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「尊号真像銘文(建長本)」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

(ページの作成:「尊号真像銘文(建長本) Ⅱ-0603尊號眞像銘文 「大无量壽經言」といふは、四十八願をときたまへる經なり。「設我得佛」(...」)
 
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2022年5月20日 (金) 01:46時点における最新版

尊号真像銘文(建長本)

Ⅱ-0603尊號眞像銘文

「大无量壽經言」といふは、四十八願をときたまへる經なり。「設我得佛」(大經*卷上)といふは、もしわれ佛になりたらむときといふ御ことばなり。「十方衆生」といふは、十方のよろづの衆生といふなり。「至心信樂」といふは、「至心」は眞實とまふすなり、眞實とまふすは如來の御ちかひの眞實なるⅡ-0604を至心とまふすなり。煩惱具足の衆生は、もとより眞實の心なし、淸淨の心なし、濁惡邪見のゆへなり。「信樂」といふは、如來の本願眞實にましますを、ふたごゝろなくふかく信じてうたがはざれば、信樂とまふすなり。この「至心信樂」は、すなわち十方の衆生をしてわが眞實なる誓願を信樂すべしとすゝめたまへる御ちかひの至心信樂なり、凡夫自力のこゝろにはあらず。「欲生我國」といふは、他力の至心信樂をもて、安樂淨土にむまれむとおもへとなり。「乃至十念」とまふすは、如來のちかひの名號をとなえむことをすゝめたまふに、徧數のさだまりなきほどをあらはし、時節をさだめざることを衆生にしらせむとおぼしめして、乃至のみことを十念のみなにそえてちかひたまへるなり。如來より御ちかひをたまはりぬⅡ-0605るには、尋常の時節をとりて臨終の稱念をまつべからず、ただ如來の至心信樂をふかくたのむべし。この眞實信心をえむとき、攝取不捨の心光にいりぬれば、正定聚のくらゐにさだまるとみえたり。「若不生者不取正覺」といふは、「若不生者」はもしむまれずはといふみことなり。「不取正覺」は佛にならじとちかひたまへる御のりなり。この本願のやうは、『唯信抄』によくよくみえたり。「唯信」とまふすは、すなわちこの眞實信樂をひとすぢにとるこゝろをまふすなり。「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」はたゞのぞくといふことばなり。五逆のつみびとをきらい謗Ⅱ-0606法のおもきとがをしらせむとなり。このふたつのつみのおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせむとなり。
「其佛本願力」(大經*卷下)といふは、彌陀の本願力とまふすなり。「聞名欲往生」といふは、「聞」といふは如來のちかひの御なを信ずとまふすなり。「欲往生」といふは、安樂淨刹にむまれむとおもへとなり。「皆悉到彼國」といふは、御ちかひのみなを信じてむまれむとおもふ人は、みなもれずかの淨土にいたるとまふす御ことなり。「自致不退Ⅱ-0607轉」といふは、「自」はおのづからといふ、おのづからといふは衆生のはからいにあらず、しからしめて不退のくらゐにいたらしむとなり、自然といふことばなり。「致」といふは、いたるといふ、むねとすといふ、如來の本願の御名を信ずるひとは、自然に不退のくらゐにいたらしむるをむねとすとおもへとなり。「不退」といふは、佛にかならずなるべきみとさだまるくらゐなり。これすなわち正定聚のくらゐにいたるをむねとすとときたまへる御のりなり。
Ⅱ-0608「必得超絶去往生安養國」(大經*卷下)といふは、「必」はかならずといふ、かならずといふは自然といふこゝろなり。「得」はえたりといふ。「超」はこえてといふ。「絶」はたちはなるといふ。「去」はすつといふ、ゆくといふ、さるといふ。娑婆世界をたちすて、流轉生死をこえはなれて、安養淨土に往生をうべしとなり。「安養」といふは、安樂淨土なり。「橫截五惡趣惡趣自然閉」といふは、「橫」はよこさまといふ、よこさまといふは如來の願力を信ずるゆへに行者のはからいにあらず、五惡趣を自然にたちすて四生をはなるゝを橫といふ、他力とまふすなり。これを橫超といふなり。橫は竪に對することばなり、超は迂に對することばなり。竪と迂とは自力聖道のこゝろなり、橫と超はⅡ-0609すなわち他力眞宗の本意なり。「截」といふはきるといふ、五惡趣のきづなをよこさまにきるなり。「惡趣自然閉」といふは、願力に歸命すれば五道生死をとづるゆへに自然閉といふなり。「閉」はとづといふ。本願の業因にひかれて自然に安樂にむまるゝなり。「昇道无窮極」といふは、「昇」はのぼるといふ、のぼるといふは无上涅槃にいたる、これを昇といふなり。「道」は大涅槃道なり。「无窮極」といふはきわまりなしとなり。「易往而无人」といふは、「易往」はゆきやすしとなり、本願力に乘ずれば本願の實報土にむまるゝことうたがひなければ、ゆきやすきなり。「无人」といふⅡ-0610はひとなしといふ、ひとなしといふは眞實信心の人はありがたきゆへに實報土にむまるゝ人まれなりとなり。しかれば、源信和尙は、「報土にむまるゝ人はおほからず、化土にむまるゝ人はすくなからず」(要集*卷下意)とのたまへり。「其國不逆違自然之所牽」といふは、「其國」はそのくにといふ。「不逆違」はさかさまならずといふ、たがはずとなり。「逆」はさかさまといふ、「違」はたがふといふなり。眞實信をえたる人は、大願業力のゆへに、自然に淨土の業因たがはずして、かの業力にひかるゝゆへにゆきやすく、无上大涅槃にのぼるにきわまりなしとのたまへるなり。しかれば、「自然之所牽」とまふすなり。他力の至心信樂の業因の自然にひくなりとなり。
Ⅱ-0617「婆藪般豆菩薩論曰」といふは、「婆藪般豆」は天竺のことばなり、震旦には天親菩薩とまふす。またいまは世親菩薩とまふす。「論曰」は、世親菩薩、彌陀の本願を釋したまへる御ことを「論」といふなり、「曰」はこゝろをあらはすことばなり。この論おば『淨土論』といふ、また『往生論』といふなり。「世尊我一心」(淨土論)といふは、「世尊」は釋迦如來なり。「我」といふは世親菩薩のわがみとのたまへるなり。「一心」といふは、敎主世尊のみことをふたごゝろなくうたがひなしとなり、すなわちこれまことの信心なり。「歸命盡十方无㝵光如Ⅱ-0618來」とまふすは、「歸命」は南无なり、歸命とまふすは如來の敕命にしたがひたてまつるなり。「盡十方无㝵光如來」とまふすはすなわち阿彌陀如來なり、この如來は光明なり。「盡十方」といふは、「盡」はつくすといふ、ことごとくといふ、十方世界をつくしてことごとくみちたまへるなり。「无㝵」といふは、さわることなしとなり。衆生の煩惱惡業にさえられざるなり。「光如來」とまふすは阿彌陀佛なり。この如來はすなわち不可思議光佛とまふす。この如來は智慧の相なり、十方微塵刹土にみちたまへりとしるべしとなり。「願生安樂國」といふは、世親菩薩、かの无㝵光佛の願行を信じて安樂國にむまれむとねがひたまへるなり。「我依修多羅眞實功德相」といふは、「我」は天親論主のわれとなのりたまへる御ことばⅡ-0619なり。「依」はよるといふ、修多羅によるとなり。「修多羅」は天竺のことば、佛の經典をまふすなり。佛敎に大乘あり、また小乘あり。みな修多羅とまふす。いま修多羅とまふすは大乘なり、小乘にはあらず。いまの三部の經典は大乘修多羅なり、この三部大乘によるとなり。「眞實功德相」といふ、誓願の尊號なり。「說願偈總持」といふは、本願のこゝろをあらはすことばを「偈」といふなり。「總持」といふは智慧なり、无㝵光の智を總持とまふすなり。「與佛敎相應」といふは、この『論』のこゝろは、釋尊の敎敕、彌陀の誓願にあひかなへりとなり。「觀彼世界相勝過三界道」とⅡ-0620いふは、かの安樂世界をみそなわすに、ほとりきわなきこと虛空のごとし、ひろくおほきなること虛空のごとしとなり。
「觀佛本願力遇无空過者」(淨土論)といふは、如來の本願力をみそなわすに、願力を信ずるひとは、むなしくこゝにとゞまらずとなり。「能令速滿足功德大寶海」といふは、「能」はよしといふ、「令」はせしむといふ、「速」はすみやかにとしといふ。よく本願力を信樂するひとは、すみやかにとく功德の大寶海を信者のそのみに滿足せしむるなり。如來の功德のきわなくひろくおほきなることを、大海のみづのみちみてるがごとしとたとへたてまⅡ-0621つれるなり。
Ⅱ-0623光明寺善導和尙の銘にいはく、
「智榮」とまふすは、震旦の聖人なり。善導の別德をほめたまふていはく、「善導は阿彌陀佛の化Ⅱ-0624身なり」とのたまへり。「稱佛六字」といふは、南无阿彌陀佛の六字をとなふるとなり。「卽嘆佛」といふは、すなわち南无阿彌陀佛をとなふるは、ほめたてまつることばになるとなり。また「卽懺悔」といふは、南无阿彌陀佛をとなふるは、すなわち无始よりこのかたの罪業を懺悔するになるとまふすなり。「卽發願廻向」といふは、南无阿彌陀佛をとなふるは、すなわち安樂淨土に往生せむとおもふになるとなり。「一切善根莊嚴淨土」といふは、阿彌陀の三字に一切善根をおさめたまへるゆへに、名號をとなふれば淨土を莊嚴するになるとしるべしとなり。智榮禪師、善導をほめたまへるなり。◆

◆(六三六頁参照)

Ⅱ-0625善導和尙ののたまはく、
「言南无者」(玄義分)といふは、「南无」は、すなわち歸命とまふすことなり。歸命は、すなわち釋迦・彌陀の二尊の敕命にしたがひ、めしにかなふとまふすことばなり。このゆへに「卽是歸命」とのたまへり。「亦是發願廻向之義」といふは、二尊のめしにしたがふて、安樂淨土にむまれむとねがふこゝろなりとのたまへるなり。「言阿彌陀佛者」といふは、「卽是其行」とのたまへり。卽是其行は、これすなわち法藏菩薩の選擇の本願なⅡ-0626り。安養淨土の正定の業因なりとのたまへるこゝろなり。「以斯義故」といふは、この義をもてのゆへにといえるこゝろなり。「必得往生」といふは、かならず往生をえしむといふなり。「必」はかならずといふ、かならずといふは、自然のこゝろをあらわす、自然ははじめてはからはずとなり。
又(觀念*法門)曰、
「言攝生增上縁者」といふは、「攝生」は十方衆生を誓願におさめとりたまふとまふすこゝろなり。「如无量壽經四十八願中說」といふは、如來Ⅱ-0627の本願をときたまへるみことなりとしるべしとなり。「若我成佛」とまふすは、法藏菩薩ちかひたまはく、もしわれ佛になりたらむときとなり。「十方衆生」といふは、十方のよろづの衆生なり、すなわちわれらなり。「願生我國」といふは、安養淨刹にむまれむとねがへとなり。「稱我名字」といふは、われ佛になれらむにわがなをとなへられむとなり。「下至十聲」といふは、名字をとなへられむことしもとこゑせむものとなり。「下至」といふは、十聲にあまれるもの、一念二念聞名のものを、往生にもらさずきらはぬことをあらはししめすとなり。「乘我願力」といふは、「乘」はⅡ-0628のるべしといふ、また智なり。智といふは、願力にのせたまふとしるなり。願力にのせて安養淨刹にむまれしむるとなり。「若不生者不取正覺」といふは、ちかひを信じたるもの、もし本願の實報土にむまれずは、佛にならじとちかひたまへる御のりなり。「此卽是願往生行人」といふは、これすなわち往生をねがふ人といふなり。「命欲終時」といふは、いのちおはらむとせむときといふ。「願力攝得往生」といふは、大願業力攝取して往生をえしむといへるこゝろなり。すでに尋常のとき信樂をえたる人なり、臨終のときはじめて信心決定して攝取にあづかるものにあらず。ひごろ、かの心光に攝護せられまいらせたる金剛心をえたる人なれば正定聚に住するゆへに、臨終のときにあらず。かねて尋常のときよⅡ-0629りつねに攝護してすてたまはざれば、攝得往生とまふすなり。このゆへに「攝生增上縁」となづくるなり。またまことに尋常のときより信なからむ人は、ひごろの稱念の功によりて、最後臨終のときはじめて善知識のすゝめにあふて信心をえむとき、願力攝して往生をうるものもあるべしとなり。臨終の來迎をまつものは、かくのごとくなるべしと。
又(觀念*法門)曰、
Ⅱ-0630「言護念增上縁者」といふは、まことの信心をえたるひとを、このよにてつねにまもりたまふとまふすことなり。「但有專念阿彌陀佛衆生」といふは、ひとすぢにふたごゝろなく彌陀佛を念じたてまつるとまふすなり。「彼佛心光常照是人」といふは、「彼」はかのといふ。「佛心光」は无㝵光佛の御こゝろとまふすなり。「常照」はつねにてらすとまふす。つねにといふは、ときをきらはず、日をへだてず、ところをわかず、まことの信心ある人おばつねにてらしたまふとなり。てらすといふは、かの佛心光におさめとりたまふとなり。「佛心光」は、すなわち阿彌陀佛の御こゝろにおさめたまふとしるべし。「是人」は信心をえたる人なり。つねにまもりたまふとまふすは、天魔波旬にやぶられず、惡鬼・惡神にみだられず、攝護不捨したまふⅡ-0631ゆへなり。「攝護不捨」といふは、おさめまもりてすてずとなり。「總不論照攝餘雜業行者」といふは、「總」はすべてといふ、みなといふ。すべて雜行雜修の人おばみなてらさず、おさめまもりたまはずとなり。てらしまもりたまはずとまふすは、攝取不捨の利益にあづからずとなり。本願の行者にあらざるゆへなりとしるべし。しかれば、攝護不捨と釋したまはず。「現生護念增上縁」といふは、このよにてまもりたまふとまふすみことなり。「增上縁」はすぐれたる強縁なりとなり。
Ⅱ-0635首楞嚴院源信和尙のたまはく、
「我亦在彼攝取之中」(要集*卷中)といふは、われまたかの攝取のなかにありとのたまへるなり。「煩惱障眼」といふは、われら煩惱にまなこさえらるとなり。「雖不能見」といふは、煩惱のまなこにて佛をみたてまつることあたはずといゑどもといふなり。「大悲无惓」といふは、大慈大悲の御めぐみ、ものⅡ-0636うきことましまさずとまふすなり。「常照我身」といふは、「常」はつねにといふ、「照」は无㝵の光明、信心の人をつねにてらしたまふとなり。つねにてらすといふは、つねにまもりたまふとなり。「我身」は、わがみを大慈大悲心ものうきことなく、つねにまもりたまふとおもへとなり。攝取不捨のこころをあらわしたまふ。「念佛衆生攝取不捨」の文を釋したまへるなり。
日本源空聖人の銘にいはく、四明山權律師劉官讚、
「普勸道俗念彌陀佛」といふは、「普勸」はあまねⅡ-0637くすゝむとなり。「道俗」は、道にふたりあり俗にふたりあり。道のふたりは、一には僧、二には比丘尼なり。俗にふたりは、一には佛のみのりを信じ行ずる男なり、二には佛のみのりを信じ行ずる女なり。「念彌陀佛」とまふすは、尊號を稱念するなり。「能念皆見化佛菩薩」とまふすは、「能念」はよく尊號を念ずといふ、よく念ずといふはふかく信ずるなり。「皆見」といふは、化佛・菩薩をみむとおもふ人はみなみたてまつるとなり。「化佛菩薩」とまふすは、彌陀の化佛、觀音・勢至等の聖衆なり。「明知稱名」とまふすは、あきらかにしりぬ、佛のみなをとなふれば「往生」すといふこⅡ-0638とを「要術」といふ。往生の要には如來のみなをとなふるにすぎたることなしとなり。「宜哉源空」とまふすは、「宜哉」はよしといふなり。「源空」は聖人の御ななり。「慕道化物」といふは、「慕道」は无上道をねがひしたふといふなり。「化物」といふは、衆生を利益すとまふすなり。「信珠在心」といふは、金剛の信心をめでたきたまにたとへたまふ。信心のたまをこゝろにえたる人は、生死のやみにまどはざるゆへに、「心照迷境」といふなり。心照迷境といふは、信心のたまをもて、愚癡のやみをはらひ、あきらかにてらすとなり。「疑雲永晴」といふは、「疑雲」は願力をうたがふこゝろくもにたとへたるなり。「永晴」といふは、うたがふこゝろのくもをながくはらしぬれば安樂淨土へかならずむまるるなり。无㝵光佛の攝取Ⅱ-0639不捨の心光をもて信心をえたるひとをつねにてらしたまふゆへに、「佛光圓頂」といへり。佛光圓頂といふは、佛心のひかりあきらかに信心のひとのいたゞきをつねにてらしたまふとほめたまへるなり。
Ⅱ-0640日本源空聖人ののたまはく、『選擇本願念佛集』にいはく、
「南无阿彌陀佛往生之業念佛爲本」といふは、安養淨刹の往生の正因は念佛を本とすとまふすみことなり。正因といふは、淨土へむまるゝたねとまふすなり。
又(選擇集)曰、「夫速欲離生死」といふは、それすみやかにとく生死をはなれむとおもへといふなり。「二種勝法中且閣聖道門」といふは、「二種勝法」は、聖道・淨土の二門なり。「且閣聖道門」は、「且閣」はしばらくさしおけとなり、しばらく聖道門をさしおくべしとなり。「選入淨土門」とⅡ-0641いふは、「選入」はえらびていれとなり、よろづの善法の中にえらびて淨土門にいるべしとなり。「欲入淨土門」といふは、淨土門にいらむとおもはゞといふなり。「正雜二行中且抛諸雜行」といふは、正雜二行ふたつのなかに、しばらくもろもろの雜行をなげすてさしおくべしとなり。「選應歸正行」といふは、えらびて正行に歸すべしとなり。「欲修於正行正助二業中猶傍於助業」といふは、正行を修せむとおもはゞ、正行・助業ふたつのなかに助業をさしおくべしとなり。「選應專正定」といふは、えらびて正定の業をふたごゝろなく修すべしとなり。「正定之業者Ⅱ-0642卽是稱佛名」といふは、正定の業因はすなわちこれ佛名を稱するなり。正定の因といふは、かならず无上涅槃のさとりをひらくたねとまふすなり。「稱名必得生依佛本願故」といふは、佛のみなを稱するはかならず安養淨土に往生をうるなり、佛の本願によるがゆへなりとのたまへり。
又(選擇集)曰、「當知生死之家」といふは、まさにしるべし生死のいゑといふなり。「以疑爲所止」といふは、大願の不思議力をうたがふこゝろをもて、六道・四生・二十五有にとゞまるなり。いまにまよふとしるべしとなり。「涅槃之城」といふは、安養淨刹をまふすなり、これを涅槃のみやことはまふすなり。「以信爲能入」といふは、眞實の信心をえたる人のみ、本願の實報土によくいるとしⅡ-0643るべしとなり。
Ⅱ-0644法印聖覺和尙ののたまはく、
「夫根有利鈍者」といふは、それ衆生の根性に利鈍ありとなり。「利」といふはこゝろのときひとなり、「鈍」といふはこゝろのにぶきひとなり。「敎有漸頓」といふは、衆生の根性にしたがふて佛敎に漸頓ありとなり。「漸」はやうやく佛道を修して、三祇百大劫をへて佛になるなり。「頓」はこの娑婆世界にして、このみにてたちまちに佛になるとまふすなり。これすなわち佛心・眞言・法華・華嚴等のさとりをひらくなり。「機有奢促者」といふⅡ-0645は、機に奢促あり。「奢」はおそきこゝろなるものあり、「促」はときこゝろなるものあり。このゆへに「行有難易」といへり、行につきて難あり、易ありとなり。「難」は聖道門自力の行なり、「易」は淨土門他力の行なり。「當知聖道諸門漸敎也」といふは、すなわち難行なり、また漸敎なりとしるべしとなり。「淨土一宗者」といふは、頓敎なり、また易行なりとしるべしとなり。「所謂眞言止觀之行」といふは、「眞言」は密敎なり、「止觀」は法華なり。「獼猴情難學」といふは、われらがこゝろをさるのこゝろにたとへたるなり。さるのこゝろのごとくさだまらずとなり。このゆへにⅡ-0646眞言・法華の行は、修しがたく行じがたしとなり。「三論法相之敎牛羊眼易迷」といふは、われらがまなこをうし・ひつじのまなこにたとへて、三論・法相宗等の聖道自力の敎にはまどふべしとのたまへるなり。「然至我宗者」といふは、聖覺和尙ののたまはく、「わが淨土宗は、彌陀の本願の實報土の正因として、十聲稱念すれば、无上菩提にいたるとおしへたまふ。善導和尙の御おしえには、三心を具すればかならず安樂にむまるとのたまへるなり」(唯信*鈔意)と、聖覺和尙ののたまへるなり。「雖非利智精進」といふは、智慧もなく精進のみにもあらず、鈍根懈怠のものも、專修專念の信心をえつれば往生すとこゝろうべしとなり。「然我大師聖人」といふは、聖覺和尙は、聖人をわが大師聖人とあおぎたのみたまふ御ことばなⅡ-0647り。「爲釋尊之使者弘念佛之一門」といふは、源空聖人は釋迦如來の御つかいとして念佛一門をひろめたまふとしるべしとなり。「爲善導之再誕勸稱名之一行」といふは、聖人は善導和尙の御身として稱名の一行をすゝめたまふなりとしるべしとなり。「專修專念之行自此漸弘无間无餘之勤」といふは、一向專修とまふすことはこれよりひろまるとしるべしとなり。「然則破戒罪根之輩加肩入往生之道」といふは、破戒・无戒の人、罪業ふかきもの、みな往生すとしるべしとなり。「下智淺才之類振臂赴淨土之門」といふは、無智・無才のものは淨土門におもむくべしとなり。「誠知Ⅱ-0648无明長夜之大燈炬也何悲智眼闇」といふは、まことにしりぬ、彌陀の誓願は无明長夜のおほきなるともしびなり。なむぞ智慧のまなこくらしとかなしまむやとおもへとなり。「生死大海之大船筏也豈煩業障重」といふは、彌陀の願力は生死大海のおほきなるふね・いかだなり。極惡深重のみなりともなげくべからずとのたまへるなり。「倩思敎授恩德實等彌陀悲願者」といふは、師主のおしえをおもふに、彌陀の悲願にひとしとなり。大師聖人のおしえの恩おもくふかきことをおもひしるべしとなり。「粉骨可報之摧身可謝之」といふは、大師聖人の御おしえの恩德のおもきことをしりて、ほねをこにしても報ずべしとなり。身をくだきても恩をむくうべしとなり。よくよくこの和尙のこのおしえを御覽ずべしと。
Ⅱ-0649愚禿親鸞「正信偈」にいはく、
Ⅱ-0650「本願名號正定業」といふは、選擇本願の行なり。「至心信樂願爲因」といふは、彌陀如來廻向の眞實信心を阿耨菩提の因とすべしとなり。「成等覺證大涅槃」といふは、「成等覺」といふは正定聚のくらゐなり。このくらゐを龍樹菩薩は「卽時入必定」(十住論卷*五易行品)とのたまへり、曇鸞和尙は「入正定聚之數」(論註*卷上意)とおしへたまへり。これはすなわち彌勒のくらゐとひとしとなり。「證大涅槃」とまふすは、必至滅度の願成就のゆへにかならず大般涅槃をさとるとしるべし。「如來所以興出世」といふは、諸佛のよにいでたまふゆへとまふすみことなり。「唯說彌陀本願海」といふは、諸佛のよにいでたまふ御本懷は、ひとへに願海一乘の法をとかむとなり。しかれば、『大經』(卷上)には、「如來所以興出於世欲拯群萌惠以Ⅱ-0651眞實之利」とときたまへり。「五濁惡時群生海應信如來如實言」といふは、よろづの衆生、如來のこのみことをふかく信受すべしとなり。「能發一念喜愛心」といふは、一念慶喜の眞實信よく發すれば、かならず本願の實報土にむまるとしるべし。「不斷煩惱得涅槃」といふは、煩惱具足せるわれら、无上大涅槃にいたるなりとしるべし。「凡聖逆謗齊廻入」といふは、小聖・凡夫・五逆・謗法・無戒・闡提、みな廻心して眞實信心海に歸入しぬれば、衆水海にいりてひとつあぢわいとなるがごとしとなり。これを「如衆水入海一味」といふなり。「攝取心光常照護」といふは、Ⅱ-0652无㝵光佛の心光つねにてらしまもりたまふゆへに、无明のやみはれ、生死のながき夜すでにあかつきになりぬとしるべし。「已能雖破无明闇」といふはこのこゝろなり。信心をうればあかつきになりぬとしるべし。「貪愛瞋憎之雲霧常覆眞實信心天」といふは、われらが貪愛・瞋憎をくも・きりにたとへたり、貪愛のくも瞋憎のきりつねに信心の天をおほえるなりとしるべし。「譬如日光覆雲霧雲霧之下明无闇」といふは、日月のくも・きりにおほはるれども、やみはれてくも・きりのしたあかきがごとく、貪愛・瞋憎のくも・きりに信心はおほはるれども、往生にさわりあるべからずとなり。「獲信見敬得大慶」といふは、この信心をえておほきによろこびうやまふひとといふなり。「卽橫超截五惡趣」といふは、信心をうればⅡ-0653すなわち橫に五惡趣をきるなりとしるべしとなり。「橫超」といふは、「橫」は如來の願力、他力をまふすなり。「超」は生死の大海をやすくこえて无上大涅槃のみやこにいるなりと。信心を淨土宗の正意としるなり。このこゝろをえつれば、他力は義なきを義とすとなり。義といふは、行者のはからふこゝろなり。このゆへに自力といふなり。よくよくこゝろふべしと。

Ⅱ-0655建長七歲乙卯六月二日
愚禿親鸞W八十三歲R書寫之