真理そのものを顕わす場合と、その②真理を悟る智慧を顕わす場合と、その③真実の智慧に至る過程を顕わす場合と、そして④歩むべき実践法の(梵語チャリャー caryā)を顕わす場合があるなど、非常に広い意味を持っているので、文脈に沿って読む必要がある。 | ||
『論註』では阿耨多羅三藐三菩提を、 | 『論註』では阿耨多羅三藐三菩提を、 | ||
− | : | + | :「阿」は無に名づく、「耨多羅」は上に名づく、「三藐」は正に名づく、「三」は遍に名づく、「菩提」は道に名づく [[顕浄土真実行文類#P--191|(*)]] |
− | + | と菩提を道と翻訳している。旧約では仏を[[無上道]]と翻訳し、新訳では[[無上覚]]と翻訳している。 | |
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2017年2月24日 (金) 13:41時点における版
どう/みち
Ⅰ (どう) さとりへの道。また、さとりのこと。(信巻 P.237,238,254, 化巻 P.407)
Ⅱ (どう) 智慧のこと。(信巻 P.252)
Ⅲ (どう) 仏果。仏のさとり。 (証巻 P.340, 浄文 P.482,讃弥陀偈 P.171、要集 P.868)
Ⅳ (どう) 行の意、 (真巻 P.359)
Ⅴ (みち) 神道を指す。(御伝鈔 P.1058)
Ⅵ (どう) 仏道。 (安楽集 P.279、安楽集 P.283)
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
形而上者謂之道 形而下者謂之器。
- 形よりして上なる者、之(これ)を道といい、形よりして下なる者、之を器といふ。(易経)
天地宇宙の間には、形のあるものと形のないものとがある。五感によってとらえられるものは形より下にあるので、器といわれ、それ以上のものは、形のないもので、道という。この『易経』の形而上の語から現象を超えたもの、または現象の背後にあるもの、根源的なものを対象とする学問を「形而上学」と呼ぶようになった。
《道》という漢字は、長く通じている「みち」、ひいて、みちを行く、「みちびく」意を表わす。ここから正しいすじみち、方法、手段の意を持ち、老荘(道教)ではタオとして宇宙の根本原理をいう語として用いられた。また道には「いう(言)」という意味もあり、六字釈の命の八訓で道をあげておられる。道の言うという意味では禅の語録の表現ではよく使われ、現代でも報道と熟語されて使われている。
仏教では、この道という漢字を、梵語マールガ mārga(目的に至らせる通路、行うべき道)の翻訳語として使用したり、梵語ガティ gati(趣、六趣、六道の道など)の訳としたり、また梵語ボーディ bodhi(覚りの智慧)の音写語の菩提の意味としても使われた。このように仏教で、道という語は、①真理そのものを顕わす場合と、その②真理を悟る智慧を顕わす場合と、その③真実の智慧に至る過程を顕わす場合と、そして④歩むべき実践法の(梵語チャリャー caryā)を顕わす場合があるなど、非常に広い意味を持っているので、文脈に沿って読む必要がある。 『論註』では阿耨多羅三藐三菩提を、
- 「阿」は無に名づく、「耨多羅」は上に名づく、「三藐」は正に名づく、「三」は遍に名づく、「菩提」は道に名づく (*)