「三不三信」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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2024年2月24日 (土) 21:34時点における版
『論註』には、
- しかるに名を称し憶念すれども、無明なほありて所願を満てざるものあり。なんとなれば、如実に修行せず、名義と相応せざるによるがゆゑなり。いかんが如実に修行せず、名義と相応せざるとなすとならば、いはく、如来はこれ実相身なり、これ為物身なりと知らざればなり。
- また三種の不相応あり。一には信心淳(あつ)からず、存ずるがごとく亡ずるがごときゆゑなり。二には信心一ならず、決定なきがゆゑなり。三には信心相続せず、余念間(へだ)つるがゆゑなり。この三句展転してあひ成ず。信心淳(あつ)からざるをもつてのゆゑに決定なし。決定なきがゆゑに念相続せず。また念相続せざるがゆゑに決定の信を得ず。決定の信を得ざるがゆゑに心淳(あつ)からざるべし。これと相違せるを「如実に修行し相応す」と名づく。このゆゑに論主(天親)、「我一心」と建言す。 (論註 P.103)
と二不知・三不信をしめしている。この三不信を『安楽集』では、三信と示している。
- また三種の不相応あり。 一には信心淳からず、存ぜるがごとく亡ぜるがごとくなるがゆゑなり。 二には信心一ならず、いはく、決定なきがゆゑなり。 三には信心相続せず、いはく、余念間つるがゆゑなり。 たがひにあひ収摂す。
- もしよく相続すればすなはちこれ一心なり。 ただよく一心なれば、すなはちこれ淳心なり。 この三心を具してもし生ぜずといはば、この処あることなからん。 (安楽集 P.232)
「正信念仏偈」では、この三不信を三信と示された道綽禅師の釈意を、
- 三不三信誨慇懃 像末法滅同悲引
- 三不三信の誨(おしえ)、慇懃にして、像末法滅同じく悲引す。
- 一生造悪値弘誓 至安養界証妙果
- 一生悪を造れども、弘誓に値ひぬれば、安養界に至りて妙果を証せしむといへり。(行巻 P.206)
と、道綽禅師の釈功とされている。
『高僧和讃』「曇鸞讃」(*)では、展転する、淳心、一心、相続心を、
(48)
- 不如実修行といへること
- 鸞師釈してのたまはく
- 一者信心あつからず
- 若存若亡するゆゑに
(49)
- 二者信心一ならず
- 決定なきゆゑなれば
- 三者信心相続せず
- 余念間故とのべたまふ
(50)
- 三信展転相成す
- 行者こころをとどむべし
- 信心あつからざるゆゑに
- 決定の信なかりけり
(51)
- 決定の信なきゆゑに
- 念相続せざるなり
- 念相続せざるゆゑ
- 決定の信をえざるなり
(52)
- 決定の信をえざるゆゑ
- 信心不淳とのべたまふ
- 如実修行相応は
- 信心ひとつにさだめたり
と、五句を和讃されておられた。