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「自性清浄仏性の観」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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じしょうしょうじょうぶっしょうのかん
 
じしょうしょうじょうぶっしょうのかん
  
 衆(しゅ)生(じょう)が本来具する仏性は、煩悩(ぼんのう)の泥中にあっても、けがれることなく本質的に清浄であると観ずること。 ここでは、自性清浄なる自己の仏性を観ずることを阿弥陀仏を観ずることとする説のこと。 ([[観経疏 定善義 (七祖)#P--432|定善義 P.432]])
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 衆生が本来具する仏性は、[[煩悩]]の泥中にあっても、けがれることなく本質的に清浄であると観ずること。 ここでは、自性清浄なる自己の仏性を観ずることを阿弥陀仏を観ずることとする説のこと。 ([[観経疏 定善義 (七祖)#P--432|定善義 P.432]])
  
 
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2018年3月16日 (金) 22:45時点における版

じしょうしょうじょうぶっしょうのかん

 衆生が本来具する仏性は、煩悩の泥中にあっても、けがれることなく本質的に清浄であると観ずること。 ここでは、自性清浄なる自己の仏性を観ずることを阿弥陀仏を観ずることとする説のこと。 (定善義 P.432)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

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