「多念義」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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たねんぎ
一生涯、数多くの念仏を称え、臨終来迎をまって浄土往生が決定すると主張する説。一念義に対する。法然門下の隆寛らによって主張されたといわれ、隆寛の長楽寺流は法然門下の浄土五流の一つに数えられる。ただし、隆寛は、一念多念に偏執してはならないことを説く『一念多念分別事』の著者と考えられている。→一念多念。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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◆ 参照読み込み (transclusion) JDS:多念義
たねんぎ/多念義
法然門下の隆寛の門流を指す。または、長楽寺流ともいう。法然滅後、その門下は、諸行往生、信行、一念多念等の教理的な受け止め方について様々な問題がおこり分立がはじまる。東大寺凝然の『源流章』、日蓮の『一代五時図』には、滅後の門流について、幸西、聖光、証空、長西、隆寛の五つの門流が示されているが、このなかで隆寛の流義は多念義とされる。『源流章』では多念義について、ひとたび信を起こして後、臨終の夕べまで退転することなく念仏相続する臨終業成を重視した念仏として解釈したようである。隆寛『散善義問答』等には、隆寛の教理の臨終を強調した側面を認めることができるが、平安期以来の数量作善的な念仏とは異なる。また内容的には信を重視した安心派の傾向が強く、至誠心の解釈を阿弥陀仏の側におき、自力作善的な念仏を辺地往生として不往生とし、信決定、三心具足の他力念仏を報土往生としている。また称名以外の九品往生行についても決定信の有無で報土・辺地往生に分かつという、信を軸にした独特な廃立観をもっている。このような教理的な側面は証空、親鸞に大きな影響を与えた。隆寛には敬日、智慶、信瑞など多くの門弟がいたが、隆寛独自の他力念仏の継承はみえず、諸行往生を容認した念仏を説いた。なお『明義進行集』では、法性寺の空阿弥陀仏を多念の棟梁としているが、隆寛との関連はない。
【資料】『源流章』、『法水分流記』
【参考】平井正戒『隆寛律師の浄土教』(国書刊行会、一九八四)、松野純孝「隆寛の立場」(浄土学二八、一九六一)、伊藤茂樹「隆寛の諸行往生論について—九品廃立と諸宗融和—」(『浄土学仏教学論叢』一、山喜房仏書林、二〇〇四)
【参照項目】➡法然門下の異流、長楽寺、長楽寺流、隆寛、智慶、敬日、信瑞、一念義
【執筆者:伊藤茂樹】