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「生死即涅槃」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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生死がそのまま涅槃であるという意。生死とは迷いの果、涅槃とはさとりの果を表す。仏智、仏のさとりからみれば、かけ離れた世界である生死と涅槃であっても、その体性は一つであるということ。
 
生死がそのまま涅槃であるという意。生死とは迷いの果、涅槃とはさとりの果を表す。仏智、仏のさとりからみれば、かけ離れた世界である生死と涅槃であっても、その体性は一つであるということ。
仏のさとりに至れば、あらゆる差別の相を超えた絶対の絶対の境地にいたることから、このようにいう。なお、大乗仏教では煩悩即菩提と対にして用いられる場合が多い。
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仏のさとりに至れば、あらゆる差別の相を超えた絶対の絶対の境地にいたることから、このようにいう。なお、大乗仏教では[[煩悩即菩提]]と対にして用いられる場合が多い。
 
浄土真宗において生死即涅槃は、阿弥陀仏の浄土で得る証果であるが、信心を獲得する一念に当来の往生成仏が定まることから、信心にそなわる法徳としても説かれる。
 
浄土真宗において生死即涅槃は、阿弥陀仏の浄土で得る証果であるが、信心を獲得する一念に当来の往生成仏が定まることから、信心にそなわる法徳としても説かれる。
 
これは獲信のところで難思議往生が確約されるということであって、現生において証果を部分的に得るということではない。
 
これは獲信のところで難思議往生が確約されるということであって、現生において証果を部分的に得るということではない。

2017年12月3日 (日) 19:25時点における版

しょうじ-そくねはん

生死がそのまま涅槃であるという意。生死とは迷いの果、涅槃とはさとりの果を表す。仏智、仏のさとりからみれば、かけ離れた世界である生死と涅槃であっても、その体性は一つであるということ。 仏のさとりに至れば、あらゆる差別の相を超えた絶対の絶対の境地にいたることから、このようにいう。なお、大乗仏教では煩悩即菩提と対にして用いられる場合が多い。 浄土真宗において生死即涅槃は、阿弥陀仏の浄土で得る証果であるが、信心を獲得する一念に当来の往生成仏が定まることから、信心にそなわる法徳としても説かれる。 これは獲信のところで難思議往生が確約されるということであって、現生において証果を部分的に得るということではない。 「正信偈」に、

惑染の凡夫、信心発すれば、生死すなはち涅槃なりと証知せしむ。(行巻 P.206)

「高僧和讃」に、

往相の回向ととくことは
 弥陀の方便ときいたり
 悲願の信行えしむれば
 生死すなはち涅槃なり (高僧 P.584)

等とある。(浄土真宗辞典)