「能説の…知るを」の版間の差分
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原文には「亦」(また)の上に「雖念」(念ずといえども)の字があり、「能説可説あることなく、念ずといえども、また能念可念なしと知るを」と読む。 ([[真巻#P--371|真巻 P.371]]) | 原文には「亦」(また)の上に「雖念」(念ずといえども)の字があり、「能説可説あることなく、念ずといえども、また能念可念なしと知るを」と読む。 ([[真巻#P--371|真巻 P.371]]) | ||
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故起信論云。若知雖説無有能説可説、雖念亦無能念可念、名爲隨順。 | 故起信論云。若知雖説無有能説可説、雖念亦無能念可念、名爲隨順。 | ||
:ゆえに起信論に云わく。もし説くといへども、能説可説あることなく、念ずといえども、また能念可念なしと知るを名づけて随順とす。 | :ゆえに起信論に云わく。もし説くといへども、能説可説あることなく、念ずといえども、また能念可念なしと知るを名づけて随順とす。 | ||
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:しかして初相を知るといふは、いはゆる無念は菩薩十地の知るところにあらず。 | :しかして初相を知るといふは、いはゆる無念は菩薩十地の知るところにあらず。 | ||
而今之人、尚未階十信、即不依馬鳴大士。從説入於無説、從念入於無念。 | 而今之人、尚未階十信、即不依馬鳴大士。從説入於無説、從念入於無念。 | ||
− | :しかるに今の人、なほいまだ十信に階はず、すなはち馬鳴大士によらざらんや。説より無説に入り、念より無念に入るなり。 | + | :しかるに今の人、なほいまだ十信に階はず、すなはち馬鳴大士によらざらんや。説より無説に入り、念より無念に入るなり。 →[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2012/T1967_.47.0142b02.html 大正蔵47-142] |
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'''御開山の引文'''<br> | '''御開山の引文'''<br> | ||
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起信論曰。若知雖説無有能説可説、亦無能念可念、名為随順。 | 起信論曰。若知雖説無有能説可説、亦無能念可念、名為随順。 | ||
:起信論にいはく、もし説くといへども、能説のありて説くべきもなく、また能念の念ずべきもなしと知るを、名づけて随順とす。 | :起信論にいはく、もし説くといへども、能説のありて説くべきもなく、また能念の念ずべきもなしと知るを、名づけて随順とす。 | ||
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而今之人、尚未階十信、即不依馬鳴大士。従説入無説、従念入於無念。 | 而今之人、尚未階十信、即不依馬鳴大士。従説入無説、従念入於無念。 | ||
:しかるに今の人、なほいまだ十信に階はず、すなはち馬鳴大士によらざらんや。説より無説に入り、念より無念に入る、と。 | :しかるに今の人、なほいまだ十信に階はず、すなはち馬鳴大士によらざらんや。説より無説に入り、念より無念に入る、と。 | ||
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『大乗起信論』では、<br> | 『大乗起信論』では、<br> | ||
以一切言説仮名無実、但随妄念不可得故、言真如者亦無有相。謂言説之極 '''因言遣言'''。 | 以一切言説仮名無実、但随妄念不可得故、言真如者亦無有相。謂言説之極 '''因言遣言'''。 | ||
− | :一切の言説は仮名にして実なく、但だ妄念に随うのみにして、不可得なるを以つての故に、真如と言うも亦た相あることなし。謂わく、'''言説の極は言に因つて言を遣るなり'''。 | + | :一切の言説は仮名にして実なく、但だ妄念に随うのみにして、不可得なるを以つての故に、真如と言うも亦た相あることなし。謂わく、'''言説の極は言に因つて言を遣るなり'''。<ref>言説の極(きわみ)は言に因つて言(言葉)を遣(や)るなり。言葉の所詮は、言葉を使って誤った考えを正すものであるということ。</ref> |
と、真如の体は本来言葉にはできず、心に思うこともできない。その言葉であらわすことのできない世界を言葉によって言葉を離れ、言葉でもって言葉を否定するという形(因言遣言)での説き方を<kana>離言真如(りごんしんにょ)</kana>という。そして、言葉を仮設することでその相を表すのを<kana>依言真如(えごんしんにょ)</kana>という。 | と、真如の体は本来言葉にはできず、心に思うこともできない。その言葉であらわすことのできない世界を言葉によって言葉を離れ、言葉でもって言葉を否定するという形(因言遣言)での説き方を<kana>離言真如(りごんしんにょ)</kana>という。そして、言葉を仮設することでその相を表すのを<kana>依言真如(えごんしんにょ)</kana>という。 | ||
− | ここでは、いろもなく、かたちもない、仏だけが知りうる真仏土の真如の界(さかい)を、釈尊の説かれた『無量寿経』の言葉(第十八願)により、言葉を超えた世界からとどく言葉と、なんまんだぶと阿弥陀仏を念ずることにより、すべての言葉(説) | + | ここでは、いろもなく、かたちもない、仏だけが知りうる真仏土の真如の界(さかい)を、釈尊の説かれた『無量寿経』の言葉(第十八願)により、言葉を超えた世界からとどく言葉と、なんまんだぶと阿弥陀仏を念ずることにより、すべての言葉(説)と念を超えた世界に入ることを示されている。<br /> |
+ | 御開山は、この意を飛錫の『念仏三昧宝王論』の文「すなはち馬鳴大士によらざらんや。説より無説に入り、念より無念に入る」と、真仏土は、説より無説に入り、念より無念に入る浄土である[[果分不可説]]という意を示されたのであろう。 | ||
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+ | →[[hwiki:意識の形而上学|意識の形而上学]] | ||
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2018年1月20日 (土) 23:12時点における版
のうせつの…しるを
原文には「亦」(また)の上に「雖念」(念ずといえども)の字があり、「能説可説あることなく、念ずといえども、また能念可念なしと知るを」と読む。 (真巻 P.371)
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『大乗起信論』で、真如を、
- 一切の言説は仮名にして実なく、但だ妄念に随うのみにして、不可得なるを以つての故に、真如と言うも亦た相あることなし。謂わく、言説の極みは言に因つて言を遣るなり。
- 此の真如の体は、遣るべきものあることなし。一切の法は悉く皆真なるを以っての故なり。また立つべきものなし、一切の法は皆同じく如なるを以っての故なり。当に知るべし、一切の法は説くべからず、念ずべからざるが故に、名づけて真如となす。
と説くのに対し、それでは真如に随順し真如に得入する道はないのではないかと、
- 問うて曰く、もし是の如きの義ならば、諸の衆生等は云何んが随順し、しかも能く入るを得るや。
と、問い、
答曰、若知一切法雖説無有能説可説、雖念亦無能念可念、是名随順、若離於念名為得入。
- 答えて曰く、もし一切法は説くと雖も能説と可説とあることなく、念ずと雖も亦た能念と可念となしと知らば、是れを随順と名づけ、もし念を離れれば、名づけて入ることを得たりとなす。
の文を『念仏三昧宝王論』から引く。
念仏三昧宝王論の文
故起信論云。若知雖説無有能説可説、雖念亦無能念可念、名爲隨順。
- ゆえに起信論に云わく。もし説くといへども、能説可説あることなく、念ずといえども、また能念可念なしと知るを名づけて随順とす。
若離於念、名爲得入。
- もし念を離るるを名づけて得入とす。
得入者眞如三昧也。況乎無念之位在於妙覺、蓋以了心初生之相也。
- 得入は真如三昧なり。いはんや無念の位は妙覚にあり、けだしもつて了心は初生の相なり。
而言知初相者、所謂、無念非菩薩十地所知。
- しかして初相を知るといふは、いはゆる無念は菩薩十地の知るところにあらず。
而今之人、尚未階十信、即不依馬鳴大士。從説入於無説、從念入於無念。
- しかるに今の人、なほいまだ十信に階はず、すなはち馬鳴大士によらざらんや。説より無説に入り、念より無念に入るなり。 →大正蔵47-142
御開山の引文
起信論曰。若知雖説無有能説可説、亦無能念可念、名為随順。
- 起信論にいはく、もし説くといへども、能説のありて説くべきもなく、また能念の念ずべきもなしと知るを、名づけて随順とす。
若離於念、名為得入。
- もし念を離るるを、名づけて得入とす、と。
得入者、真如三昧也。況乎、無念之位在於妙覚、蓋以了心、初生之相也。
- 得入とは真如三昧なり。いかにいはんや、無念の位は妙覚にあり、けだしもつて了心は初生の相なり。
而言知初相者、所謂無念、非菩薩十地所知。
- しかも初相を知るといふは、いはゆる無念は、菩薩十地の知るところにあらず。
而今之人、尚未階十信、即不依馬鳴大士。従説入無説、従念入於無念。
- しかるに今の人、なほいまだ十信に階はず、すなはち馬鳴大士によらざらんや。説より無説に入り、念より無念に入る、と。
『大乗起信論』では、
以一切言説仮名無実、但随妄念不可得故、言真如者亦無有相。謂言説之極 因言遣言。
- 一切の言説は仮名にして実なく、但だ妄念に随うのみにして、不可得なるを以つての故に、真如と言うも亦た相あることなし。謂わく、言説の極は言に因つて言を遣るなり。[1]
と、真如の体は本来言葉にはできず、心に思うこともできない。その言葉であらわすことのできない世界を言葉によって言葉を離れ、言葉でもって言葉を否定するという形(因言遣言)での説き方を
御開山は、この意を飛錫の『念仏三昧宝王論』の文「すなはち馬鳴大士によらざらんや。説より無説に入り、念より無念に入る」と、真仏土は、説より無説に入り、念より無念に入る浄土である果分不可説という意を示されたのであろう。
- ↑ 言説の極(きわみ)は言に因つて言(言葉)を遣(や)るなり。言葉の所詮は、言葉を使って誤った考えを正すものであるということ。
外部リンク
→意識の形而上学