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「興福寺奏状」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

(林遊 (トーク) による版 42081 を取り消し)
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{{Kaisetu|
 
{{Kaisetu|
 御開山の著述を拝読するには、御開山がおられた時代の思想や、御開山の持っておられた問題意識に留意して読めば、領解できることが多い、と浄土真宗の和上様方はお示しであった。例えば念仏弾圧のきっかけとなった『興福寺奏状』の論難という補助線を入れることによって、御開山の問題意識を探り、御開山の著述を拝読するときの助(資助)けになるのであろう。<br>
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『興福寺奏状』は、元久2年(1205)奈良興福寺の衆徒が法然聖人の提唱した専修念仏の禁止を求めて朝廷に提出した文書で、起草者は、法相宗中興の祖といわれる解脱坊貞慶上人とされる。法然聖人弾劾の上奏文というべき文書であり、これを因として、承元の法難と称される法然師弟に対する死罪を含む専修念仏への弾圧がなされた。御開山は『教行証文類』の後序で、
ここでは、梯實圓和上の『法然教学の研究』──『興福寺奏状』と『教行証文類』──から一部を抜粋し、法然教学と興福寺奏状、それの御開山の著述への影響を考える資料としてUPした。御開山の著述を拝読するときの資助になれば幸いである。<br>
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:ひそかにおもんみれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛んなり。しかるに諸寺の釈門、教に昏くして真仮の門戸を知らず、洛都の儒林、行に迷ひて邪正の道路を弁ふることなし。
なお、『聖教全書』への参照ページは、適宜当サイトの該当する聖典にリンクした。また脚注の◇以下の文は林遊による付加であり、文字の強調なども同じである。抜粋した『法然教学の研究』には訓点を付した漢文だけなので各漢文の読み下しも適宜行った。{{BT|dummy}}をクリックすれば読み下し文が読める。ただし読み下し文には自信がないので諸兄の校正や訂正を乞う。
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:ここをもつて興福寺の学徒、太上天皇<sub>[後鳥羽院と号す、諱尊成]</sub>今上<sub>[土御門院と号す、諱為仁]</sub>聖暦、承元丁卯の歳、仲春上旬の候に奏達す。主上臣下、法に背き義に違し、忿りを成し怨みを結ぶ。これによりて、真宗興隆の大祖源空法師ならびに門徒数輩、罪科を考へず、猥りがはしく死罪に坐す。あるいは僧儀を改めて姓名を賜うて遠流に処す。予はその一つなり。
}}
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とされておられる。法然聖人の提唱した選択本願念仏という教説は、仏教における宗教改革といえるような先鋭的な仏教思想であり、当時の──ある意味では現代においても誤解されやすい──仏教界には異端邪説としか受け取れなかったのであった。なお、余談ではあるが、この『興福寺奏状』の起草者と目されている解脱坊貞慶上人は、死の半月前に口述された「観心為清浄円明事」[http://hongwanriki.wikidharma.org/index.php/%E8%A6%B3%E5%BF%83%E7%82%BA%E6%B8%85%E6%B5%84%E5%86%86%E6%98%8E%E4%BA%8B (*)]で、「予は深く西方を信ずる」としているから、いつしか貞慶も浄土教に帰順していたのであった。また、念仏弾圧を命じた後鳥羽上皇も承久の乱によって隠岐の島へ配流され、無常にかられ阿弥陀如来がまします浄土へ往生したいという意で、『無常講式』[http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%BE%8C%E9%B3%A5%E7%BE%BD%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%BE%A1%E4%BD%9C%E7%84%A1%E5%B8%B8%E8%AC%9B%E5%BC%8F (*)]を作り「願くは離垢の眼を得て、安楽国に往生せん。南無阿彌陀佛」と阿弥陀仏の浄土(安楽国)への往生を願われたのであった。}}
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*参考文献→「[[興福寺奏状と教行証文類]]」
  
:→[[興福寺奏状]]
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==興福寺奏状==
==第一節『興福寺奏状』と『教行証文類』==
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 法然聖人流罪事<br />
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   貞慶解脱上人御草<br />
===三、『興福寺奏状』の概要===
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   同形状詞少少
  
 『興福寺奏状』は、はじめに法然の[[専修念仏]]について九箇条の失をあげ、次いでその一一について所論を展開し、最後に副進奏状一通を加えている。
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 九箇条の失の事<br />
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第一 新宗を立つる失。<br />
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第二 新像を図する失。<br />
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第三 釈尊を軽んずる失。<br />
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第四 万善を妨ぐる失。<br />
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第五 霊神に背く失。<br />
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第六 浄土に暗き失(浄土を暗くする失)。<br />
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第七 念仏を誤る失。<br />
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第八 釈衆を損ずる失。<br />
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第九 国土を乱る失。<br />
  
 「副進」の部分を見ると、この奏状を上進せねばならなかった理由は、法然が[[専修念仏]]の一門に偏執して[[八宗]]を滅亡させようとしているからである。その停止を天奏に及ぼうとしたところ、いちはやく法然は怠状(詫び状)を提出し、心配するに及ばないという[[EXC:院宣|院宣]]を賜わったというので、興福寺の衆徒はかえって反感をもつにいたったと<span id="P--500"></span>いう。法然が怠状(一本では急状)を提出し、安堵の院宣を得たという記録はここだけにしかみられない。
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興福寺僧綱大師等、誠惶恐謹言。<br />
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 殊に天裁を蒙り、永く沙門源空勧むるところの専修念仏の宗義を糾改せられんことを請ふの状。
  
 ところでさきに、叡山からの[[EXC:推問|推問]]に答えて法然は『[[七箇条の御起請文|七箇条の制誡]]』を山門に送ったが、それについて門人たちは「上人之詞皆有<k>二</k>表裏<k>一</k>、不<k>レ</k>知<k>二</k>中心<k>一</k>、勿<k>レ</k>拘<k>二</k>外聞<k>一</k>(聖人の詞にみな表裏あり、中心を知らず、外聞にこだわるなかれ)」といい、その後も邪見を改めていない。だから法然の申し開きは全く信用できないといい、最後に、<br>
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右、謹んで案内を考うるに一つの沙門あり、世に法然と号す。念仏の宗を立てて、専修の行を勧む。その詞、古師に似たりと雖も、その心、多く本説に乖けり。ほぼその過を勘ふるに、略して九箇条あり。
:望請恩慈、早経<k></k>奏聞<k></k>、仰<k></k>七道諸国<k></k>、被<k></k>停<k></k>止一向専修条々過失<k></k>、兼又行<k></k>罪科於源空并弟子等<k></k>者、永止<k></k>破法之邪執<k></k>、還知<k></k>念仏之真道<k></k>矣、仍言上如<k></k>件。
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      元久二年十月日 {{BT|mark1}}
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{{SH|mark1|
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{{Inyou3|
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:望み請ふらくは、恩慈、早く奉聞を経て、七道諸国に仰せて、一向専修条条の過失を停止せらるべく、兼ねてまた罪過を源空ならびに弟子等に行われれば、永く破法の邪執を止めば、還って念仏の真道を知らん。仍(よ)って言上件のごとし。
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:元久二年十月 日
 
}}
 
}}
 
といって、専修念仏の停止と、法然及びその門弟への罪科を強硬に要請しているのである。
 
  
 さて、『興福寺奏状』の前文をみると、
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===興福寺奏状 第一===
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====第一に新宗を立つる失。====
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夫れ仏法東漸の後、わが朝に八宗あり。或は異域の神人来って伝授し、或は本朝の高僧往きて益を請ふ。時に上代の明王勅して施行し、霊地名所、縁に従って流布す。その新宗を興し、一途を開くの者、中古より以降、絶えて聞かず。蓋し機感已に足り、法時応ぜざるものか。およそ宗を立つるの法、先づ義道の浅深を分ち、能く教門の権実を弁へ、浅を引いて深に通じ、権を会して実に帰す。大小前後、文理繁しと雖も、その一法に出でず。その一門に超えず、かの至極を探って、以て自宗とす。譬へば衆流の巨海に宗するがごとく、なほ万郡の一人に朝するに似たり。<br />
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もし夫れ浄土の念仏を以て別宗と名づけば、一代の聖教、ただ弥陀一仏の称名のみを説き、三蔵の指帰、偏(ひとえ)に西方一界の往生のみに在らんか。今末代に及びて始めて一宗を建てしむるは、源空はその伝燈の大祖なるか。あに百済の智鳳、大唐の鑑真のごとく、千代の規範と称し、寧(なん)ぞ高野の弘法、叡山の伝教に同じく、万葉の昌栄ある者か。もし古より相承して今に始まらずとならば、誰か聖哲に逢ひて面(まのあた)りに口択〔決〕を受け、幾(いくばく)の内証を以て教誡示導するや。たとひ功あり徳ありと雖も、すべからく公家に奏して以て勅許を待つべし。私に一宗と号すること、甚だ以て不当なり。
  
:右、謹考<k></k>案内<ref>◇案内。内に案ずる。ここでは、物事の詳細、事情を考察する意。</ref><k></k>、有<k></k>一沙門<k></k>、世号<k></k>法然<k></k>、立<k></k>念仏之宗<k></k>、勧<k></k>専修之行<k></k>、其詞雖<k></k>似<k></k>古師<k></k>、其心多乖<k></k>本説<k></k>、粗勘<k></k>其過<k></k>、略有<k></k>九箇条<k></k>。{{BT|mark2}}
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===興福寺奏状 第二===
{{SH|mark2|
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====第二に新像を図する失。====
{{Inyou3|
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近来、諸所に一の画図を翫ぶ。世に摂取不捨の曼陀羅と号す。弥陀如来の前に衆多の人あり。仏、光明を放ち、その種種の光、或は枉げて横に照し、或は来りて本に返る。是れ顕宗の学生、真言の行者を本とし、その外に諸経を持し、神呪を誦して、自余の善根を造(な)すの人なり。その光の照すところ、ただ専修念仏の一類なり。地獄の絵像を見るの者は、罪障を作すことを恐れ、この曼荼羅を見るの者は、諸善を修することを悔ゆ。教化の趣、多く以てこの類なり。上人云く、「念仏衆生摂取不捨は経文なり。我、全く過なし」と云云。この理然らず、偏(ひとえ)に余善を修して、全く弥陀を念ぜざれば、実に摂取の光に漏るべし。既に西方を欣び、また弥陀を念ず、寧(なん)ぞ余行を以ての故に、大悲の光明を隔てんや。
:右、謹んで案内を考うるに一の沙門あり、世に法然と号す。念仏の宗を立てて、専修の行を勧む。その詞、古師に似たりと雖も、その心、多く本説に乖けり。ほぼその過を勘ふるに、略して九箇条あり。
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といって、第一新宗を立つる失、第二新像を図する失、第三釈尊を軽んずる失、第四万善を妨ぐる失、第五霊神に背く失、第六浄土に暗き失(浄土を暗くする失)、第七念仏を誤る失、第八釈衆を損ずる失、第九国土を乱る失、の九箇条の失をあげている。この九箇条は、専修念仏の社会的影響を問題にした第一、第二、第五、第八、第九の五失と、教義を問題にした第三、第四、第六、第七失とに分類することができよう。その論難は要するに、法然の説く専修念仏の教説は、その詞は、道綽、善導という古師のそれに似ているが、その心は本説に乖いた邪説であり、仏法のみならず、国家、社会の秩序を乱す造悪者の集団であるときめつけているのである。
+
  
 ところでこの『興福寺奏状』をみるかぎり、貞慶は『選択集』は読んではいなかったようである。しかしすでに<span id="P--501"></span>のべたように、『三経釈』は見ていたと考えられるから、法然の主張の根幹を把握することはできたと思う。従って法然の専修念仏説が、古師の本説に随順するのみならず、これこそ弥陀、釈迦、諸仏の真意にかなった法門であることを証明しなければ『興福寺奏状』の背法違義性は明らかにならない。親鸞が『教行証文類』を「文類」の形式であらわされたのは、ただ『楽邦文類』などの様式をまねたということだけではなくて、{{DotUL|むしろ文類形式をとることによって、専修念仏の教説が仏陀や祖師の真意にかなう「浄土真実の宗旨」であることを、仏祖をして語らしめる為であったと考えられる}}。<br>
+
===興福寺奏状 第三===
特に専修念仏が真実行であり、'''[[大行]]'''であることを証明する「行文類」には、釈尊の教説と真宗伝灯の七高僧を一人のこらず引証されるばかりか、[[法照]]、[[憬興]]、[[宗暁]]、[[慶文]]、[[元照]]、[[遵式]]、[[戒度]]、[[用欽]]、[[嘉祥]]、[[飛錫]]といった、各宗の祖師の文を引釈されたのもそのためであったと考えられる。
+
====第三に釈尊を軽んずる失。====
 +
夫れ三世の諸仏、慈悲均しと雖も、一代の教主、恩徳独り重し、心あらんの者、誰かこれを知らざる。ここに専修の云く、「身に余仏を礼せず、口に余号を称せず」と。その余仏余号とは、即ち釈迦等の諸仏なり。専修専修、汝は誰が弟子ぞ、誰かかの弥陀の名号を教へたる、誰かその安養浄土を示したる。憐むべし、末生にして本師の名を忘れたること。かの覚親論師(仏陀密多)、法愛沙門、この咎に及ばず、なほ大聖の呵を蒙る者か。善導の礼讃の文に云く、「南無釈迦牟尼仏等一切三宝、我稽首礼、南無十方三世虚空遍法界微塵刹土中一切三宝、我稽首礼」と云云。和尚の意趣、これを以て知りぬべし。衆僧なほ帰命す、況んや諸仏においてをや。諸仏なほ簡ばず、況んや本師においてをや。
  
===四、浄土宗独立への批判と反論===
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===興福寺奏状 第四===
====[[興福寺奏状#第一に新宗を立つる失。|第一、新宗を立つる失]]====
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====第四に万善を妨ぐる失。====
 我が国には、すでに[[八宗]]があって、中古以来、宗を開くものがいなかったのは、これで[[EXC:機感|機感]]が足りているからであろう。然るに今、法然は面授口決の師もなく、はっきりとした相承もなくして一宗を開くことは、自身が伝灯の太祖だというのか。また開宗には「須<k>下</k>奏<k>二</k>公家<k>一</k>以待<k>中</k>勅許<k>上</k>、私号<k>二</k>一宗<k>一</k>甚以不当」{{BT|no0}} {{SH|no0|(すべからく公家に奏して以て勅許を待つべし。私に一宗と号すること、甚だ以て不当なり。)}}と非難している。
+
およそ恒沙の法門、機を待ちて開き、甘露の良薬、縁に随って授く。皆是れ釈迦大師、無量劫の中に難行苦行して得るところの正法なり。今一仏の名号を執して、都(すべ)て出離の要路を塞ぐ。ただ自行のみにあらず、普く国土を誡め、ただに棄置するのみにあらず、あまつさへ軽賤に及ぶ。しかる間、浮言雲のごとく興り、邪執泉のごとく涌く、或は法花経を読むの者は地獄に堕つと云ひ、或は法花を受持して浄土の業因と云ふ者は、是れ大乗を謗る人なりと云云。本八軸・十軸を誦して千部万部に及ぶの人、この説を聞いて永く以て廃退す。あまつさへ前非を悔ゆ。捨つるところの本行、宿習実に深く、企つるところの念仏、薫修未だ積まず、中途にして天を仰ぎて歎息する者多し。この外、花厳・般若の帰依、真言・止観の結縁、十の八九は皆以て棄置す。堂塔の建立、尊像の造図のごとき、これを軽んじて、これを咲ふこと、土のごとく、沙のごとし。福恵共に闕け、現当憑み少し。上人は智者なり、自らは定めて謗法の心なきか。ただし門弟の中、その実知り難し。愚人に至っては、その悪少からず。根本始末、恐らくは皆同類なり。昔信行禅師の三階の行業を立て、孝慈比丘の一乗の読誦を止めし、全く大乗を軽んぜす、末世の機を量りて、その行を制止す。しかるに、信行、大蛇の身と成りて、百千の徒衆、その口中に住し、孝慈、鬼神の害に当りて、士人同類、忽ちに高座の下に臥す。大乗を謗ずる業、罪の中に最も大なり。五逆罪と雖も、また及ぶこと能はず。是を以て、弥陀の悲願、引摂広しと雖も、誹謗正法、捨てて救ふことなし。ああ西方の行者、憑むところ誰に在るぞや。
  
 法然がみずから、相承血脈の法なく、面授の師なしと公言されたのは、文治六年に東大寺で講ぜられた「小経釈」(真聖全四・三八二頁)のときで、恐らく貞慶はこれによって法然を批判していたと考えられる<ref>「小経釈」(古本『漢語灯』三・古典叢書本・二六頁)に「爰於 善導和尚往生浄土宗 者、雖 有 経論、无人於習学、雖有疏釈、无倫讃仰、然則无有相承血脈法、非面授口決儀、唯浅探仏意、疎窺聖訓・・・・・・(ここにおいて、善導和尚の往生浄土宗は、経論ありと雖ども、習学の人なし、疏釈ありと雖ども、讃仰の倫(ともがら)なし、しかれば則ち相承の血脈の法あることなし、面授口決の儀に非ず、唯だ浅く仏意を探り、疎に聖訓を窺う・・・・・・)」といわれている。</ref>。『選択集』はまだ読んでいなかったと推察されるが、『選択集』「二門章」([[選択本願念仏集 (七祖)#P--1183|真聖全一・九三四頁]])には、一往浄土宗の相承を明かし<span id="P--502"></span>て『安楽集』による六師と、『唐・宋両伝』による六師とをあげてある。また「浄土五祖伝」(『漢語灯』九・真聖全四・四七七頁以下)には、曇鸞、道綽、善導、懐感、少康の五祖相承を示されたが、法然の基本的な立場は「[[Jds:偏依善導|偏依善導]]一師」であったことは『選択集』([[選択本願念仏集 (七祖)#偏依善導|真聖全一・九九〇頁]])その他に言明された通りである。従っていわゆる[[師資相承]]は必ずしも明確ではなかったといえよう。そこで親鸞は、法然の意をうけてさらに展開し、「正信偈」や『高僧和讃』に、いわゆる七祖相承を明示して、[[師資相承]]なしという批判に応答していかれたのである<ref>『本論』第一篇第三章第五節(六四頁)參照。</ref>。
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===興福寺奏状 第五===
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====第五に霊神を背く失。====
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念仏の輩、永く神明に別る、権化実類を論ぜず、宗廟大社を憚らず。もし神明を恃めば、必ず魔界に堕つと云云。実類の鬼神においては、置いて論ぜず。権化の垂迹に至っては、既に是れ大聖なり。上代の高僧皆以て帰敬す。かの伝教、宇佐宮に参じ、春日社に参じて、おのおの奇特の瑞相あり。智証、熊野山に詣(けい)し、新羅神を請じて、深く門葉の繁昌を祈る。行教和尚の袈裟の上に、三尊影を宿し、弘法大師の画図の中に、八幡質(すがた)を顕はす。是れ皆法然に及ばざるの人か、魔界に堕つべきの僧か。なかんずく、行教和尚、大安寺に帰りて、二階の楼を造りて、上階に八幡の御体を安じ、下階に一切経論を持す。神明もし拝するに足らざれば、如何ぞ聖体を法門の上に安ぜんや。末世の沙門、なほ君臣を敬す、況んや霊神においてをや。此のごときの麁言、尤も停廃せらるべし。
  
 ところで開宗には「必ず勅許を待つべし」という批判は、律令体制下にあっては当然の主張であった。律令体制にかぎらず、国家が宗教をその支配体制のなかに完全に組み入れようとするときは、当然このような立場をとるし、体制内宗教は、いつでも新宗教に対して貞慶の如き主張をするわけである。ただ法然がめざしていた宗教的世界は、一人一人の悩める凡夫が、如来の大悲を聞き、念仏して大悲に包摂せられ、そこに絶対の安住の場を得しめられていくという宗教的領域であった。念仏者は、社会的な階層を超えて、平等に、一人一人が如来の教法のなかで、往生人としてめざめていくという個人の救いをめざす宗教が法然の浄土宗であった。それゆえにまた全人類的な視野をもつ世界宗教として成立していったのである。そのような宗教的世界においては、人はみな如来の前にあって平等に一子の如く憐念されているものとして見出されていった。このような宗教的世界観を支えるものは、ただ如来の教法の権威のみであり、本願の教法に無私に[[信順]]するものだけが、その世界に入りうるのであった。
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===興福寺奏状 第六===
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====第六に浄土に暗き失。====
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観無量寿経を勘ふるに、云く、「一切の凡夫、かの国に生ぜんと欲せば、まさに三業を修すべし。<br />
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一は、父母に孝養し、師長に奉仕し、慈心にして殺さず、十善の業を修す。<br />
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二は、三帰を受持し、衆戒を具足して、威儀を犯さず。<br />
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三は、菩提心を起して、深く因果を信じ、大乗を読誦すべし」と云云。<br />
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また九品生の中に上品上生を説いて云く、「諸の戒行を具し、大乗を読誦すべし」、中品下生に、「父母に孝養し、世の仁愛を行ふべし」と云云。<br />
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曇鸞大師は念仏の大祖なり。往生の上輩において五種の縁を出せり。その四に云く、「修諸功徳」、中輩七縁の中に、「起塔寺」「飯食沙門」と云云。<br />
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また道綽禅師、常修念仏三昧の文を会して云く、「念仏三昧を行ずること多きが故に常修と言ふ、全くに余の三昧を行ぜずと謂ふにはあらざるなり」と云云。善導和尚は、見るところの塔寺、修葺(しゅうしゅう)せずといふことなし。しからば、上、三部の本経より、下、一宗の解釈に至るまで、<u>諸行往生、盛んに許すところなり。</u><br />
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しかのみならず、曇融、橋を亘し、善晟、路を造り、常旻、堂を修し、善冑、坊を払ひ、空忍、花を採み、安忍、香を焼き、道如、食を施し、僧慶、衣を縫ふ。おのおの事相の一善を以て、皆順次の往生を得。僧喩の阿含を持し、行衍の摂論を論ぜし、小乗の一経と雖も、おのおの感応あり、実に浄土に詣す。沙門道俊は、念仏隙なくして大般若を書せず、覚親論師は、専修他を忘れて釈迦の像を造らず。皆往生の願を妨げて、大聖の誡を蒙る。永くその執を改めて、遂に西方に生ず。まさに知るべし、余行によらず、念仏によらず、出離の道、ただ心に在り。<br />
 +
もし夫れ法花に即住安楽の文ありと雖も、般若に随願往生の説ありと雖も、彼はなほ惣相なり、少分なり。別相の念仏に如かず、決定の業因に及ばずとならば、惣は則ち別を摂して、上は必ず下を兼ぬ。仏法の理、その徳必ず然(しか)なり。何ぞ凡夫親疎の習を以て、誤って仏界平等<ref>ここでは公平の意で平等という語を使ったのであろうが、阿弥陀如来の平等に衆生を救済するという意味を誤解している。</ref>の道を失はんや。<br />
 +
もし往生浄土は、行者の自力にあらざれば、ただ弥陀の願力を憑む。余経余業においては、引摂の別縁なく、来迎の別願なし。念仏の人に対して及ぶこと能はざるにおいては、弥陀の所化として来迎に預るべし。あに異人ならんや、是の人なり。釈迦の遺法に逢ひて、大乗の行業を修す、即ちその体なり。もしかの尊に帰せざれば、実に無縁と謂ふべし。もし念仏を兼ねざれば、かつは闕業たるべし。<br />
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既に二辺を兼ねたり、何ぞ引摂に漏れん。もし専念なき故に往生せずとならば、智覚禅師は毎日一百箇の行を兼修せり、何ぞ上品上生を得たるや。およそ造悪の人は、救ひ難くして恣(ほしいまま)に救ひ、口に小善を称するは、生じ難くして倶に生ず。「乃至十念」の文、その意知るべし。しかるに近代の人、あまつさへ本を忘れて末に付き、劣を憑みて勝を欺く。寧ぞ仏意に叶はんや。
  
 '''[[選択本願]]'''を宗旨とする浄土宗は、根源的には[[如来]]の[[本願]]によって立つものであって、世俗の権力によって許可されなければ成立しえないというものではなかった。浄土宗が、この自立性を失って、世俗の権力に迎合することを法然はきびしく拒絶したのであった。承元(建永)の法難によって四国へ配流される直前に、次のような法語を法然は残されている。
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かの帝王の政を布くの庭に、天に代わって官を授くるの日、賢愚品に随ひ、貴賤家を尋ぬ。至愚の者、たとひ夙夜(しゅくや)の功ありと雖も、非分の職に任せず。下賤の輩、たとひ奉公の労を積むと雖も、卿相の位に進み難し。大覚法王の国、凡聖来朝の門、かの九品の階級を授くるに、おのおの先世の徳行を守る。'''自業自得、その理必然なり。'''しかるに偏に仏力を憑みて涯分を測らざる、是れ則ち愚癡の過なり。なかんづく、仮名の念仏、浄業熟し難く、順次往生、本意に違失あり、戒恵倶に闕く、恃むところ何事ぞや。もし生生を経て漸(ようや)く成就すべくは、一乗の薫修、三密の加持。あにまたその力なからんや。同じく沈むと雖も、愚団の者は深く沈み、共に浮むと雖も、智鉢は早く浮む。況や智の行を兼ぬるは、虎の翅(つばさ)あるなり、一を以て多を遮す。仏宜しく照見すべし。
<span id="P--503"></span>
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:当初依<k></k>弟子過<k></k>、有<k></k>被<k></k>流<k></k>讃岐国<k></k>云事<k></k>、其時対<k></k>一人弟子<k></k>、述<k></k>一向専念義<k></k>。西阿弥陀仏云弟子推参云、如<k></k>此御義、努(力カ)々々不<k></k>可<k></k>有事候、各不<k></k>可<k></k>令<k></k>申<k></k>御返事<k></k>給<k></k>云々、上人云、汝不<k></k>見<k></k>経釈文<k></k>哉、西阿弥陀仏云、経釈文雖<k></k>然、存<k></k>世間譏嫌<k></k>許也。上人云、我雖<k></k>被<k></k>截<k></k>頚、不<k></k>可<k></k>不<k></k>云<k></k>此事<k></k>云々、御気色尤至  誠也、奉<k></k>見人々流<k></k>涙随喜云々<ref>醍醐本『法然上人伝記』「一期物語」(法然伝全・七七六頁)、同じことばが『拾遺古徳伝』七(法然伝全・六二七頁)、『行状絵図』三三(法然伝全・二二七頁)等にも記載されている。</ref>。{{BT|no1}}
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{{SH|no1|
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{{Inyou2|
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:当初(そのかみ)、弟子の過(とが)に依って讃岐国に流されるということあり。その時、一人の弟子に対して一向専念の義を述ぶ。西阿弥陀仏という弟子、推参して云く。このごとき御義は努努(ゆめゆめ)有るべからざる事にて候ふ、おのおの御返事を申さしめ給うべからずと、云々。上人云く。汝は経釈の文を見ざるや。西阿弥陀仏の云く。経釈の文しかりといえども世間の譏嫌を存する許(ばか)りなり。上人云く。我、頸(くび)を截(き)らるといえども、この事を云わざるべからずと、云々。御気色もっとも至誠なり。見たてまつる人々、涙を流して随喜せりと、云々。([[醍醐本法然上人伝記#no10|流罪時の西阿への教誡]])
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}}
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 法然は決して、世俗の権力を否定したのではなかった。たゞ仏法が世俗の権力に迎合して、みずからが依って立つ本願の仏意をゆがめるようなことは決して許さなかったわけである。法然にとって絶対的な権威は経釈の文意であった。これだけは、世俗の権力に抗してでも護り伝え、頚(くび)を截られてもいはねばならないといい切られたところに、法然の浄土宗が、国家権力とは全くちがった次元、すなわち[[選択本願]]に依って立ち、仏祖の経釈の権威と、それを信奉する念仏者によって成立し、護持されていたことがわかる。『行状絵図』三七([http://www.jozensearch.jp/pc/zensho/image/volume/31/page/242 法然伝全・二四ニ頁])によれば信空が法然の御遺跡をどこに定むべきかとたずねたとき、
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:あとを一廟にしむれば、遺法あまねからず、予が遺跡は諸州に遍満すべし、ゆヘいかむとなれば、念仏の興行は愚老一期の勧化也。されば念仏を修せんところは、貴賎を論ぜず海人漁人がとまやまでも、みなこれ予が遺跡なるべし。
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<span id=seia></span>
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ただし此のごときの評定、本より好まず。専修の党類、謬って井蛙(せいあ)の智を以てし、猥(みだりがわ)しく海鼈(かいべつ)の徳を斥(きら)ふの間、黙して止み難く、遂に天奏に及べり。もし愚癡の道俗、この意を得ず、或いは往生の道を軽んじ、或いは念仏の行を退け、或いは余行を兼ねずして、浄土に生ずることなくは、全くに本懐にあらず、還って禁制すべし。たとひまたこの事によって、念仏の瑕瑾たりと雖も、その軽重を比するに、なほ宣下に如かざるか。
  
と答えられたという。この語が法然のものかどうかたしかめるすべはないが、少くとも門弟たちは、法然の信仰をこのように領解していたということは明らかである。すなわち法然が、一廟一寺に自己の遺跡を定めようとせず、念仏する人の心奥に遺跡を確立しようとされていたということは、さらにいえば浄土宗は念仏者一人一人の中で信と行によって確立されるべきであるとみられていたと考えてよかろう。ここに宗の建立は「公家に奏して以て勅許をまつべし」という貞慶の思想との根本的なちがいがあった。のちに親鸞が「余の人を強縁として念仏ひろめよと<span id="P--504"></span>まふすこと、ゆめくまふしたることさふらはず、きはまれるひがごとにてさふらふ[[消息上#P--773|*]]」<ref>『御消息集』(真聖全二・七〇八頁)◇[[消息上#P--773|消息上P.773]] </ref>といい、念仏者以外の権力者の手をかりて仏法を弘めることを、きびしく誡められた。本願によってのみ自立すべき仏法を、俗権にゆだねていくことの危険性をよく知っておられたからである。法然や親鸞が浄土宗(浄土真宗)の開宗に、あえて勅許を求めようとしなかった所以もそこにあったのではなかろうか。
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===興福寺奏状 第七===
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====第七に念仏を誤る失。====
  
 「十一箇条問答」([[hwiki:西方指南抄/下本#P--213|『指南抄』下本・真聖全四・二一三頁]])によれば、法然は浄土宗の開宗について、余宗から論難をうけたのに対して次のように応答されている。
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先づ所念の仏において名あり体あり。その体の中に事あり理あり。次に能念の相について、或は口称あり、或は心念あり。かの心念の中に、或は繋念あり、或は観念あり。かの観念の中に、散位より定位に至り、有漏より無漏に及ぶ。浅深重重、前は劣、後は勝なり。<br />
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しからば、口に名号を唱ふるは、観にあらず、定にあらず、是れ念仏の中の麁なり浅なり。もし世に随ひ、人によって、これまた足ると雖も、正しく校量に及ばは、争(いか)でか差別を弁(わきま)へざらん。ここに専修、此のごときの難を蒙らんの時、万事を顧みず、ただ一言に答へん、「是れ弥陀の本願に四十八あり、念仏往生は第十八の願なり」と。何ぞ爾許(そこばく)の大願を隠して、ただ一種を以て本願と号せんや。かの一願に付きて、「乃至十念」とは、その最下を挙ぐるなり。観念を以て本として、下口称に及び、多念を以て先として、十念を捨てず、是れ大悲の至って深く、仏力尤も大なるなり。その導き易く生じ易きは、観念なり、多念なり。これによって観経に云く、「もし人苦に迫められて、念仏を得ざれば、まさに無量寿仏と称すべし」と云云。<br />
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既に称名の外に念仏の言あり、知りぬ、その念仏は、是れ心念なり、観念なり。かの勝劣両種の中に、如来の本願、寧ぞ勝を置きて劣を取らんや。いかに況んや、善導和尚発心の初め、浄土の図を見て嘆じて云く、「ただこの観門、定めて生死を超えん」と。遂にこの道に入って、三昧を発得す。定めて知りぬ、かの師の自行、十六想観なり。念仏の名、観と口を兼ぬ。もし然らずは、観経の疏を作り、また観念法門を作る。本経と云ひ、別草と云ひ、題目に何ぞ観の字を表せんや。しかるに、観経付属の文、善導一期の行、ただ仏名に在らば、下機を誘ふるの方便なり。かの師の解釈の詞に表裏あり、慈悲智慧、善巧一にあらず、杭を守る儻(ともがら)、過を祖師に関(あず)くるか。<br />
 +
たとひまた口称に付くと雖も、三心能く具し、四修闕くることなき、真実の念仏を名づけて専修とす。ただ余行を捨つるを以て専とし、口手を動かすを以て修とす。謂ひつべし、「不専の専なり、非修の修なり」と。虚仮雑毒の行を憑み、決定往生の思ひを作さば、寧ぞ善導の宗、弥陀の正機ならんや。およそ浄土と云ひ、念仏と云ひ、業因と云ひ、往生と云ふ、江湖の浅深分ち難く、行道の遠近迷ひ易し。もし諸宗の性相を学ばざれば、争でか輒(たやす)く一門の真実を知らんや。<br />
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ここにわが法相大乗宗は、源釈尊慈尊の肝心より出でて、詳(つまびら)かに本経本論の誠文に載す。印度には則ち千部の論師・十大菩薩、有空の執を立破し、晨旦にはまた三蔵和尚・百本疏主、相承謬ることなし。道綽・善導の説たりと雖も、未だ依憑に足らず。しかれども彼もまた三昧発得の人たり、あに一生補処の説に背かんや。互に会通を求めて、乖諍を好むことなかれ。
  
:問、八宗九宗のほかに、浄土宗の名をたつることは、自由にまかせたつること、余宗の人の申候おばいかゞ申候べき。答、宗の名をたつることは仏説にはあらず、みづからこゝろざすところの経教につきて、存じたる義を学しきわめて、宗義を判ずる事也。諸宗のならひ、みなかくのごとし。いま浄土宗の名をたつる事は、浄土の依正経(正依経)につきて、往生極楽の義をさとりきわめたまヘる先達の宗の名をたてたまヘるなり。宗のおこりをしらざるものゝ、さようの事をば申なり。
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===興福寺奏状 第八===
 +
====第八に釈衆を損ずる失。====
  
もともと宗の名は釈尊が立てられたものではなくて、各宗の祖師といわれる人々が、みずからに有縁の経教を学び、義理をきわめて宗義を確立し、宗名を立てていかれたのである。いま浄土宗を立てるのも、浄土三部経の奥義をさとりきわめて、そこに'''[[凡夫入報]]'''の仏意を釈顕された善導の釈義により、元暁等の先例にしたがって「浄土宗」の名を立てるのであって、決して「自由にまかせたつること」ではないといわれるのである。このように立教開宗の正当性を主張されたのが『選択集』「[[選択本願念仏集 (七祖)#P--1183|二門章]]」であった。貞慶は『選択集』は読んでいなかったにせよ、たとえば「大経釈」をみていたならば、このような法然の主張を知ることができたはずである。にもかかわらず、浄土宗を立つることを不当と非難するところに、律令体制下の既成仏教と、法然教学とは本質的なちがいがあったといわねばならない。すなわち律令によって規定された通り、国家公認のもとに、国家(実際は天皇と公家)の安穏を祈る鎮護国家のつとめを仏法の第一の使命とみている既成仏教と、彼等が関心の外に追いやっていた庶民のなかにあって、生死にまどい、愛憎に苦しむ庶民大衆に、真実の救いの道を開くことを仏法の第一義とみなして開宗した法然の浄土宗とは、その発想の根底から異っていた。両者は所詮違った道を行くしかなかったのである。
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専修の云く、「囲棊双六は専修に乖かず、女犯肉食は往生を妨げず、末世の持戒は市中の虎なり、恐るべし、悪(にく)むべし。もし人、罪を怖れ、悪を憚らば、是れ仏を憑まざるの人なり」と。<br />
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此のごときの麁言、国土に流布す、人の意を取らんがために、還って法の怨(あだ)と成る。夫れ極楽の教門、盛んに戒行を勧む、浄土の業因、これを以て最とす。所以はいかんとならば、戒律にあらざれば六根守り難く、根門を恣(ほしいまま)にすれば三毒起り易し。妄縁身に纏(まと)はれば、念仏の窓静かならず、貪瞋心を濁せば、宝池の水澄み難し。この業の感ずるところ、あにそれ浄土ならんや。これによって、浄土の業因、盛んに戒行を用ふ。教文は上に載するがごとし。<br />
 +
ただし末世の沙門、無戒破戒なる、自他許すところなり。専修の中にまた持戒の人なきにあらず。今歎くところは全くその儀にあらず。実のごとくに受けずと雖も、説のごとくに持せずと雖も、これを怖れ、これを悲しみて、すべからく慚愧を生すべきの処に、あまつさへ破戒を宗として、道俗の心に叶ふ。仏法の滅する縁、これより大なるはなし。洛辺近国なほ以て尋常(よのつね)なり、北陸・東海等の諸国に至っては、専修の僧尼盛んにこの旨を以てすと云云。勅宣ならざるよりは、争でか禁遏(きんあつ)することを得ん。奏聞の趣、専らこれらに在るか。
  
 ところで『奏状』には、立宗の法則について次のようにのべている。
+
===興福寺奏状 第九===
 +
====第九に国土を乱る失。====
  
:凡立<k></k>宗之法、先分<k></k>義道之浅深<k></k>、能弁<k></k>教門之権実<k></k>、引<k></k>浅兮通<k></k>深、会<k></k>権兮帰<k></k>実。大小前後、文理雖<k></k>繁、不<k></k>出<k></k>其一法<k></k>、不<k></k>超<k></k>其一門<k></k>。探<k></k>彼至極<k></k>以為<k></k>自宗<k></k>。{{BT|no2}}
+
仏法・王法猶し心身のごとし、互にその安否を見、宜しくかの盛衰を知るべし。当時浄土の法門始めて興り、専修の要行尤も盛んなり。王化中興の時と謂ふべきか。ただし三学已に廃し、八宗まさに滅せんとす。天下の理乱、亦復如何(またまたいかん)。願ふところは、ただ諸宗と念仏と、あたかも乳水のごとく、仏法と王道と、永く乾坤に均しからんことなり。<br />
{{SH|no2|
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しかるに諸宗は皆念仏を信じて異心なしと雖も、専修は深く諸宗を嫌ひ、同座に及ばず、水火並び難く、進退惟(こ)れ谷(きわ)まる。もし専修の志のごとくは、天下海内の仏事法事、早く停止せらるべきか。しかるに、貴賎未だ帰せず、法命未だ終尽せざるは、全く他の力にあらず、忝くもわが后(きみ)の叡慮動くことなく明鑑の故なり。もし後代に及びて専修隙を得るの時、君臣の心、余を視ること芥(あくた)のごとくは、たとひ停廃に及ばずと雖も、八宗まことに有若亡(ゆうじゃくぼう)ならんか。矧(いわ)んやまた弗沙蜜王の伽藍を壊せしや、愚臣の諫言を容(もち)ゐ、会昌天子の僧尼を殄(ほろぼ)せしや、道士の嫉妬に起れり。法滅の因縁、将来測り難し。この事を思ふがために天聴に奏達す。もし当時の誡なくは、争でか後毘の惑を絶たん。ああ仏門随分の欝陶、古来多しと雖も、八宗同心の訴訟、前代未聞なり。事の軽重、恭(うやうや)しく聖断を仰ぐ。望み請ふらくは、天裁、七道諸国に仰せて、沙門源空の専修念仏の宗義を糺改せられんことを、者(てえれば)、世尊付属の寄(よせ)、いよいよ法水を舜海の浪に和し、明王照臨の徳、永く魔雲を堯山の風に払はん。
{{Inyou3|
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:およそ宗を立つるの法、先づ義道の浅深を分ち、能く教門の権実を弁へ、浅を引いて深に通じ、権を会して実に帰す。大小前後、文理繁しと雖も、その一法に出でず。その一門に超えず、かの至極を探って、以て自宗とす。
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 法然が浄土宗を立てたとき、聖道の諸宗と根本的に立宗の目的を異にしていた。聖道門の諸宗は、教理の浅深を問題として教相判釈をおこなって立宗したのに対して、法然は、教理の浅深よりも、時機相応の教法を選択するというところから出発していた。教理が如何に深遠であっても、[[戒定慧]]の三学に堪えられない愚鈍のものにとっては、「[[理は深く解は微なる|理深解微]]」の故に無縁の法でしかなかった。かくて末法五濁の凡愚という「わが身に堪えたる法」を求めて到達したのが「極悪最下の人のために、極善最上の法を説く[[選択本願念仏集 (七祖)#P--1258|*]]」選択本願念仏の法門だったのである<ref>『本論』第一篇第三章第二節(五七頁)參照。</ref>。そこから[[聖道門]]を捨てて、[[浄土門]]に帰すという浄土宗独立の宣言がなされていったのであった。
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誠惶誠恐謹言。
  
 親鸞は、この法然の立宗の根本精神を継承しつつさらに展開し、聖道門内に成仏の遅速に応じて漸教(権教)と頓教(実教)を分類して、竪出(権教)、竪超(実教)とし、浄土門内にも自力の漸教(権教)と他力の頓教(実教)とを分けて、横出(権教)、横超(実教)とし、竪出竪超、横出横超の[[二双四重]]の判釈をおこなわれたのであった<ref>「信文類」(真聖全二・六九頁)、「同」(同・七三頁)、「化身土文類」(同・一五五頁)、『愚禿鈔』上(同・四五五頁)參照。</ref> 。しかもこの二権二実の立場に立つ[[二双四重]]判をさらに深めて、「行文類」(真聖全二・三八頁)の一乗海釈には、
+
副へ進む
 +
===奏 状===
 +
 奏状一通
  
:大乗无<k></k>有<k></k>二乗三乗<k></k>、二乗三乗者入<k></k>於<k></k>一乗<k></k>。一乗者即第一義乗也、唯是誓願一仏乗也。{{BT|no3}}
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右件の源空、一門に偏執し、八宗を都滅す。天魔の所為、仏神痛むべし。仍って諸宗関心、天奏に及ばんと欲するのところ、源空既に怠状を進む、鬱陶に足らざるの由、院宣によって御制あり。衆徒の驚歎、還って其の色を増す。なかんづく、叡山、使を発して推問を加うるの日、源空筆を染めて起請を書くの後、かの弟子等、道俗に告げて云く、「上人の詞、皆表裏あり、中を知らず、外聞に拘はることなかれ」と云々。<br />
{{SH|no3|
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その後、邪見の利口、都て改変なし。今度の怠状、また以って同前か。奉事、実ならざれば、罪科いよいよ重し。たとひ上皇の叡旨ありとも、争でか朝臣の陳言なからん、者、望み請ふらくは、恩慈、早く奉聞を経て、七道諸国に似せて、一向専修条条の過失を停止せられ、兼ねてまた罪過を源空ならびに弟子等に行われんことは、者、永く破法の邪執を止め、還って念仏の真道を知らん。仍って言上件のごとし。
{{Inyou|
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:大乗は二乗・三乗あることなし。二乗・三乗は一乗に入らしめんとなり。一乗はすなはち第一義乗なり。ただこれ誓願一仏乗なり。
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}}
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}}
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といって、全仏教を[[念仏成仏]]の法門である浄土真宗に統一し、'''[[誓願一仏乗]]'''という三権一実<ref>◇三権一実(さんごん-いちじつ) 。三乗は権(かり)の教えであり、一乗は真実の教えであるということ。浄土真宗では[[誓願一仏乗]]の意。</ref>の法門を樹立していかれたのであった。こうして『奏状』に、
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元久二年十月 日
 
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:若夫以<k></k>浄土念仏<k></k>名<k></k>別宗<k></k>者、一代聖教唯説<k></k>弥陀一仏之称名<k></k>、三蔵旨帰、偏在<k></k>西方一界之往生<k></k>歟。{{BT|no4}}
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{{SH|no4|
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:もし夫れ浄土の念仏を以て別宗と名づけば、一代の聖教、ただ弥陀一仏の称名のみを説き、三蔵の指帰、偏(ひとえ)に西方一界の往生のみに在らんか。
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と皮肉な反語をもって非難したものを真向から受けとめて、『教行証文類』の総序([[総序#P--131|真聖全二・一頁]])には、
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:爾者凡小易<k></k>修真教、愚鈍易<k></k>往捷径。大聖一代教、無<k></k>如<k></k>是之徳海<k></k>。{{BT|no5}}
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:しかれば凡小修し易き真教、愚鈍往き易き捷径なり。大聖一代の教、この徳海にしくなし。([[総序#P--131|総序 P.131]])
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}}
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}}
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と言い切っていかれたのであった。
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====[[興福寺奏状#第二に新像を図する失。|第二、新像を図する失]]====
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 これは専修念仏の伝道者が、[[Jds:摂取不捨曼陀羅|摂取不捨曼荼羅]]とよばれる図像を用いて絵解きをし、民衆教化に絶大な成果をあげていったことに対する反発である。
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:近来諸所翫<k></k>一画図<k></k>、世号<k></k>摂取不捨曼陀羅<k></k>、弥陀如来之前有<k></k>衆多人<k></k>、仏放<k></k>光明<k></k>、其種々光、或枉而横照、或来而返<k></k>本、是顕宗学生、真言行者為<k></k>本、其外持<k></k>諸経<k></k>誦<k></k>神呪<k></k>、造<k></k>自余善根<k></k>之人也、其光所<k></k>照、唯専修念仏一類也。{{BT|no6}}
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:近来、諸所に一の画図を翫ぶ。世に摂取不捨の曼陀羅と号す。弥陀如来の前に衆多の人あり。仏、光明を放ち、その種種の光、或は枉(ま)げて横に照し、或は来りて本に返る。是れ顕宗の学生、真言の行者を本とし、その外に諸経を持し、神呪を誦して、自余の善根を造(な)すの人なり。{{DotUL|その光の照すところ、ただ専修念仏の一類なり}}。
+
}}
+
}}
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 鎌倉時代の[[Jds:摂取不捨曼陀羅|摂取不捨曼荼羅]]が現存しているといわれているが、私はまだ見ていない。しかしこの説明文で大体のことはわかる。顕密の学僧や、諸行を修して往生を願っている「聖」たちのところでは、光は横にそれたり、返照して、彼等は光の外にはじき出されていた。そして出家在家をえらばず専修念仏者はすべて光の中に摂め取られているという図柄になっている。これは明らかに『観経』の「念仏衆生、摂取不捨」の文意を、善導が『観念法門』([[観念法門 (七祖)#P--618|真聖全一・六二八頁]])に、
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+
:但有<k></k>専<k></k>念阿弥陀仏<k></k>衆生<k></k>、彼仏心光常照<k></k>是人<k></k>摂護不<k></k>捨。総不<k></k>論<k></k>照<k></k>摂余雑業行者<k></k>。{{BT|no7}}
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{{SH|no7|
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:ただもつぱら阿弥陀仏を念ずる衆生のみありて、かの仏の心光つねに この人を照らして、摂護して捨てたまはず。総じて余の雑業の行者を照摂することを論ぜず。
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}}
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}}
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と釈されたのをうけた、『選択集』「摂取章」([[選択本願念仏集 (七祖)#P--1230|真聖全一・九五五頁]])や「観経釈」(『漢語灯』一・真聖全四・三四三頁)などの意を図像化したものである。現実の社会では、人間としての存在を認められないほど抑圧され搾取されていた民衆や、民間宗教家として体制外に生きていた「聖(ひじり)」たちが、念仏者になることによって、如来の光の中に摂取され、真の仏弟子として認知されていくのである。それに対して体制内の僧侶たちは、如来の光の外に、すなわち真実の仏法から外れたところにいるということを暗示しているこの図像は、たしかに専修念仏者が、既成の仏教に対してなした大胆な挑戦であったといえよう。<br>
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だから明恵の『[[Jds:摧邪輪|摧邪輪]]』にも、無住の『[[Jds:沙石集|沙石集]]』<ref>◇『沙石集』に「又中比、都ニ念佛門流布シテ、悪人ノ徃生スベキ由シヲ云タテヽ、戒ヲモ持チ經ヲモヨム人ハ、雜行ニテ徃生スマジキヤウヲ曼陁羅ニ圖シテ、尊ゲナル僧ノ經ヨミテ居タルニハ光明サヽズシテ、殺生スル者ニ、接取ノ光明サシ給ヘル様ヲカキテ、世間ニモテアソビケルコロ、南都ヨリ公家ヘ奏狀ヲ奉ル事アリケリ。其狀ノ中ニ云、彼地獄ノ繪ヲ見ル者ハ、悪ヲツクリシ事ヲクヒ、此曼陁羅ヲ拝スル者ハ、善ヲ修せシ事ヲカナシムトカケリ。」とある。</ref>などにもとりあげられてはげしく非難されているのである<ref>『摧邪輪』下(岩波日本思想大系一五・三七〇頁)、『沙石集』(岩波日本古典文学大系八五・八七頁)</ref> 。
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 ところで『奏状』には、「念仏衆生、摂取不捨」について、法然と全くちがった見解を出して、[[Jds:摂取不捨曼陀羅|摂取不捨曼荼羅]]の不当なることを指摘している。
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:上人云、念仏衆生摂取不捨者経文也、我全無<k></k>過云々、此理不<k></k>然、偏修<k></k>余善<k></k>、全不<k></k>念<k></k>弥陀<k></k>者、実可<k></k>漏<k></k>摂取光<k></k>、既欣<k></k>西方<k></k>、亦念<k></k>弥陀<k></k>、寧以<k></k>余行<k></k>故、隔<k></k>大悲光明<k></k>哉。{{BT|no8}}
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{{SH|no8|
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{{Inyou3|
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:上人云く、「念仏衆生摂取不捨は経文なり。我、全く過なし」と云云。この理然らず、偏(ひとえ)に余善を修して、全く弥陀を念ぜざれば、実に摂取の光に漏るべし。既に西方を欣び、また弥陀を念ず、寧(なん)ぞ余行を以ての故に、大悲の光明を隔てんや。
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}}
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}}
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 ここに貞慶の基本的立場である'''諸行往生説の主張'''がみられるが、それについては後述することにして、親鸞が『教行証文類』において、「念仏衆生、摂取不捨」の金言を、[[行信]]の益として救済成立の基盤とされていることに注目してみよう。まず「行文類」([[行巻#P--186|真聖全二・三三頁]])には、
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:何況十方群生海、帰<k></k>命斯行信<k></k>者、摂取不<k></k>捨、故名<k></k>阿弥陀仏<k></k>。是曰<k></k>他力<k></k>。是以龍樹大士、曰<k></k>即時入必定<k></k>、曇鸞大師、云<k></k>入正定聚之数<k></k>。仰可<k></k>憑<k></k>斯、専可<k></k>行<k></k>斯也。{{BT|no10}}
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{{Inyou|
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:いかにいはんや十方群生海、この行信に帰命すれば摂取して捨てたまはず。ゆゑに阿弥陀仏と名づけたてまつると。これを他力といふ。ここをもつて龍樹大士は「即時入必定」といへり。曇鸞大師は「入正定聚之数」(論註・上意)といへり。仰いでこれを憑むべし。もつぱらこれを行ずべきなり。([[行巻#no71|行巻 P.186]])
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}}
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}}
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といい、『礼讃』<ref>『往生礼讃』(真聖全一・六五三頁)</ref>の釈義をうけて、摂取不捨を阿弥陀の名義とし、これを[[仰信]]し、[[専修]]するものは、名義の如く摂取不捨の益を与えられるから、即時に必定に入り、[[正定聚]]に住せしめられるといって、[[現生正定聚]]説を確立しておられる。
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 また「信文類」([[信巻末#10syu|真聖全二・七二頁]])では、[[現生十益]]の第六に心光常護益をあげ、真仏弟子釈([[信巻末#no96|同・七八頁]])には摂取不捨曼荼羅の根拠となったと考えられる『観念法門』の文が引用されて、念仏者のみが真仏弟子であることの証拠とされている。また「総不<k></k>論<k></k>照<k></k>摂余雑業行者<k></k>」という部分だけが、「化身土文類」([[化巻本#P--390|同・一五二頁]]、[[化巻本#P--396|同・一五六頁]])に引用されて、諸行が仏心にかなわない方便仮門であることの証文とされている。宗祖が摂取不捨曼荼羅を用いて伝道されたかどうかはわからないが、それが決して「古師の本説に乖く」ものでないことをこうして論証されていった。後に親鸞の門流で多く用いられた[[Jds:光明本尊|光明本尊]]は、これの変型とも考えられる。
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===五、釈尊観と神祇観===
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====[[興福寺奏状#第三に釈尊を軽んずる失。|第三、釈尊を軽んずる失]]====
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 「夫三世諸仏慈悲雖<k></k>均、一代教主恩徳独重(それ三世の諸仏、慈悲均しと雖も、一代の教主(釈尊)、恩徳独り重し)」、しかるに専修は阿弥陀仏以外の余仏を礼称せずといって釈尊を軽んずるが、本師の名を忘れた憐れむべきものであると論難するのである。
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 貞慶の釈尊観は、彼が建仁元年に唐招提寺でおこなった釈迦念仏会の願文(日仏全)によって知ることができる。それによれば、釈尊は、諸仏の棄てたまうた十悪五濁の娑婆の導師として出現し、大悲の本願をもって極悪の穢土を救いたまう慈悲の父母である。一体に四徳を兼ねた比類なき能化の本師であって、仏々平等であるとしても、娑婆の我等にとって第一と仰ぐべきであるとしている。だから彼は弥陀念仏に対して釈迦念仏を提唱したのであって、この釈尊中心主義は、明恵、日蓮に継承されていくのであった。彼等が弥陀中心主義の専修念仏に鋭く対決してきた根底には、このような仏陀観の違いがあったのである<ref>成田貞寛「法然聖人と貞慶上人」(『浄土教の思想と文化』二二九頁)參照。</ref>。
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 これに対して法然の釈尊観は、聖道門の教主としての面と、浄土三部経の教主として、選択本願念仏の一道を指勧する発遣の仏としての面とを見ていかれる。そして聖道を捨てて、浄土に帰せしめていくところでは、'''[[招喚]]'''の救主阿弥陀仏に対して、弥陀念仏の一道を教える'''[[発遣]]'''の善知識としての地位に立たれることになる。ここに釈尊を最尊の仏と仰ぐ貞慶と根本的なちがいがあった。
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 親鸞は「信文類」真仏弟子釈([[信巻末#no84|真聖全二・七五頁]])に、念仏者を真仏弟子とよび「釈迦、諸仏之弟子」と言明されたが、これは貞慶や明恵の論難を意識されていたと考えられる。ところで親鸞の釈尊観は、法然をうけつつ発遺の教主としての釈尊を、[[第十七願]]によって位置づけ、十方の諸仏とともに第十七願力に乗じて出現し、本願の名号を讃嘆することを出世の本懐としている能讃仏とし、さらに『和讃』にいたれば、釈尊は、久遠実成の阿弥陀仏の応現であるとして[[浄土和讃#P--572|*]]、完全に阿弥陀仏中心の仏陀観を確立されていくのであった。
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====[[興福寺奏状#第四に万善を妨ぐる失。|第四、万善を妨ぐる失]]====
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 法然が諸善万行を廃捨したことを非難するもので、第六の「浄土に暗き失(浄土を暗くする失)」と同意である。<br>
+
ただ第六が往生浄土の行業としての諸行を廃したことを非難するのに対して、今は広く万善諸行を廃捨したことを謗法罪であると論難している。<br>
+
 彼によれば、すべて善根は、釈尊が永劫にわたる難行苦行をかさねて、それが成仏道であることをたしかめられたものであって、機縁に応じて行ぜしめ、病に応じて与え、それぞれ解脱させていく出離の要路である。しかるに法然は、弥陀の名号を専修する一行のみに偏執して、万善諸行という出離の要路を捨てしめたことは、まさに謗法罪にあたる。法然には謗法の意志はなかったかも知れないが、門弟たちの行状からすれば、師弟ともに同罪であるといわねばならぬ。ところで『大経』によれば「弥陀悲願引摂雖<k></k>広、誹<k></k>謗正法<k></k>捨而無<k></k>救(弥陀の悲願、引摂広しと雖も、誹謗正法、捨てて救ふことなし。)」、それゆえ法然一門は、阿弥陀仏からも見捨てられたものというべきだとしている。
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 特にここに法然によって廃捨された万善諸行の例として、『法華経』の読誦をはじめ、華厳、般若の帰依、真言、止観の結縁、堂塔の建立、尊像の造図など、当時の仏教界で善根として勧進されていたすべてが「土の如く、沙のごとく」捨てられていった状況をのべている。
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 ところで法然によれば、弥陀念仏は、阿弥陀仏が因位に選択摂取し、その仏徳のすべてをこめて成就された往生の行法であって、選捨された諸行とは質的にちがっていることを明かそうとされていた<ref>『本論』第二篇第二章第四節(二二四頁)參照。</ref>。その意をついで展開した親鸞は、『浄土文類聚鈔』([[浄文#P--477|真聖全二・四四三頁]])に名号を「万行円備嘉号」といい、「大行者、則称<k></k>无礙光如来名<k></k>。斯行・摂<k></k>一切行<k></k>極速円満(大行といふは、すなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はあまねく一切の行を摂し、極速円満す。)」といい、また「万善円修之勝行」といって、一行に万善円修の徳をもつ至極の勝行であることを顕示し、念仏を万行中の一行とみる貞慶らの考えを論破していくのであった。
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 また万行を捨てて、念仏一行を専修し浄土を願生することは、弥陀の本願、釈尊の発遣、諸仏の証誠に随順する'''[[真仏弟子]]'''としての正当な行動であって、決して誹謗正法でないことは、すでに善導が『散善義』([[観経疏 散善義 (七祖)#sbutudesi|真聖全一・五三四頁]])で確認されていることであるとして、親鸞は「信文類」([[信巻末#真仏弟子釈|真聖全二・七五頁]])に真仏弟子釈を施されたのであった。そしてむしろ謗法のとがを受けねばならないのは、専修念仏者を弾圧した興福寺や叡山の僧徒であり、主上臣下であると告発しておられる。すなわち「信文類」([[信巻末#P--304|真聖全二・一〇二頁]])に『薩遮尼乾子経』によって大乗の五逆を出すなかに、
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:三者、一切出家人、若戒、無戒、破戒、打罵呵責、説<k></k>過禁閉、還俗駈使、債調断命。{{BT|no13}}
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{{SH|no13|
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{{Inyou|
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:三つには一切出家の人、もしは戒・無戒・破戒のものを打罵し呵責して、過を説き禁閉し還俗せしめ、駈使債調し断命せしむる。
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}}
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}}
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という罪状をあげ、また「化身土文類」([[化巻末#P--451|同・一九〇頁]])に『大集経』を引いて、
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:若復出家不<k></k>持<k></k>戒者、有<k></k>以<k></k>非法<k></k>而作<k></k>悩乱<k></k>、罵辱毀呰、以<k></k>手刀杖<k></k>打縛斫截<k></k>。若奪<k></k>衣鉢<k></k>、及奪<k></k>種種資生 具<k></k>者、是人則壊<k></k>三世諸仏真実報身<k></k>、則排<k></k>一切天人眼目<k></k>。是人為<k></k>欲<k></k>隠<k></k>没諸仏所有正法三宝種<k></k>故。{{BT|no14}}
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{{SH|no14|
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{{Inyou|
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:もしまた出家して戒を持たざらんもの、非法をもつてして悩乱をなし、罵辱し毀呰せん、手をもつて刀杖打縛し、斫截することあらん。もし衣鉢を奪ひ、および種々の資生の具を奪はんもの、この人すなはち三世の諸仏の真実の報身を壊するなり。すなはち一切天人の眼目を排ふなり。この人、諸仏所有の正法三宝の種を隠没せんと欲ふがためのゆゑに。
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}}
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}}
+
等といわれたものがそれを雄弁に物語っている。
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====[[興福寺奏状#第五に霊神を背く失。|第五、霊神に背く失]]====
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:念仏之輩永別<k></k>神明<k></k>、不<k></k>論<k></k>権化実類<k></k>、不<k></k>憚<k></k>宗廟大社<k></k>、若牒<k></k>(恃カ)神明<k></k>必堕<k></k>魔界<k></k>云々、於<k></k>実類鬼神<k></k>者 置而不<k></k>論、至<k></k>権化垂跡<k></k>者既是大聖也、上代高僧皆以帰敬。{{BT|no15}}
+
{{SH|no15|
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{{Inyou3|
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:念仏の輩、永く神明に別る、権化実類を論ぜず、宗廟大社を憚らず。もし神明を恃めば、必ず魔界に堕つと云云。実類の鬼神においては、置いて論ぜず。権化の垂迹に至っては、既に是れ大聖なり。上代の高僧皆以て帰敬す。
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}}
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}}
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 法然一門の専修念仏者は、弥陀一仏に帰して、余仏余菩薩を信心の対象としなかったほどであるから、神々を帰依の対象としなかったのは当然である。ところがこのことを仏教徒から非難されねばならなかったところに、神仏習合思想に立つ旧仏教と法然の専修念仏との本質的な性格のちがいがあったとみねばならない<ref>法然の神祇観については第二篇第五章第一節第二項(三八七頁)參照。</ref>。
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 例えば、真宗教徒がキリスト教の神を信じないからといって、天台宗や法相宗の学僧から非難を受ける筈がないのに、神道という異教の神を信じないからといって、何故興福寺から非難されねばならないのであろうか。この非難を正当化する理論が本地垂迹説だったのである。すなわち神々を実類の鬼神と権化の霊神に分け、鬼神は別として、権化の霊神は、仏、菩薩の垂迹であるから本地は大聖である。故に霊神に帰依しないことは仏に帰依しないことになるというのである。尚神祇を権化の霊神と実類の鬼神に分類したのはこれが初めである。
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 異教の神々を[[Jds:本地垂迹|本地垂迹]]という巧妙な理論で仏教の中にとりこみ、在来宗教と渡来宗教との宗教政治的融合をはかったことが、逆に仏教を純化しようとしたとき、迫害の論拠になったということはまさに皮肉である。親鸞が本地垂迹説を用いないのは法然の神祇観をうけたこととともにこの思想が専修念仏者の息の根を止めようとして迫ってきた最も危険な刃だったからでもあろう。それに対して貞慶は『春日大明神発願文』を書いているように敬神家であって、本地垂迹説は彼の信仰そのものであった。親鸞が「化身土文類」([[化巻末#P--429|真聖全二・一七五頁]])において、
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:夫拠<k></k>諸修多羅<k></k>勘<k></k>決真偽<k></k>、教<k></k>誡外教邪偽異執<k></k>者、涅槃経言、帰<k></k>依於<k></k>仏者、終不<k></k>更帰<k></k>依其余諸天神<k></k>{{BT|no16}}
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{{SH|no16|
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{{Inyou|
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:それもろもろの修多羅によつて、真偽を勘決して、外教邪偽の異執を教誡せば、『涅槃経』(如来性品)にのたまはく、「仏に帰依せば、つひにまたその余のもろもろの天神に帰依せざれ」と。
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}}
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}}
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といって、仏教者が異教の神々に帰依することがあってはならないと、諸部の経論によって教誡されたものは、明らかに旧仏教の不純性を批判されたものであった。いわば彼等は「外儀は仏教のすがたにて、内心外道を帰敬せり」(『和讃』・[[正像末和讃#P--618|真聖全ニ・五二八頁]])といわれた偽の仏弟子に類するものだったのである。
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 ところでこの条の最後に、
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:末世沙門猶敬<k></k>君臣<k></k>、況於<k></k>霊神<k></k>哉、如<k></k>此麁言、尤可<k></k>被<k></k>停廃<k></k>。{{BT|no17}}
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{{SH|no17|
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{{Inyou3|
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:末世の沙門、なほ君臣を敬す、況んや霊神においてをや。此のごときの麁言、尤も停廃せらるべし。
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といわれている。末世の沙門が君臣を敬することと、敬神とが何故対置されているのであろうか。けだし地上の支配体制と、神々の系譜とが対応しているからであろう。伊勢神宮が皇室の祖先神であり、春日神社が藤原氏の氏神であるとすれば、宗廟大社を憚からないことは、やがて地上の支配体制である主上臣下の神聖性を否認することになってくる。国家権力に従属している律令体制下の仏教にあっては、「沙門は、君臣を敬す」べきことが義務づけられていた<ref>「僧尼令」(『令義解』新訂増補国史大系・八六頁)には「凡僧尼於道路、遇三位以上者隠、五位以上斂馬相揖而過、若歩者隠」と規定されている。◇読下し:「凡僧尼、道路において三位以上に遇ふをば隠れよ、五位以上には馬を斂(おさ)めて相揖して過ぎよ、もし歩(かち)よりせば隠れよ。」 現代語:「僧尼が、道路で三位以上の人と遇ったならば身を隠すこと。五位以上ならば、下馬して会釈して過ぎること。もし歩きであれば身を隠すこと。」</ref>。従ってその君臣があがめている宗廟大社の霊神に帰敬することは、当然のこととして要求されていたのである。だから「此の如き麁言、尤も停廃せらるべし」と奏上したわけである。
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 親鸞が「化身土文類」([[化巻末#no102|真聖全二・一九一頁]])に『菩薩戒経』を引いて、
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:出家人法、不<k></k>向<k></k>国王<k></k>礼拝<k></k>、不<k></k>向<k></k>父母<k></k>礼拝<k></k>、六親不<k></k>務、鬼神不<k></k>礼。
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{{BT|no18}}
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{{SH|no18|
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{{Inyou|
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:「出家の人の法は、国王に向かひて礼拝せず、父母に向かひて礼拝せず、六親に務へず、鬼神を礼せず」と。
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}}
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}}
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といましめられたのは、真の仏教者は、あらゆる世俗の権威からも、他の宗教的権威からも独立自立し、仏法のみを敬信べきことを明確にして、『興福寺奏状』と対決していかれたものと考えられる<ref>宮崎円遵『初期真宗の研究』(五四頁)參照。</ref>。
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===六、諸行と念仏の問題===
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====[[興福寺奏状#第六に浄土に暗き失。|第六、浄土に暗き失(浄土を暗くする失)]]====
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 諸行を廃し、諸行往生を認めない法然は、浄土教に暗く、人々を誤るものであると論難するのである。まず『観経』の三福、九品の行業をあげ、曇鸞の『[[hwiki:略論安楽浄土義|略論]]』、道綽の『安楽集』、善導の伝記等を例証として、
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+
:上自<k></k>三部之本経<k></k>、下至<k></k>一宗之解釈<k></k>、諸行往生盛所<k></k>許也。{{BT|no19}}
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{{SH|no19|
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{{Inyou3|
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:上、三部の本経より、下、一宗の解釈に至るまで、諸行往生、盛んに許すところなり。}}
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といい諸行往生こそ経釈の正義であると主張している。ついで往生伝等によって、曇融、善晟等が事相の一善によって順次往生を遂げたのに対して、念仏のみを行じて『大般若経』を書写しなかった道俊、専修のみを行じて釈迦像を造立しなかった覚親たちが往生の障りを感じたというあやしげな事例をあげ、「まさにしるべし、余行によらず、念仏によらず、出離の道、たゞ心にあり」といっている。ここにいう「たゞ心にあり」という「心」とは彼の『愚迷発心集』(岩波日本思想大系一五・二八頁)にみられる「一念の道心」であり、『[[hwiki:観心為清浄円明事|観心為清浄円明事]]』(前出)にいわれる「清浄円満月輪の如き」真如にかなった菩提心のことであろう。石田充之氏は、貞慶の『心要鈔』(大正蔵七一・五〇頁)に、「唯識観によって一心を制伏す」といわれた性唯識一心の成就をさすとされる<ref>◇『心要鈔』には「依菩提心成就念仏。依念仏力成唯識観。依唯識観制伏一心(菩提心に依りて念仏を成就す。念仏の力に依りて唯識観を成ず。唯識観に依りて一心を制伏す。)」とある。このように唯識観によって念仏を解釈していた貞慶には、口称の専修念仏は「[[正定業]]」ではなく、煩悩まじりの虚仮雑毒の行にしかみえなかったのであった。</ref>。
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 ところで専修のものは、救い難い造悪者に、ほしいままに救われるといい、往生し難い小善に過ぎぬ口称のものに、上善の人と倶に往生を得るというが、本願の「[[乃至十念]]」の文意をよく知るべきである。十念は同じ念仏でも生じ易き観念や多念に対して、最下の行業をあげたものに過ぎない。戒慧ともにかけた者の「仮名の念仏は浄業熟し難く、順次往生の本意に違失あり」としなければならない。然るに専修のものは、観念の本を忘れて称名の末につき、口称の劣行をたのんで勝行たる諸行を往生の業に非ずと欺いている。どうしてそれが仏意にかなおうか。<br>
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『観経』に説かれたように、凡聖が浄土に往生するとき、仏は各々の先世の徳行に応じて上々から下々にいたる九品の階級を与えたまうのも、自業自得の道理の必然である。専修のものは下々の悪人が、上々の賢善者と倶生するように考えているが、それは「偏ヘに仏力を憑みて、涯分を測らざる愚痴の過」をおかしているというべきと非難している。
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 この非難のなかに、称名のみを決定業として専修し、諸行を捨てるのは、「凡夫親疎の習を以て、誤って仏界平等の道を失う」ことであるということばがある。貞慶にせよ、明恵にせよ、元来浄土とは、法蔵菩薩が総別の菩提心(本願)をおこし、万行を修して成就された世界であるから、浄土に往生しようと志すものは、当然[[菩提心]]をおこし、諸善万行を修して願生すべきであると考えていた。だから法然が[[菩提心]]と[[諸行]]を廃捨したことは、まさに暴論としか思えなかったのである。但し貞慶は『選択集』を読んでいなかったためか、菩提心廃捨を直接とりあげていないが、明恵は菩提心論を中心に論難したことは周知の通りである。ともあれすべての善行は、その体真如に随順し、仏果、浄土に向かう徳をもっていて、例えば念仏よりも『法華経』読誦を好むものには、それを勧め、布施行を有縁とするものには、布施を行ぜしめて往生せしめるというように、すべての機縁に応じて導くことが「仏界平等の道」であるというのが、貞慶や明恵のいう諸行往生説のすわりであった。<br>
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貞慶らにとって平等とは、因行の勝劣に相応して、勝劣の果報を感得することであった。行徳高きものと行業劣弱なものとが同一果報をうることは不平等であり、因果の道理を撥無する邪見であると考えていたのである。
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:彼帝王布<k></k>政之庭、代<k></k>天授<k></k>宮之日、賢愚随<k></k>品、貴賎尋<k></k>家、至愚之者、縦雖<k></k>有<k></k>夙夜之功<k></k>、不<k></k>任<k></k>非分之職<k></k>、下賎之輩、縦雖<k></k>積<k></k>奉公之労<k></k>、難<k></k>進<k></k>卿相之位<k></k>、大覚法王之国、凡聖来朝之門、授<k></k>彼九品之階級<k></k>、各守<k></k>先世之徳行<k></k>、自業自得其理必然、而偏憑<k></k>仏力<k></k>不<k></k>測<k></k>涯分<k></k>、是則愚癡之過也。{{BT|no20}}
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{{SH|no20|
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{{Inyou3|
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:かの帝王の政を布くの庭に、天に代わって官を授くるの日、賢愚品に随ひ、貴賤家を尋ぬ。至愚の者、たとひ夙夜<ref>◇夙夜(しゅくや)。朝早く出仕し、夜遅くまで仕えること。</ref>の功ありと雖も、非分の職に任せず。下賤の輩、たとひ奉公の労を積むと雖も、卿相の位に進み難し。大覚法王の国、凡聖来朝の門、かの九品の階級を授くるに、おのおの先世の徳行を守る。自業自得、その理必然なり。しかるに偏に仏力を憑みて涯分を測らざる、是れ則ち愚癡の過なり。
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}}
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というところに、貞慶らのいう「仏界平等の道理」とは、実は{{DotUL|自業自得の因果応報の理に従って無量の差別を生み出していく原理だった}}のではなかろうか。
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 これに対して法然が釈顕される他力不思議に裏づけられた[[選択本願]]における平等の道理は、一切衆生を善悪、賢愚、持戒破戒のヘだてなく、平等に涅槃の果徳を得しめるという絶対平等の救済が成立するような道理であった。
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『選択集』「本願章」や、「大経釈」によれば、法蔵菩薩は、平等の大悲に催されて、'''[[選択]]'''を示現されるが、そこでは機の善悪にかかわりなく、誰でも、何時でも、何処でも受行できる至極の易行たる称名に、仏徳のすべてをこめて、最勝の行として選びとることによって、平等の慈悲を具現されたといわれている。すなわち{{DotUL|必ず救われないものを生みだすような諸行を選び捨てて}}、万人が一様に救われる勝易具足の一行を選び取ったところにこそ、「仏界平等の理」の具現があるとするのであった。ここに両者の思想の根本的な違いがみられる。
+
 
+
 自業自得の理にしたがって、各人各別の諸行によって浄土に往生するところには、当然九品の差別が厳然とあるが、平等大悲の願心の具現である本願他力の念仏によって得る、真実報土には九品の差別はないはずである。だから法然も九品の差別を本質的には否定されたのであるが、そのことを明確に顕示されたのは親鸞であった。「信文類」([[信巻末#P--254|真聖全二・七三頁]])に、
+
 
+
:大願清浄報土、不<k></k>云<k></k>品位階次<k></k>、一念須臾頃、速疾超<k></k>証无上正真道<k></k>。故曰<k></k>横超<k></k>也。{{BT|no21}}
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{{SH|no21|
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{{Inyou|
+
:大願清浄の報土には品位階次をいはず。一念須臾のあひだに、すみやかに疾く無上正真道を超証す。ゆゑに横超といふなり。
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}}
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}}
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といい、また、
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+
:念仏衆生、窮<k></k>横超金剛心<k></k>故、臨終一念之夕、超<k></k>証大般涅槃<k></k>。([[信巻末#P--264|同・七九頁]]){{BT|no22}}
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{{SH|no22|
+
{{Inyou|
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:念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。
+
}}
+
}}
+
といわれた如くである。これに対して諸行往生のものは、みずからの行業の強弱によって、千差万別の果を感得するから、
+
 
+
:良仮仏土業因千差、土復応<k></k>千差<k></k>、是名<k></k>方便化身化土<k></k>、由<k></k>不<k></k>知<k></k>真仮<k></k>、迷<k></k>失如来広大恩徳<k></k>。(「真仏土文類」[[真巻#P--373|真聖全二・一四一頁]]){{BT|no22-1}}
+
{{SH|no22-1|
+
{{Inyou|
+
:まことに仮の仏土の業因千差なれば、土もまた千差なるべし。これを方便化身・化土と名づく。真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。
+
}}
+
}}
+
 
+
と釈し、諸行往生を以て方便仮土の業因として位置づけ、自力諸行は方便、他力念仏は真実、という真仮の法門をあきらかにされたのであった。ともあれ『興福寺奏状』が提出した諸行往生の問題は、後述する『延暦寺奏状』でも、明恵の『摧邪輪』でも取りあげられ、法然滅後の浄土宗教団に課せられた最も大きな問題の一つとなっていったのである。
+
 
+
====[[興福寺奏状#第七に念仏を誤る失。|第七、念仏を誤る失]]====
+
 法然は、'''[[念仏|口称念仏]]'''を最上のごとく主張するが、元来仏教では観勝称劣が通規であって、極劣の称名を決定往生の業であるかの如く誤っていると論難するのである。
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+
 念仏といっても、所念の仏に仏名あり、仏体あり、仏体に事仏と理仏の別があり、理仏を最高とし、仏名を最下とする。また能念の相に口称と心念があり、心念に繋念と観念がある。その観念に散位から定位へ、有漏定から無漏定ヘと浅深次第があって、口称は最も浅劣であり、無漏の定善観は最も深勝である。
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 かくいえば専修の輩は一様に、「是れ弥陀の本願に四十八あり、念仏往生は第十八の願なり」というが、彼等は第十八願のみを本願と号して、他の四十七の大願を隠してしまっている。その第十八願にしても「乃至十念」と誓われたのは、「観念を以て本とし、下口称に及び、多念を以て先として、十念を捨て」ざる大悲仏力の深さをあらわすために「その最下を挙げ」たに過ぎないのである。「その導き易く、生じ易きは、観念なり、多念なり、・・・かの勝劣両種の中に、如来の本願、寧ぞ勝を置きて劣を取る」道理があろうか。だから「乃至十念」の口称念仏を本願の正意と見るのは誤りである。
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:設亦雖<k></k>付<k></k>口称<k></k>、三心能具四修無<k></k>闕、真実念仏名為<k></k>専修<k></k>、只以<k></k>捨<k></k>余行<k></k>為<k></k>専、以<k></k>動<k></k>口手<k></k>為<k></k>修、可<k></k>謂<k></k>不専之専也、非修之修也<k></k>、憑<k></k>虚仮雑毒之行<k></k>、作<k></k>決定往生之思<k></k>、寧善導之宗、弥陀之正機哉。{{BT|no23}}
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{{SH|no23|
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{{Inyou3|
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:たとひまた口称に付くと雖も、三心能く具し、四修闕くることなき、真実の念仏を名づけて専修とす。ただ余行を捨つるを以て専とし、口手を動かすを以て修とす。謂ひつべし、「不専の専なり、非修の修なり」と。虚仮雑毒の行を憑み、決定往生の思ひを作さば、寧ぞ善導の宗、弥陀の正機ならんや。
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という。こうして理深事浅、観勝称劣という聖道門の行道の価値観をもって、本願の行業を浅劣の行とし、善導もまたこの立場に立つといい、法然のいう如き専修念仏は、不専の専、非修の修で、煩悩まじりの虚仮雑毒の行であって、決定往生の行ではないとまで極言している。
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 ことに興福寺が法相宗であったことは、所依の論の一つである『摂大乗論』の念仏[[別時意]]説の底流があった筈である。だから貞慶は「道綽、善導の説たりと雖も、未だ依憑に足らず」とまでいい切るのであった。ただ善導は三昧発得の人だから、その説は一往認めるが、往生の業因をみきわめるときは、つねに一生補処の菩薩である弥勒とその祖述者たる無着、世親を依りどころとして会通しなければならないといっている。
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 このようにして、法然の説く選択本願念仏を真向から否定する『興福寺奏状』と鋭く対決していくのが、『選択集』の念仏論を継承する親鸞の「行文類」([[行巻#P--140|真聖全二・五頁以下]])であった。そこには、十方諸仏によって称讃されている「選択本願の行」こそ「浄土真実の行」であるとして、それを天台の『摩訶止観』の造語に準じて「大行」とよび、
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:大行者、則称<k></k>无礙光如来名<k></k>、斯行、即是摂<k></k>諸善法<k></k>、具<k></k>諸徳本<k></k>、極速円満、真如一実功徳宝海。故名<k></k>大行<k></k>。・・・
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:爾者、称<k></k>名能破<k></k>衆生一切无明<k></k>能満<k></k>衆生一切志願<k></k>。称名則是最勝真妙正業。{{BT|no25}}
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{{SH|no25|
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{{Inyou|
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:大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。・・・<br>
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:しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。
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}}
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と釈顕せられた。すなわち称名は、万徳を円満し、真如一実の徳の具現した無上の行法であって、衆生の一切の無明煩悩を破り、往生成仏の志願を満たしたまう徳用をもっている。それゆえ称名は、最勝にして真実なる正定の行業といわれる大行であるというのである。この親鸞の大行釈によって、観勝称劣、理深事浅という聖道門的な行業観はおのずから論破され、阿弥陀仏が大悲をこめて選択廻向せられた本願の念仏は、わずか一声に大利無上の功徳を円満する至易にして最勝の行であるから、この一行によって、一切の衆生が一人ももれず救われていく一乗無上の行法であることが明らかになっていくのである。
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===七、破戒と反社会性の問題===
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====[[興福寺奏状#第八に釈衆を損ずる失。|第八、釈衆を損ずる失]]====
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 ここでは専修のものは、破戒を宗とし、造悪を憚かるなかれと教え、仏教徒を堕落させ、仏法を滅亡させようとしていると弾劾している。
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:専修云、囲棊双六不<k></k>乖<k></k>専修<k></k>、女犯肉食不<k></k>妨<k></k>往生<k></k>、末世持戒市中虎也、可<k></k>恐可<k></k>悪、若人怖<k></k>罪憚<k></k>悪、是不<k></k>憑<k></k>仏之人也、如<k></k>此麁言流<k></k>布国土<k></k>、為<k></k>取<k></k>人意<k></k>、還成<k></k>法怨<k></k>。{{BT|no26}}
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{{SH|no26|
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{{Inyou3|
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:専修の云く「囲棊双六は専修に乖かず、女犯肉食は往生を妨げず、末世の持戒は市中の虎なり、恐るべし、悪(にく)むべし。もし人、罪を怖れ、悪を憚らば、是れ仏を憑まざるの人なり」と。此のごときの麁言、国土に流布す、人の意を取らんがために、還って法の怨(あだ)と成る。
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 ここにあげたような表現は、専修念仏者の言い分を、非難し易いように悪意をもって表現しなおした、一種の流言であったと考えられる。たしかに不心得な念仏者のなかには、放逸無慚な反倫理的な振舞いをして非難されたものもあっただろうが、そのようなものは、民衆にうけ入れられるはずがない。民衆を動かした念仏の伝道者たちの言動は、それなりにまじめなものであったにちがいない。法然が『実秀に答ふる書』([[hwiki:西方指南抄/下本#P--198|『西方指南抄』下本・真聖全四・一九八頁]])に、「ふかきみのりも、あしくこゝろうる人にあひぬれば、かヘりて、ものならずきこえ候こそ、あさましく候ヘ」と述懐されたことばが思いあわされる。
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 貞慶が、このころ戒律の再興に力をそそいでいたことは『戒律興行願書』(岩波日本思想大系十五・一〇頁)によって知ることができるが、彼の目には、公然と破戒無戒を宣言する専修念仏者たちは、許すべからざる不呈の輩に映ったにちがいない。
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:夫極楽教門盛勧<k></k>戒行<k></k>、浄土業因以<k></k>之為<k></k>最、所以者何、非<k></k>戒律<k></k>者六根難<k></k>守、恣<k></k>根門<k></k>者三毒易<k></k>起、妄縁纏<k></k>身念仏之窓不<k></k>静、貪瞋濁<k></k>心、宝池之水難<k></k>澄、此業所<k></k>感豈其浄土哉。{{BT|no27}}
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:夫れ極楽の教門、盛んに戒行を勧む、浄土の業因、これを以て最とす。所以はいかんとならば、戒律にあらざれば六根守り難く、根門を恣(ほしいまま)にすれば三毒起り易し。妄縁身に纏(まと)はれば、念仏の窓静かならず、貪瞋心を濁せば、宝池の水澄み難し。この業の感ずるところ、あにそれ浄土ならんや。
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といって、持戒を基礎として定慧をみがき、識を浄化し、転識得智して浄土を感得するという、唯識的な三学観の上にたって浄土教を見ていることは明らかである。従って「三学のうつわものにあらず」という自力無功の[[機の深信]]のうえに立つ法然教学とは、全く異質の思想であった。
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 ところが貞慶はすぐ下に、「たゞし末世の沙門、無戒、破戒なる、自他許すところなり。」ともいっている。恐らく彼の叔父で山門高位の僧であった安居院の澄憲も、その子聖覚も、いずれも公然たる妻帯者だったし、彼の身辺にはそのような例が無数にあったから、「自他許すところなり」といわざるを得なかったのであろう。しかし破戒無戒のものは浄土を感得できないとすれば、「自他許すところ」とは何を意味するのであろうか。彼は詞をついで、
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: 雖<k></k>不<k></k>如<k></k>実受<k></k>、雖<k></k>不<k></k>如<k></k>実持<k></k>、怖<k></k>之悲<k></k>之、須<k></k>生<k></k>慙愧<k></k>之処、剰破戒為<k></k>宗叶<k></k>道俗之心<k></k>、仏法滅縁無<k></k>大<k></k>於此<k></k>。{{BT|no29}}
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:実のごとくに受けずと雖も、説のごとくに持せずと雖も、これを怖れ、これを悲しみて、すべからく慚愧を生すべきの処に、あまつさへ破戒を宗として、道俗の心に叶ふ。仏法の滅する縁、これより大なるはなし。
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という。しかし破戒、無戒のものがいかに怖れ、悲しみ、慚愧したとしても、かかる'''下機の救われる道'''がなければどうしようもない。そこに聖道仏教の限界がみられる。彼には、専修のものが破戒、無戒を超えていく成仏道として、本願を信じ念仏しているのが、ただ法滅の声としか聞こえなかったのである。このような専修の僧尼が洛辺近国はもとより、北陸、東海の諸国にまではびこっているから、「勅宣ならざるよりは、争(いか)でか禁遏することを得ん。奏聞の趣、専らこれらにあるか」と結んでいる。ここに『興福寺奏状』が一番強調したかったことがらを見ることができる。
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 親鸞が「化身土文類」(真聖全二・一六八頁)に、
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:爾者、穢悪濁世群生、不<k></k>知<k></k>末代旨際<k></k>、毀<k></k>僧尼威儀<k></k>。今時道俗、思<k></k>量己分<k></k>。{{BT|no30}}
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:しかれば穢悪・濁世の群生、末代の旨際を知らず、僧尼の威儀を毀る。今の時の道俗、'''おのれが分を思量せよ'''。
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と、痛烈な逆批判をおこなわれたのは、この問題をついておられるのである。そして『[[末法灯明記]]』を引いて、末法における僧尼のありかたを明らかにし、破戒、無戒の故を以て末法の名字比丘を迫害するものは、仏身より血を出すに等しい逆罪であることを論証していかれたのであった。
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====[[興福寺奏状#第九に国土を乱る失。|第九、国土を乱る失]]====
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 専修念仏の興隆によって、護国の仏教である八宗が衰退することは、国土の荒廃につらなり、王法の衰滅にいたるから、すみやかに専修念仏を停止せられたいというのである。<br>
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 「仏法、王法猶し身心のごとし、互いにその安否を見、宜しくかの盛衰を知る」べきである。専修念仏が盛んになって来たから、王化が中興するというのならばいいのだが、事実は、専修の盛行によって[[三学]]は廃退し、[[八宗]]はまさに滅せんとしている。諸宗は念仏を信じて異心がないのに、専修は諸宗を嫌って同座せず、水火のように対立している。もし諸宗と念仏が水乳の如く和して、王化をたすけるならば、仏法王道ともに永遠に栄えるのであるが、専修は全く王化を助けようとせず、むしろ天下海内におこなわれている鎮護国家の仏事、法事を早く停止することを求めている。もしそうなってしまえば、仏事法事によって支えられている国土は乱れ、王法は衰退していくであろう。今日まだそうなっていないのは、「忝くもわが后の叡慮動くことなく明鑑の故」である。
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 若し後世、専修が隙を得て、君臣の心を離間させるような時がくれば、インドの弗沙密王や、唐の武宗のような廃仏の王が出現し、八宗を滅亡するようなことがないとも限らない。それは仏法の不幸だけでなく王道の破滅にもなる。そこで前代未聞の八宗同心の訴訟をおこし、聖断をあおぐわけである。
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:望請天裁、仰<k></k>七道諸国<k></k>、被<k></k>糺<k></k>改沙門源空専修念仏之宗義<k></k>者、世尊付属之寄、弥和<k></k>法水於舜海之浪<k></k>、明王照臨之徳、永払<k></k>魔雲於尭山之風<k></k>矣、誠惶誠恐謹言。{{BT|no31}}
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:望み請ふらくは、天裁、七道諸国に仰せて、沙門源空の専修念仏の宗義を糺改せられんことを、者(てえれば)、世尊付属の寄(よせ)、いよいよ法水を舜海の浪に和し、明王照臨の徳、永く魔雲を堯山の風に払はん。
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誠惶誠恐謹言。
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と結んでいる。
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 ここに仏法と王法が安否盛衰を同じくするという、いわゆる律令体制と密着した旧仏教の理念と体質がはっきりと示されている。仏教は仏事、法事という鎮護国家の呪術を以て国家に奉仕することを使命としており、国家はそれゆえ仏教を庇護するわけである。ところが法然の開いた専修念仏の仏法は、大悲本願の念仏によって、生死の苦にあえぐ民衆の一人一人が、その苦悩より解脱していくことをめざす聞法者の集いであった。そして自身の生死出ずべき道を聞き開いたものは、同じ人生苦を背負っている同朋に、自身の信ずる念仏の大道を伝えていく伝道集団を形成していった。そこでは鎮護国家の修法は問題にならなかった。このような旧仏教の根幹をなす護国性を欠き、国家の要請を無視していく専修念仏集団の発展は、護国仏教の衰亡と、国土の荒廃をもたらすものと考えられた。ここに専修念仏者が弾圧をうけねばならない必然性があったし、親鸞が、国家権力に奉仕する仏教者を悲歎して、「この世の本寺本山のいみじき僧とまふすも、法師とまふすもうきことなり」(『述懐讃』・([[正像末和讃#no109|真聖全二・五二九頁]])と述懐された所以でもあったのである。
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『法然教学の研究』p.499~p.522
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2018年9月3日 (月) 11:39時点における版

『興福寺奏状』は、元久2年(1205)奈良興福寺の衆徒が法然聖人の提唱した専修念仏の禁止を求めて朝廷に提出した文書で、起草者は、法相宗中興の祖といわれる解脱坊貞慶上人とされる。法然聖人弾劾の上奏文というべき文書であり、これを因として、承元の法難と称される法然師弟に対する死罪を含む専修念仏への弾圧がなされた。御開山は『教行証文類』の後序で、

ひそかにおもんみれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛んなり。しかるに諸寺の釈門、教に昏くして真仮の門戸を知らず、洛都の儒林、行に迷ひて邪正の道路を弁ふることなし。
ここをもつて興福寺の学徒、太上天皇[後鳥羽院と号す、諱尊成]今上[土御門院と号す、諱為仁]聖暦、承元丁卯の歳、仲春上旬の候に奏達す。主上臣下、法に背き義に違し、忿りを成し怨みを結ぶ。これによりて、真宗興隆の大祖源空法師ならびに門徒数輩、罪科を考へず、猥りがはしく死罪に坐す。あるいは僧儀を改めて姓名を賜うて遠流に処す。予はその一つなり。
とされておられる。法然聖人の提唱した選択本願念仏という教説は、仏教における宗教改革といえるような先鋭的な仏教思想であり、当時の──ある意味では現代においても誤解されやすい──仏教界には異端邪説としか受け取れなかったのであった。なお、余談ではあるが、この『興福寺奏状』の起草者と目されている解脱坊貞慶上人は、死の半月前に口述された「観心為清浄円明事」(*)で、「予は深く西方を信ずる」としているから、いつしか貞慶も浄土教に帰順していたのであった。また、念仏弾圧を命じた後鳥羽上皇も承久の乱によって隠岐の島へ配流され、無常にかられ阿弥陀如来がまします浄土へ往生したいという意で、『無常講式』(*)を作り「願くは離垢の眼を得て、安楽国に往生せん。南無阿彌陀佛」と阿弥陀仏の浄土(安楽国)への往生を願われたのであった。

興福寺奏状

 法然聖人流罪事
   貞慶解脱上人御草
   同形状詞少少

 九箇条の失の事
第一 新宗を立つる失。
第二 新像を図する失。
第三 釈尊を軽んずる失。
第四 万善を妨ぐる失。
第五 霊神に背く失。
第六 浄土に暗き失(浄土を暗くする失)。
第七 念仏を誤る失。
第八 釈衆を損ずる失。
第九 国土を乱る失。

興福寺僧綱大師等、誠惶恐謹言。
 殊に天裁を蒙り、永く沙門源空勧むるところの専修念仏の宗義を糾改せられんことを請ふの状。

右、謹んで案内を考うるに一つの沙門あり、世に法然と号す。念仏の宗を立てて、専修の行を勧む。その詞、古師に似たりと雖も、その心、多く本説に乖けり。ほぼその過を勘ふるに、略して九箇条あり。


興福寺奏状 第一

第一に新宗を立つる失。

夫れ仏法東漸の後、わが朝に八宗あり。或は異域の神人来って伝授し、或は本朝の高僧往きて益を請ふ。時に上代の明王勅して施行し、霊地名所、縁に従って流布す。その新宗を興し、一途を開くの者、中古より以降、絶えて聞かず。蓋し機感已に足り、法時応ぜざるものか。およそ宗を立つるの法、先づ義道の浅深を分ち、能く教門の権実を弁へ、浅を引いて深に通じ、権を会して実に帰す。大小前後、文理繁しと雖も、その一法に出でず。その一門に超えず、かの至極を探って、以て自宗とす。譬へば衆流の巨海に宗するがごとく、なほ万郡の一人に朝するに似たり。
もし夫れ浄土の念仏を以て別宗と名づけば、一代の聖教、ただ弥陀一仏の称名のみを説き、三蔵の指帰、偏(ひとえ)に西方一界の往生のみに在らんか。今末代に及びて始めて一宗を建てしむるは、源空はその伝燈の大祖なるか。あに百済の智鳳、大唐の鑑真のごとく、千代の規範と称し、寧(なん)ぞ高野の弘法、叡山の伝教に同じく、万葉の昌栄ある者か。もし古より相承して今に始まらずとならば、誰か聖哲に逢ひて面(まのあた)りに口択〔決〕を受け、幾(いくばく)の内証を以て教誡示導するや。たとひ功あり徳ありと雖も、すべからく公家に奏して以て勅許を待つべし。私に一宗と号すること、甚だ以て不当なり。

興福寺奏状 第二

第二に新像を図する失。

近来、諸所に一の画図を翫ぶ。世に摂取不捨の曼陀羅と号す。弥陀如来の前に衆多の人あり。仏、光明を放ち、その種種の光、或は枉げて横に照し、或は来りて本に返る。是れ顕宗の学生、真言の行者を本とし、その外に諸経を持し、神呪を誦して、自余の善根を造(な)すの人なり。その光の照すところ、ただ専修念仏の一類なり。地獄の絵像を見るの者は、罪障を作すことを恐れ、この曼荼羅を見るの者は、諸善を修することを悔ゆ。教化の趣、多く以てこの類なり。上人云く、「念仏衆生摂取不捨は経文なり。我、全く過なし」と云云。この理然らず、偏(ひとえ)に余善を修して、全く弥陀を念ぜざれば、実に摂取の光に漏るべし。既に西方を欣び、また弥陀を念ず、寧(なん)ぞ余行を以ての故に、大悲の光明を隔てんや。

興福寺奏状 第三

第三に釈尊を軽んずる失。

夫れ三世の諸仏、慈悲均しと雖も、一代の教主、恩徳独り重し、心あらんの者、誰かこれを知らざる。ここに専修の云く、「身に余仏を礼せず、口に余号を称せず」と。その余仏余号とは、即ち釈迦等の諸仏なり。専修専修、汝は誰が弟子ぞ、誰かかの弥陀の名号を教へたる、誰かその安養浄土を示したる。憐むべし、末生にして本師の名を忘れたること。かの覚親論師(仏陀密多)、法愛沙門、この咎に及ばず、なほ大聖の呵を蒙る者か。善導の礼讃の文に云く、「南無釈迦牟尼仏等一切三宝、我稽首礼、南無十方三世虚空遍法界微塵刹土中一切三宝、我稽首礼」と云云。和尚の意趣、これを以て知りぬべし。衆僧なほ帰命す、況んや諸仏においてをや。諸仏なほ簡ばず、況んや本師においてをや。

興福寺奏状 第四

第四に万善を妨ぐる失。

およそ恒沙の法門、機を待ちて開き、甘露の良薬、縁に随って授く。皆是れ釈迦大師、無量劫の中に難行苦行して得るところの正法なり。今一仏の名号を執して、都(すべ)て出離の要路を塞ぐ。ただ自行のみにあらず、普く国土を誡め、ただに棄置するのみにあらず、あまつさへ軽賤に及ぶ。しかる間、浮言雲のごとく興り、邪執泉のごとく涌く、或は法花経を読むの者は地獄に堕つと云ひ、或は法花を受持して浄土の業因と云ふ者は、是れ大乗を謗る人なりと云云。本八軸・十軸を誦して千部万部に及ぶの人、この説を聞いて永く以て廃退す。あまつさへ前非を悔ゆ。捨つるところの本行、宿習実に深く、企つるところの念仏、薫修未だ積まず、中途にして天を仰ぎて歎息する者多し。この外、花厳・般若の帰依、真言・止観の結縁、十の八九は皆以て棄置す。堂塔の建立、尊像の造図のごとき、これを軽んじて、これを咲ふこと、土のごとく、沙のごとし。福恵共に闕け、現当憑み少し。上人は智者なり、自らは定めて謗法の心なきか。ただし門弟の中、その実知り難し。愚人に至っては、その悪少からず。根本始末、恐らくは皆同類なり。昔信行禅師の三階の行業を立て、孝慈比丘の一乗の読誦を止めし、全く大乗を軽んぜす、末世の機を量りて、その行を制止す。しかるに、信行、大蛇の身と成りて、百千の徒衆、その口中に住し、孝慈、鬼神の害に当りて、士人同類、忽ちに高座の下に臥す。大乗を謗ずる業、罪の中に最も大なり。五逆罪と雖も、また及ぶこと能はず。是を以て、弥陀の悲願、引摂広しと雖も、誹謗正法、捨てて救ふことなし。ああ西方の行者、憑むところ誰に在るぞや。

興福寺奏状 第五

第五に霊神を背く失。

念仏の輩、永く神明に別る、権化実類を論ぜず、宗廟大社を憚らず。もし神明を恃めば、必ず魔界に堕つと云云。実類の鬼神においては、置いて論ぜず。権化の垂迹に至っては、既に是れ大聖なり。上代の高僧皆以て帰敬す。かの伝教、宇佐宮に参じ、春日社に参じて、おのおの奇特の瑞相あり。智証、熊野山に詣(けい)し、新羅神を請じて、深く門葉の繁昌を祈る。行教和尚の袈裟の上に、三尊影を宿し、弘法大師の画図の中に、八幡質(すがた)を顕はす。是れ皆法然に及ばざるの人か、魔界に堕つべきの僧か。なかんずく、行教和尚、大安寺に帰りて、二階の楼を造りて、上階に八幡の御体を安じ、下階に一切経論を持す。神明もし拝するに足らざれば、如何ぞ聖体を法門の上に安ぜんや。末世の沙門、なほ君臣を敬す、況んや霊神においてをや。此のごときの麁言、尤も停廃せらるべし。

興福寺奏状 第六

第六に浄土に暗き失。

観無量寿経を勘ふるに、云く、「一切の凡夫、かの国に生ぜんと欲せば、まさに三業を修すべし。
一は、父母に孝養し、師長に奉仕し、慈心にして殺さず、十善の業を修す。
二は、三帰を受持し、衆戒を具足して、威儀を犯さず。
三は、菩提心を起して、深く因果を信じ、大乗を読誦すべし」と云云。
また九品生の中に上品上生を説いて云く、「諸の戒行を具し、大乗を読誦すべし」、中品下生に、「父母に孝養し、世の仁愛を行ふべし」と云云。
曇鸞大師は念仏の大祖なり。往生の上輩において五種の縁を出せり。その四に云く、「修諸功徳」、中輩七縁の中に、「起塔寺」「飯食沙門」と云云。
また道綽禅師、常修念仏三昧の文を会して云く、「念仏三昧を行ずること多きが故に常修と言ふ、全くに余の三昧を行ぜずと謂ふにはあらざるなり」と云云。善導和尚は、見るところの塔寺、修葺(しゅうしゅう)せずといふことなし。しからば、上、三部の本経より、下、一宗の解釈に至るまで、諸行往生、盛んに許すところなり。
しかのみならず、曇融、橋を亘し、善晟、路を造り、常旻、堂を修し、善冑、坊を払ひ、空忍、花を採み、安忍、香を焼き、道如、食を施し、僧慶、衣を縫ふ。おのおの事相の一善を以て、皆順次の往生を得。僧喩の阿含を持し、行衍の摂論を論ぜし、小乗の一経と雖も、おのおの感応あり、実に浄土に詣す。沙門道俊は、念仏隙なくして大般若を書せず、覚親論師は、専修他を忘れて釈迦の像を造らず。皆往生の願を妨げて、大聖の誡を蒙る。永くその執を改めて、遂に西方に生ず。まさに知るべし、余行によらず、念仏によらず、出離の道、ただ心に在り。
もし夫れ法花に即住安楽の文ありと雖も、般若に随願往生の説ありと雖も、彼はなほ惣相なり、少分なり。別相の念仏に如かず、決定の業因に及ばずとならば、惣は則ち別を摂して、上は必ず下を兼ぬ。仏法の理、その徳必ず然(しか)なり。何ぞ凡夫親疎の習を以て、誤って仏界平等[1]の道を失はんや。
もし往生浄土は、行者の自力にあらざれば、ただ弥陀の願力を憑む。余経余業においては、引摂の別縁なく、来迎の別願なし。念仏の人に対して及ぶこと能はざるにおいては、弥陀の所化として来迎に預るべし。あに異人ならんや、是の人なり。釈迦の遺法に逢ひて、大乗の行業を修す、即ちその体なり。もしかの尊に帰せざれば、実に無縁と謂ふべし。もし念仏を兼ねざれば、かつは闕業たるべし。
既に二辺を兼ねたり、何ぞ引摂に漏れん。もし専念なき故に往生せずとならば、智覚禅師は毎日一百箇の行を兼修せり、何ぞ上品上生を得たるや。およそ造悪の人は、救ひ難くして恣(ほしいまま)に救ひ、口に小善を称するは、生じ難くして倶に生ず。「乃至十念」の文、その意知るべし。しかるに近代の人、あまつさへ本を忘れて末に付き、劣を憑みて勝を欺く。寧ぞ仏意に叶はんや。

かの帝王の政を布くの庭に、天に代わって官を授くるの日、賢愚品に随ひ、貴賤家を尋ぬ。至愚の者、たとひ夙夜(しゅくや)の功ありと雖も、非分の職に任せず。下賤の輩、たとひ奉公の労を積むと雖も、卿相の位に進み難し。大覚法王の国、凡聖来朝の門、かの九品の階級を授くるに、おのおの先世の徳行を守る。自業自得、その理必然なり。しかるに偏に仏力を憑みて涯分を測らざる、是れ則ち愚癡の過なり。なかんづく、仮名の念仏、浄業熟し難く、順次往生、本意に違失あり、戒恵倶に闕く、恃むところ何事ぞや。もし生生を経て漸(ようや)く成就すべくは、一乗の薫修、三密の加持。あにまたその力なからんや。同じく沈むと雖も、愚団の者は深く沈み、共に浮むと雖も、智鉢は早く浮む。況や智の行を兼ぬるは、虎の翅(つばさ)あるなり、一を以て多を遮す。仏宜しく照見すべし。

ただし此のごときの評定、本より好まず。専修の党類、謬って井蛙(せいあ)の智を以てし、猥(みだりがわ)しく海鼈(かいべつ)の徳を斥(きら)ふの間、黙して止み難く、遂に天奏に及べり。もし愚癡の道俗、この意を得ず、或いは往生の道を軽んじ、或いは念仏の行を退け、或いは余行を兼ねずして、浄土に生ずることなくは、全くに本懐にあらず、還って禁制すべし。たとひまたこの事によって、念仏の瑕瑾たりと雖も、その軽重を比するに、なほ宣下に如かざるか。

興福寺奏状 第七

第七に念仏を誤る失。

先づ所念の仏において名あり体あり。その体の中に事あり理あり。次に能念の相について、或は口称あり、或は心念あり。かの心念の中に、或は繋念あり、或は観念あり。かの観念の中に、散位より定位に至り、有漏より無漏に及ぶ。浅深重重、前は劣、後は勝なり。
しからば、口に名号を唱ふるは、観にあらず、定にあらず、是れ念仏の中の麁なり浅なり。もし世に随ひ、人によって、これまた足ると雖も、正しく校量に及ばは、争(いか)でか差別を弁(わきま)へざらん。ここに専修、此のごときの難を蒙らんの時、万事を顧みず、ただ一言に答へん、「是れ弥陀の本願に四十八あり、念仏往生は第十八の願なり」と。何ぞ爾許(そこばく)の大願を隠して、ただ一種を以て本願と号せんや。かの一願に付きて、「乃至十念」とは、その最下を挙ぐるなり。観念を以て本として、下口称に及び、多念を以て先として、十念を捨てず、是れ大悲の至って深く、仏力尤も大なるなり。その導き易く生じ易きは、観念なり、多念なり。これによって観経に云く、「もし人苦に迫められて、念仏を得ざれば、まさに無量寿仏と称すべし」と云云。
既に称名の外に念仏の言あり、知りぬ、その念仏は、是れ心念なり、観念なり。かの勝劣両種の中に、如来の本願、寧ぞ勝を置きて劣を取らんや。いかに況んや、善導和尚発心の初め、浄土の図を見て嘆じて云く、「ただこの観門、定めて生死を超えん」と。遂にこの道に入って、三昧を発得す。定めて知りぬ、かの師の自行、十六想観なり。念仏の名、観と口を兼ぬ。もし然らずは、観経の疏を作り、また観念法門を作る。本経と云ひ、別草と云ひ、題目に何ぞ観の字を表せんや。しかるに、観経付属の文、善導一期の行、ただ仏名に在らば、下機を誘ふるの方便なり。かの師の解釈の詞に表裏あり、慈悲智慧、善巧一にあらず、杭を守る儻(ともがら)、過を祖師に関(あず)くるか。
たとひまた口称に付くと雖も、三心能く具し、四修闕くることなき、真実の念仏を名づけて専修とす。ただ余行を捨つるを以て専とし、口手を動かすを以て修とす。謂ひつべし、「不専の専なり、非修の修なり」と。虚仮雑毒の行を憑み、決定往生の思ひを作さば、寧ぞ善導の宗、弥陀の正機ならんや。およそ浄土と云ひ、念仏と云ひ、業因と云ひ、往生と云ふ、江湖の浅深分ち難く、行道の遠近迷ひ易し。もし諸宗の性相を学ばざれば、争でか輒(たやす)く一門の真実を知らんや。
ここにわが法相大乗宗は、源釈尊慈尊の肝心より出でて、詳(つまびら)かに本経本論の誠文に載す。印度には則ち千部の論師・十大菩薩、有空の執を立破し、晨旦にはまた三蔵和尚・百本疏主、相承謬ることなし。道綽・善導の説たりと雖も、未だ依憑に足らず。しかれども彼もまた三昧発得の人たり、あに一生補処の説に背かんや。互に会通を求めて、乖諍を好むことなかれ。

興福寺奏状 第八

第八に釈衆を損ずる失。

専修の云く、「囲棊双六は専修に乖かず、女犯肉食は往生を妨げず、末世の持戒は市中の虎なり、恐るべし、悪(にく)むべし。もし人、罪を怖れ、悪を憚らば、是れ仏を憑まざるの人なり」と。
此のごときの麁言、国土に流布す、人の意を取らんがために、還って法の怨(あだ)と成る。夫れ極楽の教門、盛んに戒行を勧む、浄土の業因、これを以て最とす。所以はいかんとならば、戒律にあらざれば六根守り難く、根門を恣(ほしいまま)にすれば三毒起り易し。妄縁身に纏(まと)はれば、念仏の窓静かならず、貪瞋心を濁せば、宝池の水澄み難し。この業の感ずるところ、あにそれ浄土ならんや。これによって、浄土の業因、盛んに戒行を用ふ。教文は上に載するがごとし。
ただし末世の沙門、無戒破戒なる、自他許すところなり。専修の中にまた持戒の人なきにあらず。今歎くところは全くその儀にあらず。実のごとくに受けずと雖も、説のごとくに持せずと雖も、これを怖れ、これを悲しみて、すべからく慚愧を生すべきの処に、あまつさへ破戒を宗として、道俗の心に叶ふ。仏法の滅する縁、これより大なるはなし。洛辺近国なほ以て尋常(よのつね)なり、北陸・東海等の諸国に至っては、専修の僧尼盛んにこの旨を以てすと云云。勅宣ならざるよりは、争でか禁遏(きんあつ)することを得ん。奏聞の趣、専らこれらに在るか。

興福寺奏状 第九

第九に国土を乱る失。

仏法・王法猶し心身のごとし、互にその安否を見、宜しくかの盛衰を知るべし。当時浄土の法門始めて興り、専修の要行尤も盛んなり。王化中興の時と謂ふべきか。ただし三学已に廃し、八宗まさに滅せんとす。天下の理乱、亦復如何(またまたいかん)。願ふところは、ただ諸宗と念仏と、あたかも乳水のごとく、仏法と王道と、永く乾坤に均しからんことなり。
しかるに諸宗は皆念仏を信じて異心なしと雖も、専修は深く諸宗を嫌ひ、同座に及ばず、水火並び難く、進退惟(こ)れ谷(きわ)まる。もし専修の志のごとくは、天下海内の仏事法事、早く停止せらるべきか。しかるに、貴賎未だ帰せず、法命未だ終尽せざるは、全く他の力にあらず、忝くもわが后(きみ)の叡慮動くことなく明鑑の故なり。もし後代に及びて専修隙を得るの時、君臣の心、余を視ること芥(あくた)のごとくは、たとひ停廃に及ばずと雖も、八宗まことに有若亡(ゆうじゃくぼう)ならんか。矧(いわ)んやまた弗沙蜜王の伽藍を壊せしや、愚臣の諫言を容(もち)ゐ、会昌天子の僧尼を殄(ほろぼ)せしや、道士の嫉妬に起れり。法滅の因縁、将来測り難し。この事を思ふがために天聴に奏達す。もし当時の誡なくは、争でか後毘の惑を絶たん。ああ仏門随分の欝陶、古来多しと雖も、八宗同心の訴訟、前代未聞なり。事の軽重、恭(うやうや)しく聖断を仰ぐ。望み請ふらくは、天裁、七道諸国に仰せて、沙門源空の専修念仏の宗義を糺改せられんことを、者(てえれば)、世尊付属の寄(よせ)、いよいよ法水を舜海の浪に和し、明王照臨の徳、永く魔雲を堯山の風に払はん。

誠惶誠恐謹言。

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奏 状

 奏状一通

右件の源空、一門に偏執し、八宗を都滅す。天魔の所為、仏神痛むべし。仍って諸宗関心、天奏に及ばんと欲するのところ、源空既に怠状を進む、鬱陶に足らざるの由、院宣によって御制あり。衆徒の驚歎、還って其の色を増す。なかんづく、叡山、使を発して推問を加うるの日、源空筆を染めて起請を書くの後、かの弟子等、道俗に告げて云く、「上人の詞、皆表裏あり、中を知らず、外聞に拘はることなかれ」と云々。
その後、邪見の利口、都て改変なし。今度の怠状、また以って同前か。奉事、実ならざれば、罪科いよいよ重し。たとひ上皇の叡旨ありとも、争でか朝臣の陳言なからん、者、望み請ふらくは、恩慈、早く奉聞を経て、七道諸国に似せて、一向専修条条の過失を停止せられ、兼ねてまた罪過を源空ならびに弟子等に行われんことは、者、永く破法の邪執を止め、還って念仏の真道を知らん。仍って言上件のごとし。

元久二年十月 日


  1. ここでは公平の意で平等という語を使ったのであろうが、阿弥陀如来の平等に衆生を救済するという意味を誤解している。