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「依詮談旨」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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 説きあらわしがたいことを、言葉に依って強いてあらわすのを依詮談旨といい、言葉に依っては説きあらわすことができないとして否定的に示すのを廃詮談旨という。真如(さとりの本体)はさとりの智慧によってのみ知られ、相対的な言語ではあらわし得ない(廃詮談旨)が、これを強いて言語で示す(依詮談旨)ようなものである「百法問答抄感四」(仏教学辞典)
 
 説きあらわしがたいことを、言葉に依って強いてあらわすのを依詮談旨といい、言葉に依っては説きあらわすことができないとして否定的に示すのを廃詮談旨という。真如(さとりの本体)はさとりの智慧によってのみ知られ、相対的な言語ではあらわし得ない(廃詮談旨)が、これを強いて言語で示す(依詮談旨)ようなものである「百法問答抄感四」(仏教学辞典)
  
因分可説/果分不可説
 
  
因分、原因となるものは説くことができる「<kana>因分可説(いんぶん-かせつ)</kana>」が、仏のさとりそのものについては言葉を超えているので説くことが出来ない「<kana>果分不可説(かぶん-ふかせつ)</kana>」ということ。仏教ではよくさとりへの因として譬喩が用いられるのだが、仏のさとりを示す同譬はないといわれる。
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;因分可説/果分不可説
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 分は[[分斉]](けじめ)の意味で、因の範囲を<kana>因分(いんぶん)</kana>、果の範囲を<kana>果分(かぶん)</kana>という。世親の十地経論巻二には、因分は果分の一部分をあらわすものとする。
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仏のさとりの全内容である[[真如]]の世界(<kana>性海(しょうかい)</kana>)のありさまは、仏果をさとった身分でなければ知ることができず、衆生には説きあらわすことのできないものであるが(性海果分、<kana>果分不可説(かぶん-ふかせつ)</kana>)、仏になる因の身分にある衆生のために、機縁に応じて説き起こされた教えは、衆生が知ることのできるものである(縁起因分、<kana>因分可説(いんぶん-かせつ)</kana>)とする。(華厳経深玄記一〇、華厳五教章巻一)(仏教学辞典)
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一般に仏教においては、現象世界を因分、さとりの境地である絶対の世界を果分に分ける。現象世界は五官(五感を生ずる五つの感覚器官。目・耳・鼻・舌・皮膚)によって把握したり、文字とか音声によって表現することができるから「<kana>因分可説(いんぶん-かせつ)</kana>」といい、絶対のさとりの世界はそれを日常的な方法では表現することができないから、「<kana>果分不可説(かぶん-ふかせつ)</kana>」という。
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仏教ではさとりへの因として[[譬喩]]がよく用いられるのだが、仏のさとりを示す同譬はないといわれるのもこの意である。<br />
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なお経・論・釈の引文などで末尾が「と。」となっているのは「と、言われている」の意で如是我聞(かくのごとく、われ聞きたてまつりき)のことである。また布教使が説教のときの御讃題のあとに「……と~っ」と付けて発声するのもその意である。
  
 
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2017年9月29日 (金) 01:02時点における版

 依詮談旨(えせん-だんし)/廃詮談旨(はいせん-だんし)。詮はあきらかする意。

 説きあらわしがたいことを、言葉に依って強いてあらわすのを依詮談旨といい、言葉に依っては説きあらわすことができないとして否定的に示すのを廃詮談旨という。真如(さとりの本体)はさとりの智慧によってのみ知られ、相対的な言語ではあらわし得ない(廃詮談旨)が、これを強いて言語で示す(依詮談旨)ようなものである「百法問答抄感四」(仏教学辞典)


因分可説/果分不可説

 分は分斉(けじめ)の意味で、因の範囲を因分(いんぶん)、果の範囲を果分(かぶん)という。世親の十地経論巻二には、因分は果分の一部分をあらわすものとする。 仏のさとりの全内容である真如の世界(性海(しょうかい))のありさまは、仏果をさとった身分でなければ知ることができず、衆生には説きあらわすことのできないものであるが(性海果分、果分不可説(かぶん-ふかせつ))、仏になる因の身分にある衆生のために、機縁に応じて説き起こされた教えは、衆生が知ることのできるものである(縁起因分、因分可説(いんぶん-かせつ))とする。(華厳経深玄記一〇、華厳五教章巻一)(仏教学辞典)

一般に仏教においては、現象世界を因分、さとりの境地である絶対の世界を果分に分ける。現象世界は五官(五感を生ずる五つの感覚器官。目・耳・鼻・舌・皮膚)によって把握したり、文字とか音声によって表現することができるから「因分可説(いんぶん-かせつ)」といい、絶対のさとりの世界はそれを日常的な方法では表現することができないから、「果分不可説(かぶん-ふかせつ)」という。 仏教ではさとりへの因として譬喩がよく用いられるのだが、仏のさとりを示す同譬はないといわれるのもこの意である。
なお経・論・釈の引文などで末尾が「と。」となっているのは「と、言われている」の意で如是我聞(かくのごとく、われ聞きたてまつりき)のことである。また布教使が説教のときの御讃題のあとに「……と~っ」と付けて発声するのもその意である。