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出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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げんじょう
 
げんじょう
  
 (600または602-664) 唐(とう)代の訳経僧。 陳留(ちんりゅう) (現在の河南(かなん)省緱(こう)氏(し)) の出身で、俗姓は陳氏。 十三歳の時出家し、『倶()舎論(しゃろん)』『摂大乗(しょうだいじょう)論(ろん)』等を学ぶが、疑義を原典によって解決しようとして、インド留学を決意し、貞観元年 (627、一説に貞観三年)、長安を発(た)って密出国した。 インドではナーランダ寺のシーラバドラ (Śīlabhadra 戒賢(かいけん)) 等に学び、数多くの原典を携えて、貞観十九年 (645) 帰国し、示寂までに七十五部千三百三十五巻もの経論を翻訳した。 後世、法相(ほっそう)宗、倶(く)舎(しゃ)宗の祖とされる。 また弁(べん)機(き)の助力を得て著した 『大唐(だいとう)西域(せいいき)記()』十二巻は、インド・中央アジアの地誌として有名である。
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 (600または602-664) 唐代の訳経僧。 <kana>陳留(ちんりゅう)</kana> (現在の<kana>河南(かなん)</kana>省<kana>緱氏(こうし)</kana>) の出身で、俗姓は陳氏。 十三歳の時出家し、『<kana>倶舎論(くしゃろん)</kana>』『<kana>摂大乗論(しょうだいじょうろん)</kana>』等を学ぶが、疑義を原典によって解決しようとして、インド留学を決意し、貞観元年 (627、一説に貞観三年)、長安を<kana>発(た)</kana>って密出国した。 インドではナーランダ寺のシーラバドラ (Śīlabhadra <kana>戒賢(かいけん)</kana>) 等に学び、数多くの原典を携えて、貞観十九年 (645) 帰国し、示寂までに七十五部千三百三十五巻もの経論を翻訳した。 後世、<kana>法相(ほっそう)</kana>宗、<kana>倶舎(くしゃ)</kana>宗の祖とされる。 また<kana>弁機(べんき)</kana>の助力を得て著した 『<kana>大唐(だいとう)</kana><kana>西域記(せいいきき)</kana>』十二巻は、インド・中央アジアの地誌として有名である。
  
 
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2017年11月9日 (木) 11:34時点における最新版

げんじょう

 (600または602-664) 唐代の訳経僧。 陳留(ちんりゅう) (現在の河南(かなん)緱氏(こうし)) の出身で、俗姓は陳氏。 十三歳の時出家し、『倶舎論(くしゃろん)』『摂大乗論(しょうだいじょうろん)』等を学ぶが、疑義を原典によって解決しようとして、インド留学を決意し、貞観元年 (627、一説に貞観三年)、長安を()って密出国した。 インドではナーランダ寺のシーラバドラ (Śīlabhadra 戒賢(かいけん)) 等に学び、数多くの原典を携えて、貞観十九年 (645) 帰国し、示寂までに七十五部千三百三十五巻もの経論を翻訳した。 後世、法相(ほっそう)宗、倶舎(くしゃ)宗の祖とされる。 また弁機(べんき)の助力を得て著した 『大唐(だいとう)西域記(せいいきき)』十二巻は、インド・中央アジアの地誌として有名である。

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

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