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「不断煩悩得涅槃」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

(ページの作成:「ふだん-ぼんのう-とくねはん  煩悩を断ぜずして涅槃を得る。 ;維摩詰所説経弟子品第三 爾時長者維摩詰自念。寝疾于床...」)
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2017年6月16日 (金) 20:58時点における版

ふだん-ぼんのう-とくねはん

 煩悩を断ぜずして涅槃を得る。



維摩詰所説経弟子品第三

爾時長者維摩詰自念。寝疾于床。世尊大慈寧不垂愍。

その時、長者維摩詰(ゆいまきつ)、自ら(おも)えり。「()みて床に()ぬ。世尊の大慈、なんぞ(あわれ)みを垂れたまわざらんや」と。

仏知其意。即告舎利弗。汝行詣維摩詰問疾。

仏はその意を知ろしめして、すなわち舍利弗に告げたまわく、「汝、維摩詰に行詣して、(やまい)を問え」。

舎利弗白仏言。世尊。我不堪任詣彼問疾。

舍利弗、仏に(もう)して(もう)さく、「世尊よ、我は(かしこ)(いた)りて、疾を問うに堪任せず。

所以者何。憶念我昔曽於林中宴坐樹下。

所以(ゆえん)はいかんとなれば、憶念するに、我、(むかし)()つて林中に於いて、樹下に宴坐(えんざ)(座禅)せり。

時維摩詰来謂我言。

時に、維摩詰来たりて、我に()いて言わく、

唯舎利弗。不必是坐為宴坐也。夫宴坐者。不於三界現身意。是為宴坐。不起滅定而現諸威儀。是為宴坐。

《唯、舍利弗よ、必ずしも、この坐は宴坐と為さざるなり。それ宴坐とは、三界に於いて、身と意とを現ぜざる、これを宴坐と為す。起たず滅定して、しかも諸の威儀を現ずる、これを宴坐と為す。

不捨道法而現凡夫事。是為宴坐。心不住内亦不在外。是為宴坐。於諸見不動而修行三十七品。是為宴坐。

道法を捨てずして、しかも凡夫の事を現ずる、これを宴坐と為す。心、内に住せず、また外に在らざる、これを宴坐と為す。諸見に於いて動ぜずして、しかも三十七品を修行する、これを宴坐と為す。

不断煩悩而入涅槃。是為宴坐。

煩悩を断ぜずして、涅槃に入る、これを宴坐と為す。

若能如是坐者。仏所印可。時我世尊。聞説是語黙然而止不能加報。故我不任詣彼問疾。

もし、よく、かくの如く坐する者は、仏の印可したもう所なり》と。
時に我、世尊よ、この語を説くを聞き、黙然として止み、(こたえ)を加うること能わざりき。故に、我、(かしこ)に詣りて疾を問うに()えず」と。