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「至誠心」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

(ページの作成:「;『教行証文類』における『観経疏』三心釈の分引 {| class="wikitable" |- |信巻引文 |style="background-color:#f3fff8"|信・化引文 |style="back...」)
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2018年6月2日 (土) 14:20時点における版

『教行証文類』における『観経疏』三心釈の分引
信巻引文 信・化引文 化巻引文
観経疏 教行証
四に「何等為三」より下「必生彼国」に至るこのかたは、まさしく三心を弁定してもつて正因となすことを明かす。 すなはちその二あり。

一には世尊、機に随ひて益を顕したまふこと意密にして知りがたし、仏のみづから問ひみづから徴したまふにあらずは、解を得るに由なきことを明かす。二には如来(釈尊)還りてみづから前の三心の数を答へたまふことを明かす。

またいはく「〈何等為三〉より下〈必生彼国〉に至るまでこのかたは、まさしく三心を弁定して、もつて正因とすることを明かす。すなはちそれ二つあり。

一つには世尊、機に随ひて益を顕すこと、意密にして知りがたし、仏みづから問うてみづから徴したまふにあらずは、解を得るに由なきを明かす。二つに如来還りてみづから前の三心の数を答へたまふことを明かす。

至誠心釈

『経』(観経)にのたまはく、「一には至誠心」と。 「至」とは真なり、「誠」とは実なり。

一切衆生の身口意業所修の解行、かならずすべからく真実心のうちになすべきことを明かさんと欲す。 外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。 貪瞋・邪偽・奸詐百端にして、悪性侵めがたく、事蛇蝎に同じきは、三業を起すといへども名づけて雑毒の善となし、また虚仮の行と名づく。 真実の業と名づけず。

もしかくのごとき安心・起行をなすものは、たとひ身心を苦励して、日夜十二時急に走り急になすこと、頭燃を救ふがごとくするものも、すべて雑毒の善と名づく。

至誠心釈

『経』(観経)にのたまはく、〈一者至誠心〉。至とは真なり、誠とは実なり。

一切衆生の身口意業の所修の解行、かならず真実心のうちになしたまへるを須ゐんことを明かさんと欲ふ。外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐いて、貪瞋邪偽、奸詐百端にして悪性侵めがたし、事、蛇蝎に同じ。三業を起すといへども、名づけて雑毒の善とす、また虚仮の行と名づく、真実の業と名づけざるなり。

もしかくのごとき安心起行をなすは、たとひ身心を苦励して日夜十二時に急に走め急に作して頭燃を灸ふがごとくするものは、すべて雑毒の善と名づく。

この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に生ずることを求めんと欲せば、これかならず不可なり。

なにをもつてのゆゑに。 まさしくかの阿弥陀仏因中に菩薩の行を行じたまひし時、すなはち一念一刹那に至るまでも、三業の所修、みなこれ真実心のうちになしたまひ、おほよそ施為・趣求したまふところ、またみな真実なるによりてなり。

この雑毒の行を回してかの仏の浄土に求生せんと欲するは、これかならず不可なり。

なにをもつてのゆゑに、まさしくかの阿弥陀仏、因中に菩薩の行を行じたまひしとき、乃至一念一刹那も、三業の所修みなこれ真実心のうちになしたまひしに由(由の字、経なり、行なり、従なり、用なり)つてなり。おほよそ施したまふところ趣求をなす、またみな真実なり。

また真実に二種あり。 一には自利真実、二には利他真実なり。 また真実に二種あり。一つには自利真実、二つには利他真実なり。{乃至}
自利真実といふは、また二種あり。

一には真実心のうちに、自他の諸悪および穢国等を制捨して、行住坐臥に一切の菩薩の諸悪を制捨したまふに同じく、われもまたかくのごとくならんと想ふなり。


二には真実心のうちに、自他凡聖等の善を勤修す。 真実心のうちの口業に、かの阿弥陀仏および依正二報を讃歎す。 また真実心のうちの口業に、三界・六道等の自他の依正二報の苦悪の事を毀厭す。 また一切衆生の三業所為の善を讃歎す。 もし善業にあらずは、つつしみてこれを遠ざかれ、また随喜せざれ。また真実心のうちの身業に、合掌し礼敬して、四事等をもつてかの阿弥陀仏および依正二報を供養す。 また真実心のうちの身業に、この生死三界等の自他の依正二報を軽慢し厭捨す。 また真実心のうちの意業に、かの阿弥陀仏および依正二報を思想し観察し憶念して、目の前に現ずるがごとくす。 また真実心のうちの意業に、この生死三界等の自他の依正二報を軽賤し厭捨す。

またいはく自利真実といふは、また二種あり。

一つには、真実心のうちに自他の諸悪および穢国等を制捨して、行住座臥に、一切菩薩の諸悪を制捨するに同じく、われもまたかくのごとくせんと想ふ。

二つには、真実心のうちに自他・凡聖等の善を勤修す。真実心のうちの口業に、かの阿弥陀仏および依正二報を讃嘆す。また真実心のうちの口業に、三界・六道等の自他の依正二報の苦悪のことを毀厭す。また一切衆生の三業所為の善を讃嘆す。もし善業にあらずは、つつしんでこれを遠ざかれ、また随喜せざれとなり。また真実心のうちの身業に、合掌し、礼敬し、四事等をもつてかの阿弥陀仏および依正二報を供養す。また真実心のうちの身業に、この生死三界等の自他の依正二報を軽慢し厭捨す。また真実心のうちの意業に、かの阿弥陀仏および依正二報を思想し、観察し、憶念して、目の前に現ぜるがごとくす。また真実心のうちの意業に、この生死三界等の自他の依正二報を軽賤し厭捨すと。{乃至}

不善の三業は、かならずすべからく真実心のうちに捨つべし。 またもし善の三業を起さば、かならずすべからく真実心のうちになすべし。 内外明闇を簡ばず、みなすべからく真実なるべし。 ゆゑに至誠心と名づく。 不善の三業はかならず真実心のうちに捨てたまへるを須ゐよ。またもし善の三業を起さば、かならず真実心のうちになしたまひしを須ゐて、内外明闇を簡ばず、みな真実を須ゐるがゆゑに至誠心と名づく。
深心釈 二種深信

二には深心」と。 「深心」といふはすなはちこれ深く信ずる心なり。 また二種あり。

一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。

二には決定して深く、かの阿弥陀仏の、四十八願は衆生を摂受したまふこと、疑なく慮りなくかの願力に乗じてさだめて往生を得と信ず。

二種深信

〈二者深心〉。深心といふは、すなはちこれ深信の心なり。また二種あり。

一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。

二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。

第三深信

また決定して深く、釈迦仏、この『観経』の三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしめたまふと信ず。

観経深信

また決定して深く、釈迦仏この『観経』に三福九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしむと信ず。

第四深信

また決定して深く、『弥陀経』のなかに、十方恒沙の諸仏、一切の凡夫決定して生ずることを得と証勧したまふと信ず。

弥陀経深信

また決定して、『弥陀経』のなかに、十方恒沙の諸仏、一切凡夫を証勧して決定して生ずることを得と深信するなり。

第五深信

また深信とは、仰ぎ願はくは、一切の行者等、一心にただ仏語を信じて身命を顧みず、決定して依行し、仏の捨てしめたまふをばすなはち捨て、仏の行ぜしめたまふをばすなはち行じ、仏の去らしめたまふ処をばすなはち去る。 これを仏教に随順し、仏意に随順すと名づけ、これを仏願に随順すと名づく。 これを真の仏弟子と名づく。

唯信仏語(真仏弟子)

また深信するもの、仰ぎ願はくは一切の行者等、一心にただ仏語を信じて身命を顧みず、決定して行によりて、仏の捨てしめたまふをばすなはち捨て、仏の行ぜしめたまふをばすなはち行ず。仏の去らしめたまふところをばすなはち去つ。これを仏教に随順し、仏意に随順すと名づく。これを仏願に随順すと名づく。これを真の仏弟子と名づく。

第六深信

また一切の行者ただよくこの『経』(観経)によりて深く信じて行ずるものは、かならず衆生を誤たず。 なにをもつてのゆゑに。 仏はこれ大悲を満足したまへる人なるがゆゑなり、実語したまふがゆゑなり。 仏を除きて以還は、智行いまだ満たず。 その学地にありて、正習の二障ありていまだ除こらざるによりて、果願いまだ円かならず。 これらの凡聖はたとひ諸仏の教意を測量すれども、いまだ決了することあたはず。 平章することありといへども、かならずすべからく仏証を請じて定となすべし。 もし仏意に称へばすなはち印可して、「如是如是」とのたまふ。 もし仏意に可はざれば、すなはち「なんぢらが所説この義不如是」とのたまふ。 印せざるはすなはち無記・無利・無益の語に同ず。

行を深信

また一切の行者、ただよくこの『経』(観経)によりて行を深信するは、かならず衆生を誤らざるなり。なにをもつてのゆゑに、仏はこれ満足大悲の人なるがゆゑに、実語なるがゆゑに。仏を除きて以還は、智行いまだ満たず。それ学地にありて、正習の二障ありていまだ除こらざるによつて、果願いまだ円かならず。これらの凡聖は、たとひ諸仏の教意を測量すれども、いまだ決了することあたはず。平章することありといへども、かならずすべからく仏証を請うて定とすべきなり。もし仏意に称へば、すなはち印可して〈如是如是〉とのたまふ。もし仏意に可はざれば、すなはち〈なんだちが所説この義不如是〉とのたまふ。印せざるはすなはち無記・無利・無益の語に同じ。

仏の印可したまふは、すなはち仏の正教に随順す。 もし仏のあらゆる言説なれば、すなはちこれ正教・正義・正行・正解・正業・正智なり。 もしは多、もしは少、すべて菩薩・人・天等に問ひて、その是非を定めざれ。 もし仏の所説なれば、すなはちこれ了教なり。 菩薩等の説はことごとく不了教と名づく、知るべし。 このゆゑにいまの時、仰ぎて一切有縁の往生人等を勧む。 ただ深く仏語を信じて専注奉行すべし。 菩薩等の不相応の教を信用して、もつて疑礙をなし、惑を抱きてみづから迷ひ、往生の大益を廃失すべからず。 仏の印可したまふは、すなはち仏の正教に随順す。もし仏の所有の言説は、すなはちこれ正教・正義・正行・正解・正業・正智なり。もしは多もしは少、すべて菩薩・人・天等を問はず、その是非を定めんや。もし仏の所説は、すなはちこれ了教なり。菩薩等の説は、ことごとく不了教と名づくるなり、知るべし。このゆゑに今の時、仰いで一切有縁の往生人等を勧む。ただ仏語を深信して専注奉行すべし。菩薩等の不相応の教を信用して、もつて疑碍をなし、惑ひを抱いて、みづから迷ひて往生の大益を廃失すべからざれと。{乃至}
第七深信

また深心は「深き信なり」といふは、決定して自心を建立して、教に順じて修行し、永く疑錯を除きて、一切の別解・別行・異学・異見・異執のために、退失し傾動せられざるなり。

自心を建立

また深心の深信とは、決定して自心を建立して、教に順じて修行し、永く疑錯を除きて、一切の別解・別行・異学・異見・異執のために退失傾動せられざるなりと。{乃至}

{──中略──}   
たとひ釈迦一切の凡夫を指勧して、「この一身を尽すまで専念専修すれば、捨命以後さだめてかの国に生ず」とのたまはば、すなはち十方の諸仏ことごとくみな同じく讃め、同じく勧め、同じく証したまはん。 なにをもつてのゆゑに。 同体の大悲なるがゆゑなり。 一仏の所化は、すなはちこれ一切仏の化なり。 一切仏の化は、すなはちこれ一仏の所化なり。 釈迦一切の凡夫を指勧して、この一身を尽して専念専修して、捨命以後、さだめてかの国に生るれば、すなはち十方諸仏ことごとくみな同じく讃め、同じく勧め、同じく証したまふ。 なにをもつてのゆゑに、同体の大悲なるがゆゑに。一仏の所化は、すなはちこれ一切仏の化なり。一切仏の化は、すなはちこれ一仏の所化なり。
すなはち『弥陀経』のなかに説きたまふ。 釈迦極楽の種々の荘厳を讃歎し、また「一切の凡夫、一日七日、一心にもつぱら弥陀の名号を念ずれば、さだめて往生を得」(意)と勧めたまひ、次下の文に(同・意)、「十方におのおの恒河沙等の諸仏ましまして、同じく釈迦よく五濁悪時、悪世界、悪衆生、悪見、悪煩悩、悪邪、無信の盛りなる時において、弥陀の名号を指讃して、〈衆生称念すればかならず往生を得〉と勧励したまふを讃じたまふ」とのたまふは、すなはちその証なり。 すなはち『弥陀経』のなかに説かく、〈釈迦極楽の種々の荘厳を讃嘆したまふ。また一切の凡夫を勧めて一日七日、一心に弥陀の名号を専念せしめて、さだめて往生を得しめたまふ〉と。 次下の文にのたまはく、〈十方におのおの恒河沙等の諸仏ましまして、同じく釈迦よく五濁悪時・悪世界・悪衆生・悪見・悪煩悩・悪邪・無信の盛りなるときにおいて、弥陀の名号を指讃して衆生を勧励せしめて、称念すればかならず往生を得と讃じたまふ〉と、すなはちその証なり。
また十方の仏等、衆生の釈迦一仏の所説を信ぜざることを恐畏れて、すなはちともに同心同時に、おのおの舌相を出してあまねく三千世界に覆ひて、誠実の言を説きたまふ。 「なんぢら衆生、みなこの釈迦の所説・所讃・所証を信ずべし。 一切の凡夫、罪福の多少、時節の久近を問はず、ただよく上百年を尽し、下一日七日に至るまで、一心にもつぱら弥陀の名号を念ずれば、さだめて往生を得ること、かならず疑なし」と。 このゆゑに一仏の所説は、すなはち一切仏同じくその事を証誠したまふ。

これを人に就きて信を立つと名づく。

また十方の仏等、衆生の釈迦一仏の所説を信ぜざらんをおそれて、すなはちともに同心同時におのおの舌相を出して、あまねく三千世界に覆ひて誠実の言を説きたまはく、〈なんだち衆生、みなこの釈迦の所説・所讃・所証を信ずべし。一切の凡夫、罪福の多少、時節の久近を問はず、ただよく上百年を尽し、下一日七日に至るまで、一心に弥陀の名号を専念して、さだめて往生を得ること、かならず疑なきなり〉と。このゆゑに一仏の所説をば、すなはち一切仏同じくその事を証誠したまふなり。

これを人について信を立つと名づくるなり。{乃至}

次に行に就きて信を立つといふは、しかるに行に二種あり。 一には正行、二には雑行なり。 次に行について信を立てば、しかるに行に二種あり。一つには正行、二つには雑行なり。
五正行

正行といふは、もつぱら往生経の行によりて行ずるは、これを正行と名づく。何者かこれなるや。

一心にもつぱらこの『観経』・『弥陀経』・『無量寿経』等を読誦し、一心に専注してかの国の二報荘厳を思想し観察し憶念し、もし礼するにはすなはち一心にもつぱらかの仏を礼し、

もし口に称するにはすなはち一心にもつぱらかの仏を称し、もし讃歎供養するにはすなはち一心にもつぱら讃歎供養す、これを名づけて正となす。

五正行

正行といふは、もつぱら往生経の行によりて行ずるものは、これを正行と名づく。なにものかこれや。

一心にもつぱらこの『観経』・『弥陀経』・『無量寿経』等を読誦する。一心にかの国の二報荘厳を専注し思想し観察し憶念する。もし礼せばすなはち一心にもつぱらかの仏を礼する。

もし口に称せばすなはち一心にもつぱらかの仏を称せよ。もし讃嘆供養せばすなはち一心にもつぱら讃嘆供養する。これを名づけて正とす。

称名正定業

またこの正のなかにつきてまた二種あり。

一には一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり。

助業

もし礼誦等によるをすなはち名づけて助業となす。

雑行

この正助二行を除きて以外の自余の諸善はことごとく雑行と名づく。

称名正定業

またこの正のなかについてまた二種あり。

一つには、一心に弥陀の名号を専念して、行住座臥、時節の久近を問はず、念々に捨てざるをば、これを正定の業と名づく、かの仏願に順ずるがゆゑに。

助業

もし礼・誦等によらば、すなはち名づけて助業とす。

雑行

この正・助二行を除きて以外の自余の諸善は、ことごとく雑行と名づく。{乃至}

もし前の正助二行を修すれば、心つねに〔阿弥陀仏に〕親近して憶念断えず、名づけて無間となす。 もし後の雑行を行ずれば、すなはち心つねに間断す、回向して生ずることを得べしといへども、 もし前の正助二行を修するは、心つねに親近し、憶念断えず、名づけて無間とす。もし後の雑行を行ずるは、すなはち心つねに間断す。回向して生ずることを得べしといへども、
すべて疎雑の行と名づく。ゆゑに深心と名づく。 すべて疎雑の行と名づくるなり。ゆゑに深心と名づく。
「三には回向発願心」と。 〈三者回向発願心〉。{乃至}
「回向発願心」といふは、過去および今生の身口意業所修の世・出世の善根と、および他の一切凡聖の身口意業所修の世・出世の善根を随喜せると、この自他の所修の善根をもつて、ことごとくみな真実の深信の心中に回向して、かの国に生ぜんと願ず。ゆゑに回向発願心と名づく。 回向発願心といふは、過去および今生の身口意業に修するところの世・出世の善根、および他の一切の凡聖の身口意業に修するところの世・出世の善根を随喜して、この自他所修の善根をもつて、ことごとくみな真実の深信の心のうちに回向して、かの国に生ぜんと願ず。ゆゑに回向発願心と名づくるなり」と。
また回向発願して生ぜんと願ずるものは、かならずすべからく決定真実心のうちに回向し願じて、得生の想をなすべし。 この心深信せること金剛のごとくなるによりて、一切の異見・異学・別解・別行の人等のために動乱破壊せられず。 ただこれ決定して一心に捉りて、正直に進み、かの人の語を聞きて、すなはち進退あり、心に怯弱を生ずることを得ざれ。 回顧すれば道より落ちて、すなはち往生の大益を失するなり。 また回向発願して生ずるものは、かならず決定して真実心のうちに回向したまへる願を須ゐて得生の想をなせ。この心、深信せること金剛のごとくなるによりて、一切の異見・異学・別解・別行の人等のために動乱破壊せられず。ただこれ決定して、一心に捉つて正直に進んで、かの人の語を聞くことを得ざれ。すなはち進退の心ありて怯弱を生じて回顧すれば、道に落ちてすなはち往生の大益を失するなり。
問ひていはく、もし解行不同の邪雑人等ありて、来りてあひ惑乱し、あるいは種々の疑難を説きて、「往生を得ず」といひ、あるいはいはく、「なんぢら衆生、曠劫よりこのかたおよび今生の身口意業に、一切凡聖の身の上においてつぶさに十悪・五逆・四重・謗法・闡提・破戒・破見等の罪を造りて、いまだ除尽することあたはず。しかるにこれらの罪は三界の悪道に繋属す。 いかんぞ一生の修福の念仏をもつてすなはちかの無漏無生の国に入りて、永く不退の位を証悟することを得んや」と。 問うていはく、もし解行不同の邪雑の人等ありて、来りてあひ惑乱して、あるいは種々の疑難を説きて〈往生を得じ〉といひ、あるいはいはん、〈なんだち衆生、曠劫よりこのかた、および今生の身口意業に、一切凡聖の身の上において、つぶさに十悪・五逆・四重・謗法・闡提・破戒・破見等の罪を造りて、いまだ除尽することあたはず。しかるにこれらの罪は三界悪道に繋属す。いかんぞ一生の修福念仏をして、すなはちかの無漏無生の国に入りて、永く不退の位を証悟することを得んや〉と。
答へていはく、諸仏の教行、数塵沙に越えたり。 稟識の機縁、情に随ひて一にあらず。 たとへば世間の人の眼に見るべく信ずべきがごときは、明よく闇を破し、空よく有を含み、地よく載養し、水よく生潤し、火よく成壊するがごときなり。 かくのごとき等の事をことごとく待対の法と名づく。 すなはち目に見るべし、千差万別なり。 いかにいはんや仏法不思議の力、あに種々の益なからんや。 随ひて一門を出づれば、すなはち一煩悩の門を出づ。 随ひて一門に入れば、すなはち一解脱智慧の門に入る。 これがために縁に随ひて行を起して、おのおの解脱を求めよ。 答へていはく、諸仏の教行数塵沙に越えたり。識を稟くる機縁、情に随ひて一つにあらず。たとへば世間の人、眼に見るべく信ずべきがごときは、明のよく闇を破し、空のよく有を含み、地のよく載養し、水のよく生潤し、火のよく成壊するがごとし。これらのごときの事、ことごとく待対の法と名づく。すなはち目に見つべし、千差万別なり。いかにいはんや仏法不思議の力、あに種種の益なからんや。随ひて一門を出づるは、すなはち一煩悩の門を出づるなり。随ひて一門に入るは、すなはち一解脱智慧の門に入るなり。ここを為(為の字、定なり、用なり、彼なり、作なり、是なり、相なり)つて縁に随ひて行を起して、おのおの解脱を求めよ。
なんぢ、なにをもつてかすなはち有縁の要行にあらざるをもつてわれを障惑するや。 しかるにわが所愛は、すなはちこれわが有縁の行なり。 すなはちなんぢが所求にあらず。 なんぢが所愛は、すなはちこれなんぢが有縁の行なり。 またわが所求にあらず。 このゆゑにおのおの所楽に随ひてその行を修すれば、かならず疾く解脱を得。 行者まさに知るべし。 もし解を学せんと欲せば、凡より聖に至り、すなはち仏果に至るまで、一切礙なくみな学することを得ん。 もし行を学せんと欲せば、かならず有縁の法によれ。 少しき功労を用ゐるに多く益を得ればなり。 なんぢなにをもつてか、いまし有縁の要行にあらざるをもつて、われを障惑する。しかるにわが所愛はすなはちこれわが有縁の行なり、すなはちなんぢが所求にあらず。なんぢが所愛はすなはちこれなんぢが有縁の行なり、またわれの所求にあらず。このゆゑにおのおの所楽に随ひてその行を修するは、かならず疾く解脱を得るなり。行者まさに知るべし、もし解を学ばんと欲はば、凡より聖に至るまで、乃至仏果まで一切碍なし、みな学ぶことを得よ。もし行を学ばんと欲はば、かならず有縁の法によれ。少しき功労を用ゐるに、多く益を得ればなりと。
二河白道譬喩

また一切の往生人等にまうさく、いまさらに行者のために一の譬喩を説きて、信心を守護して、もつて外邪異見の難を防がん。何者かこれなるや。

たとへば、人ありて西に向かひて百千の里を行かんと欲するがごとし。 忽然として中路に二の河あるを見る。 一にはこれ火の河、南にあり。 二にはこれ水の河、北にあり。 二河おのおの闊さ百歩、おのおの深くして底なし。 南北辺なし。

二河白道

また一切往生人等にまうさく、いまさらに行者のために一つの譬喩(喩の字、さとす)を説きて、信心を守護して、もつて外邪異見の難を防がん。なにものかこれや。

たとへば人ありて、西に向かひて行かんとするに、百千の里ならん。忽然として中路に見れば二つの河あり。一つにはこれ火の河、南にあり。二つにはこれ水の河、北にあり。二河おのおの闊さ百歩、おのおの深くして底なし、南北辺なし。

まさしく水火の中間に一の白道あり。 闊さ四五寸ばかりなるべし。 この道東の岸より西の岸に至るに、また長さ百歩、その水の波浪交はり過ぎて道を湿し、その火炎また来りて道を焼く。 水火あひ交はりて、つねにして休息することなし。 まさしく水火の中間に一つの白道あり、闊さ四五寸ばかりなるべし。この道、東の岸より西の岸に至るに、また長さ百歩、その水の波浪交はり過ぎて道を湿す。その火焔(焔、けむりあるなり、炎、けむりなきほのほなり)また来りて道を焼く。水火あひ交はりて、つねにして休息することなけん。
この人すでに空曠のはるかなる処に至るに、さらに人物なし。 多く群賊・悪獣ありて、この人の単独なるを見て、競ひ来りて殺さんと欲す。 この人死を怖れてただちに走りて西に向かふに、忽然としてこの大河を見て、すなはちみづから念言す。「この河は南北に辺畔を見ず。 中間に一の白道を見るも、きはめてこれ狭小なり。

二の岸あひ去ること近しといへども、なにによりてか行くべき。 今日さだめて死すること疑はず。 まさしく到り回らんと欲すれば、群賊・悪獣漸々に来り逼む。 まさしく南北に避り走らんと欲すれば、悪獣・毒虫競ひ来りてわれに向かふ。 まさしく西に向かひて道を尋ねて去かんと欲すれば、またおそらくはこの水火の二河に堕せん」と。 時に当りて惶怖することまたいふべからず。

この人すでに空曠のはるかなる処に至るに、さらに人物なし。多く群賊・悪獣ありて、この人の単独なるを見て、競ひ来りてこの人を殺さんとす。死を怖れてただちに走りて西に向かふに、忽然としてこの大河を見て、すなはちみづから念言すらく、〈この河、南北に辺畔を見ず、中間に一つの白道を見る、きはめてこれ狭少なり。

二つの岸あひ去ること近しといへども、なにによりてか行くべき。今日さだめて死せんこと疑はず。まさしく到り回らんと欲へば、群賊・悪獣、漸々に来り逼む。まさしく南北に避り走らんとすれば、悪獣・毒虫、競ひ来りてわれに向かふ。まさしく西に向かひて道を尋ねて去かんとすれば、またおそらくはこの水火の二河に堕せんことを〉と。時にあたりて惶怖することまたいふべからず。

すなはちみづから思念す。 「われいま回らばまた死せん。 住まらばまた死せん。 去かばまた死せん。 一種として死を勉れずは、われむしろこの道を尋ねて前に向かひて去かん。 すでにこの道あり。 かならず度るべし」と。 すなはちみづから思念すらく、〈われいま回らばまた死せん、住まらばまた死せん、去かばまた死せん。一種として死を勉れざれば、われ寧くこの道を尋ねて前に向かひて去かん。すでにこの道あり、かならず可度すべし〉と。
この念をなす時、東の岸にたちまち人の勧むる声を聞く。

「なんぢ、ただ決定してこの道を尋ねて行け、かならず死の難なからん。 もし住まらば、すなはち死せん>」と。

また西の岸の上に人ありて喚ばひていはく、「なんぢ一心正念にしてただちに来れ。 われよくなんぢを護らん。 すべて水火の難に堕することを畏れざれ」と。

この人すでにここに遣はし、かしこに喚ばふを聞きて、すなはちみづから身心を正当にして、決定して道を尋ねてただちに進みて、疑怯退心を生ぜず。

あるいは行くこと一分二分するに、東の岸に群賊等喚ばひていはく、「なんぢ、回り来れ。 この道嶮悪にして過ぐることを得ず。 かならず死すること疑はず。 われらすべて悪心をもつてあひ向かふことなし」と。 この人喚ばふ声を聞くといへどもまた回顧せず。 一心にただちに進みて道を念じて行けば、須臾にすなはち西の岸に到りて、永くもろもろの難を離る。 善友あひ見えて慶楽すること已むことなし。 これはこれ喩へなり。

この念をなすとき、東の岸にたちまちに人の勧むる声を聞く、

〈きみただ決定してこの道を尋ねて行け。かならず死の難なけん。もし住まらばすなはち死せん〉と。

また西の岸の上に、人ありて喚ばひていはく、〈なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉と。

この人、すでにここに遣はし、かしこに喚ばふを聞きて、すなはちみづからまさしく身心に当りて、決定して道を尋ねてただちに進んで、疑怯退心を生ぜずして、あるいは行くこと一分二分するに、東の岸の群賊等喚ばひていはく、〈きみ回り来れ。この道嶮悪なり。過ぐることを得じ。かならず死せんこと疑はず。われらすべて悪心あつてあひ向かふことなし〉と。この人、喚ばふ声を聞くといへども、またかへりみず、一心にただちに進んで道を念じて行けば、須臾にすなはち西の岸に到りて、永くもろもろの難を離る。善友あひ見て慶楽すること已むことなからんがごとし。これはこれ喩(喩の字、をしへなり)へなり。

合譬/合法

 次に喩へを合せば、「東の岸」といふは、すなはちこの娑婆の火宅に喩ふ。

「西の岸」といふは、すなはち極楽の宝国に喩ふ。 「群賊・悪獣詐り親しむ」といふは、すなはち衆生の六根・六識・六塵・五陰・四大に喩ふ。 「無人空迥の沢」といふは、すなはちつねに悪友に随ひて真の善知識に値はざるに喩ふ。

合喩

 次に喩へを合せば、〈東の岸〉といふは、すなはちこの娑婆の火宅に喩ふ。

〈西の岸〉といふは、すなはち極楽宝国に喩ふ。〈群賊・悪獣詐り親しむ〉といふは、すなはち衆生の六根・六識・六塵・五陰・四大に喩ふ。〈無人空迥の沢〉といふは、すなはちつねに悪友に随ひて真の善知識に値はざるに喩ふ。

「水火二河」といふは、すなはち衆生の貪愛は水のごとく、瞋憎は火のごとくなるに喩ふ。 「中間の白道四五寸」といふは、すなはち衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄の願往生心を生ずるに喩ふ。 すなはち貪瞋強きによるがゆゑに、すなはち水火のごとしと喩ふ。 善心微なるがゆゑに、白道のごとしと喩ふ。 また「水波つねに道を湿す」といふは、すなはち愛心つねに起りて、よく善心を染汚するに喩ふ。 〈水火の二河〉といふは、すなはち衆生の貪愛は水のごとし、瞋憎は火のごとしと喩ふ。〈中間の白道四五寸〉といふは、すなはち衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩ふ。いまし貪瞋強きによるがゆゑに、すなはち水火のごとしと喩ふ。善心、微なるがゆゑに、白道のごとしと喩ふ。 また〈水波つねに道を湿す〉とは、すなはち愛心つねに起りてよく善心を染汚するに喩ふ。
また「火炎つねに道を焼く」といふは、すなはち瞋嫌の心よく功徳の法財を焼くに喩ふ。 「人道の上を行きてただちに西に向かふ」といふは、すなはちもろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ。 また〈火焔つねに道を焼く〉とは、すなはち瞋嫌の心よく功徳の法財を焼くに喩ふ。〈人、道の上を行いて、ただちに西に向かふ〉といふは、すなはちもろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ。
「東の岸に人の声の勧め遣はすを聞きて、道を尋ねてただちに西に進む」といふは、すなはち釈迦すでに滅したまひて、後の人見たてまつらざれども、なほ教法ありて尋ぬべきに喩ふ。 すなはちこれを声のごとしと喩ふ。

「あるいは行くこと一分二分するに群賊等喚ばひ回す」といふは、すなはち別解・別行・悪見人等妄りに見解を説きてたがひにあひ惑乱し、およびみづから罪を造りて退失するに喩ふ。

〈東の岸に人の声の勧め遣はすを聞きて、道を尋ねてただちに西に進む〉といふは、すなはち釈迦すでに滅したまひて、後の人見たてまつらず、なほ教法ありて尋ぬべきに喩ふ、すなはちこれを声のごとしと喩ふるなり。

〈あるいは行くこと一分二分するに群賊等喚び回す〉といふは、すなはち別解・別行・悪見の人等、みだりに見解をもつてたがひにあひ惑乱し、およびみづから罪を造りて退失すと説くに喩ふるなり。

「西の岸の上に人ありて喚ばふ」といふは、すなはち弥陀の願意に喩ふ。 「須臾に西の岸に到りて善友あひ見えて喜ぶ」といふは、すなはち衆生久しく生死に沈みて、曠劫より輪廻し、迷倒してみづから纏ひて、解脱するに由なし。

仰ぎて釈迦発遣して指して西方に向かはしめたまふことを蒙り、また弥陀悲心をもつて招喚したまふによりて、いま二尊(釈尊・阿弥陀仏)の意に信順して、水火の二河を顧みず、念々に遺るることなく、かの願力の道に乗じて、捨命以後かの国に生ずることを得て、仏とあひ見えて慶喜することなんぞ極まらんといふに喩ふ。

〈西の岸の上に人ありて喚ばふ〉といふは、すなはち弥陀の願意に喩ふ。〈須臾に西の岸に到りて善友あひ見て喜ぶ〉といふは、すなはち衆生久しく生死に沈みて、曠劫より輪廻し、迷倒してみづから纏ひて、解脱するに由なし。

仰いで釈迦発遣して、指へて西方に向かへたまふことを蒙り、また弥陀の悲心招喚したまふによつて、いま二尊の意に信順して、水火の二河を顧みず、念々に遺るることなく、かの願力の道に乗じて、捨命以後かの国に生ずることを得て、仏とあひ見て慶喜すること、なんぞ極まらんと喩ふるなり。

また一切の行者、行住坐臥に三業の所修、昼夜時節を問ふことなく、つねにこの解をなしつねにこの想をなすがゆゑに、回向発願心と名づく。

また「回向」といふは、かの国に生じをはりて、還りて大悲を起して、生死に回入して衆生を教化するをまた回向と名づく。

また一切の行者、行住座臥に三業の所修、昼夜時節を問ふことなく、つねにこの解をなし、つねにこの想をなすがゆゑに、回向発願心と名づく。

また回向といふは、かの国に生じをはりて、還りて大悲を起して、生死に回入して衆生を教化する、また回向と名づくるなり。

三心決釈

三心すでに具すれば、行として成ぜざるはなし。 願行すでに成じて、もし生ぜずは、この処あることなからん。 またこの三心はまた通じて定善の義を摂す、知るべし。

三心決釈

三心すでに具すれば、行として成ぜざるなし。願行すでに成じて、もし生ぜずは、この処あることなしとなり。またこの三心、また定善の義を通摂すと、知るべし」と。{以上}