「名体不二」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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+ | たとえば、お説教で、名号のおいわれを聞くといいますけれど、おいわれを聞いただけでは助からんので名号そのものを聞かなくちゃならない。名号のおいわれを聞くという考え方は従来の言語論でありまして、その場合には言葉はまだ符合もしくは概念にとどまっている。「南無阿弥陀仏」の裏に仏の本願があって、それに救われるというだけでは、名号そのものに救われるということは出てこない。 | ||
+ | 名号のいわれを聴くということだと、名号とそして名前にこもっている事柄とが別々のものになってしまう。いわれというものは本来名号をはなれてはないわけで、その両方が一体、[[名体不二]]と言葉では一応いわれておりますが、そういう名体不ニということが本当に理解されているかどうかと思うわけです。 | ||
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2019年5月14日 (火) 13:11時点における版
名号について哲学的考察をされた大峯顕師(1929-2018)は、
たとえば、お説教で、名号のおいわれを聞くといいますけれど、おいわれを聞いただけでは助からんので名号そのものを聞かなくちゃならない。名号のおいわれを聞くという考え方は従来の言語論でありまして、その場合には言葉はまだ符合もしくは概念にとどまっている。「南無阿弥陀仏」の裏に仏の本願があって、それに救われるというだけでは、名号そのものに救われるということは出てこない。 名号のいわれを聴くということだと、名号とそして名前にこもっている事柄とが別々のものになってしまう。いわれというものは本来名号をはなれてはないわけで、その両方が一体、名体不二と言葉では一応いわれておりますが、そういう名体不ニということが本当に理解されているかどうかと思うわけです。
といわれていた。
- 『西方要決』に云く。諸仏願行 成此果名。但能念号 具包衆徳。故成大善不廃往生。已上
- 『西方要決』云く。諸仏は願行をもて、此の果名を成ずれば、但だ能く号(みな)を念ずれば、具(つぶさ)に衆(もろもろ)の徳を包(か)ねたり。故に大善を成じ、往生を廃せず。 已上
- 故知。弥陀名号之中 即彼如来従初発心 乃至仏果 所有一切万行万徳皆悉具足無有欠減。
- 故に知んぬ。弥陀の名号の中に即ち彼の如来 初発心より乃至仏果まで、所有(あらゆる)一切の万行万徳、みな悉く具足して欠減有ること無し。
- 非唯弥陀一仏功徳。亦摂十方諸仏功徳。以一切如来 不離阿字故。因此念仏者 諸仏所護念。今此仏号 文字雖少 具足衆徳。
- 唯だ弥陀一仏の功徳のみに非ず。また十方諸仏の功徳を摂す。一切の如来は、阿字を離れざるを以ての故に、これに因(よ)つて念仏の者は、諸仏に護念せらるる所なり。今この仏号は文字少しと雖ども衆徳を具足す。