「上宮太子御記」の版間の差分
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Ⅱ-0993上宮太子御記 釋迦の正覺成たまひし日より、涅槃にいりたまふよにいたるまで、ときたまへるところのもろもろのみのり、ひとつもまことにあらざることなし。始には華嚴を說て菩薩に解らしめたまふ。日のいでて、まづ高峰をてらすがごとし。つぎに阿含をのべて聲聞にしらしむ、日の高くして漸深谷をてらすがごとし。また所所にして方等部の種種の經をあらわすなり。佛は一音に說たまふといへども、衆生はしなじなに隨て解をうること、一味の雨の平等にそゝぐといへども、草木の大小にしたがふて、うくるところおなじからざるがごとくなり。一十六會の中に般若の空のさとりを敎を、四十餘年ののちに法華の妙道をひらきたまへり。鷲の峰にしてまたおもひあらわれ、鶴の林にして聲たゑたまひしより、迦葉は詞を鐘の音に傳、阿難は身を鎰のあなよりいて、つゐにえらび千人の羅漢をとゞめて、みなしるしをける一代の敎なり。それよりのち、二十餘人の聖うけ傳え、十六の大國之皇ひろめ守りたまへりき。釋尊は滅したまへども敎法はすでにとまり、藥をⅡ-0994とゞめて醫師にわかれたるにおなじ。誰か煩惱の病をのぞかざらむ。玉をかけて親友のさるににたり。つぎに无明の醉をさますべし。そもそも天竺は佛のあらわれて法を說たまふ境、震旦は法傳りてひろまる國なり。ふたところをきくに、佛法漸澆てたるところなり。震旦の貞元三年に玄奘三藏天竺に行輪し時、鷄足山のふるきみち、竹しげりて人もかよわず、孤獨園の昔の庭には、室うせて僧もすまざりけり。摩竭陀國にゆきて菩提樹院をみれば、昔國王の觀音の像を造れるあり。身はみな地の底に入て、肩より上わづかに出たるなり。佛法滅しをわらむときに、此像いりはつべしとのたまひけり。また震旦にも聖人おほく道さかりなれども、屢みだるゝ時あり。後周のすゑの代に、大に魔の風をあふぎ、將に法の燈を滅せしかば、靄禪師の世を悲しかば、身を恨てもて、命をすつ。遠法師の道をおしみしは、王に對て罪を論ぜしなり。開皇のころに重てもて弘き、大業の代にまたもて衰へしかば、鬼泣、神歎、山鳴、海騷。また會昌の太子おほく經論をやきしかば、宮の内の公卿、かうべを低てもてなげき、門の前の官人は、なみだを流してもて悲しなり。彼貞觀より已來三百六十餘年をへだつれば、天竺を想像に觀音の像いまはいりをわりぬらむ。會昌より以後一百四十餘年にをよびぬれば、大唐をⅡ-0995推量に、法門の數成少ぬらむと。W云々Rあなたうと佛法東に流てさかりに我國に止れり。跡をたれたる聖、昔大くあらわれて、道を弘たまふ君、今朝にあひつぎたまへるなり。十方界にあひがたく、无量劫にきゝがたき大乘經典を、こゝにして大きゝみること、これおぼろげの縁にあらず。法の御音はどくのつゞみのごとし、一度きくに无明のあだをころすがごとし。經のみなは藥の木におなじ、わづかにあたるに輪廻の病をたすく。此ゆへにすゝむるにねむごろなる志は、身の皮をはぎて大乘の文典をうつすべしと。これを敬こゝろは、くちのいきをもて經卷の塵をのかざれとしめさしめたまへるなり。夫雪山童子は半偈を求て命をすて、最勝仙人は一偈をねがひて身を破しなり。常啼は東をこひ、善財は南を求め、藥王は臂をともし、普明は首をすてむとしき。設一日に三度恆沙のかずの身をすつとも、尙佛法の一句の恩をも報ずることあたはず。昔牀の下にして法を聞し犬は、舍衞國にむまれて聖となり、林の中にして經をきゝし鳥は、忉利天にむまれてたのしみをうけき。鳥獸如是、いわむや人の愼てもて聞をや。嗟呼滅度の後、像法のころにいたりて、震旦にははじめて漢の世明帝の時始て天竺より傳、我國にはおそく欽明天皇の代に百濟より來れりしなり。我いまたなごゝろをあはせて法の妙Ⅱ-0996なることをあらわすなり。 昔上宮太子と言聖御坐き。用明天皇のはじめて親王と成し時に、穴太部の間人皇女の御はらより誕生したまへる王子なり。始て母の夫人の夢に、金色なる僧ありて云、我世を助くるねがひあり、しばらく御はらに宿らむと。我は救世菩薩なり、家西方にありといひて、口の中におどりいるとみて、懷妊したまへる太子なり。太子の御伯父敏達天皇の、天下を治したまふ始のとしの正月一日に、夫人宮の内をめぐりて、むまやのもとにいたるほどに、覺ずして生たまへるなり。おもと人いそぎて寢殿にいたるほどに、にわかにあかきひかり西より來ている。御身ははなはだかうばし。よつきの後よくもののたまふ。あくる年の二月十五日の朝より自たなごゝろをあはせて、東に向て南无佛とまふして拜たまふ。太子六歲なるに、百濟國より始て法師尼、經論をもて來れり。太子そうしたまふ。わたれる經論を見と、香をたきてひらきみることおはりて、またそうしたまふ。月ごとの八日・十四日・十五日・廿三日・廿九日・卅日、これを六齋とす。この日は梵王帝釋國のまつりごとをみる。ものゝいのちをころすことをとゞむべしと。帝皇よろこびたまひて、天下に詔をくだしたまひて、此日日にはものをころすことをとゞめたⅡ-0997まふ。八年の冬、新羅國より佛像をたてまつれり。太子そうしたまふ。西國の聖釋迦牟尼佛の像なりと。新羅國より日羅と云人來れり。身に光あり。太子ひそかにいやしき衣をきて、もろもろの童にまじわりて、難波の館にいたりてこれをみたまふに、日羅、太子をさしてあやしぶ。太子おどろきてもてさる。日羅地にひざまづきて、たなごゝろをあはせて曰く、敬禮救世觀世音、傳燈東方粟散王、從於西方來誕生、皆演妙法度衆生とまふすほどに、日羅おほきに身の光をはなつ。太子また眉間より光をはなちたまふ。また百濟より彌勒の石の像をもてわたせり。大臣蘇我の馬子の宿禰、この像をうけたり。家の東に寺を造て、安置したてまつりて恭敬したてまつる。尼三人をすえて供養せるなり。大臣此寺に塔をたつ。太子のたまはく、塔はこれ佛舍利のうつわものなり、釋迦如來の御舍利自然にいできたりなむと。大臣これをきゝて祈に、齋食の飯のうえに佛舍利一粒をえたり。瑠璃のつぼにいれて、塔におきておがむ。太子と大臣と意をひとつして三寶を弘。この時に國の内に病おこりて、死する人大くあり。大連物部の弓削の守屋と中臣の勝海とともに奏してまふさく、我國にはもとより神をのみたふとみあがむ。しかるに蘇我の大臣、佛法と云ものを興しておこなふ。これによりて病世におこりⅡ-0998て、人民みなたえぬべし。これは佛法をとゞめてなん、ひとの命はのがるべきとそうす。帝皇詔してのたまはく、まふすところあきらけし、はやく佛法をたてと宣言あり。太子奏したまふ、二の人はいまだ因果のことわりを不知なり。よきことをおこなえばさいわいいたる、あしきことをおこなえばわざわい來る。此二りいまかならずわざわいにあいなむと奏したまふ。しかれども宣旨ありて、守屋の大連を寺につかわして、堂塔を破り佛經をやく。燒のこれる佛をば、難波のほりえにすてつ。三人の尼をばせめうちておいいだす。この日雲なくて大風ふき、雨くだる。太子、わざわいはいまおこりぬとのたまふ。この後に瘡の病世におこりて、やみいたむことやきさくがごとし。ふたりの大臣ことにおもきとがをくひて、奏してまふす、臣等が病くるしみいたむことたえがたし、ねがはくは三寶にいのりたてまつらむと。また敕ありて、三人の尼をめして二人の大臣をいのらしむ。また堂塔たえうせにし、佛法を改しむるなり。これよりまた興ず。太子の御父用明天皇位につきたまひぬ。二年ありてのたまはく、我三寶に歸依しなむと思。蘇我大臣おほせごとにしたがはむと奏し、法師をめして内裏にいれしなり。太子よろこびて大臣の手をとりて、なみだをながしてのたまはく、三寶のたえなることⅡ-0999を人いまだしらぬに、大臣意をよせたり、うれしくもあるかなとのたまふ。ある人ひそかに守屋の大連につげていはく、人々はかりごとをなして、兵士をまふけよ、あひたすくべしといへり。守屋の大連また皇を呪咀したてまつるといふこときこえなれりとなり。蘇我大臣言、太子武士をひきゐて守屋の大連を追と。守屋また兵士をおこして城をつきふせぐ。御戰、その軍こはくさかりなり。御かたの兵士おそりおのゝきて三度しりぞきかへる。このときに太子御歲十六なり。將軍のうしろにたちて、軍の務ごとをしめす。また秦川勝、白膠木をもて四天王の像をきざみつくらせて、もてもとゞりのうえにさし、ほこのさきにさゝげて願をおこしていはく、我等をして戰にかたしめたまへ、しからば、四天王の像をあらはし塔寺をたてんといへり。大臣もまた如是願じて戰ふ。物部の守屋の大連、大なるいちゐの木にのぼりて、物部の氏の大明神をいのりちかひて矢をはなつ。太子の御あぶみにあたれり。太子また舍人迹見の赤榑におほせて、四天王にいのりて矢をはなたしむ。とおく守屋の連がむねにあたりてさかさまに木よりおちぬ。其軍みだれ破れぬ。せめゆきて守屋がかうべをきりつ。家の内の資財莊園おばみな寺のものとなして、玉造の岸の上に始て四天王寺をたつ。これより佛法彌さかりⅡ-1000なり。 太子の御伯父舅崇峻天皇位につきたまひぬ。この御宇に太子十九歲にて冠したまふ。また太子の伯母推古天皇位につきたまへり。國のまつりごとをみな太子にまかせたまふ。百濟國の使にて阿佐といふ王子きたれり。太子を拜て言、敬禮救世大慈觀世音菩薩、妙敎流通東方日本國、四十九歲傳燈演說とまふす。太子眉間より白光をはなちたまふ。太子、甲斐國よりたてまつれる黑駒の足よつ白に乘じて、雲に入て東にさりぬ。調士麿馬の右にそえり。人々あふぎてみる。信濃國にいたりて、みこしの境をめぐりて、三日をへて歸たまへり。太子、推古天皇の御前にして、高座にのぼりて『勝鬘經』を講じたまふ。もろもろの名僧をして義をとはしむるに、時にこたふること妙なり。三日講じおわる夜、空より蓮華ふれり。華の廣は三尺、地三四丈にふりつもれり、四寸ばかりなり。あくる朝に御門みたまふて、その地に寺を建、いまの橘寺なり。ふれる華、今に此寺にあり。また太子、小野の妹子を敕使として、さきの世に衡州衡山にありしとき、たもちたりしところの經をおしえてとりにつかわす。おしえてのたまはく、赤縣の南に衡山あり、山内に般若寺あり。昔同法はみなすでに死しおはりにけむ、たゞ三人ぞあらむ。Ⅱ-1001吾使となのりて、そこに住せし時たもてりし複一卷の『法華經』を、こひてもて來れとのたまふ。妹子わたりゆきて、おしえにしたがひてもていたりぬ。門に一の沙彌ありて、これをみてすなわち入て云く、思禪師の使來れりと告。しわおひたる僧三人つゑをついて出、よろこびゑみて使におしえて經をとらしめつ。すなわち將きたれり。太子いかるがの宮の寢殿のかたはらに舍をつくりて夢殿となづく。月に三度沐浴して入たまふ。あくる朝出、閻浮提のことをかたりたまふ。またこの中に入て諸經の疏を製たまふ。あるいは七日七夜出たまわず、戸をとぢておともしたまはず。高麗の惠慈法師の云く、太子三昧定に入たまへり、おどろかしたてまつることなかれと。八日といふ朝に出たまへり。玉枕の上にひとまきの經あり。惠慈法師をめして語てのたまはく、吾先身に衡山にありし時、たもてりし經はこれなり。過にし歲、妹子がもて來しは、吾弟子の經なり。三人の老僧、吾おさめしところを不知して、他經をおくれりしなり。よてわがたましゐをつかわしてとらしむとのたまふ。さきの經はみあわするに、これにはなき文字ひとつあり。このたびの經はひとまきにかけり。黃なるかみにて玉の軸なり。又百濟國より僧道忻等十人來てつかふまつる。さきの世に衡山にして『法華經』を說し時、我らはⅡ-1002廬岳の道士としてときどきまいりて聞人々なりとまふす。後の歲、小野妹子、また大唐にわたれりしなり。衡山にゆきたれば、さきの僧ひとりのこりて、かたりていはく、過たる歲の秋、汝がくにの太子、もとは思禪師、靑龍の車にのりて、五百人をしたがへて、東方より空をふみてきたりて、ふるきむろの内をさぐりて、一卷の經をとりて、雲をしのびてさりしなりといふ。あきらかにしりぬ、此夢殿に入たまひしほどのことなりけりと。太子御后妃柏手の氏かたわらに候。太子語てのたまはく、君、吾こゝろのごとし、ひとつのこともたがわず。さいわいなり。吾死なむ日は穴をおなじくして、ともにうづむべしとなり。后こたえてまふす、千秋萬歲、あしたゆふべにつかえむとおもふ。いかなるこゝろありてか、今日おはらむことをばのたまふやと。太子こたえていはく、始有者終あり、者のさだまれる理なり。一度生て一たび死るは、人のつねの道なり。我昔數多身をかへて佛道をおこなひつとめき。わづかに小國の太子として、妙なる義を流布し、法なきところに一乘の義をときつ。五濁惡世に久く遊とおもはずとのたまふ。后、淚を流して、もてこれをうけたまはる。太子、難波より都にかへりたまふ、片岳山の道の邊に餓たる人臥せり。のりたまへる黑駒あゆまずして止る。太子、馬よりおⅡ-1003りてかたらひたまふ。紫の上の御衣をぬぎて、おほゐたまふ。卽歌を詠じてのたまはく、 「志奈天留屋 片岳山仁 伊悲爾宇惠天 臥多比人 阿波禮於夜奈志仁 奈禮奈利計如屋 左須多爾乃 木見夜波那幾木仁 伊比仁宇惠天 臥留旅人 阿波禮」 と。餓たる人、頭をもちあげて、御返事をたてまつる。 「伊賀留我乃 登三乃緖河乃 多江波古曾 我大君乃 御名乎和春禮妻」 太子、宮にかへりたまひてののち、此人死にけり。太子かなしみたまひて、葬せしめたまふ。大臣等このことをそしる人々七人あり。めして太子のたまふ。片岳にゆきてみよとのたまへば、行てみるにそのかばねなし、ひつぎのうちはなはだかうばし。みなおどろきあやしむ。太子いかるがの宮にましまして、妃を語たまひて、沐浴し頭をあらはせ、淨衣をきせしめたまふて、我今夜ともに去とのべたまひ、牀をならべて臥たまひぬ。あくる朝に、久おきたまはず、人々大殿の戸をひらひてみるに、ともにかくれたまひにけり。御貌わもとのごとし。御香ことに馥し。御歲四十九歲なり。おはりたまふ日、黑駒いなゝきよばひて、くさ・水をくわず、輿にしたがひてみさゝぎにいたる。一度いなゝきてたうれ死ぬ。そのかⅡ-1004ばねをもうづも。太子かくれたまひし日、彼衡山よりもてわたりたまへりし經は、にわかにうせぬ。いま寺にある、妹子がもてきたれりし經なり。新羅よりきたれりし釋迦佛の像は、いまにやましな寺の東の堂にあり。百濟よりたてまつれりし石の彌勒の像は、いまふるき京元興寺の東の堂にあり。太子、四天王寺・法隆寺・元興寺・中宮寺・橘寺・蜂岳寺・池後寺・葛城寺・日向寺を造たまへり。太子、三御名あり。一には、廐戸の豐聰耳の皇子とまふす。王宮の廐戸のもとにて生たまへり。十人が一度にうれえをまふすことをよくきゝて、ひとことおももらさずしてことわりたまふによりてまふすところなり。また、聖德太子とまふす。生れたまひての御ありさま、皆僧ににたまえり。『勝鬘經』・『法華經』等の經疏を製て法をひろめ、人をわたしたまふによりて聖德とまふすなり。また、上宮太子とまふす。推古天皇の御宇に、太子を皇宮の南にすましめて、國のまつりごとをまかせたまふによりてなり。 『日本記』、平氏撰『聖德太子傳』、『上宮記』、諾樂の古京藥師寺の沙門景戒之撰『日本國現報善惡異記』等に見たるなり。『日本三寶感通集』卷第一云、天王寺の御手印の縁起曰、寶塔一基心柱の中に佛舍利髮毛を籠たまへりと。W云々R又金堂の中にⅡ-1005舍利拾參粒をおさめいれたまへりと。W云々R崇峻天皇元年に百濟國より佛舍利をたてまつり、『日本記』にいたりて靈驗をあかさずと。太子御廟の註文出現の事、 後冷泉院卽位第十年也、天喜二年歲次[甲午]僧忠禪爲起寶塔、削手于地、而間地中堀出一銅䈄。其蓋銘曰、今年歲次[辛巳]河内國石川郡磯長里、有一勝地、尤足稱美故點墓所已了。吾入滅以後及于四百參拾餘歲、此記文出現哉。爾時國王大臣、發起寺塔、願求佛法耳。W云々R内銘曰、吾爲利生、彼衡山入此日域、降伏守屋之邪見、終顯佛法之威德。於處處造立四十六箇之伽藍、化度一千三百餘歲之僧尼、製記『法華』・『勝鬘』・『維摩』等大乘義疏。斷惡修善之道、漸以滿足矣。 『文松子傳』云、 大慈大悲本誓願 愍念有情如一子 是故方便從西方 誕生片州興正法 我身救世觀世音 定慧契女大勢至 生育我身大悲母 西方敎主彌陀尊 眞如眞實本一體 一體現三同一身 片城化縁亦已盡 還歸西方我淨土 Ⅱ-1006爲度末世諸有情 父母所生血肉身 遺留勝地此廟崛 三骨一廟三尊位 過去七佛法輪處 大乘相應功德地 一度參詣離惡趣 決定往生極樂界 印度號勝鬘夫人 晨旦稱惠思禪師 惠文禪師・惠慈法師、太子御時師主也、思禪師御師也。 佛法傳來振旦・日域有三節、所謂正像末也。正法千年之間天竺流布。像法第十三年漢明帝代時、中天竺摩騰迦・竺法蘭二人聖人、佛敎負白馬來。振旦漢明帝、都西白馬寺始興佛法。後經四百八十餘年、大日本國第三十主欽明天皇代、百濟國聖明王、佛像・經卷等獻我朝王、入像法五百歲也。 正嘉元歲[丁巳]五月十一日書寫之 愚禿親鸞W八十五歲R 以彼眞筆草本 弘安六年八月三日 釋寂忍W二十五歲R Ⅱ-1007德治第二曆孟冬六日天、於造岡道場、拜見此書、於和田宿坊、書寫之了。 釋覺如 予依目所勞更發、右筆參差、仍雇他筆雖終功、至于奧又故書止之而已。