「一願建立」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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「廬山寺本」から寿前観後(大経が先に説かれ観経はその後に説かれた)といふ意の略抄をしておく。このことから法然聖人も無量寿経が根本であるとみておられたことが判る。 | 「廬山寺本」から寿前観後(大経が先に説かれ観経はその後に説かれた)といふ意の略抄をしておく。このことから法然聖人も無量寿経が根本であるとみておられたことが判る。 | ||
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+ | ::中に就いて『大阿弥陀経』と『双巻経』とはこれ同本異訳也。しかれば彼の『大阿弥陀経』に阿闍世王太子和休、二十四願経を聞きて云く、願を発すと。この『観経』に云く、ひとりの太子あり、阿闍世と名く太子の前後に及ぼして知るべし。この説の如くんば、『観経』はこれ前(さ)き、『寿経』は是れ後なることを。 | ||
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+ | ::答へて曰く、二経の前後、実に知り難しといへども道理を以つて推験するに『寿経』はこれ前説なり。一に云く、仏と行者と修因感果の理。二に云く仏身観の中の念仏衆生の理。三に云く法蔵比丘四十八大願等の理なり。 | ||
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+ | ::一に仏と行者と理とは『双巻経』の中に法蔵比丘の修因を説く、及び無量寿仏の感果を明す。この『観経』の中に行者の定散修因を説き、及び九品往生の感果を明す。もしそれ前に仏と土を聞かずんば、云何んが後に修因ありて果を求めん。 | ||
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+ | ::しかれば則ち弥陀修因感果に次いで、行者の修因感果来たることなるが故に知んぬ、『寿経』はさき『観経』は後の説といふことを。 | ||
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+ | ::二に念仏衆生の理とは、念仏の行相細く『双巻経』に説けり。この経の中に定散の諸行を説きて、未だ念仏の行相を説かず。もしまた『双巻』の前に在りて、念仏を説かざるに、何を以つてか念仏の法あると知ることを得ん。 | ||
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+ | ::しかも『寿経』の中において本願を首として念仏の法を説きたまふに七処の文あり。一に謂く本願の文。二に謂く願成就の文。三に謂く上輩の中の一向専念の文。四に謂く中輩の中の一向専念の文。五に謂く下輩の中の乃至十念の文。六に謂く同輩の中の乃至一念の文。七に謂く流通の初の一念無上の文これなり。 | ||
+ | ::もし念仏の法、前に聞かざれば、云何が直に念仏衆生と説かん。故に知んぬ寿前観後なることを。 | ||
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+ | ::三に法蔵比丘の理とは第七観の終に、これ本法蔵比丘願力所成と云えり。中品下生の中にまた云く、説法蔵比丘 四十八大願と云ふ。 | ||
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+ | ::若し法蔵の因を六八願と名づくること前に説かずんば、云何が能く直に法蔵比丘四十八大願と云わん。 | ||
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+ | ::此等の理を以つて、しかもこれを推験するに寿前観後、まさにこれ明らけし。 | ||
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+ | ::ただ王と太子とに至つては、玅楽大師、部別見別不須和会と云ひ、荊渓独歩の才を仰ぐ。 | ||
:故知、観経所説念仏起自寿経。 | :故知、観経所説念仏起自寿経。 |
2020年2月7日 (金) 22:11時点における版
「廬山寺本」から寿前観後(大経が先に説かれ観経はその後に説かれた)といふ意の略抄をしておく。このことから法然聖人も無量寿経が根本であるとみておられたことが判る。
- 問いて曰く、『双巻』・『観経』二経の前後は互に是非あり。古今の諍論なり。しかれば今、何の決智を得てか『寿経』前説と定めんや。
- 中に就いて『大阿弥陀経』と『双巻経』とはこれ同本異訳也。しかれば彼の『大阿弥陀経』に阿闍世王太子和休、二十四願経を聞きて云く、願を発すと。この『観経』に云く、ひとりの太子あり、阿闍世と名く太子の前後に及ぼして知るべし。この説の如くんば、『観経』はこれ前(さ)き、『寿経』は是れ後なることを。
- 答へて曰く、二経の前後、実に知り難しといへども道理を以つて推験するに『寿経』はこれ前説なり。一に云く、仏と行者と修因感果の理。二に云く仏身観の中の念仏衆生の理。三に云く法蔵比丘四十八大願等の理なり。
- 一に仏と行者と理とは『双巻経』の中に法蔵比丘の修因を説く、及び無量寿仏の感果を明す。この『観経』の中に行者の定散修因を説き、及び九品往生の感果を明す。もしそれ前に仏と土を聞かずんば、云何んが後に修因ありて果を求めん。
- しかれば則ち弥陀修因感果に次いで、行者の修因感果来たることなるが故に知んぬ、『寿経』はさき『観経』は後の説といふことを。
- 二に念仏衆生の理とは、念仏の行相細く『双巻経』に説けり。この経の中に定散の諸行を説きて、未だ念仏の行相を説かず。もしまた『双巻』の前に在りて、念仏を説かざるに、何を以つてか念仏の法あると知ることを得ん。
- しかも『寿経』の中において本願を首として念仏の法を説きたまふに七処の文あり。一に謂く本願の文。二に謂く願成就の文。三に謂く上輩の中の一向専念の文。四に謂く中輩の中の一向専念の文。五に謂く下輩の中の乃至十念の文。六に謂く同輩の中の乃至一念の文。七に謂く流通の初の一念無上の文これなり。
- もし念仏の法、前に聞かざれば、云何が直に念仏衆生と説かん。故に知んぬ寿前観後なることを。
- 三に法蔵比丘の理とは第七観の終に、これ本法蔵比丘願力所成と云えり。中品下生の中にまた云く、説法蔵比丘 四十八大願と云ふ。
- 若し法蔵の因を六八願と名づくること前に説かずんば、云何が能く直に法蔵比丘四十八大願と云わん。
- 此等の理を以つて、しかもこれを推験するに寿前観後、まさにこれ明らけし。
- ただ王と太子とに至つては、玅楽大師、部別見別不須和会と云ひ、荊渓独歩の才を仰ぐ。
- 故知、観経所説念仏起自寿経。
- ゆゑに知りぬ、『観経』所説の念仏は、『寿経』より起こる。
- 所以大経是念仏根本、説本願故
- ゆゑんは『大経』はこれ念仏の根本なり、本願を説くがゆゑに。
- 観経是念仏枝末、依本願故。
- 『観経』はこれ念仏の枝末なり、本願によるがゆゑに。
- 然則雖説定散諸行 非本願故 以不付属者也
- しかればすなわち、定散諸行を説くといえども、本願に非ざるが故に以て付属せず。(『原典版聖典』七祖篇 校異 1552頁)
また法然聖人は御開山の記述された『西方指南鈔』上末で、
- 次に『双巻無量寿経』・浄土三部経の中には、この経を根本とするなり。 (法然聖人御説法事)
と『双巻無量寿経』を根本の経であるとみておられたのである。後年、浄土真宗(教団の意)では、法然聖人と御開山の差異を強調する為に法然聖人は『観経』に依拠したと語るのだが、甚だしい錯誤である。