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あらやしき
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あらやしき/阿頼耶識
Ⓢālayavijñānaの玄奘による音写語。旧訳では阿黎耶識、または阿梨耶識と音写される。Ⓢālayaは住居、容器の意味であり、そこから蔵識などとも意訳される。唯識思想では中心的な教説の一つで、識でありながら凡夫にはその働きを感知できないが、一切の種子と根依処と器世間の三つを認識対象として保持する。すなわち一切が識のみで説明される唯識の教義において、阿頼耶識は六識以外のほぼすべての役割を果たす。また阿頼耶識は常に相続しつつ、果報の種である種子のすべてを保持し、原因から時を隔てた果報の生起を可能にする一切種子識であり、真の異熟果として来世に結生する、諸法無我を法印とする仏教の業輪廻の教説を補完する如来の密意であるとされる。阿頼耶識が保持する種子が現行して前七識となり、同時に前七識が阿頼耶識に新たに種子を熏習する。このようにして熏習と現行を繰り返して相互に因果となる。阿頼耶識と七転識の関係は、立てられた蘆の束に譬えられる。蘆一本一本はそれぞれに他の蘆を立たせ、同時に他の蘆によって立たされている、つまり原因であると同時に結果であるという含意である。法相宗において阿頼耶識は、第七末那識に次いで第八識とされ、識転変の初能変に配される。また如来蔵を説く経論の一部には如来蔵と阿頼耶識を同一視する内容がみられる。例えば『起信論』では、本来衆生の心は不生不滅の真如で、無明によって覆われた如来蔵であり、心真如が無明に覆われた真妄和合の心のあり方を阿黎耶識と説く。すなわち、心の本質は清浄であるが、無明によって覆われているため様々な妄念を生ずるのであって、心と無明とは不一不異の関係だという。唯識では阿頼耶識は全くの有漏識であるが、如来蔵では自性清浄心と捉えるところがもっとも大きく異なる。近年の研究では阿頼耶識は唯識の教義が体系化されるにつれその性質が確立され、遅れて如来蔵思想がそれを取り込みつつ、教義に合う形で変質させていったと考えられている。
【参考】勝又俊教『仏教における心識説の研究』(山喜房仏書林、一九六一)
【執筆者:小澤憲雄】