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「嘉禄の法難」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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かろくのほうなん

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かろくのほうなん/嘉禄の法難

嘉禄三年(一二二七)に浄土宗を襲った法難三大法難の一つ。法然没後の法難としては最大規模で、京都の浄土宗勢力は甚大な被害を蒙った。法然没後しばしば専修念仏停止ちょうじの命は下されたが、浄土宗すたれたわけではなく、大谷廟堂には法然を追慕する念仏者が集まり、門弟の著述活動も盛んであった。法難のきっかけは、上野こうずけ国の天台僧定照が『選択集』を非難した『弾選択』を著したことに対し、隆寛が『顕選択』で反論したことで、両書は延暦寺に送付されて騒ぎとなり、延暦寺は三塔会合を経て朝廷への専修念仏停止要請に動きだす。嘉禄三年六月、延暦寺は祇園社犬神人いぬじにん大谷廟堂を壊させ法然の遺骸を鴨川に流そうとした。六波羅探題の介入で治まりはしたが、信空覚阿改葬青蓮院門主良快に申し入れ、遺骸はひそかに掘り出され嵯峨へ運ばれ、太秦うずまさ広隆寺来迎円空に預けられた。延暦寺の要請で七月に張本とみなされた隆寛(陸奥)・空阿(薩摩)・幸西(壱岐)三名の配流が決まり、五畿七道に専修念仏停止が宣下された。証空山門訴状に上っていたが公家に誓状を提出し、良快の弁明もあり、免れている。三名が配所へ赴いたかは不明で、幸西讃岐国さぬきのくに大手島にいたとの情報があり、山門は朝廷へ検知するよう訴えている。隆寛は関東へ赴き、後日配所は対馬に変更されるが相模国で没した。この三名にとどまらず、八月には専修念仏の余党四六名を逮捕する検非違使別当宣が出され関係者の掃討がすすんだ。一〇月には『選択集』は謗法の書とされ、延暦寺は版本・版木を大講堂前で焼却すべきことを奏聞。この『選択集』は法然没後まもなく出版された建暦版と考えられる。また聖覚・貞雲・宗源など天台学匠らは関白近衛家実に専修念仏停止を申し入れた。翌安貞二年(一二二八)正月、法然の遺骸は西山粟生野あおのの幸阿のもとへ移され荼毘だびに付された。荼毘の場所には墓堂が建てられ、のちに光明寺西山浄土宗総本山)に発展。遺骨は湛空の指示で二尊院雁塔がんとうを建てて納められた。法難に先立つ承久じょうきゅう三年(一二二一)に『唯信鈔』を著し浄土宗に親近した聖覚が、このとき朝廷に弾圧を働きかけたように、浄土宗と顕密諸宗のはざまで転向現象もみられた。


【資料】『明月記』、『民経記』、日蓮『念仏者追放宣状事』、日向『金綱集』、『四巻伝』、『四十八巻伝』四二


【参考】田村円澄『新訂版法然上人伝の研究』(法蔵館、一九七二)、平雅行『日本中世の社会と仏教』(塙書房、一九九二)


【参照項目】➡建永の法難元久の法難


【執筆者:善裕昭】