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「源空」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

 
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2024年9月1日 (日) 12:38時点における最新版

げんくう

法然聖人

 (1133-1212)浄土宗の開祖。法然上人

押領使(おうりょうし)漆間時国(うるまのときくに)の子として、美作(みまさか)久米南条稲岡庄(現在の岡山県久米郡久米南町里方)に生まれた。九歳の時、父の不慮の死によって菩提寺観覚のもとへ入寺、十五歳で比叡山に登り(十三歳登山説もある)源光ついで皇円(こうえん)に師事して天台教学を学んだが、隠遁の志あつく、十八歳の時、黒谷の叡空(えいくう)の室に入り法然房源空と名のられた。

承安五年(1175)四十三歳の時善導大師(613-681)の『観経疏』の文により専修(せんじゅ)念仏に帰し、比叡山を下りて東山吉水に移り住み、念仏の教えを弘められた。浄土宗ではこの年を立教開宗の年とする。文治二年(1186)大原勝林院で聖浄(しょうじょう)二門を論じ(大原問答)、建久九年(1198)『選択本願念仏集(せんじゃくほんがんねんぶつしゅう)』(『選択集』)を著された。

建仁元年(1201)親鸞聖人は、法然上人に出会い、専修念仏の門に帰入された。元久元年(1204)比叡山の僧徒は専修念仏の停止を迫って蜂起したので「七箇条制誡(しちかじょうせいかい)」を草して法然上人以下百九十名の署名を添え延暦寺に送るが、興福寺の奏状により念仏停止の断が下され、建永二年(承元元年・1207)上人は土佐(実際には讃岐(さぬき))に流罪となられた。

建暦元年(1211)赦免になり帰洛され、翌年正月二十五日に示寂。上人の法語や事蹟を伝えるものには『西方指南抄(さいほうしなんしょう)』『黒谷上人語灯録』などがある。

真宗七高僧の第七祖。

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

  • 心源空寂

WDM:ほうねん

宗祖は法然上人とよばれたことはない。法然聖人が正しい。林遊

◆ 参照読み込み (transclusion) JDS:法然

ほうねん/法然

長承二年(一一三三)四月七日—建暦二年(一二一二)一月二五日。浄土宗の開祖・祖師にして、日本仏教に大きな転換をもたらした僧侶。「法然」は房号であって、いみな源空法然源空が正式な僧名。幼名は勢至丸おくりなとして円光えんこう東漸とうぜん慧成えじょう弘覚こうかく慈教じきょう明照めいしょう和順わじゅん法爾ほうにの八つの大師号をはじめ、慧光菩薩、華頂尊者、通明国師などがある。また黒谷上人大谷上人吉水上人元祖(大師)、祖師とも呼ばれる。

[誕生から出家まで]

長承二年(一一三三)、美作国久米南条稲岡庄(岡山県久米郡久米南町)で誕生。父は押領使おうりょうし漆間時国うるまのときくにうるまの時国とも表記)、母は名前は不詳であるが、秦氏の出身とされる。剃刀を飲む夢を見て法然を懐妊し、出生のときには天から二流れの白幡が舞い降りて邸内の椋の木に留まり、七日後に再び天に帰っていったと伝える。法然九歳のときに父時国が、敵対していた預所あずかりどころの明石定明さだあきらの夜討ちを受けて討ち死にする。その際、時国は息子に対し「汝が敵討かたきうちをすれば遺恨が遺恨を生むことになる。よって、お前は〈今生の妄縁〉を断って、極楽往生・自他平等利益を願え」もしくは「出家せよ」と遺言したという。これによって法然は、まもなく同じ美作国にあった菩提寺観覚弟子となるが、観覚はその才能に驚き、比叡山で学ぶことを勧める。なお、夜討ちを法然比叡山登山後とする伝記もある(『別伝記』法伝全七八七)。

[天台修学から廻心まで]

一五歳(もしくは一三歳)にして比叡山へ登り、まず西塔北谷の源光弟子となるが、源光も浅学なる自分にはとても指導はできないと考え、功徳院皇円の元に送る。そして久安四年(一一四八)一一月、一六歳にして皇円(ただし『別伝記』では叡空)の元で正式に出家受戒を遂げ、それ以後、天台六〇巻を学ぶ。周りから将来を嘱望された法然であったが、自身は名利を断ってひとえに仏法を学ぼうとする志深く、一八歳のとき、ついに皇円に暇を告げて西塔黒谷叡空の元に遁世隠遁する。法然と対面した叡空は、法然が年若くして出家した動機を聞き、「法然道理ひじり」であるとして「法然」という房号を、また師の「源光」と「叡空」から一字ずつ取り「源空」という諱を授けた。二四歳のとき、叡山を下りて嵯峨釈迦堂に七日間参籠した後、興福寺法相宗蔵俊、醍醐寺に三論宗寛雅仁和寺華厳宗慶雅といった学匠を訪ね、各宗の教えについて論談するが、法然の学識にみな舌を巻くばかりであったという。これを「南都遊学」と呼ぶ。ただし、法然自身はその遊学によっても結局、出離解脱の道を見出すことができず、黒谷に帰って経蔵報恩蔵に籠もり、一切経を開き見ること五遍、その中で『往生要集』に導かれ、聖道門を捨てて浄土門に帰した。ただし、それでも往生そのものは難しいように思えたので、さらに修学を続け、『往生要集』に引用された善導の「百即百生」の文に注目して善導の著作を読むこと三遍、ついに「一心専念弥陀名号行住坐臥不問時節久近念々不捨者是名正定之業順彼仏願故」の一文に至って廻心し、「専修念仏」(「一向専修」)の教えを見出した。ときに四三歳。現在、浄土宗ではこの年をもって浄土宗開宗と見なすとともに、この「一心専念」の文をもって「開宗の文」と位置づけている。

[下山・弘教から『選択集』撰述まで]

廻心によって法然は自身の出離解脱の道については確信を得たものの、「専修念仏」の教えが人々に受け容れられるか否かについては迷っていた。するとある夜、夢に善導が現れ、専修念仏の教えを弘めようとしていることが尊いから来現したと告げられる。この夢中での善導との対面を「二祖対面」という。これによって法然比叡山を下山し、まず念仏専修を実践していた遊蓮房のいる西山の広谷に向かう。その遊蓮房往生を見届け、専修念仏の正しさを確信した法然は、東山大谷吉水に居を移し、これ以降、一時的に嵯峨、賀茂の河原屋小松谷などに住した以外は、吉水を拠点として弘教してゆくこととなる。文治二年(一一八六、一説には文治五年)、当時五四歳であった法然は、後に天台座主となる顕真の要請によって、大原重源等の諸宗の学匠を前に自らの教えを述べ、それに関して談義を行った。これを「大原問答」(もしくは「大原談義」)という。さらに同六年二月、法然重源の請いによって、再建中の東大寺で、南都の僧侶たちを前に「浄土三部経」の講義を行った。これは「東大寺講説」などと呼ばれる。これら二つの出来事を境に、多くの門弟信者法然の門を叩くようになる。おそらく法然教団のようなものが成立したのは、この頃からと考えられる。六〇歳代中頃から法然瘧病おこりやまい等の病気に悩まされるようになるが、特に六五歳の建久八年(一一九七)秋から翌年にかけての病状はかなり重篤で、四月には『没後遺誡文もつごゆいかいもん』という遺書までしたためられた。そうした中にあって、九条兼実の要請をうけて著されたのが『選択せんちゃく本願念仏集』(『選択集』)である。弥陀釈迦・諸仏が称名念仏のみを「選択」していることを示して、「専修念仏」の根拠の確立を目指した書物といえる。なお、執筆は同九年春頃とされる場合が多い。この『選択集』執筆と同時並行的に、法然念仏中に極楽の有り様が目の前に現れるという「三昧発得」の体験を持つようになる。「三昧発得」はこの後も断続的に現れ、建仁二年(一二〇二)、法然七〇歳のときには、ついに阿弥陀仏にもまみえている。この体験を記録したのが『三昧発得記』である。

法難から往生まで]

このような中にあって、法然教団は拡大を続けたようであるが、法然七〇歳前後を境として、他宗からの法然教団批判が顕在化してくる。批判の対象は直接には一部の門弟の「他宗誹謗」「造悪無礙むげ(悪を造っても念仏さえすれば往生には差し障りはないということ)・破戒為宗(むしろ破戒を教えとして勧めること)」といった行動であったが、その元凶は法然専修念仏の教えそのものにあるとして、法然自身および法然教団全体が批判されるようになっていった。まず法然七二歳の元久元年(一二〇四)一〇月には比叡山衆徒念仏停止ちょうじすべきことを天台座主に訴えた。それに対し、法然は『七箇条制誡』をしたためて門弟を誡めると同時に、『送山門起請文』を著して比叡山に対して弁明を行った。それによって一時的に批判は沈静化したが、しばらくすると門弟の言動は元に復したため、今度は興福寺貞慶が『興福寺奏状』を著すなど、興福寺が主となって朝廷に念仏禁止と法然等の処罰を要請した。以上を「元久の法難」という。ただ、興福寺側からの要請にもかかわらず、朝廷は念仏禁止には消極的で、念仏禁止や門弟等の処罰の宣旨は出すものの、ほとんど実行には移されなかったらしい。ところが、建永元年(一二〇六)、法然七四歳のとき、門弟住蓮安楽遵西じゅんさい)が鹿ししたにで修していた六時礼讃に、後鳥羽上皇が寵愛していた女官二人が上皇の留守を見計らって参加し(もしくは御所内に二人の僧を招き入れ)、出家してしまうという事件が起こった。上皇はこれに激怒し、翌二年春、住蓮安楽等四名を死罪、法然親鸞等八名を配流に処した。法然はこの時、「藤井元彦」の俗名を与えられて土佐へ(ただし実際には、九条家の領地の讃岐へ)配流となった。これを「建永の法難」(真宗では「承元じょうげん法難」)という。なお、『四十八巻伝』などによると、配流の途次、高砂で漁師夫妻を、また室津では遊女を教化したと伝える。

法然は幸いその年の一二月(八月説や承元三年〔一二〇九〕八月説もあり)には畿内まで帰ることは許されたものの、入洛は許可されず、摂津国箕面みのお勝尾寺かちおでらに四年間逗留し、ようやく建暦元年(一二一一)一一月、帰洛を許された。そして現在の知恩院勢至堂のあたりに住していたが、翌二年一月二五日、往生を遂げた。ときに法然八〇歳。『御臨終日記』や伝記には、臨終に際して奇瑞等が種々現れたと記されている。なお、遺骸は住居の東側の崖の上に埋葬され、そこに建つのが現在の御廟である。

門弟信者

最初期からの門弟としては信空感西などがいるが、多くが「大原問答」「東大寺講説」以降、即ち法然の五〇代後半以降に入門している。主な門弟をおおよその入室順に記すと、証空隆寛源智聖光幸西親鸞禅勝房長西などがあげられる。この他、遵西行空湛空信寂房乗願房宗源)・金光空阿弥陀仏なども知られる。また、法然教団で重きをなした聖覚、および聖として名高い高野の明遍なども、法然の教えを受けた者ということができよう。一方、在家信者としては、まず関白にもなった九条兼実が有名。「東大寺講説」と前後して、法然との関係が始まっている。その他、伝記によると、藤原経宗藤原隆信なども法然帰依したとされる。また、正如房式子内親王であるとするならば、式子内親王法然帰依した念仏行者であったことになる。また、法然が兼実および兼実の娘である宜秋門院ぎしゅうもんいんに戒を授けたのは確実で、この他、鳥羽天皇の皇女上西門院への説戒をはじめ、高倉天皇への説戒、後白河上皇の臨終の善知識等、後鳥羽上皇やその中宮である修明門院への授戒なども伝記には記されている。ただし、天皇・上皇への説戒授戒の真偽は不明。武士の信者は大半が、源平の戦いが一段落し、関東武者に上洛の機会が増えた建久三年(一一九二)、法然六〇歳のころ以降に帰依している。有名な者としては、熊谷直実・津戸三郎・大胡太郎・渋谷道遍・甘粕太郎・薗田太郎・宇都宮頼綱などがあげられる。この他、庶民の帰依者も多かったであろうが、伝記では陰陽師おんみょうじ阿波介あわのすけや盗賊であった天野四郎などが紹介されている。

[著作]

四篇の『往生要集』釈書類、東大寺での講説の記録である「三部経釈」、遵西の父中原師秀もろひで逆修の際の説法集である『逆修説法』、そして『選択集』などがある。また『一紙小消息』『一枚起請文』をはじめとする法語・聞書・消息(手紙)・問答類なども多く遺されている。ただし、真筆で現存するものはごくわずかである。一方、法然遺文を輯録した遺文集としては醍醐本法然上人伝記』(通称『醍醐本』)、『西方指南抄』、『黒谷上人語灯録』(『漢語灯録』『和語灯録』)がある。また、それらをもとに近代以降に編纂された著作全集として、明治期刊の『法然上人全集』があるが、現在ではそれを全面的に改訂した『昭和新修法然上人全集』(『昭法全』)が用いられる。

[思想とその意義]

末法においては、浄土門の教えでないと凡夫悟りに至ることなどほとんど不可能として浄土門の教えを勧めるが、その際、往生するためには三心を具えて一向称名念仏を称えるべきであると説く。いわゆる「専修念仏」の教えであって、「専らに称名念仏を称えよ」もしくは「専らに称名念仏を称えれば誰もが必ず往生できる」という教えといえる。この教えは、それまでの仏教浄土教も含む)が行中心の教えであったのに対して、信を重視した点に特色がある。ただし、同時に念仏の相続(続けること)も強く勧めており、決して行を軽視しているわけではない。一念でも往生できると信じて、念仏を続けるべしというように、信と行の両方を重視する教えと見なすことができる。また、平安時代の仏教が基本的に、教え・行ともに雑修であったのに対し、法然専修を説いた点も重要である。鎌倉仏教は総じて専修主義であるが、そのあり方を最初に切り開いたのが法然であり、結果として日本仏教に大きな転換をもたらすこととなった。さらに浄土教史の面からして、それまで他宗に付随して信仰されていた浄土信仰を「浄土宗」として独立させたことも注目されよう。

布教

それまで僧侶布教対象が貴族や権力者に片寄りがちであったのに対し、法然は武士や一般庶民にも分け隔てなく布教した。また、貴族女性のみならず、武士の妻などの一般女性に布教したことも注目される。法然以前には稀であった和語の法語法然においては多数見られるのも、布教対象にこのような一般層が含まれていたことと深く関わっているのであろう。さらに、郵便制度(駅路の法)の整備とあいまって、手紙を用いた布教も頻繁に行っているが、これもやはり、法然以前にはほとんど見られず、逆に法然以降は一般的な布教方法となっていった点といえる。そのようなことからして、法然は思想のみならず、布教の面でも、日本仏教史上、大きな革新をもたらしたとみなすことができる。


【資料】昭法全、法伝全


【参考】田村円澄『法然』(『人物叢書』三六、吉川弘文館、一九五九)、梶村昇『法然』(『角川選書』三六、角川書店、一九七〇)、細川行信『法然 その生涯と教え』(法蔵館、一九七九)、大橋俊雄『法然』(講談社、一九九八)、梅原猛『法然』(『浄土仏教の思想』八、同、二〇〇〇)、同『法然の哀しみ』(『梅原猛著作集』一〇、小学館、二〇〇〇)、中井真孝編『念仏の聖者 法然』(『日本の名僧』七、吉川弘文館、二〇〇四)、伊藤唯眞『法然の世紀 源平争乱の世に万民救済を説く』(『浄土選書』三〇、浄土宗、二〇〇一)、『法然』(「別冊太陽 日本のこころ」一七八、平凡社、二〇一一)、中井真孝『絵伝にみる法然上人の生涯』(法蔵館、二〇一一)【図版】巻末付録


【執筆者:安達俊英】


田村円澄著。日本歴史学会編。昭和三四年(一九五九)一二月初版、同六三年六月新装版、吉川弘文館刊。「人物叢書」のうちの一書。法然伝記に全面的に依るのではなく、他の史料も積極的に用いながら、当時の時代背景や環境を考慮に入れて、法然の行状について論じ、末尾に系図、略年譜、参考文献が付される。法然に求道者と救済者との二面性があるとし、この点を意識しながら論じている。内容は平易で、初学者向けといえよう。


【執筆者:角野玄樹】


梶村昇著。昭和四五年(一九七〇)六月、角川書店発行。『角川選書』三六。法然の生涯について考察する。末尾に「法然の著作と諸伝記」と法然関係年表が付される。著作方針は、法然の生涯について、日本仏教史との関連において法然を把握することである。また本書は、法然信仰思想が人々にとっていかなる意味があるのかも考察する。


【執筆者:角野玄樹】


大橋俊雄著。昭和四五年(一九七〇)一月、評論社刊。シリーズ「日本人の行動と思想」のうちの一書。法然の行状と思想を解説し、末尾に主要参考文献、略年譜、索引が付される。著作方針として、従来の宗祖伝解説に対して批判的な立場に立ち、法然の「教説を行動のからみあいのなかに求めようとした」とある。平易な内容で初学者向けといえる。


【執筆者:角野玄樹】


梅原猛著。『浄土仏教の思想』八。平成一二年(二〇〇〇)九月、講談社刊。法然由緒寺院の実地調査から法然の人生とその思想の全体像を述べる。著者は「時国殺害事件」に対し、通説とは異なる視点を示す。第一章から第八章までは、実地調査を通して得た記録を『中外日報』に連載し、それを基に構成されている。第九章以降は本書への書き下ろしで、「大原問答」以降の法然を新しく解明したとする。のちに『法然十五歳の闇』上・下(角川ソフィア文庫、二〇〇六)として文庫化された。


【執筆者:高瀬麻衣】