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「疑悔」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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 悔は碍(礙)の音通とも考えられるが、『智度論』には釈尊成道において成道を妨げる魔軍の内軍として、疑悔(疑いや後悔)の語がある。
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 ここの悔は碍(礙)の音通とも考えられるが、『智度論』には釈尊成道において成道を妨げる魔軍の内軍として、疑悔(疑いや後悔)の語がある。
 
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:如説。佛苦行六年。魔王來言。刹利貴人。汝千分生中正有一分活耳。
 
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『大経』には簡潔に、
 
『大経』には簡潔に、
 
:大光明を奮つて、魔をしてこれを知らしむ。魔、官属を率ゐて、来りて逼め試みる。制するに智力をもつてして、みな降伏せしむ。微妙の法を得て最正覚を成る。([[大経上#P--5|大経 P.5]])
 
:大光明を奮つて、魔をしてこれを知らしむ。魔、官属を率ゐて、来りて逼め試みる。制するに智力をもつてして、みな降伏せしむ。微妙の法を得て最正覚を成る。([[大経上#P--5|大経 P.5]])
とある。ともあれ戒なき浄土教ではダイレクトに仏のさとりに直結しようというご法義であるから、自らが煩悩を放擲するのではなく、煩悩を断じた仏陀に帰依し「[[不断煩悩得涅槃]]」という、なんまんだぶを称えて仏に成るご法義であった。
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とある。ともあれ戒なき浄土教ではダイレクトに仏のさとりに直結しようというご法義であるから、自らが煩悩を放擲するのではなく、煩悩を断じたゆえに煩悩がさまたげにならない浄土を建立した仏陀(阿弥陀仏)に[[帰依]]し「[[不断煩悩得涅槃]]」という、なんまんだぶを称えて仏に成るご法義であった。
  
 
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2018年6月27日 (水) 16:38時点における最新版

ぎけ

『大経』の異訳の、『如来会』に、

『如来会』(下)にのたまはく、「仏、弥勒に告げたまはく、〈もし衆生ありて、疑悔に随ひて善根を積集して、仏智・普遍智・不思議智・無等智・威徳智・広大智を希求せん。みづからの善根において信を生ずることあたはず。 (化巻 P.379)

とある。

 ここの悔は碍(礙)の音通とも考えられるが、『智度論』には釈尊成道において成道を妨げる魔軍の内軍として、疑悔(疑いや後悔)の語がある。

如説。佛苦行六年。魔王來言。刹利貴人。汝千分生中正有一分活耳。
説の如し、仏の六年苦行したまえるに、魔王の来たりて言わく、刹利の貴人、汝は、千分の生中に、正しく一分を活くること有るのみ。
速起還國布施修福。可得今世後世人中天上之樂道。
速かに起ちて国に還り、布施して福を修め、今世、後世の人中、天上の楽道を得べし。
不可得汝唐勤苦。汝若不受軟言 守迷不起。我當將大軍衆來撃破汝。
汝、唐(いたづら)に勤苦を得べからず。汝、若し軟言を受けずして、迷を守りて起たずんば、我れ当に大軍衆を将い来たりて、汝を撃破せん、と。
菩薩言。我今當破汝大力内軍。何況外軍。魔言。何等是我内軍。
菩薩の言わく、我れは今、当に汝が大力の内軍を破らんとす。何に況んや、外軍をや、と。魔の言わく、何等か、是れ我が内軍なる、と。
答曰
答えて曰く、
欲是汝初軍 憂愁爲第二
飢渇第三軍 渇愛爲第四
睡眠第五軍 怖畏爲第六
疑悔第七軍 瞋恚爲第八
利養虚稱九 自高蔑人十
如是等軍衆 厭沒出家人
我以禪智力 破汝此諸軍
得成佛道已 度脱一切人
欲は是れ汝が初軍、憂愁を第二と為し、
飢渴は第三軍、渇愛を第四と為す。
睡眠は第五軍、怖畏を第六と為し、
疑悔は第七軍、瞋恚を第八と為す。
利養虚称は九、自高蔑人は十なり、
是の如き等の軍衆は、出家人を厭没せり。
我れは禅と智の力を以って、汝が此の諸軍を破り、
仏道を成ずるを得已りて、一切の人を度脱せん。

釈尊成道においての悪魔 マーラ(Māra)の誘惑を説いているのであろう。

『大経』には簡潔に、

大光明を奮つて、魔をしてこれを知らしむ。魔、官属を率ゐて、来りて逼め試みる。制するに智力をもつてして、みな降伏せしむ。微妙の法を得て最正覚を成る。(大経 P.5)

とある。ともあれ戒なき浄土教ではダイレクトに仏のさとりに直結しようというご法義であるから、自らが煩悩を放擲するのではなく、煩悩を断じたゆえに煩悩がさまたげにならない浄土を建立した仏陀(阿弥陀仏)に帰依し「不断煩悩得涅槃」という、なんまんだぶを称えて仏に成るご法義であった。