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「自力他力事」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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2018年7月22日 (日) 12:09時点における版

 本書の内容は、自力の念仏と他力の念仏との相違を明らかにし、他力の念仏を勧めるものである。

 まず、自力の念仏とは、みずからの行いを慎み、悪事をとどめて念仏しようとするものであるが、実際には不可能であり、たとえできたとしても、極楽のほとり(辺地)にしか往生できず、そこで本願に背いた罪をつぐなった後、真実の浄土に往生するのであることを明かされる。

 次に、他力の念仏とは、みずからの罪悪の深いことにつけても、ひとえに阿弥陀仏の本願力をあおぎ、願力をたのめば、常に阿弥陀仏の光明に照らされ、いのち尽きたときには、極楽に必ず往生せしめられることを明かされる。

 最後に、迷いの世界を出て悟りの世界に至ることは、まったく阿弥陀仏の本願力によるのであり、念仏しながら自力をたのむということは、はなはだしい心得違いであると誡めて全体を結ばれている。

 なお親鸞聖人が関東の門弟たちに与えられた消息から、繰り返し本書を書き写して与え、読むことを勧められたことがうかがわれる。


自力他力事

   自力他力事

                         長楽寺隆寛律師作


【1】 念仏の行につきて自力・他力といふことあり。これは極楽をねがひて弥陀の名号をとなふる人のなかに、自力のこころにて念仏する人あり。

【2】 まづ自力のこころといふは、身にもわろきことをばせじ、口にもわろきことをばいはじ、心にもひがごとをばおもはじと、かやうにつつしみて念仏するものは、この念仏のちからにて、よろづの罪を除き失ひて、極楽へかならずまゐるぞとおもひたる人をば、自力の行といふなり。かやうにわが身をつつしみととのへて、よからんとおもふはめでたけれども、まづ世の人をみるに、いかにもいかにもおもふさまにつつしみえんことは、きはめてありがたきことなり。

そのうへに弥陀の本願をつやつやとしらざるとがのあるなり。さればいみじくしえて往生する人も、まさしき本願の極楽にはまゐらず、わづかにそのほとりへまゐりて、そのところにて本願にそむきたる罪をつぐのひてのちに、 まさしき極楽には生ずるなり。これを自力の念仏とは申すなり。


【3】 他力の念仏とは、わが身のおろかにわろきにつけても、かかる身にてたやすくこの娑婆世界をいかがはなるべき。罪は日々にそへてかさなり、妄念はつねにおこりてとどまらず。

かかるにつけては、ひとへに弥陀のちかひをたのみ仰ぎて念仏おこたらざれば、阿弥陀仏かたじけなく遍照の光明をはなちて、この身を照らしまもらせたまへば、観音・勢至等の無量の聖衆ひき具して、行住坐臥、もしは昼もしは夜、一切のときところをきらはず、行者を護念して、目しばらくもすてたまはず、まさしくいのち尽き息たえんときには、よろづの罪をばみなうち消して、めでたきものにつくりなして、極楽へ率てかへらせおはしますなり。

されば罪の消ゆることも南無阿弥陀仏の願力なり、めでたき位をうることも南無阿弥陀仏の弘誓のちからなり、ながくとほく三界を出でんことも阿弥陀仏の本願のちからなり、極楽へまゐりてのりをききさとりをひらき、やがて仏に成らんずることも阿弥陀仏の御ちからなりければ、ひとあゆみもわがちからにて極楽へまゐることなしとおもひて、余行をまじへずして一向に念仏するを他力の行とは申すなり。


【4】 たとへば腰折れ足なえて、わがちからにてたちあがるべき方もなし、ましてはるかならんところへゆくことは、かけてもおもひよらぬことなれども、たのみたる人のいとほしとおもひて、さりぬべき人あまた具して、力者に輿をかかせて迎へに来りて、やはらかにかき乗せてかへらんずる十里・二十里の道もやすく、野をも山をもほどなくすぐるやうに、われらが極楽へまゐらんとおもひたちたるは、罪ふかく煩悩もあつければ、腰折れ足なえたる人々にもすぐれたり。

ただいまにても死するものならば、あしたゆふべにつくりたる罪のおもければ、頭をさかさまにして、三悪道にこそはおちいらんずるものにてあれども、ひとすぢに阿弥陀仏のちかひを仰ぎて、念仏して疑ふこころだにもなければ、かならずかならずただいまひきいらんずるとき、阿弥陀仏、目のまへにあらはれて、罪といふ罪をばすこしものこることなく功徳と転じかへなして、無漏無生の報仏報土へ率てかへらせおはしますといふことを、釈迦如来ねんごろにすすめおはしましたることをふかくたのみて、二心なく念仏するをば他力の行者と申すなり。かかるひとは、十人は十人ながら百人は百人ながら、往生することにて候ふなり。かかる人をやがて一向専修の念仏者とは申すな り。おなじく念仏をしながら、ひとへに自力をたのみたるは、ゆゆしきひがごとにて候ふなり。あなかしこ、あなかしこ。

   [寛元四歳丙午三月十五日これを書く。]

                        [愚禿釈親鸞七十四歳]