浄土論註 (七祖)
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つぶさには『無量寿経優婆提舎願生偈註』と題され、『往生論註』『浄土論註』『無量寿経論註』とも称され、あるいは略して『論註』『註論』などと称される。天親菩薩の『浄土論』(『無量寿経優婆提舎願生偈』『往生論』ともいう)に註解を施したものである。本書は『浄土論』の註釈書として代表的なものであるが、その『浄土論』は韻文で書かれた偈頌と散文で書かれた長行との二部からなっている。『往生論註』ではこれを上下2巻に分けて、上巻ではその偈頌の部分を註釈し、下巻では長行の部分を註釈をしている。
ことに上巻では偈頌を釈するのに、『浄土論』の長行にあらわされた礼拝、讃嘆、作願、観察、回向の五念門行を配当して釈し、また下巻では長行を(1)願偈大意、(2)起観生信、(3)観行体相(観察体相)、(4)浄入願心、(5)善巧摂化、(6)障菩提門(離菩提障)、(7)順菩提門、(8)名義摂対、(9)願事成就、(10)利行満足という10科の章に分けて解釈されている。そこには阿弥陀如来とその浄土の因果の徳用を説き、衆生往生の因果もまた阿弥陀如来の本願力によって成就せしめられるという他力の法義が示されている。
目次
- 1 往生論註
- 1.1 巻上
- 1.2 浄土論大綱
- 1.3 総説分(総説分の五念門配当)
- 1.3.1 論主自督
- 1.3.2 礼拝門
- 1.3.3 讃嘆門
- 1.3.4 作願門
- 1.3.5 成上起下偈
- 1.3.6 観察門
- 1.3.6.1 器世間
- 1.3.6.1.1 清浄功徳
- 1.3.6.1.2 量功徳
- 1.3.6.1.3 性功徳
- 1.3.6.1.4 形相功徳
- 1.3.6.1.5 種々事功徳
- 1.3.6.1.6 妙色功徳
- 1.3.6.1.7 柔功徳
- 1.3.6.1.8 水功徳
- 1.3.6.1.9 地功徳
- 1.3.6.1.10 虚空功徳
- 1.3.6.1.11 雨功徳
- 1.3.6.1.12 光明功徳
- 1.3.6.1.13 妙声功徳
- 1.3.6.1.14 主功徳
- 1.3.6.1.15 眷属功徳
- 1.3.6.1.16 受用功徳
- 1.3.6.1.17 無諸難功徳
- 1.3.6.1.18 大義門功徳
- 1.3.6.1.19 一切所求満足功徳
- 1.3.6.1.20 衆生名義
- 1.3.6.1.21 仏 座功徳
- 1.3.6.1.22 仏 身業功徳
- 1.3.6.1.23 仏 口業功徳
- 1.3.6.1.24 仏 心業功徳
- 1.3.6.1.25 衆功功徳
- 1.3.6.1.26 上首功徳
- 1.3.6.1.27 主功徳
- 1.3.6.1.28 不虚作住持功徳
- 1.3.6.1.29 菩薩
- 1.3.6.1.30 菩薩 不動而至功徳
- 1.3.6.1.31 菩薩 一念遍至功徳
- 1.3.6.1.32 菩薩 無相供養功徳
- 1.3.6.1.33 菩薩 示法如仏功徳
- 1.3.6.1.34 回向門
- 1.3.6.1 器世間
- 1.3.7 八番問答
- 2 往生論註
往生論註
巻上
無量寿経優婆提舎願生偈註 巻上
婆藪槃頭菩薩造 曇鸞法師註解
浄土論大綱
本論分際(本論の教理的位置づけ)
【1】 つつしみて龍樹菩薩の『十住毘婆沙』(易行品・意)を案ずるに、いはく、「菩薩、阿毘跋致を求むるに、二種の道あり。一には難行道、二には易行道なり」と。「難行道」とは、いはく、五濁の世、無仏の時において阿毘跋致を求むるを難となす。この難にすなはち多途あり。ほぼ五三をいひて、もつて義の意を示さん。一には外道の相善は菩薩の法を乱る。二には声聞は自利にして大慈悲を障ふ。三には無顧の悪人は他の勝徳を破る。四には顛倒の善果はよく梵行を壊つ。五にはただこれ自力にして他力の持つなし。かくのごとき等の事、目に触るるにみなこれなり。たとへば陸路の歩行はすなはち苦しきがごとし。「易行道」とは、いはく、ただ信仏の因縁をもつて浄土に生ぜんと願ずれば、仏願力に乗じて、すなはちかの清浄の土に往生を得、仏力住持して、すなはち大乗正定の聚に入る。正定はすなはちこれ阿毘跋致なり。たとへば水路に船に乗ずればすなはち楽しきがごとし。この『無量寿経優婆提舎』(浄土論)は、けだし上衍の極致、不退の風航なるものなり。
興起体製(論の明かし方、組み立て)
【2】 「無量寿」はこれ安楽浄土の如来の別号なり。釈迦牟尼仏、王舎城およ
び舎衛国にましまして、大衆のなかにおいて無量寿仏の荘厳功徳を説きたまへ
り。すなはち仏(阿弥陀仏)の名号をもつて経の体となす。後の聖者婆藪槃頭
菩薩(天親)、如来大悲の教を服膺して経に傍へて願生の偈を作れり。また長行
を造りてかさねて釈す。梵に「優婆提舎」といふは、この間(中国)に正名あ
ひ訳せるなし。もしは一隅を挙げて名づけて論となすべし。正名訳せること
なき所以は、この間に本仏ましまさざるをもつてのゆゑなり。この間の書のご
ときは、孔子につきて「経」と称す。余人の制作みな名づけて「子」となす。
国史・国紀の徒各別の体例なり。しかるに仏の所説の十二部経のなかに論議
経あり、「優婆提舎」と名づく。もしまた仏のもろもろの弟子、仏の経教を解
して仏義と相応すれば、仏また許して「優婆提舎」と名づく。仏法の相に入る
をもつてのゆゑなり。この間に論といふは、ただこれ論議のみ。あにまさしく
かの名を訳することを得んや。また女人を、子において母と称し、兄におい
て妹といふがごとし。かくのごとき等の事、みな義に随ひて名別なり。もした
だ女の名をもつて汎く母妹を談ずるに、すなはち女の大体を失せざれども、あ
に尊卑の義を含まんや。ここにいふところの論もまたかくのごとし。ここをも
つて仍[因なり]りて梵音を存じて優婆提舎といふ。
【3】 この『論』(浄土論)の始終におほよそ二重あり。一にはこれ総説分、二
にはこれ解義分なり。総説分とは、前の五言の偈尽くるまでこれなり。解義分
とは、「論じて曰はく」以下長行尽くるまでこれなり。二重となす所以は二義
あり。偈はもつて経を誦す。総摂せんがためのゆゑなり。論はもつて偈を釈す。
解義のためのゆゑなり。
題号(題号・撰号の釈)
【4】 「無量寿」とは無量寿如来をいふ。寿命長遠にして思量すべからず。
「経」とは常なり。いふこころは安楽国土の仏および菩薩の清浄荘厳功徳と
国土の清浄荘厳功徳とは、よく衆生のために大饒益をなす。つねに世に行は
るべきがゆゑに名づけて経といふ。「優婆提舎」はこれ仏の論議経の名なり。
「願」はこれ欲楽の義なり。「生」は天親菩薩、かの安楽浄土の如来の浄華の
なかに生ぜんと願ずる生なり。ゆゑに願生といふ。「偈」はこれ句数の義、五
言の句をもつて略して仏経を誦するがゆゑに名づけて偈となす。「婆藪」を訳
して「天」といふ。「槃頭」を訳して「親」といふ。この人を天親と字く。事
は『付法蔵経』にあり。「菩薩」とは、もしつぶさに梵音を存ぜば「菩提薩埵」
といふべし。「菩提」は、これ仏道の名なり。「薩埵」は、あるいは衆生とい
ひ、あるいは勇健といふ。仏道を求むる衆生、勇猛の健志あるがゆゑに菩提薩
埵と名づく。いまただ菩薩といふは訳者(菩提流支)の略せるのみ。「造」はま
た作なり。人によりて法を重んずることを庶ふがゆゑに某造といふ。このゆゑ
に「無量寿経優婆提舎願生偈婆藪槃頭菩薩造」といへり。『論』(浄土論)の名
目を解しをはりぬ。
総説分(総説分の五念門配当)
【5】 偈のなかを分ちて五念門となす。下の長行に釈するところのごとし。第
一行の四句にあひ含みて三念門あり。上の三句はこれ礼拝・讃嘆門なり。下の
一句はこれ作願門なり。第二行は論主(天親)みづから、「われ仏経(浄土三部
経)によりて『論』を造りて仏教と相応す、服するところ宗ある」ことを述ぶ。
なんがゆゑぞいふとならば、これ優婆提舎の名を成ぜんがためのゆゑなり。ま
たこれ上の三門を成じて下の二門を起す。ゆゑにこれに次いで説けり。第三行
より二十一行尽くるまで、これ観察門なり。末後の一行はこれ回向門なり。偈
の章門を分ちをはりぬ。
論主自督
【6】 世尊我一心 帰命尽十方 無礙光如来 願生安楽国
「世尊」とは諸仏の通号なり。智を論ずればすなはち義として達せざるはな
し。断を語ればすなはち習気余りなし。智断具足してよく世間を利し、世のた
めに尊重せらるるゆゑに世尊といふ。ここにいふ意は、釈迦如来に帰したてま
つるなり。なにをもつてか知ることを得となれば、下の句に「我依修多羅」と
いへばなり。天親菩薩、釈迦如来の像法のなかにありて釈迦如来の経教に順
ず。ゆゑに生ぜんと願ず。生ぜんと願ずるに宗あり。ゆゑにこの言は釈迦に帰
したてまつると知るなり。もしこの意を謂ふに、あまねく諸仏に告ぐることま
た嫌ふことなし。それ菩薩の仏に帰することは、孝子の父母に帰し、忠臣の君
后に帰して、動静おのれにあらず、出没かならず由あるがごとし。恩を知りて
徳を報ず、理よろしく先づ啓すべし。また所願軽からず。もし如来、威神を加
したまはずは、まさになにをもつてか達せんとする。神力を加することを乞ふ。
ゆゑに仰ぎて告ぐるなり。「我一心」とは、天親菩薩の自督の詞なり。いふこ
ころは、無礙光如来を念じて安楽に生ぜんと願ず。心々相続して他の想間雑
することなしとなり。
問ひていはく、仏法のなかには我なし。このなかになにをもつてか我と称す
る。答へていはく、「我」といふに三の根本あり。一にはこれ邪見語、二には
これ自大語、三にはこれ流布語なり。いま「我」といふは、天親菩薩の自指の
言にして、流布語を用ゐる。邪見と自大とにはあらず。
礼拝門
「帰命尽十方無礙光如来」とは、「帰命」はすなはちこれ礼拝門なり。「尽
十方無礙光如来」はすなはちこれ讃嘆門なり。なにをもつてか「帰命」はこれ
礼拝なりと知るとなれば、龍樹菩薩の、阿弥陀如来の讃(易行品)を造れるな
かに、あるいは「稽首礼」といひ、あるいは「我帰命」といひ、あるいは「帰
命礼」といへり。この『論』(浄土論)の長行のなかにまた「五念門を修す」
といへり。五念門のなかに礼拝はこれ一なり。天親菩薩すでに往生を願ず。あ
に礼せざるべけんや。ゆゑに知りぬ、帰命はすなはちこれ礼拝なり。しかるに
礼拝はただこれ恭敬にして、かならずしも帰命にあらず。帰命はかならずこれ
礼拝なり。もしこれをもつて推せば、帰命を重しとなす。偈は己心を申ぶ。よ
ろしく帰命といふべし。論は偈の義を解す。汎く礼拝を談ず。彼此あひ成じて
義においていよいよ顕れたり。
讃嘆門
なにをもつてか「尽十方無礙光如来」はこれ讃嘆門なりと知るとならば、下
の長行のなかに、「いかんが讃嘆門。いはく、かの如来の名を称するに、かの
如来の光明智相のごとく、かの名義のごとく、如実に修行して相応せんと欲す
るがゆゑなり」といへり。舎衛国所説の『無量寿経』(小経)によらば、仏、
阿弥陀如来の名号を解したまはく、「なんがゆゑぞ阿弥陀と号する。かの仏の
光明無量にして、十方国を照らしたまふに障礙するところなし。このゆゑに阿
弥陀と号す。またかの仏の寿命およびその人民も、無量無辺阿僧祇なり。ゆゑ
に阿弥陀と名づく」と。
問ひていはく、もし無礙光如来の光明無量にして、十方国土を照らしたまふ
に障礙するところなしといはば、この間の衆生、なにをもつてか光照を蒙らざ
る。光の照らさざるところあらば、あに礙あるにあらずや。答へていはく、礙
は衆生に属す。光の礙にはあらず。たとへば日光は四天下にあまねけれども、
盲者は見ざるがごとし。日光のあまねからざるにはあらず。また密雲の洪きに
霔[灌なり]げども、頑石の潤はざるがごとし。雨の洽[霔なり]さざるにはあ
らず。
もし一仏、三千大千世界を主領すといはば、これ声聞論のなかの説なり。も
し諸仏あまねく十方無量無辺世界を領すといはば、これ大乗論のなかの説なり。
天親菩薩、いま、「尽十方無礙光如来」といふは、すなはちこれかの如来の名
により、かの如来の光明智相のごとく讃嘆するなり。ゆゑに知りぬ、この句は
これ讃嘆門なり。
作願門
「願生安楽国」とは、この一句はこれ作願門なり。天親菩薩の帰命の意なり。
それ「安楽」の義は、つぶさに下の観察門のなかにあり。
願生問答
問ひていはく、大乗経論のなかに、処々に「衆生は畢竟無生にして虚空の
ごとし」と説けり。いかんが天親菩薩「願生」といふや。答へていはく、「衆
生は無生にして虚空のごとし」と説くに二種あり。一には、凡夫の謂ふところ
のごとき実の衆生、凡夫の見るところのごとき実の生死は、この所見の事、畢
竟じて所有なきこと、亀毛のごとく、虚空のごとし。二には、いはく、諸法は
因縁生のゆゑにすなはちこれ不生なり。所有なきこと虚空のごとし。天親菩薩
の願ずるところの生は、これ因縁の義なり。因縁の義のゆゑに仮に生と名づく。
凡夫の、実の衆生、実の生死ありと謂ふがごときにはあらず。
問ひていはく、なんの義によりてか往生と説く。答へていはく、この間の仮
名人のなかにおいて五念門を修するに、前念は後念のために因となる。穢土の
仮名人と浄土の仮名人と、決定して一なるを得ず、決定して異なるを得ず。前
心後心またかくのごとし。なにをもつてのゆゑに。もし一ならばすなはち因果
なく、もし異ならばすなはち相続にあらざればなり。この義は一異の門を観ず
る論のなかに委曲なり。第一行の三念門を釈しをはりぬ。
成上起下偈
真実功徳釈
【7】 次は「優婆提舎」の名を成じ、また上を成じて下を起す偈なり。
- 我依修多羅 真実功徳相 説願偈総持 与仏教相応
この一行、いかんが「優婆提舎」の名を成じ、いかんが上の三門を成じ下の
二門を起す。偈に「我依修多羅 与仏教相応」といふ。「修多羅」はこれ仏経
の名なり。われ仏経の義を論じて、経と相応す。仏法の相に入るをもつてのゆ
ゑに優婆提舎と名づく。名、成じをはりぬ。上の三門を成じて下の二門を起す
とは、いづれのところにか依り、なんのゆゑにか依り、いかんが依る。いづれ
のところにか依るとは、修多羅に依る。なんのゆゑにか依るとは、如来はすな
はち真実功徳の相なるをもつてのゆゑなり。いかんが依るとは、五念門を修し
て相応するがゆゑなり。上を成じ下を起しをはりぬ。「修多羅」とは、十二部
経のなかの直説のものを修多羅と名づく。いはく、四阿含・三蔵等、三蔵のほ
かの大乗の諸経もまた修多羅と名づく。このなかに「依修多羅」といふは、こ
れ三蔵のほかの大乗の修多羅なり。阿含等の経にはあらず。「真実功徳相」と
は、二種の功徳あり。一には有漏の心より生じて法性に順ぜず。いはゆる凡夫
人天の諸善、人天の果報、もしは因もしは果、みなこれ顛倒、みなこれ虚偽な
り。このゆゑに不実の功徳と名づく。二には菩薩の智慧清浄の業より起りて
仏事を荘厳す。法性によりて清浄の相に入る。この法顛倒せず、虚偽ならず。
名づけて真実功徳となす。いかんが顛倒せざる。法性によりて二諦に順ずるが
ゆゑなり。いかんが虚偽ならざる。衆生を摂して畢竟浄に入らしむるがゆゑ
なり。「説願偈総持 与仏教相応」とは、「持」は不散不失に名づく。「総」
は少をもつて多を摂するに名づく。「偈」の言は五言の句数なり。「願」は往
生を欲楽するに名づく。「説」はいはく、もろもろの偈と論を説くなり。総じ
てこれをいふに、願生するところの偈を説きて、仏経を総持し、仏教と相応す
るなり。「相応」とは、たとへば函と蓋とあひ称へるがごとし。
観察門
器世間
清浄功徳
【8】 観彼世界相 勝過三界道
これより以下は、これ第四の観察門なり。この門のなかを分ちて二の別とな
す。一には器世間荘厳成就を観察す。二には衆生世間荘厳成就を観察す。こ
の句より以下「願生彼阿弥陀仏国」に至るまでは、これ器世間荘厳成就を観
ずるなり。器世間を観ずるなかに、また分ちて十七の別となす。文に至りてま
さに目くべし。この二句はすなはちこれ第一の事なり。名づけて観察荘厳清
浄功徳成就となす。この清浄はこれ総相なり。仏本この荘厳清浄功徳を起
したまへる所以は、三界を見そなはすに、これ虚偽の相、これ輪転の相、これ
無窮の相にして、蚇蠖[屈まり伸ぶる虫なり]の循環するがごとく、蚕繭[蚕衣な
り]の自縛するがごとし。あはれなるかな衆生、この三界に締[結びて解けず]
られて、顛倒・不浄なり。衆生を不虚偽の処、不輪転の処、不無窮の処に置き
て、畢竟安楽の大清浄処を得しめんと欲しめす。このゆゑにこの清浄荘厳
功徳を起したまへり。「成就」とは、いふこころは、この清浄は破壊すべか
らず、汚染すべからず。三界の、これ汚染の相、これ破壊の相なるがごときに
はあらず。「観」とは観察なり。「彼」とはかの安楽国なり。「世界相」とはか
の安楽世界の清浄の相なり。その相、別に下にあり。「勝過三界道」の「道」
とは通なり。かくのごとき因をもつて、かくのごとき果を得。かくのごとき果
をもつて、かくのごとき因に酬ゆ。因に通じて果に至る。果に通じて因に酬ゆ。
ゆゑに名づけて道となす。「三界」とは、一にはこれ欲界、いはゆる六欲天・
四天下の人・畜生・餓鬼・地獄等これなり。二にはこれ色界、いはゆる初禅・
二禅・三禅・四禅の天等これなり。三にはこれ無色界、いはゆる空処・識処・
無所有処・非想非非想処の天等これなり。この三界はけだしこれ生死の凡夫の
流転の闇宅なり。また苦楽小しき殊なり、修短しばらく異なりといへども、統
べてこれを観ずるに有漏にあらざるはなし。倚伏あひ乗じ、循環無際なり。雑
生触受し、四倒長く拘はる。かつは因、かつは果、虚偽あひ襲ふ。安楽はこ
れ菩薩(法蔵)の慈悲・正観の由生、如来(阿弥陀仏)の神力本願の所建なり。
胎・卵・湿の生、これによりて高く揖め、業繋の長き維、これより永く断つ。
続括の権、勧めを待たずして弓を彎く。労謙善譲、普賢に斉しくして徳を同
じくす。「勝過三界」とは、そもそもこれ近言なり。
量功徳
【9】 究竟如虚空 広大無辺際
この二句は荘厳量功徳成就と名づく。仏本この荘厳量功徳を起したまへる
所以は、三界を見そなはすに陜小にして堕[敗城の阜なり]陘[山の絶坎なり]
陪[土を重ぬるなり。一にはいはく備なり]陼[渚のごときもの、陼丘なり]なり。あ
るいは宮観迫迮し、あるいは土田逼隘[陋なり]す。あるいは志求するに路促
まり、あるいは山河隔[塞なり]ち障ふ。あるいは国界分部せり。かくのごと
き等の種々の挙急の事あり。このゆゑに菩薩、この荘厳量功徳の願を興した
まへり。「願はくはわが国土虚空のごとく広大にして無際ならん」と。「虚空
のごとく」とは、いふこころは、来生のもの衆しといへども、なほなきがごと
くならんとなり。「広大にして無際ならん」とは、上の「如虚空」の義を成ず。
なんがゆゑぞ「如虚空」といふ。広大にして無際なるをもつてのゆゑなり。
「成就」とは、いふこころは、十方衆生の往生するもの、もしはすでに生じ、
もしはいまに生じ、もしはまさに生ぜん。無量無辺なりといへども畢竟じてつ
ねに虚空のごとく、広大にして無際にして、つひに満つ時なからん。このゆゑ
に「究竟如虚空 広大無辺際」といへり。
問ひていはく、維摩のごときは、方丈に苞容して余りあり。なんぞかならず
国界無貲なるをすなはち広大と称する。答へていはく、いふところの広大は、
かならずしも畦[五十畝なり]畹[三十畝なり]をもつて喩へとなすにあらず。
ただ空のごとしといふ。またなんぞ方丈を累はさんや。また方丈の苞容すると
ころは陜にありて広なり。覈[実なり]に果報を論ずるに、あに広にありて広
なるにしかんや。
性功徳
【10】 正道大慈悲 出世善根生
この二句は荘厳性功徳成就と名づく。仏本なんがゆゑぞこの荘厳を起した
まへる。ある国土を見そなはすに、愛欲をもつてのゆゑにすなはち欲界あり。
攀厭禅定をもつてのゆゑにすなはち色・無色界あり。この三界はみなこれ有漏
なり。邪道の所生なり。長く大夢に寝ねて出でんと悕ふを知ることなし。この
ゆゑに大悲心を興したまへり。「願はくはわれ成仏せんに、無上の正見道をも
つて清浄の土を起して三界を出さん」と。「性」はこれ本の義なり。いふここ
ろは、この浄土は法性に随順して法本に乖かず。事、『華厳経』の宝王如来の
性起の義に同じ。またいふこころは、積習して性を成ず。法蔵菩薩、諸波羅
蜜を集めて積習して成ずるところを指す。また「性」といふは、これ聖種性
なり。序め法蔵菩薩、世自在王仏の所において、無生法忍を悟りたまへり。そ
の時の位を聖種性と名づく。この性のなかにおいて四十八の大願を発してこ
の土を修起せり。すなはち安楽浄土といふ。これかの因の所得なり。果のなか
に因を説く。ゆゑに名づけて性となす。またいふこころは、「性」はこれ必然
の義なり、不改の義なり。海の性の一味にして、衆流入ればかならず一味とな
りて、海の味はひ、かれに随ひて改まらざるがごとし。また人の身の性は不浄
なるがゆゑに、種々の妙好の色・香・美味、身に入ればみな不浄となるがごと
し。安楽浄土はもろもろの往生するもの、不浄の色なく、不浄の心なし。畢竟
じてみな清浄平等無為法身を得ることは、安楽国土清浄の性、成就せるを
もつてのゆゑなり。「正道大慈悲 出世善根生」とは、平等の大道なり。平等
の道を名づけて正道となす所以は、平等はこれ諸法の体相なり。諸法平等なる
をもつてのゆゑに発心等し。発心等しきがゆゑに道等し。道等しきがゆゑに大
慈悲等し。大慈悲はこれ仏道の正因なるがゆゑに「正道大慈悲」といへり。慈
悲に三縁あり。一には衆生縁、これ小悲なり。二には法縁、これ中悲なり。三
には無縁、これ大悲なり。大悲はすなはち出世の善なり。安楽浄土はこの大悲
より生ぜるがゆゑなり。ゆゑにこの大悲をいひて浄土の根となす。ゆゑに「出
世善根生」といへり。
形相功徳
【11】 浄光明満足 如鏡日月輪
この二句は荘厳形相功徳成就と名づく。仏本この荘厳功徳を起したまへる
所以は、日の四域に行くを見そなはすに、光三方にあまねからず。庭燎、宅に
あるにあきらかなること十仞に満たず。これをもつてのゆゑに浄光明を満た
さんと願を起したまへり。日月光輪の、自体に満足せるがごとく、かの安楽浄
土もまた広大にして辺なしといへども、清浄の光明、充塞せざるはなからん。
ゆゑに「浄光明満足 如鏡日月輪」といへり。
種々事功徳
【12】 備諸珍宝性 具足妙荘厳
この二句は荘厳種々事功徳成就と名づく。仏本なんがゆゑぞこの荘厳を起し
たまへる。ある国土を見そなはすに、泥土をもつて宮の飾りとなし、木石をも
つて華観となす。あるいは金を彫り玉を鏤むも意願充たず。あるいは営みて百
千を備ふれば、つぶさに辛苦を受く。これをもつてのゆゑに大悲心を興したま
へり。「願はくはわれ成仏せんに、かならず珍宝具足し、厳麗自然にして有余
にあひ忘れ、おのづから仏道を得しめん」と。この荘厳の事、たとひ毘首羯
磨が工妙絶と称すとも、思を積み想を竭すとも、あによく取りて図さんや。
「性」とは本の義なり。能生すでに浄し、所生いづくんぞ不浄を得ん。ゆゑに
『経』(維摩経)にのたまはく、「その心浄きに随ひてすなはち仏土浄し」と。
このゆゑに「備諸珍宝性 具足妙荘厳」といへり。
妙色功徳
【13】 無垢光炎熾 明浄曜世間
この二句は荘厳妙色功徳成就と名づく。仏本なんがゆゑぞこの荘厳を起し
たまへる。ある国土を見そなはすに、優劣不同なり。不同なるをもつてのゆゑ
に高下もつて形る。高下すでに形るれば、是非もつて起る。是非すでに起れば、
長く三有に淪[没なり]む。このゆゑに大悲心を興して平等の願を起したまへ
り。「願はくはわが国土は光炎熾盛にして第一無比ならん。人天の金色よく奪
ふものあるがごとくならじ」と。いかんがあひ奪ふ。明鏡のごときを金辺に
在けばすなはち現ぜず。今日の時中の金を仏(釈尊)の在時の金に比するにす
なはち現ぜず。仏(釈尊)の在時の金を閻浮那金に比するにすなはち現ぜず。
閻浮那金を大海のなかの転輪王の道中の金沙に比するにすなはち現ぜず。転輪
王の道中の金沙を金山に比するにすなはち現ぜず。金山を須弥山の金に比する
にすなはち現ぜず。須弥山の金を三十三天の瓔珞の金に比するにすなはち現ぜ
ず。三十三天の瓔珞の金を炎摩天の金に比するにすなはち現ぜず。炎摩天の金
を兜率陀天の金に比するにすなはち現ぜず。兜率陀天の金を化自在天の金に比
するにすなはち現ぜず。化自在天の金を他化自在天の金に比するにすなはち現
ぜず。他化自在天の金を安楽国中の光明に比するにすなはち現ぜず。所以はい
かんとなれば、かの土の金光は垢業より生ずることを絶つがゆゑなり。清浄
にして成就せざるはなきゆゑなり。安楽浄土はこれ無生忍の菩薩の浄業の所起
なり。阿弥陀如来法王の所領なり。阿弥陀如来を増上縁となしたまふがゆゑな
り。このゆゑに「無垢光炎熾 明浄曜世間」といへり。「曜世間」とは二種世
間を曜かすなり。
柔功徳
【14】 宝性功徳草 柔軟左右旋 触者生勝楽 過迦旃隣陀
この四句は荘厳触功徳成就と名づく。仏本なんがゆゑぞこの荘厳を起したま
へる。ある国土を見そなはすに、金・玉を宝重すといへども衣服となすことを
得ず。明鏡を珍翫すれども敷具によろしきことなし。これによりて目を悦ば
しむれども、身に便りならず。身・眼の二情あに鉾楯せざらんや。このゆゑ
に願じてのたまはく、「わが国土の人天の六情、水乳に和して、つひに楚越の
労を去らしめん」と。ゆゑに七宝柔軟にして目を悦ばしめ身に便りなるなり。
「迦旃隣陀」とは、天竺(印度)の柔軟草の名なり。これに触るればよく楽受
を生ず。ゆゑにもつて喩へとなす。註者(曇鸞)のいはく、この間の土・石・
草・木はおのおの定体あり。訳者(菩提流支)なにによりてか、かの宝を目けて
草となすや。まさにその葻[草風を得る貌なり]然 [草の旋る貌なり] [細き
草を といふ]なるをもつてのゆゑに、草をもつてこれに目くるのみ。余もし参
訳せばまさに別に途あるべし。「生勝楽」とは、迦旃隣陀に触るれば染着の楽
を生ず。かの軟宝に触るれば法喜の楽を生ず。二事あひはるかなり。勝にあら
ずはいかん。このゆゑに「宝性功徳草 柔軟左右旋 触者生勝楽 過迦旃隣
陀」といへり。
水功徳
【15】 宝華千万種 弥覆池流泉 微風動華葉 交錯光乱転
この四句は荘厳水功徳成就と名づく。仏本なんがゆゑぞこの願を起したまへ
る。ある国土を見そなはすに、あるいは澐溺[江の水の大きなる波、これを澐溺と
いふ]洪濤[海の波の上がる]して滓沫人を驚かす。あるいは凝凘[氷を流す]&M001645;
&M001681;[凍りてあひ着く]して、蹙[迫る]架し、&M010480;[常を失す]を懐く。向に安悦の
情なし。背ろに恐値の慮りあり。菩薩これを見そなはして大悲心を興したまへ
り。「願はくはわれ成仏せんに、あらゆる流・泉・池・沼[池なり]宮殿とあ
ひ称ひ[事、『経』(大経・上)中に出づ。]種々の宝華布きて水の飾りとなり、微風
やうやく扇ぎて映発するに序あり、神を開き体を悦ばしめて、一として可なら
ずといふことなからん」と。このゆゑに「宝華千万種 弥覆池流泉 微風動華
葉 交錯光乱転」といへり。
地功徳
【16】 宮殿諸楼閣 観十方無礙 雑樹異光色 宝欄遍囲繞
この四句は荘厳地功徳成就と名づく。仏本なんがゆゑぞこの荘厳を起したま
へる。ある国土を見そなはすに、嶕嶢[高き貌なり]峻[高なり]嶺にして枯
木岑に横たはり、岝峉[岝峉は山斉しからず]&M008124;[深き山谷または山消の貌なり]嶙
[深くして崖りなし]にして莦[悪き草の貌なり]茅[道に草多くして行くべからず]壑
に盈てり。茫々たる滄海、絶目の川たり。葻々たる広沢、無蹤の所たり。菩薩
これを見そなはして大悲の願を興したまへり。「願はくはわが国土は地平らか
にして掌のごとく、宮殿・楼閣は鏡のごとくして、十方を納めんにあきらかに
して属するところなく、また属せざるにあらざらん。宝樹・宝欄たがひに映飾
とならん」と。このゆゑに「宮殿諸楼閣 観十方無礙 雑樹異光色 宝欄遍囲
繞」といへり。
虚空功徳
【17】 無量宝交絡 羅網遍虚空 種種鈴発響 宣吐妙法音
この四句は荘厳虚空功徳成就と名づく。仏本なんがゆゑぞこの荘厳を起した
まへる。ある国土を見そなはすに、煙・雲・塵・霧、太虚を蔽障し、震烈&M042465;
[雨の声なり]&M042387;[大雨なり]上よりして堕つ。不祥の烖[天の火なり]霓[屈れる
虹、青赤あるいは白色の陰気なり]つねに空より来りて、憂慮百端にしてこれがた
めに毛竪つ。菩薩これを見そなはして大悲心を興したまへり。「願はくはわが
国土には宝網交絡して、羅は虚空に遍し、鈴鐸[大鈴なり]宮商鳴りて道法
を宣べん。これを視て厭ふことなく、道を懐ひて徳を見さん」と。このゆゑに
「無量宝交絡 羅網遍虚空 種種鈴発響 宣吐妙法音」といへり。
雨功徳
【18】 雨華衣荘厳 無量香普薫
この二句は荘厳雨功徳成就と名づく。仏本なんがゆゑぞこの荘厳を興したま
へる。ある国土を見そなはすに、服飾をもつて地に布き、所尊を延請せんと欲
す。あるいは香・華・名宝をもつて、用ゐて恭敬を表せんと欲す。しかも業貧
しく感薄きものはこの事果さず。このゆゑに大悲の願を興したまへり。「願は
くはわが国土にはつねにこの物を雨らして衆生の意に満てん」と。なんがゆゑ
ぞ雨をもつて言をなすとならば、おそらくは取者のいはん。「もしつねに華と
衣とを雨らさば、また虚空に填ち塞ぐべし。なにによりてか妨げざらん」と。
このゆゑに雨をもつて喩へとなす。雨、時に適ひぬれば、すなはち洪滔[水漫
ちて大し]の患ひなし。安楽の報、あに累情の物あらんや。経にのたまはく、
「日夜六時に宝衣を雨り宝華を雨る。宝質柔軟にしてその上を履み践むにすな
はち下ること四寸、足を挙ぐる時に随ひて還復すること故のごとし。用ゐるこ
と訖りぬれば、宝地に入ること水の坎に入るがごとし」と。このゆゑに「雨華
衣荘厳 無量香普薫」といへり。
光明功徳
【19】 仏慧明浄日 除世痴闇冥
この二句は荘厳光明功徳成就と名づく。仏本なんがゆゑぞこの荘厳を興し
たまへる。ある国土を見そなはすに、また項背に日光ありといへども愚痴のた
めに闇まさる。このゆゑに願じてのたまはく、「わが国土のあらゆる光明、よ
く痴闇を除きて仏の智慧に入り、無記の事をなさざらしめん」と。またいはく、
安楽国土の光明は如来の智慧の報より起るがゆゑに、よく世の闇冥を除く。
『経』(維摩経)にのたまはく、「あるいは仏土あり。光明をもつて仏事をなす」
と。すなはちこれはこれなり。このゆゑに「仏慧明浄日 除世痴闇冥」とい
へり。
妙声功徳
【20】 梵声悟深遠 微妙聞十方
この二句は荘厳妙声功徳成就と名づく。仏本なんがゆゑぞこの願を興した
まへる。ある国土を見そなはすに、善法ありといへども名声遠からず。名声
ありて遠しといへどもまた微妙ならず。名声ありて妙遠なれども、また物を
悟らしむることあたはず。このゆゑにこの荘厳を起したまへり。天竺国(印度)
には浄行を称して「梵行」となす。妙辞を称して「梵言」となす。かの国に
は梵天を貴重すれば、多く「梵」をもつて讃をなす。またいはく、中国の法、
梵天と通ずるがゆゑなり。「声」とは名なり。名はいはく、安楽土の名なり。
経にのたまはく、「もし人ただ安楽浄土の名を聞きて往生を欲願するに、また
願のごとくなることを得」と。これは名の物を悟らしむる証なり。『釈論』
(大智度論・意)にいはく、「かくのごとき浄土は三界の所摂にあらず。なにを
もつてこれをいふとならば、欲なきがゆゑに欲界にあらず。地居なるがゆゑに
色界にあらず。色あるがゆゑに無色界にあらざればなり。けだし菩薩の別業の
致すところのみ」と。有を出でてしかうして有なるを[「有を出でて」とは、い
はく、三有を出づるなり。「しかうして有なる」とはいはく、浄土の有なり]微といふ。
名よく開悟せしむるを妙[妙は好なり。名をもつて、よく物を悟らしむるゆゑに妙と
称す]といふ。このゆゑに「梵声悟深遠 微妙聞十方」といへり。
主功徳
【21】 正覚阿弥陀 法王善住持
この二句は荘厳主功徳成就と名づく。仏本なんがゆゑぞこの願を興したまへ
る。ある国土を見そなはすに、羅刹君となれば、すなはち率土あひ噉す。宝輪、
殿に駐[馬を立む]まればすなはち四域虞ひなし。これを風の靡くに譬ふ。あ
に本なからんや。このゆゑに願を興したまへり。「願はくはわが国土にはつね
に法王ましまして、法王の善力に住持せられん」と。「住持」とは、黄鵠、子
安を持てば、千齢かへりて起り、魚母、子を念持すれば、澩[夏水ありて冬水な
きを澩といふ]を経て壊せざるがごとし。安楽国は〔阿弥陀仏の〕正覚のために
よくその国を持せらる。あに正覚の事にあらざることあらんや。このゆゑに
「正覚阿弥陀 法王善住持」といへり。
眷属功徳
【22】 如来浄華衆 正覚華化生
この二句は荘厳眷属功徳成就と名づく。仏本なんがゆゑぞこの願を興したま
へる。ある国土を見そなはすに、あるいは胞血をもつて身器となす。あるいは
糞尿をもつて生の元となす。あるいは槐棘の高き圻より猜狂の子を出す。ある
いは竪子が婢腹より卓犖の才を出す。譏誚これによりて火を懐き、恥辱これに
よりて氷を抱く。ゆゑに願じてのたまはく、「わが国土にはことごとく如来浄
華のなかより生じて、眷属平等にして与奪路なからしめん」と。このゆゑに
「如来浄華衆 正覚華化生」といへり。
受用功徳
【23】 愛楽仏法味 禅三昧為食
この二句は荘厳受用功徳成就と名づく。仏本なんがゆゑぞこの願を興したま
へる。ある国土を見そなはすに、あるいは巣を探りて卵を破り、饛[食を盛り満
ちたる貌なり]饒[飽なり。多し]の饍となす。あるいは沙を懸けて帒を指すを
あひ慰むる方となす。ああ、諸子実に痛心すべし。このゆゑに大悲の願を興し
たまへり。「願はくはわが国土、仏法をもつて、禅定をもつて、三昧をもつて
食となして、永く他食の労ひを絶たん」と。「愛楽仏法味」とは、日月灯明仏、
『法華経』を説きしに六十小劫なり。時会の聴者また一処に坐して六十小劫な
るも食のあひだのごとしと謂ふ。一人としてもしは身、もしは心をして懈惓を
生ずることあることなきがごとし。「禅定をもつて食となす」とは、いはく、
もろもろの大菩薩はつねに三昧にありて他の食なし。「三昧」とは、かのもろ
もろの人天、もし食を須ゐる時、百味の嘉餚羅列して前にあり。眼に色を見、
鼻に香りを聞ぎ、身に適悦を受けて自然に飽足す。訖已りぬれば化して去り、
もし須ゐるにはまた現ず。その事、『経』(大経・上)にあり。このゆゑに「愛
楽仏法味 禅三昧為食」といへり。
無諸難功徳
【24】 永離身心悩 受楽常無間
この二句は荘厳無諸難功徳成就と名づく。仏本なんがゆゑぞこの願を興した
まへる。ある国土を見そなはすに、あるいは朝には袞寵に預びて、夕には斧鉞
に惶く。あるいは幼くしては蓬藜に捨てられ、長じては方丈を列ぬ。あるいは
鳴笳して出づることをいひ、麻絰して還ることを催す。かくのごとき等の種々
の違奪あり。このゆゑに願じてのたまはく、「わが国土は安楽相続して畢竟じ
て間なからしめん」と。「身悩」とは飢渇・寒熱・殺害等なり。「心悩」とは
是非・得失・三毒等なり。このゆゑに「永離身心悩 受楽常無間」といへり。
大義門功徳
【25】 大乗善根界 等無譏嫌名 女人及根欠 二乗種不生
この四句は荘厳大義門功徳成就と名づく。「門」とは大義に通ずる門なり。
「大義」とは大乗の所以なり。人、城に造りて門を得れば、すなはち入るがご
とし。もし人安楽に生ずることを得れば、これすなはち大乗を成就する門なり。
仏本なんがゆゑぞこの願を興したまへる。ある国土を見そなはすに、仏如来・
賢聖等の衆ましますといへども、国、濁せるによるがゆゑに、一を分ちて三と
説く。あるいは眉を拓くをもつて誚りを致し、あるいは指語によりて譏りを招
く。このゆゑに願じてのたまはく、「わが国土をしてみなこれ大乗一味、平等
一味ならしめん。根敗の種子畢竟じて生ぜじ、女人・残欠の名字また断たん」
と。このゆゑに「大乗善根界 等無譏嫌名 女人及根欠 二乗種不生」といへ
り。
問ひていはく、王舎城所説の『無量寿経』(上・意)を案ずるに、法蔵菩薩
の四十八願のなかにのたまはく、「たとひわれ仏を得んに、国のうちの声聞、
よく計量してその数を知ることあらば、正覚を取らじ」(第十四願)と。これ声
聞ある一の証なり。また『十住毘婆沙』(易行品)のなかに龍樹菩薩、阿弥陀の
讃を造りていはく、「三界の獄を超出して、目は蓮華葉のごとし。声聞衆無量
なり。このゆゑに稽首し礼したてまつる」と。これ声聞ある二の証なり。また
『摩訶衍論』(大智度論・意)のなかにいはく、「仏土種々不同なり。あるいは
仏土あり、もつぱらにこれ声聞僧なり。あるいは仏土あり、もつぱらにこれ菩
薩僧なり。あるいは仏土あり、菩薩・声聞会して僧となす。阿弥陀の安楽国等
のごときはこれなり」と。これ声聞ある三の証なり。諸経のなかに安楽国を説
くところありて、多く声聞ありとのたまひて声聞なしとのたまはず。声聞はす
なはちこれ二乗の一なり。『論』(浄土論)に「乃至無二乗名」といへり。これ
いかんが会する。答へていはく、理をもつてこれを推するに、安楽浄土には二
乗あるべからず。なにをもつてこれをいふとならば、それ病あるにはすなはち
薬あり。理数の常なり。『法華経』(意)にのたまはく、「釈迦牟尼如来、五濁
の世に出でたまへるをもつてのゆゑに、一を分ちて三となす」と。浄土すでに
五濁にあらず。三乗なきことあきらかなり。『法華経』(意)にのたまはく、
「もろもろの声聞、この人いづこにおいてか解脱を得ん。ただ虚妄を離るるを
名づけて解脱となす。この人実にいまだ一切解脱を得ず。いまだ無上道を得ざ
るをもつてのゆゑなり」と。あきらかにこの理を推するに、阿羅漢すでにいま
だ一切解脱を得ず。かならず生ずることあるべし。この人更りて三界に生ぜず。
三界のほかに、浄土を除きてまた生処なし。ここをもつてただ浄土に生ずべし。
「声聞」といふがごときは、これ他方の声聞来生せるを、本の名によるがゆ
ゑに称して声聞となす。天帝釈の人中に生るる時、驕尸迦を姓とせり。後に天
主となるといへども、仏(釈尊)、人をしてその由来を知らしめんと欲して、帝
釈と語らひたまふ時、なほ驕尸迦と称するがごとし。それこの類なり。またこ
の『論』(浄土論)にはただ「二乗種不生」といへり。いはく安楽国に二乗の種
子を生ぜずとなり。またなんぞ二乗の来生を妨げんや。たとへば橘栽は江北に
生ぜざれども、河洛の菓肆にまた橘ありと見るがごとし。また鸚鵡は壟西を渡
らざれども、趙魏の架桁にまた鸚鵡ありといふ。この二の物、ただその種渡ら
ずといふ。かしこに声聞のあることまたかくのごとし。かくのごとき解をなさ
ば、経論すなはち会しぬ。
問ひていはく、名はもつて事を召く。事あればすなはち名あり。安楽国には
すでに二乗・女人・根欠の事なし。またなんぞまたこの三の名なしといふべけ
んや。答へていはく、軟心の菩薩のはなはだしくは勇猛ならざるを、譏りて声
聞といふがごとし。人の諂曲なると、あるいはまた儜弱なるを、譏りて女人
といふがごとし。また眼あきらかなりといへども事を識らざるを、譏りて盲人
といふがごとし。また耳聴くといへども義を聴きて解らざるを、譏りて聾人と
いふがごとし。また舌語ふといへども訥口蹇吃なるを、譏りて&M022524;人といふがご
とし。かくのごとき等ありて、根具足せりといへども譏嫌の名あり。このゆゑ
にすべからく「乃至名なし」といふべし。浄土にはかくのごとき等の与奪の名
なきことあきらかなり。
問ひていはく、法蔵菩薩の本願(第十四願)、および龍樹菩薩の所讃(易行品)
を尋ぬるに、みなかの国に声聞衆多なるをもつて奇となすに似たり。これなん
の義かある。答へていはく、声聞は実際をもつて証となす。計るにさらによく
仏道の根芽を生ずべからず。しかるに仏、本願の不可思議の神力をもつて、摂
してかしこに生ぜしめ、かならずまさにまた神力をもつてその無上道心を生ず
べし。たとへば鴆鳥の水に入れば魚蚌ことごとく死し、犀牛これに触るれば死
せるものみな活るがごとし。かくのごとく生ずべからずして生ず。ゆゑに奇と
すべし。しかるに五不思議のなかに、仏法もつとも不可思議なり。仏よく声聞
をしてまた無上道心を生ぜしむ。まことに不可思議の至りなり。
一切所求満足功徳
【26】 衆生所願楽 一切能満足
この二句は荘厳一切所求満足功徳成就と名づく。仏本なんがゆゑぞこの願を
興したまへる。ある国土を見そなはすに、あるいは名高く位重くして、潜処す
るに由なし。あるいは人凡に性鄙しくして、出でんと悕ふに路なし。あるいは
修短、業に繋がれて、制することおのれにあらず。阿私陀仙人のごとき類なり。
かくのごとき等の、業風のために吹かれて自在を得ざることあり。このゆゑに
願じてのたまはく、「わが国土をしておのおの所求に称ひて、情願を満足せし
めん」と。このゆゑに「衆生所願楽 一切能満足」といへり。
【27】 是故願生彼 阿弥陀仏国
この二句は上に十七種荘厳国土成就を観察するは、願生する所以なることを
結成す。器世間清浄を釈すること、これ上に訖りぬ。
衆生名義
【28】 次に衆生世間清浄を観ず。この門のなかを分ちて二の別となす。一に
は阿弥陀如来の荘厳功徳を観察す。二にはかのもろもろの菩薩の荘厳功徳を観
察す。如来の荘厳功徳を観察するなかに八種あり。文に至りてまさに目くべし。
問ひていはく、ある論師、汎く衆生の名義を解するに、それ三有に輪転して
衆多の生死を受くるをもつてのゆゑに衆生と名づくと。いま仏・菩薩を名づけ
て衆生となす。この義いかん。答へていはく、『経』(涅槃経・意)にのたまは
く、「一法に無量の名あり、一名に無量の義あり」と。衆多の生死を受くるを
もつてのゆゑに名づけて衆生となすがごときは、これはこれ小乗家の三界の
なかの衆生の名義を釈するなり。大乗家の衆生の名義にはあらず。大乗家にい
ふところの衆生とは、『不増不減経』にのたまふがごとし。「衆生といふはす
なはちこれ不生不滅の義なり」と。なにをもつてのゆゑに。もし生あらば生じ
をはりてまた生じ、無窮の過あるがゆゑに、不生にして生ずる過あるがゆゑな
り。このゆゑに無生なり。もし生あらば滅あるべし。すでに生なし。なんぞ滅
あることを得ん。このゆゑに無生無滅はこれ衆生の義なり。『経』(維摩経・意)
のなかに、「五受陰、通達するに空にして所有なし。これ苦の義なり」とのた
まふがごとし。これその類なり。
仏 座功徳
【29】 無量大宝王 微妙浄華台
この二句は荘厳座功徳成就と名づく。仏本なんがゆゑぞこの座を荘厳したま
へる。ある菩薩を見そなはすに、末後の身において、草を敷きて坐して阿耨多
羅三藐三菩提を成じたまふ。人天の見るもの、増上の信、増上の恭敬、増上の
愛楽、増上の修行を生ぜず。このゆゑに願じてのたまはく、「われ成仏する時、
無量の大宝王の微妙の浄華台をして、もつて仏の座となさしめん」と。「無量」
とは、『観無量寿経』にのたまふがごとし。「七宝の地の上に大宝蓮華王の座
あり。蓮華の一々の葉、百宝色をなす。八万四千の脈あり。なほ天の画のごと
し。脈に八万四千の光あり。華葉の小さきものは縦広二百五十由旬なり。かく
のごとき華に八万四千の葉あり。一々の葉のあひだに百億の摩尼珠王あり、も
つて映飾となす。一々の摩尼は、千の光明を放つ。その光は蓋のごとし。七宝
合成してあまねく地の上に覆ふ。釈迦毘楞伽宝、もつてその台となす。この蓮
華台は八万の金剛・甄叔迦宝・梵摩尼宝・妙真珠網、もつて厳飾となす。その
台の上において、自然にして四柱の宝幢あり。一々の宝幢は、八万四千億の須
弥山のごとし。幢の上の宝幔は、夜摩天宮のごとし。五百億の微妙の宝珠あり、
もつて映飾となす。一々の宝珠に八万四千の光あり。一々の光、八万四千の異
種の金色をなす。一々の金光、安楽宝土に遍す。処々に変化しておのおの異相
をなす。あるいは金剛台となり、あるいは真珠網となり、あるいは雑華雲とな
る。十方面において意に随ひて変現し、仏事を化作す」と。かくのごとき等の
事、数量に出過せり。このゆゑに「無量大宝王 微妙浄華台」といへり。
仏 身業功徳
【30】 相好光一尋 色像超群生
この二句は荘厳身業功徳成就と名づく。仏本なんがゆゑぞかくのごとき身業
を荘厳したまへる。ある仏身を見そなはすに、一丈の光明を受けたり。人の身
光においてはなはだしくは超絶せず。転輪王の相のごとし。そもそもまた大き
に提婆達多に同じ。減ずるところ唯一なれば、阿闍世王をして、ここをもつて
乱を懐かしむることを致す。刪闍耶等あへて蟷螂のごとくするも、あるいはか
くのごとき類なり。このゆゑにかくのごとき身業を荘厳したまへり。この間
(中国)の詁訓を案ずるに、六尺を尋といふ。『観無量寿経』(意)にのたまへ
るがごとし。「阿弥陀如来の身の高さ六十万億那由他恒河沙由旬なり。仏の円
光は百億の三千大千世界のごとし」と。訳者(菩提流支)、尋をもつてしていへ
り。なんぞそれ晦きや。里舎の間の人、縦横長短を簡ばず、ことごとく横に
両手の臂を舒べて尋となすといへり。もし訳者、あるいはこの類を取りて用ゐ
て、阿弥陀如来の、臂を舒べたまふに准じて言をなす。ゆゑに一尋と称せば、
円光また径六十万億那由他恒河沙由旬なるべし。このゆゑに「相好光一尋 色
像超群生」といへり。
問ひていはく、『観無量寿経』にのたまはく、「諸仏如来はこれ法界身なり。
一切衆生の心想のうちに入る。このゆゑに、なんぢら心に仏を想ふ時、この心
すなはちこれ三十二相・八十随形好なり。この心作仏す。この心これ仏なり。
諸仏正遍知海は心想より生ず」と。この義いかん。答へていはく、「身」を集
成と名づく。「界」を事別と名づく。眼界のごときは根・色・空・明・作意の
五の因縁によりて生ずるを名づけて眼界となす。これ眼ただみづからおのが縁
を行じて他縁を行ぜず。事別なるをもつてのゆゑなり。耳・鼻等の界もまたか
くのごとし。「諸仏如来はこれ法界身なり」といふは、「法界」はこれ衆生の
心法なり。心よく世間・出世間の一切諸法を生ずるをもつてのゆゑに、心を名
づけて法界となす。法界よくもろもろの如来の相好の身を生ず。また色等のよ
く眼識を生ずるがごとし。このゆゑに仏身を法界身と名づく。この身、他の縁
を行ぜず。このゆゑに「一切衆生の心想のうちに入る」となり。「心に仏を想
ふ時、この心すなはちこれ三十二相・八十随形好なり」といふは、衆生の心に
仏を想ふ時に当りて、仏身の相好、衆生の心中に顕現するなり。たとへば水清
ければすなはち色像現ず、水と像と一ならず異ならざるがごとし。ゆゑに仏の
相好の身すなはちこれ心想とのたまへるなり。「この心作仏す」といふは、心
よく仏を作るといふなり。「この心これ仏」といふは、心のほかに仏ましまさ
ず。たとへば火は木より出でて、火、木を離るることを得ず。木を離れざるを
もつてのゆゑにすなはちよく木を焼く。木、火のために焼かれて、木すなはち
火となるがごとし。「諸仏正遍知海は心想より生ず」といふは、「正遍知」と
は真正に法界のごとくにして知るなり。法界無相なるがゆゑに諸仏は無知なり。
無知をもつてのゆゑに知らざるはなし。無知にして知るはこれ正遍知なり。こ
の知、深広にして測量すべからず。ゆゑに海に譬ふ。
仏 口業功徳
【31】 如来微妙声 梵響聞十方
この二句は荘厳口業功徳成就と名づく。仏本なんがゆゑぞこの荘厳を興した
まへる。ある如来を見そなはすに、名の尊からざるに似る。外道人を軵[車を
推す]して、瞿曇姓と称するがごとし。道を成ずる日、声はただ梵天に徹る。
このゆゑに願じてのたまはく、「われ成仏せんに、妙声はるかに布きて、聞く
ものをして忍を悟らしめん」と。このゆゑに「如来微妙声 梵響聞十方」と
いへり。
仏 心業功徳
【32】 同地水火風 虚空無分別
この二句は荘厳心業功徳成就と名づく。仏本なんがゆゑぞこの荘厳を興した
まへる。ある如来を見そなはすに、法を説くに、これは黒、これは白、これは
不黒・不白、下法・中法・上法・上上法とのたまふ。かくのごとき等の無量
差別の品あり。分別あるに似たり。このゆゑに願じてのたまはく、「われ成仏
せんに、地の荷負するに軽重の殊なきがごとく、水の潤長するに莦[悪草]葀
[瑞草なり]の異なきがごとく、火の成就するに芳臭の別なきがごとく、風の起
発するに眠悟の差なきがごとく、空の苞受するに開塞の念なきがごとくならし
めん」と。これを内に得て、物を外に安んず。虚しく往きて実ちて帰り、ここ
において息む。このゆゑに「同地水火風 虚空無分別」といへり。
衆功功徳
【33】 天人不動衆 清浄智海生
この二句は荘厳衆功徳成就と名づく。仏本なんがゆゑぞこの荘厳を起した
まへる。ある如来を見そなはすに、説法輪下のあらゆる大衆、もろもろの根・
性・欲は種々不同なり。仏の智慧において、もしは退きもしは没す。等しから
ざるをもつてのゆゑに、衆、純浄ならず。ゆゑに願を興したまへり。「願は
くはわれ成仏せんに、あらゆる天・人みな如来の智慧清浄海より生ぜん」と。
「海」とは、仏の一切種智は深広にして崖りなく、二乗雑善の中・下の死尸を
宿さざることをいひて、これを海のごとしと喩ふ。このゆゑに「天人不動衆
清浄智海生」といへり。「不動」とは、かの天・人、大乗の根を成就して傾
動すべからざるをいふなり。
上首功徳
【34】 如須弥山王 勝妙無過者
この二句は荘厳上首功徳成就と名づく。仏本なんがゆゑぞこの願を起した
まへる。ある如来を見そなはすに、衆のなかにあるいは強梁のものあり。提婆
達多の流比のごとし。あるいは国王、仏と並び治めて、はなはだ仏に推ること
を知らざるあり。あるいは仏を請じて他縁をもつて廃忘することあり。かくの
ごとき等の上首の力成就せざるに似たるあり。このゆゑに願じてのたまはく、
「われ仏となる時、願はくは一切の大衆、よく心を生じて、あへてわれと等し
きことなく、ただひとり法王としてさらに俗王なからん」と。このゆゑに「如
須弥山王 勝妙無過者」といへり。
主功徳
【35】 天人丈夫衆 恭敬繞瞻仰
この二句は荘厳主功徳成就と名づく。仏本なんがゆゑぞこの荘厳を起したま
へる。ある仏如来を見そなはすに、大衆ありといへども、衆のなかにまたはな
はだ恭敬せざるあり。一の比丘、釈迦牟尼仏に、「もしわがために十四の難を
解せずは、われまさにさらに余道を学すべし」と語りしがごとし。また居迦離、
舎利弗を謗じて、仏三たび語りたまひしに三たび受けざりしがごとし。またも
ろもろの外道の輩、かりに仏衆に入りてつねに仏の短を伺ひ求めしがごとし。
また第六天の魔、つねに仏の所においてもろもろの留難をなししがごとし。か
くのごとき等の種々の恭敬せざる相あり。このゆゑに願じてのたまはく、「わ
れ成仏せんに、天・人大衆、恭敬して惓むことなからしめん」と。ただ「天・
人」といふ所以は、浄土には女人および八部鬼神なきがゆゑなり。このゆゑに
「天人丈夫衆 恭敬繞瞻仰」といへり。
不虚作住持功徳
【36】 観仏本願力 遇無空過者 能令速満足 功徳大宝海
この四句は荘厳不虚作住持功徳成就と名づく。仏本なんがゆゑぞこの荘厳を
起したまへる。ある如来を見そなはすに、ただ声聞をもつて僧となし、仏道を
求むるものなし。あるいは仏に値へども、三塗を勉れざるあり。善星・提婆達
多・居迦離等これなり。また人、仏(釈尊)の名号を聞きて無上道心を発せど
も、悪の因縁に遇ひて、退して声聞・辟支仏地に入るものあり。かくのごとき
等の空過のもの、退没のものあり。このゆゑに願じてのたまはく、「われ成仏
する時、われに値遇するものをして、みな速疾に無上大宝を満足せしめん」と。
このゆゑに「観仏本願力 遇無空過者 能令速満足 功徳大宝海」といへり。
「住持」の義は上のごとし。仏の荘厳八種の功徳を観ずること、これ上に訖り
ぬ。
菩薩
【37】 次に安楽国のもろもろの大菩薩の四種の荘厳功徳成就を観ず。
問ひていはく、如来(阿弥陀仏)の荘厳功徳を観ずるに、なんの闕少せるとこ
ろありてか、また〔浄土の〕菩薩の功徳を観ずることを須ゐるや。答へていは
く、明君ましますときにはすなはち賢臣あるがごとし。尭・舜の無為と称せし
は、これその比なり。もしただ如来法王ましませども、大菩薩の法臣なからし
めば、道を翼讃するにおいてあに満つといふに足らんや。また薪を積みて小な
きときには、すなはち火大きならざるがごとし。経にのたまふがごとし。「阿
弥陀仏国に無量無辺のもろもろの大菩薩あり。観世音・大勢至等のごときは、
みなまさに一生に他方において次いで仏処に補すべし」と。もし人、名を称し
て憶念するもの、帰依するもの、観察するものは、『法華経』の「普門品」に
説くがごとく、願として満たざることなし。しかるに菩薩の功徳を愛楽するこ
とは、海の、流を呑みて止足の情なきがごとし。また釈迦牟尼如来、一の目闇
の比丘(阿&M060797;楼駄)の吁へてまうすを聞しめすがごとし。「たれか功徳を愛する
もの、わがために針を維げ」と。その時に如来、禅定より起ちて、その所に来
到して語りてのたまはく、「われ福徳を愛す」と。つひにそれがために針を維
ぎたまふ。その時に失明の比丘、暗に仏語の声を聞きて、驚喜こもごも集まり
て仏にまうしてまうさく、「世尊、世尊の功徳はなほいまだ満たずや」と。仏
報へてのたまはく、「わが功徳は円満せり。また須むべきところなし。ただわ
がこの身は功徳より生ず。功徳の恩分を知るがゆゑに、このゆゑに愛すとい
ふ」と。問ふところのごとく、仏(阿弥陀仏)の功徳を観ずるに、実に願として
充たざるはなし。また諸菩薩の功徳を観ずる所以は、上のごとく種々の義ある
がゆゑなるのみ。
菩薩 不動而至功徳
【38】 安楽国清浄 常転無垢輪 化仏菩薩日 如須弥住持
仏本なんがゆゑぞこの荘厳を起したまへる。ある仏土を見そなはすに、ただ
これ小菩薩のみにして十方世界において広く仏事をなすことあたはず。あるい
はただ声聞・人・天のみにして利するところ狭小なり。このゆゑに願を興し
たまへり。「願はくはわが国のうちには無量の大菩薩衆ありて、本処を動ぜず
してあまねく十方に至りて種々に応化して、如実に修行してつねに仏事をなさ
ん」と。たとへば、日の天上にありて、影は百川に現ずるがごとし。日あに来
らんや、あに来らざらんや。『大集経』(意)にのたまふがごとし。「たとへば、
人ありてよく堤塘を治して、その所宜を量りて水を放つ時に及びて、心力を加
へざるがごとし。菩薩もまたかくのごとし。先づ一切諸仏および衆生の供養す
べく、教化すべき種々の堤塘を治すれば、三昧に入るに及びて身心動ぜざれど
も、如実に修行してつねに仏事をなす」と。「如実に修行す」とは、つねに修
行すといへども、実に修行するところなし。このゆゑに「安楽国清浄 常転
無垢輪 化仏菩薩日 如須弥住持」といへり。
菩薩 一念遍至功徳
【39】 無垢荘厳光、一念及一時 普照諸仏会 利益諸群生
仏本なんがゆゑぞこの荘厳を起したまへる。ある如来の眷属を見そなはすに、
他方無量の諸仏を供養せんと欲し、あるいは無量の衆生を教化せんと欲するに、
ここに没してかしこに出づ。南を先にして北を後にす。一念一時をもつて光を
放ちてあまねく照らし、あまねく十方世界に至りて衆生を教化することあたは
ず。出没前後の相あるがゆゑなり。このゆゑに願を興したまへり。「願はくは
わが仏土のもろもろの大菩薩、一念の時のあひだにおいて、あまねく十方に至
りて種々の仏事をなさん」と。このゆゑに「無垢荘厳光 一念及一時 普照諸
仏会 利益諸群生」といへり。
問ひていはく、上の章に、身は動揺せずしてあまねく十方に至るといふ。不
動にして至る、あにこれ一時の義にあらずや。これといかんが差別する。答へ
ていはく、上にはただ不動にして至るといへども、あるいは前後あるべし。こ
こには無前無後といふ。これ差別となす。またこれ上の不動の義を成ずるなり。
もし一時ならずはすなはちこれ往来なり。もし往来あらばすなはち不動にあら
ず。このゆゑに上の不動の義を成ぜんためのゆゑに、すべからく一時を観ずべ
し。
菩薩 無相供養功徳
【40】 雨天楽華衣 妙香等供養 讃諸仏功徳 無有分別心
仏本なんがゆゑぞこの荘厳を起したまへる。ある仏土を見そなはすに、菩
薩・人・天、志趣広からず、あまねく十方無窮の世界に至りて諸仏如来・大衆
を供養することあたはず。あるいはおのが土の穢濁なるをもつて、あへて浄
郷に向詣せず。あるいは居するところの清浄なるをもつて穢土を鄙薄す。か
くのごとき等の種々の局分をもつて、諸仏如来の所において周遍供養して広大
の善根を発起することあたはず。このゆゑに願じてのたまはく、「われ成仏す
る時、願はくはわが国土の一切の菩薩・声聞・天・人大衆、あまねく十方の一
切諸仏の大会の処所に至りて、天の楽・天の華・天の衣・天の香を雨らして、
巧妙の弁辞をもつて諸仏の功徳を供養し讃嘆せん」と。穢土の如来の大慈謙
忍を嘆ずといへども、仏土に雑穢の相あることを見ず。浄土の如来の無量の荘
厳を嘆ずといへども、仏土に清浄の相あることを見ず。なにをもつてのゆゑ
に。諸法等しきをもつてのゆゑに、もろもろの如来等し。このゆゑに諸仏如来
を名づけて等覚となす。もし仏土において優劣の心を起さば、たとひ如来を供
養すれども、法の供養にはあらず。このゆゑに「雨天楽華衣 妙香等供養 讃
諸仏功徳 無有分別心」といへり。
菩薩 示法如仏功徳
【41】 何等世界無 仏法功徳宝 我願皆往生 示仏法如仏
仏本なんがゆゑぞこの願を起したまへる。ある軟心の菩薩を見そなはすに、
ただ有仏の国土の修行を楽ひて慈悲堅牢の心なし。このゆゑに願を興したまへ
り。「願はくはわれ成仏する時、わが土の菩薩はみな慈悲勇猛堅固の志願あり
て、よく清浄の土を捨て、他方の仏法僧なき処に至りて、仏法僧の宝を住持
し荘厳して示すこと、仏のましますがごとくし、仏種をして処々に断えざらし
めん」と。このゆゑに「何等世界無 仏法功徳宝 我願皆往生 示仏法如仏」
といへり。菩薩の四種荘厳功徳成就を観ずること、これ上に訖りぬ。
回向門
【42】 次に下の四句はこれ回向門なり。
我作論説偈 願見弥陀仏 普共諸衆生 往生安楽国
この四句はこれ論主(天親)の回向門なり。「回向」とは、おのが功徳を回し
てあまねく衆生に施して、ともに阿弥陀如来を見たてまつり、安楽国に生ぜん
となり。
無量寿修多羅の章句、われ偈頌をもつて総じて説きをはりぬ。
八番問答
【43】 問ひていはく、天親菩薩の回向の章のなかに、「普共諸衆生 往生安楽 国」といへるは、これはなんらの衆生とともにと指すや。答へていはく、王舎 城所説の『無量寿経』(下)を案ずるに、「仏、阿難に告げたまはく、〈十方 恒河沙の諸仏如来、みなともに無量寿仏の威神功徳不可思議なるを称嘆したま ふ。諸有の衆生、その名号を聞きて信心歓喜し、すなはち一念に至るまで心を 至して回向して、かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得て、不退転に 住せん。ただ五逆と誹謗正法とを除く〉」と。これを案じていふに、一切の外 道・凡夫人、みな往生を得ん。また『観無量寿経』のごときは九品の往生あり。 「下下品の生とは、あるいは衆生ありて、不善業たる五逆・十悪を作り、もろ もろの不善を具せん。かくのごとき愚人、悪業をもつてのゆゑに悪道に堕して、 多劫を経歴して苦を受くること窮まりなかるべし。かくのごとき愚人、命終 の時に臨みて、善知識、種々に安慰して、ために妙法を説き教へて念仏せしむ るに遇はん。かの人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友告げていはく、 〈なんぢもし念ずることあたはずは無量寿仏と称すべし〉と。かくのごとく心 を至して声をして絶えざらしめて、十念を具足して〈南無無量寿仏〉と称せん。 仏の名を称するがゆゑに、念々のうちにおいて八十億劫の生死の罪を除き、命 終の後に金蓮華のなほ日輪のごとくしてその人の前に住するを見、一念のあひ だのごとくにすなはち極楽世界に往生を得ん。蓮華のなかにおいて十二大劫を 満てて、蓮華まさに開けん。[まさにこれをもつて五逆の罪を償ふべし。]観世音・大 勢至、大悲の音声をもつてそれがために広く諸法実相、罪を除滅する法を説か ん。聞きをはりて歓喜して、時に応じてすなはち菩提の心を発さん。これを下 品下生のものと名づく」と。この経をもつて証するに、あきらかに知りぬ、下 品の凡夫ただ正法を誹謗せざれば、仏を信ずる因縁をもつてみな往生を得と。
問ひていはく、『無量寿経』(下・意)にのたまはく、「往生を願ずるものみ
な往生を得。ただ五逆と誹謗正法とを除く」と。『観無量寿経』(意)にのた
まはく、「五逆・十悪もろもろの不善を具するもまた往生を得」と。この二経、
いかんが会する。答へていはく、一経(大経)には二種の重罪を具するをもつ
てなり。一には五逆、二には誹謗正法なり。この二種の罪をもつてのゆゑに、
ゆゑに往生を得ず。一経(観経)にはただ十悪・五逆等の罪を作るとのたまひ
て、正法を誹謗すとのたまはず。正法を謗ぜざるをもつてのゆゑに、このゆゑ
に生ずることを得。
問ひていはく、たとひ一人ありて、五逆罪を具すれども正法を誹謗せざれば、
『経』(観経)に生ずることを得と許す。また一人ありて、ただ正法を誹謗して
五逆の諸罪なし。往生を願ぜば生ずることを得やいなや。答へていはく、ただ
正法を誹謗せしめば、さらに余の罪なしといへども、かならず生ずることを得
ず。なにをもつてこれをいふとならば、『経』(大品般若経・意)にのたまはく、
「五逆の罪人、阿鼻大地獄のなかに堕してつぶさに一劫の重罪を受く。正法を
誹謗する人は阿鼻大地獄のなかに堕して、この劫もし尽きぬれば、また転じて
他方の阿鼻大地獄のなかに至る。かくのごとく展転して百千の阿鼻大地獄を
経」と。仏(釈尊)、出づることを得る時節を記したまはず。誹謗正法の罪きは
めて重きをもつてのゆゑなり。また正法はすなはちこれ仏法なり。この愚痴の
人すでに誹謗を生ず。いづくんぞ仏土に生ぜんと願ずる理あらんや。たとひた
だかの土の安楽を貪りて生ぜんと願ずるは、また水にあらざる氷、煙なき火を
求むるがごとし。あに理を得ることあらんや。
問ひていはく、なんらの相かこれ正法を誹謗する。答へていはく、もし仏な
く、仏の法なし、菩薩なく、菩薩の法なしといはん。かくのごとき等の見、も
しは心にみづから解し、もしは他に従ひて受け、その心決定するをみな正法を
誹謗すと名づく。
問ひていはく、かくのごとき等の計はただこれおのが事なり。衆生において
なんの苦悩ありてか五逆の重罪に踰えたるや。答へていはく、もし諸仏・菩薩
の、世間・出世間の善道を説きて衆生を教化するものなくは、あに仁・義・
礼・智・信あることを知らんや。かくのごとき世間の一切の善法みな断じ、出
世間の一切の賢聖みな滅しなん。なんぢただ五逆罪の重たることを知りて、五
逆罪の正法なきより生ずることを知らず。このゆゑに正法を謗ずる人、その罪
もつとも重し。
問ひていはく、業道経にのたまはく、「業道は称のごとし。重きもの先づ牽 く」と。『観無量寿経』(意)にのたまふがごとし。「人ありて五逆・十悪を 造りもろもろの不善を具せらん。悪道に堕して多劫を経歴して無量の苦を受 くべし。命終の時に臨みて、善知識の教に遇ひて、〈南無無量寿仏〉と称せん。 かくのごとく心を至して声をして絶えざらしめて、十念を具足してすなはち安 楽浄土に往生することを得。すなはち大乗正定の聚に入りて、畢竟じて退 せず。三塗のもろもろの苦と永く隔つ」と。「先づ牽く」の義、理においてい かんぞ。また曠劫よりこのかた、つぶさにもろもろの行を造りて、有漏の法は 三界に繋属せり。ただ十念阿弥陀仏を念じたてまつるをもつてすなはち三界を 出づ。繋業の義またいかんせんと欲する。答へていはく、なんぢ五逆・十悪の 繋業等を重となし、下下品の人の十念をもつて軽となして、罪のために牽かれ て先づ地獄に堕して三界に繋在すべしといはば、いままさに義をもつて校量 すべし。軽重の義は心に在り、縁に在り、決定に在りて、時節の久近・多少 には在らず。いかんが「心に在る」。かの造罪の人はみづから虚妄顛倒の見に 依止して生ず。この十念は善知識の方便安慰によりて実相の法を聞きて生ず。 一は実なり、一は虚なり。あにあひ比ぶることを得んや。たとへば千歳の闇室 に、光もししばらく至らば、すなはち明朗なるがごとし。闇、あに室にあるこ と千歳にして去らじといふことを得んや。これを心に在りと名づく。いかんが 「縁に在る」。かの造罪の人はみづから妄想の心に依止し、煩悩虚妄の果報の 衆生によりて生ず。この十念は無上の信心に依止して、阿弥陀如来の方便荘厳 真実清浄無量の功徳の名号によりて生ず。たとへば人ありて毒の箭を被りて、 中るところ筋を截り骨を破るに、滅除薬の鼓を聞けば、すなはち箭出で毒除こ るがごとし。[『首楞厳経』(意)にのたまはく、「たとへば薬あり、名づけて滅除とい ふ。もし闘戦の時用ゐてもつて鼓に塗るに、鼓の声を聞けば箭出で毒除こるがごとし。菩 薩摩訶薩またかくのごとし。首楞厳三昧に住してその名を聞けば、三毒の箭自然に抜け出 づ」と。]あにかの箭深く毒はげしくして、鼓の音声を聞くとも、箭を抜き毒を 去ることあたはずといふことを得べけんや。これを縁に在りと名づく。いかん が「決定に在る」。かの造罪の人は有後心・有間心に依止して生ず。この十念 は無後心・無間心に依止して生ず。これを決定と名づく。三の義を校量する に十念は重し。重きもの先づ牽きてよく三有を出づ。両経は一義なるのみ。
問ひていはく、いくばくの時をか名づけて一念となす。答へていはく、百一
の生滅を一刹那と名づく。六十の刹那を名づけて一念となす。このなかに念と
いふはこの時節を取らず。ただ阿弥陀仏を憶念するをいふ。もしは総相、もし
は別相、所観の縁に随ひて、心に他想なくして十念相続するを名づけて十念と
なす。ただ名号を称するもまたかくのごとし。
問ひていはく、心もし他縁せば、これを摂して還らしめて念の多少を知りぬ
べし。ただ多少を知るともまた無間にはあらず。もし心を凝らし想を注げば、
またなにによりてか念の多少を記することを得べき。答へていはく、『経』(観
経)に「十念」とのたまへるは、業事成弁を明かすのみ。かならずしも頭数を
知ることを須ゐず。「蟪蛄は春秋を識らず」といふがごとし。この虫あに朱陽
の節を知らんや。知るものこれをいふのみ。十念業成とは、これまた神に通ず
るものこれをいふのみ。ただ念を積み相続して他事を縁ぜざればすなはち罷み
ぬ。またなんぞ念の頭数を知るを須ゐることを仮らんや。もしかならずすべか
らく知るべくはまた方便あり。かならずすべからく口授すべし。これを筆点に
題することを得ざれ。
無量寿経優婆提舎願生偈註 巻上
往生論註
巻下
無量寿経優婆提舎願生偈註 巻下
解義分
【44】 論じて曰はく。
これはこれ解義分なり。この分のなかに、義に十重あり。一には願偈大意、
二には起観生信、三には観行体相、四には浄入願心、五には善巧摂化、六に
は離菩提障、七には順菩提門、八には名義摂対、九には願事成就、十には利行
満足なり。「論」とは議なり。いふこころは偈の所以を議するなり。「曰」と
は詞なり。下の諸句を指す。これは偈を議釈する詞なり。ゆゑに「論じて曰は
く」といふ。
願偈大意章
【45】 願偈大意とは、
- この願偈はなんの義をか明かす。かの安楽世界を観じて阿弥陀如来を
- 見たてまつることを示現す。かの国に生ぜんと願ずるがゆゑなり。
起観生信章
【46】 起観生信とは、この分のなかにまた二重あり。一には五念力を示す。二
には五念門を出す。
【47】 五念力を示すとは、
- いかんが観じ、いかんが信心を生ずる。もし善男子・善女人、五念門
- を修して行成就しぬれば、畢竟じて安楽国土に生じて、かの阿弥陀
- 仏を見たてまつることを得。
【48】 五念門を出すとは、
- なんらか五念門。一には礼拝門、二には讃嘆門、三には作願門、四に
- は観察門、五には回向門なり。
「門」とは入出の義なり。人、門を得ればすなはち入出無礙なるがごと
し。前の四念はこれ安楽浄土に入る門なり。後の一念はこれ慈悲教化に出づる
門なり。
【49】
- いかんが礼拝する。身業をもつて阿弥陀如来・応・正遍知を礼拝したてまつる。
諸仏如来に、徳無量あり。徳無量なるがゆゑに徳号また無量なり。もしつぶ
さに談ぜんと欲せば、紙筆も載することあたはず。ここをもつて諸経に、ある
いは十名を挙げ、あるいは三号を騰げたり。けだし至宗を存ずるのみ。あにこ
こに尽さんや。いふところの三号は、すなはちこれ如来と応と正遍知なり。
「如来」とは、法相のごとく解り、法相のごとく説き、諸仏の安穏道より来る
がごとく、この仏もまたかくのごとく来りて、また後有のなかに去らず。ゆゑ
に如来と名づく。「応」とは応供なり。仏は結使除尽して一切の智慧を得て、
応に一切の天地の衆生の供養を受くべきがゆゑに応といふなり。「正遍知」と
は、一切諸法は実に不壊の相にして不増不減なりと知る。いかんが不壊なる。
心行処滅し、言語の道過ぎたり。諸法は涅槃の相のごとくにして不動なり。ゆ
ゑに正遍知と名づく。無礙光の義は、前の偈のなかに解するがごとし。
【50】 かの国に生ずる意をなすがゆゑなり。
なんがゆゑぞこれをいふとなれば、菩薩の法は、つねに昼三時・夜三時をも
つて十方一切諸仏を礼す。かならずしも願生の意あるにあらず。いまつねに願
生の意をなすべきがゆゑに、阿弥陀如来を礼したてまつるなり。
【51】 いかんが讃嘆する。口業をもつて讃嘆したてまつる。
「讃」とは讃揚なり。「嘆」とは歌嘆なり。讃嘆は口にあらざれば宣べず。
ゆゑに「口業」といふなり。
名号破満
【52】
- かの如来の名を称するに、かの如来の光明智相のごとく、かの名義のごとく、如実に修行して相応せんと欲するがゆゑなり。
「かの如来の名を称す」とは、いはく、無礙光如来の名を称するなり。「か
の如来の光明智相のごとく」とは、仏の光明はこれ智慧の相なり。この光明は
十方世界を照らしたまふに障礙あることなし。よく十方衆生の無明の黒闇を除
くこと、日・月・珠光のただ空穴のなかの闇をのみ破するがごときにはあらず。
「かの名義のごとく、如実に修行して相応せんと欲す」とは、かの無礙光如来
の名号は、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。
しかるに名を称し憶念すれども、無明なほありて所願を満てざるものあり。な
んとなれば、如実に修行せず、名義と相応せざるによるがゆゑなり。いかんが
如実に修行せず、名義と相応せざるとなすとならば、いはく、如来はこれ実相
身なり、これ為物身なりと知らざればなり。また三種の不相応あり。一には信
心淳からず、存ずるがごとく亡ずるがごときゆゑなり。二には信心一ならず、
決定なきがゆゑなり。三には信心相続せず、余念間つるがゆゑなり。この三句
展転してあひ成ず。信心淳からざるをもつてのゆゑに決定なし。決定なきがゆ
ゑに念相続せず。また念相続せざるがゆゑに決定の信を得ず。決定の信を得ざ
るがゆゑに心淳からざるべし。これと相違せるを「如実に修行し相応す」と名
づく。このゆゑに論主(天親)、「我一心」と建言す。
問ひていはく、名をば法の指となす。指をもつて月を指すがごとし。もし仏
の名号を称するにすなはち願を満つることを得といはば、月を指す指、よく闇
を破すべし。もし月を指す指、闇を破することあたはずは、仏の名号を称すと
も、またなんぞよく願を満てんや。答へていはく、諸法万差なり。一概すべか
らず。名の法に即するあり。名の法に異するあり。名の法に即するとは、諸
仏・菩薩の名号、般若波羅蜜、および陀羅尼の章句、禁呪の音辞等これなり。
禁腫の辞に、「日出東方乍赤乍黄」等の句をいふがごとし。たとひ酉亥に禁を
行じて、日出に関らざれども、腫、差ゆることを得。また師に行くに陣に対ひ
てただ一たびも切歯のなかに「臨兵闘者皆陣列前行」と誦するがごとし。こ
の九字を誦するに五兵の中らざるところなり。『抱朴子』これを要道といふも
のなり。また転筋を苦しむもの、木瓜をもつて火に対てこれを熨すにすなはち
愈えぬ。また人ありて、ただ木瓜の名を呼ぶにまた愈えぬ。わが身にその効を
得るなり。かくのごとき近事は世間にともに知れり。いはんや不可思議の境界
なるものをや。滅除薬を鼓に塗る喩へ、またこれ一事なり。この喩へはすでに
前に彰すゆゑにかさねて引かず。名の法に異するありとは、指の月を指すがご
とき等の名なり。
【53】
- いかんが作願する。心につねに願を作し、一心にもつぱら畢竟じて安
- 楽国土に往生せんと念ず。如実に奢摩他を修行せんと欲するがゆゑなり。
「奢摩他」を訳して「止」といふ。「止」とは、心を一処に止めて悪をなさ
ず。この訳名はすなはち大意に乖かざれども、義においていまだ満たず。なに
をもつてこれをいふとならば、心を鼻端に止むるがごときをもまた名づけて止
となす。不浄観の貪を止め、慈悲観の瞋を止め、因縁観の痴を止む。かくのご
とき等をもまた名づけて止となす。人のまさに行かんとして行かざるがごとき
をもまた名づけて止となせばなり。ここに知りぬ、止の語は浮漫にしてまさし
く奢摩他の名を得ずと。椿・柘・楡・柳のごときをみな木と名づくといへども、
もしただ木といふときは、いづくんぞ楡・柳を得んや。「奢摩他」を止といふ
は含みて三の義あり。一には一心にもつぱら阿弥陀如来を念じてかの土に生ぜ
んと願ずれば、この如来の名号およびかの国土の名号、よく一切の悪を止む。
二にはかの安楽土は三界の道に過ぎたり。もし人またかの国に生ずれば、自然
に身口意の悪を止む。三には阿弥陀如来の正覚住持の力、自然に声聞・辟支
仏を求むる心を止む。この三種の止は如来の如実の功徳より生ず。このゆゑに
「如実に奢摩他を修行せんと欲するがゆゑなり」といへり。
【54】
- いかんが観察する。智慧をもつて観察し、正念にかしこを観ず。如実
- に毘婆舎那を修行せんと欲するがゆゑなり。
「毘婆舎那」を訳して「観」といふ。ただ汎く観といふには、義またいまだ 満たず。なにをもつてこれをいふとならば、身の無常・苦・空・無我・九想等 を観ずるがごときをも、みな名づけて観となせばなり。また上の木の名の椿・ 柘を得ざるがごとし。「毘婆舎那」を観といふはまた二の義あり。一には、こ こにありて想をなしてかの三種の荘厳功徳を観ずれば、この功徳如実なるがゆ ゑに、修行するものもまた如実の功徳を得。如実の功徳とは、決定してかの土 に生ずることを得るなり。二には、またかの浄土に生ずることを得れば、すな はち阿弥陀仏を見たてまつり、未証浄心の菩薩、畢竟じて平等法身を証する ことを得。浄心の菩薩と上地の菩薩と、畢竟じて同じく寂滅平等を得るなり。 このゆゑに「如実に毘婆奢那を修行せんと欲するがゆゑなり」といへり。
【55】
- かの観察に三種あり。なんらか三種。一にはかの仏国土の荘厳功徳を
- 観察す。二には阿弥陀仏の荘厳功徳を観察す。三にはかの諸菩薩の荘
- 厳功徳を観察す。
心にその事を縁ずるを「観」といふ。観心分明なるを「察」といふ。
往還回向
【56】
- いかんが回向する。一切苦悩の衆生を捨てずして、心につねに願を作
- し、回向を首となす。大悲心を成就することを得んとするがゆゑなり。
「回向」に二種の相あり。一には往相、二には還相なり。「往相」とは、お
のが功徳をもつて一切衆生に回施して、ともにかの阿弥陀如来の安楽浄土に往
生せんと作願するなり。「還相」とは、かの土に生じをはりて、奢摩他・毘婆
舎那を得、方便力成就すれば、生死の稠林に回入して一切衆生を教化して、と
もに仏道に向かふなり。もしは往、もしは還、みな衆生を抜きて生死海を渡せ
んがためなり。このゆゑに「回向を首となす。大悲心を成就することを得んと
するがゆゑなり」といへり。
【57】 観察体相とは、この分のなかに二の体あり。一には器体、二には衆生体
なり。器の分のなかにまた三重あり。一には国土の体相。二には自利利他を示
現す。三には第一義諦に入るなり。
【58】 国土の体相とは、
- いかんがかの仏国土の荘厳功徳を観察する。かの仏国土の荘厳功徳は
- 不可思議力を成就せるがゆゑなり。かの摩尼如意宝の性のごときに相
- 似相対の法なるがゆゑなり。
「不可思議力」とは、総じてかの仏国土の十七種の荘厳功徳力の、思議する
ことを得べからざるを指すなり。諸経に統べてのたまはく、五種の不可思議あ
り。一には衆生多少不可思議、二には業力不可思議、三には竜力不可思議、四
には禅定力不可思議、五には仏法力不可思議なり。このなかの仏土不可思議に
二種の力あり。一には業力、いはく、法蔵菩薩の出世の善根、大願業力の所成
なり。二には正覚の阿弥陀法王善住持力の所摂なり。この不可思議は下の十七
種のごとし。一々の相みな不可思議なり。文に至りてまさに釈すべし。「かの
摩尼如意宝の性のごときに相似相対」といふは、かの摩尼如意宝の性を借りて、
安楽仏土の不可思議の性を示すなり。諸仏入涅槃の時、方便力をもつて砕身
の舎利を留めてもつて衆生を福す。衆生の福尽きぬれば、この舎利変じて摩尼
如意宝珠となる。この珠は多く大海のなかにあり。大竜王、もつて首の飾りと
なせり。もし転輪聖王世に出づるときは、慈悲方便をもつてよくこの珠を得て、
閻浮提において大饒益をなす。もし衣服・飲食・灯明・楽具、意の所欲に随ひ
て種々の物を須ゐる時に、王すなはち潔斎して、珠を長竿の頭に置きて願を発
していはく、「もしわれ実にこれ転輪王ならば、願はくは宝珠、かくのごとき
物を雨らして、もしは一里に遍し、もしは十里、もしは百里に、わが心願に随
へ」と。その時にすなはち、虚空のなかにおいて種々の物を雨らして、みな所
須に称ひて天下の一切の人の願を満足せしむ。この宝性の力をもつてのゆゑな
り。かの安楽仏土もまたかくのごとし。安楽の性、種々に成就せるをもつての
ゆゑなり。「相似相対」とは、かの宝珠の力、衣食を求むるには、よく衣食等
の物を雨らして求むるものの意に称ふ。これ求めざるにはあらず。かの仏土は
すなはちしからず。性満足し成就せるがゆゑに、乏少するところなし。かの性
を片取して喩へとなす。ゆゑに相似相対といへり。またかの宝は、ただよく衆
生に衣食等の願を与ふるも、衆生に無上道の願を与ふることあたはず。またか
の宝は、ただよく衆生に一身の願を与ふるも、衆生に無量身の願を与ふること
あたはず。かくのごとき等の無量の差別あるがゆゑに相似といへり。
【59】
- かの仏国土の荘厳功徳成就を観察すとは十七種あり。知るべし。なん
- らか十七。一には荘厳清浄功徳成就、二には荘厳量功徳成就、三
- には荘厳性功徳成就、四には荘厳形相功徳成就、五には荘厳種々事
- 功徳成就、六には荘厳妙色功徳成就、七には荘厳触功徳成就、八に
- は荘厳三種功徳成就、九には荘厳雨功徳成就、十には荘厳光明功徳
- 成就、十一には荘厳妙声功徳成就、十二には荘厳主功徳成就、十
- 三には荘厳眷属功徳成就、十四には荘厳受用功徳成就、十五には荘厳
- 無諸難功徳成就、十六には荘厳大義門功徳成就、十七には荘厳一切所
- 求満足功徳成就なり。
先づ章門を挙げ、次に続きて提釈す。
【60】
- 荘厳清浄功徳成就とは、偈に「観彼世界相 勝過三界道」といへるがゆゑなり。
これいかんが不思議なる。凡夫人ありて煩悩成就するもまたかの浄土に生ず
ることを得れば、三界の繋業、畢竟じて牽かず。すなはちこれ煩悩を断ぜずし
て涅槃分を得。いづくんぞ思議すべきや。
【61】
- 荘厳量功徳成就とは、偈に「究竟如虚空 広大無辺際」といへるが
- ゆゑなり。
これいかんが不思議なる。かの国の人天、もし意に宮殿・楼閣、もしは広さ
一由旬、もしは百由旬、もしは千由旬、〔その数〕千間、万間ならんと欲すれば、
心に随ひて成ずるところなり。人おのおのかくのごとし。また十方世界の衆生、
往生を願ずれば、もしはすでに生れ、もしはいま生れ、もしはまさに生るべし。
一時一日のあひだをも算数するに、その多少を知ることあたはざるところなり。
しかもかの世界つねに虚空のごとし。迫迮の相なし。かしこのなかの衆生、か
くのごとき量のなかに住して、志願広大にしてまた虚空のごとくして限量ある
ことなからん。かの国土の量、よく衆生の心行の量を成ず。なんぞ思議すべき
や。
【62】
- 荘厳性功徳成就とは、偈に「正道大慈悲 出世善根生」といへるが
- ゆゑなり。
これいかんが不思議なる。たとへば迦羅求羅虫の、その形微小なれども、も
し大風を得れば身は大山のごとし。風の大小に随ひておのが身相となすがごと
し。安楽に生ずる衆生もまたかくのごとし。かの正道の世界に生ずれば、すな
はち出世の善根を成就して正定聚に入ること、またかの風の、身にあらずし
て身なるがごとし。いづくんぞ思議すべきや。
【63】
- 荘厳形相功徳成就とは、偈に「浄光明満足 如鏡日月輪」といへる
- がゆゑなり。
これいかんが不思議なる。それ忍辱は端正を得。わが心の影響なり。一たび
かしこに生ずることを得れば、瞋・忍の殊なりなし。人天の色像は平等妙絶
なり。けだし浄光の力なり。かの光は心行にあらずして心行の事をなす。いづ
くんぞ思議すべきや。
【64】
- 荘厳種々事功徳成就とは、偈に「備諸珍宝性 具足妙荘厳」といへ
- るがゆゑなり。
これいかんが不思議なる。かの種々の事、あるいは一宝・十宝・百千種宝、
心に随ひ意に称ひて具足せざるはなし。もしなからしめんと欲すれば、儵焉と
して化没す。心に自在を得ること神通に踰えたることあり。いづくんぞ思議す
べきや。
【65】 荘厳妙色功徳成就とは、偈に「無垢光炎熾 明浄曜世間」といへる
- がゆゑなり。
これいかんが不思議なる。その光、事を曜かすにすなはち表裏を映徹す。そ
の光、心を曜かすにすなはちつひに無明を尽す。光、仏事をなす。いづくんぞ
思議すべきや。
【66】 荘厳触功徳成就とは、偈に「宝性功徳草 柔軟左右旋 触者生勝楽
- 過迦旃隣陀」といへるがゆゑなり。
これいかんが不思議なる。それ宝の例は堅強なり。しかるにこれは柔軟なり。
触の楽は着すべし。しかるにこれは道を増す。事は愛作に同じ。なんぞ思議す
べきや。菩薩あり、愛作と字く。形容端正にして人の染着を生ず。『経』(宝
積経・意)にのたまはく、「これに染するものは、あるいは天上に生じ、あるい
は菩提心を発す」と。
【67】 荘厳三種功徳成就とは、三種の事あり。知るべし。なんらか三種。一
- には水、二には地、三には虚空なり。
この三種并せていふ所以は、同類なるをもつてのゆゑなり。なにをもつてか
これをいふとなれば、一には六大の類なり。いはゆる虚空と識と地と水と火と
風となり。二には無分別の類なり。いはゆる地・水・火・風・虚空なり。ただ
三類といふは、識の一大は衆生世間に属するがゆゑに、火の一大はかしこのな
かになきがゆゑに、風ありといへども風は見るべからざるがゆゑに、住処なき
がゆゑなり。ここをもつて六大・五類のなかに、ありて荘厳すべきを取りて、
三種并せてこれをいふ。
【68】 荘厳水功徳成就とは、偈に「宝華千万種 弥覆池流泉 微風動華葉
- 交錯光乱転」といへるがゆゑなり。
これいかんが不思議なる。かの浄土の人天は水穀の身にあらず。なんぞ水を
須ゐるや。清浄成就して洗濯を須ゐず。またなんぞ水を用ゐるや。かしこの
なかには四時なし。つねに調適にして熱に煩はず。またなんぞ水を須ゐるや。
須ゐずして有なることは、まさに所以あるべし。『経』(大経・上)にのたまは
く、「かのもろもろの菩薩および声聞、もし宝池に入りて、意に水をして足を
没さしめんと欲すれば、水すなはち足を没す。膝に至らしめんと欲すれば、水
すなはち膝に至る。腰に至らしめんと欲すれば、水すなはち腰に至る。頸に至
らしめんと欲すれば、水すなはち頸に至る。身に灌がしめんと欲すれば、自然
に身に灌ぐ。還復せしめんと欲すれば、水すなはち還復す。調和冷煖にして自
然に意に随ひて、神を開き体を悦ばしむ。心垢を蕩除し、清明澄潔にして
浄きこと形なきがごとし。〔池底の〕宝沙映徹して深きをも照らさざることなし。
微瀾回流してうたたあひ灌注す。安詳としてやうやく逝きて、遅からず疾から
ず。波は無量自然の妙声を揚ぐ。その所応に随ひて聞かざるものなし。ある
いは仏の声を聞き、あるいは法の声を聞き、あるいは僧の声を聞き、あるいは
寂静の声、空・無我の声、大慈悲の声、波羅蜜の声を聞き、あるいは十力・
無畏・不共法の声、諸通慧の声、無所作の声、不起滅の声、無生忍の声、乃至、
甘露灌頂、もろもろの妙法の声を聞く。かくのごとき等の声は、その所聞に称
ひて歓喜無量なり。〔聞くひとは〕清浄・離欲・寂滅・真実の義に随順し、三
宝・〔十〕力・無所畏・不共の法に随順す。通慧の菩薩・声聞の所行の道に随順
す。三塗苦難の名あることなし。ただ自然快楽の音のみあり。このゆゑにその
国を名づけて安楽といふ」と。この水、仏事をなす。いづくんぞ思議すべきや。
【69】 荘厳地功徳成就とは、偈に「宮殿諸楼閣 観十方無礙 雑樹異光色
- 宝欄遍囲繞」といへるがゆゑなり。
これいかんが不思議なる。かの種々の事、あるいは一宝・十宝・百宝・無量
宝、心に随ひ意に称ひて荘厳具足せり。この荘厳の事は、浄明鏡のごとく、
十方国土の浄穢の諸相、善悪の業縁、一切ことごとく現ず。かしこのなかの人
天、この事を見るがゆゑに、探湯不及の情自然に成就す。またもろもろの大菩
薩、法性等を照らす宝をもつて冠となせば、この宝冠のなかにみな諸仏を見た
てまつり、また一切諸法の性を了達するがごとし。また仏、『法華経』を説き
たまひし時、眉間の光を放ちて東方万八千土を照らすにみな金色のごとく、阿
鼻獄より上は有頂に至るまで、もろもろの世界のなかの六道の衆生の生死の趣
くところ、善悪の業縁、受報の好醜、ここにことごとく見るがごとし。けだし
この類なり。この影、仏事をなす。いづくんぞ思議すべきや。
【70】 荘厳虚空功徳成就とは、偈に「無量宝交絡 羅網遍虚空 種種鈴発
- 響 宣吐妙法音」といへるがゆゑなり。
これいかんが不思議なる。『経』(大経・上)にのたまはく、「無量の宝網、
仏土に弥覆し、みな金縷、真珠、百千の雑宝の奇妙珍異なるをもつて荘厳し校
飾して、四面に周匝せり。垂るるに宝鈴をもつてす。光色晃耀してことごとく
きはめて厳麗なり。自然の徳風やうやく起りて微動す。その風、調和にして寒
からず暑からず。温涼柔軟にして遅からず疾からず。もろもろの羅網および
もろもろの宝樹を吹きて、無量の微妙の法音を演発し、万種の温雅の徳香を流
布す。それ聞ぐことあるものは、塵労の垢習自然に起らず。風その身に触るる
にみな快楽を得」と。この声、仏事をなす。いづくんぞ思議すべきや。
【71】 荘厳雨功徳成就とは、偈に「雨華衣荘厳 無量香普薫」といへるがゆ
- ゑなり。
これいかんが不思議なる。『経』(大経・上)にのたまはく、「風吹きて華を
散らしてあまねく仏土に満つ。色の次第に随ひて雑乱せず。柔軟光沢にして馨
香芬烈なり。足その上を履むに蹈み下ること四寸、足を挙げをはるに随ひて、
還復すること故のごとし。華用ゐること已訖りぬれば、地はすなはち開裂して、
次いでをもつて化没し、清浄にして遺りなし。その時節に随ひて、風吹きて
華を散ずること、かくのごとく六反す。また衆宝の蓮華、世界に周遍せり。
一々の宝華に百千億の葉あり。その葉の光明、無量種の色なり。青き色には青
き光、白き色には白き光、玄・黄・朱・紫の光色もまたしかなり。煒燁煥爛と
して日月よりも明曜なり。一々の華のなかより三十六百千億の光を出す。一々
の光のなかより三十六百千億の仏を出す。身の色は紫金にして相好は殊特なり。
一々の諸仏また百千の光明を放ちて、あまねく十方のために微妙の法を説く。
かくのごとき諸仏、おのおの無量の衆生を仏の正道に安立せしめたまふ」と。
華、仏事をなす。いづくんぞ思議すべきや。
【72】 荘厳光明功徳成就とは、偈に「仏慧明浄日 除世痴闇冥」といへる
- がゆゑなり。
これいかんが不思議なる。かの土の光明は、如来の智慧の報より起れり。こ
れに触るれば、無明の黒闇つひにかならず消除す。光明は慧にあらずしてよく
慧の用をなす。いづくんぞ思議すべきや。
【73】 荘厳妙声功徳成就とは、偈に「梵声悟深遠 微妙聞十方」といへる
- がゆゑなり。
これいかんが不思議なる。経にのたまはく、「もし人、ただかの国土の清浄
安楽なるを聞きて、剋念して生ぜんと願ずれば、また往生を得て、すなはち正
定聚に入る」と。これはこれ国土の名字、仏事をなす。いづくんぞ思議すべき
や。
【74】 荘厳主功徳成就とは、偈に「正覚阿弥陀 法王善住持」といへるがゆ
- ゑなり。
これいかんが不思議なる。正覚の阿弥陀不思議にまします。かの安楽浄土は、
正覚の阿弥陀の善力のために住持せられたり。いかんが思議することを得べき
や。「住」は不異不滅に名づく。「持」は不散不失に名づく。不朽薬をもつて
種子に塗りて、水に在くに瀾れず。火に在くに燋れず。因縁を得てすなはち生
ずるがごとし。なにをもつてのゆゑに。不朽薬の力なるがゆゑなり。もし人、
一たび安楽浄土に生ずれば、後の時に、意に三界に生じて衆生を教化せんと願
じて、浄土の命を捨てて、願に随ひて生ずることを得て、三界雑生の火のな
かに生ずといへども、無上菩提の種子は畢竟じて朽ちず。なにをもつてのゆゑ
に。正覚の阿弥陀の善住持を経るをもつてのゆゑなり。
【75】 荘厳眷属功徳成就とは、偈に「如来浄華衆 正覚華化生」といへるが
- ゆゑなり。
これいかんが不思議なる。おほよそこれ雑生の世界には、もしは胎、もしは
卵、もしは湿、もしは化、眷属そこばくなり。苦楽万品なり。雑業をもつての
ゆゑなり。かの安楽国土はこれ阿弥陀如来正覚浄華の化生するところにあら
ざるはなし。同一に念仏して別の道なきがゆゑなり。遠く通ずるにそれ四海の
うちみな兄弟たり。〔浄土の〕眷属無量なり。いづくんぞ思議すべきや。
【76】 荘厳受用功徳成就とは、偈に「愛楽仏法味 禅三昧為食」といへるが
- ゆゑなり。
これいかんが不思議なる。食せずして命を資く。けだし資くるところ以ある
なり。あにこれ如来、本願を満てたまへるにあらずや。仏願に乗ずるをわが命
となす。いづくんぞ思議すべきや。
【77】 荘厳無諸難功徳成就とは、偈に「永離身心悩 受楽常無間」といへる
- がゆゑなり。
これいかんが不思議なる。経にのたまはく、「身を苦器となし、心を悩端と
なす」と。しかるにかしこに身あり心ありて、楽を受くること間なし。いづく
んぞ思議すべきや。
【78】 荘厳大義門功徳成就とは、偈に「大乗善根界 等無譏嫌名 女人及根
- 欠 二乗種不生」といへるがゆゑなり。浄土の果報は二種の譏過を離
- れたり、知るべし。一には体、二には名なり。体に三種あり。一には
- 二乗人、二には女人、三には諸根不具人なり。この三の過なし。ゆゑ
- に体の譏嫌を離ると名づく。名にまた三種あり。ただ三の体なきのみ
- にあらず、乃至二乗と女人と諸根不具の三種の名を聞かず。ゆゑに名
- の譏嫌を離ると名づく。「等」とは平等一相のゆゑなり。
これいかんが不思議なる。それ諸天の器をともにすれども、飯に随福の色あ
り。足の指、地を按ずるにすなはち金礫の旨を詳らかにす。しかるに往生を願
ずるもの、本はすなはち三三の品なれども、いまは一二の殊なりなし。また
淄・澠の一味なるがごとし。いづくんぞ思議すべきや。
【79】 荘厳一切所求満足功徳成就とは、偈に「衆生所願楽 一切能満足」
- といへるがゆゑなり。
これいかんが不思議なる。かの国の人天、もし他方世界の無量の仏刹に往き
て諸仏・菩薩を供養せんと欲願せんに、所須の供養の具に及ぶまで、願に称は
ざるはなからん。またかしこの寿命を捨てて余国に向かひて、生じて修短自在
ならんと欲せんに、願に随ひてみな得。いまだ自在の位に階はずして、自在の
用に同じからん。いづくんぞ思議すべきや。
【80】 自利利他を示現すとは、
- 略してかの阿弥陀仏国土の十七種荘厳功徳成就を説く。如来の自身利
- 益大功徳力成就と、利益他功徳成就とを示現せんがゆゑなり。
「略」といふは、かの浄土の功徳は無量にして、ただ十七種のみにあらざる
ことを彰すなり。それ須弥の芥子に入り、毛孔の大海を納む。あに山海の神な
らんや。毛芥の力ならんや。能神のひとの神なるのみ。このゆゑに十七種は利
他といふといへども、自利の義炳然たり、知るべし。
【81】 入第一義諦とは、
- かの無量寿仏国土の荘厳は第一義諦妙境界相なり。十六句および一
- 句次第して説けり、知るべし。
「第一義諦」とは仏(阿弥陀仏)の因縁法なり。この「諦」はこれ境の義なり。
このゆゑに荘厳等の十六句を称して「妙境界相」となす。この義、入一法句
の文に至りてまさにさらに解釈すべし。「および一句次第」とは、いはく、器
浄等を観ずるなり。総別の十七句は観行の次第なり。いかんが次を起す。建章
に「帰命無礙光如来願生安楽国」といへり。このなかに疑あり。疑ひていはく、
「生」は有の本、衆累の元たり。生を棄てて生を願ず、生なんぞ尽くべきと。
この疑を釈せんがために、このゆゑにかの浄土の荘厳功徳成就を観ず。かの浄
土はこれ阿弥陀如来の清浄本願の無生の生なり。三有虚妄の生のごときには
あらざることを明かすなり。なにをもつてこれをいふとならば、それ法性は清
浄にして畢竟無生なり。生といふはこれ得生のひとの情なるのみ。生まことに
無生なれば、生なんぞ尽くるところあらん。かの生を尽さば、上は無為能為の
身を失し、下は三空不空の痼[廃なり。病なり]に&M039929;[酔なり]ひなん。根敗永
く亡じて、号び三千を振はす。無反無復ここにおいて恥を招く。かの生の理を
体する、これを浄土といふ。浄土の宅はいはゆる十七句これなり。十七句のな
かに、総別二となす。初めの句はこれ総相なり。いはゆるこれ清浄仏土は、
三界の道に過ぎたり。かしこの、三界に過ぐるにいかなる相かある。下の十六
種の荘厳功徳成就の相これなり。一には量、究竟して虚空のごとし。広大にし
て辺際なきがゆゑなり。すでに量を知りぬ。この量なにをもつてか本となす。
このゆゑに性を観ず。性はこれ本の義なり。かの浄土は正道の大慈悲、出世の
善根より生ぜり。すでに出世善根といへり。この善根はなんらの相をか生ぜる。
このゆゑに次に荘厳形相を観ず。すでに形相を知りぬ。よろしく形相はなん
らの体なるかを知るべし。このゆゑに次に種々の事を観ず。すでに種々の事を
知りぬ。よろしく種々の事の妙色を知るべし。このゆゑに次に妙色を観ず。す
でに妙色を知りぬ。この色いかなる触かある。このゆゑに次に触を観ず。すで
に身の触を知りぬ。眼触を知るべし。このゆゑに次に水・地・虚空の荘厳の三
事を観ず。すでに眼触を知りぬ。鼻触を知るべし。このゆゑに次に衣・華の香
薫を観ず。すでに眼・鼻等の触を知りぬ。すべからく染を離るることを知るべ
し。このゆゑに次に仏慧のあきらかに照らすを観ず。すでに慧光の浄力を知り
ぬ。よろしく声名の遠近を知るべし。このゆゑに次に梵声の遠く聞ゆること
を観ず。すでに声名を知りぬ。よろしくたれをか増上となすといふことを知
るべし。このゆゑに次に主を観ず。すでに主あるを知りぬ。たれをか主の眷属
となす。このゆゑに次に眷属を観ず。すでに眷属を知りぬ。よろしくこの眷属
はいかんが受用するといふことを知るべし。このゆゑに次に受用を観ず。すで
に受用を知りぬ。よろしくこの受用の有難無難を知るべし。このゆゑに次に無
諸難を観ず。すでに無諸難を知りぬ。なんの義をもつてのゆゑに諸難なき。こ
のゆゑに次に大義門を観ず。すでに大義門を知りぬ。よろしく大義門の満不満
を知るべし。このゆゑに次に所求満足を観ず。また次に、この十七句はただ疑
を釈するにあらず。この十七種の荘厳成就を観ずれば、よく真実の浄信を生
じて、必定してかの安楽仏土に生ずることを得。
【82】 問ひていはく、上に、生は無生なりと知るといふは、まさにこれ上品
生のものなるべし。もし下下品の人の、十念に乗じて往生するは、あに実の生
を取るにあらずや。ただ実の生を取らば、すなはち二執に堕しなん。一には、
おそらくは往生を得ざらん。二には、おそらくはさらに生ずとも惑ひを生ぜん。
答ふ。たとへば浄摩尼珠を、これを濁水に置けば、水すなはち清浄なるがご
とし。もし人、無量生死の罪濁にありといへども、かの阿弥陀如来の至極無
生清浄の宝珠の名号を聞きて、これを濁心に投ぐれば、念々のうちに罪滅し
て心浄まり、すなはち往生を得。またこれ摩尼珠を玄黄の幣をもつて裹みて、
これを水に投ぐれば、水すなはち玄黄にしてもつぱら物の色のごとくなり。か
の清浄仏土に阿弥陀如来無上の宝珠まします。無量の荘厳功徳成就の帛をも
つて裹みて、これを往生するところのひとの心水に投ぐれば、あに生見を転じ
て無生の智となすことあたはざらんや。また氷の上に火を燃くに、火猛ければ
すなはち氷解く。氷解くればすなはち火滅するがごとし。かの下品の人、法性
無生を知らずといへども、ただ仏名を称する力をもつて往生の意をなして、か
の土に生ぜんと願ずるに、かの土はこれ無生の界なれば、見生の火、自然に滅
するなり。
【83】 衆生体とは、この分のなかに二重あり。一には観仏、二には観菩薩なり。
【84】 観仏とは、
- いかんが仏の荘厳功徳成就を観ずる。仏の荘厳功徳成就を観ずとは、
- 八種あり、知るべし。
この観の義はすでに前の偈に彰せり。
【85】 なんらか八種。一には荘厳座功徳成就、二には荘厳身業功徳成就、三
- には荘厳口業功徳成就、四には荘厳心業功徳成就、五には荘厳衆功
- 徳成就、六には荘厳上首功徳成就、七には荘厳主功徳成就、八には
- 荘厳不虚作住持功徳成就なり。
【86】 なんとなれば荘厳座功徳成就とは、偈に「無量大宝王 微妙浄華台」
- といへるがゆゑなり。
もし座を観ぜんと欲せば、まさに『観無量寿経』によるべし。
【87】 なんとなれば荘厳身業功徳成就とは、偈に「相好光一尋 色像超群
- 生」といへるがゆゑなり。
もし仏身を観ぜんと欲せば、まさに『観無量寿経』によるべし。
- なんとなれば荘厳口業功徳成就とは、偈に「如来微妙声 梵響聞十
- 方」といへるがゆゑなり。
- なんとなれば荘厳心業功徳成就とは、偈に「同地水火風 虚空無分別」
- といへるがゆゑなり。「無分別」とは分別の心なきがゆゑなり。
凡夫の衆生は身口意の三業に罪を造るをもつて、三界に輪転して窮まり巳む
ことあることなからん。このゆゑに諸仏・菩薩は、身口意の三業を荘厳して
もつて衆生の虚誑の三業を治するなり。いかんがもつて治す。衆生は身見をも
つてのゆゑに三塗の身・卑賤の身・醜陋の身・八難の身・流転の身を受く。か
くのごとき等の衆生、阿弥陀如来の相好光明の身を見たてまつれば、上のごと
き種々の身業の繋縛、みな解脱を得て、如来の家に入りて畢竟じて平等の身業
を得。衆生は驕慢をもつてのゆゑに、正法を誹謗し、賢聖を毀呰し、尊長[尊
は君・父・師なり。長は有徳の人および兄党なり]を捐庳す。かくのごとき人、抜舌
の苦・瘖瘂の苦・言教不行の苦・無名聞の苦を受くべし。かくのごとき等の種
種の諸苦の衆生、阿弥陀如来の至徳の名号、説法の音声を聞けば、上のごとき
種々の口業の繋縛、みな解脱を得て、如来の家に入りて畢竟じて平等の口業を
得。衆生は邪見をもつてのゆゑに、心に分別を生ず。もしは有、もしは無、も
しは非、もしは是、もしは好、もしは醜、もしは善、もしは悪、もしは彼、も
しは此、かくのごとき等の種々の分別あり。分別をもつてのゆゑに長く三有に
淪みて、種々の分別の苦・取捨の苦を受けて、長く大夜に寝ねて、出づる期あ
ることなし。この衆生、もしは阿弥陀如来の平等の光照に遇ひ、もしは阿弥陀
如来の平等の意業を聞けば、これらの衆生、上のごとき種々の意業の繋縛、み
な解脱を得て、如来の家に入りて畢竟じて平等の意業を得るなり。
問ひていはく、心はこれ覚知の相なり。いかんが地・水・火・風に同じく分
別なきことを得べきや。答へていはく、心は知の相なりといへども、実相に入
ればすなはち無知なり。たとへば蛇の性は曲れりといへども、竹の筒に入るれ
ばすなはち直きがごとし。また人の身の、もしは針の刺し、もしは蜂の螫すに
はすなはち覚知あり。もしは石の蛭の噉み、もしは甘刀の割くにすなはち覚知
なきがごとし。かくのごとき等の有知・無知は因縁にあり。もし因縁にあれば
すなはち知にあらず、無知にあらず。
問ひていはく、心、実相に入れば無知ならしむべし。いかんが一切種智ある
ことを得るや。答へていはく、凡心は有知なれば、すなはち知らざるところあ
り。聖心は無知なるがゆゑに知らざるところなし。無知にして知る知なればす
なはち無知なり。
問ひていはく、すでに無知なるがゆゑに知らざるところなしといふ。もし知
らざるところなければ、あにこれ種々の法を知るにあらずや。すでに種々の法
を知れば、またいかんが分別するところなしといふや。答へていはく、諸法の
種々の相はみな幻化のごとし。しかるに幻化の象・馬、長き頸・鼻・手・足の
異なることなきにあらざれども、智者これを観て、あにさだめて象・馬、これ
を分別することありといはんや。
【88】 なんとなれば荘厳大衆功徳成就とは、偈に「天人不動衆 清浄智海
- 生」といへるがゆゑなり。
- なんとなれば荘厳上首功徳成就とは、偈に「如須弥山王 勝妙無過
- 者」といへるがゆゑなり。
- なんとなれば荘厳主功徳成就とは、偈に「天人丈夫衆 恭敬繞瞻仰」
- といへるがゆゑなり。
【89】 なんとなれば荘厳不虚作住持功徳成就とは、偈に「観仏本願力 遇無
- 空過者 能令速満足 功徳大宝海」といへるがゆゑなり。
「不虚作住持功徳成就」とは、けだしこれ阿弥陀如来の本願力なり。いまま
さに略して虚作の相の住持することあたはざるを示して、もつてかの不虚作住
持の義を顕すべし。人、餐を輟[止なり]めて士を養ふに、あるいは&M030255;、舟の
なかに起り、金を積みて庫に盈てれども、餓死を免れざることあり。かくのご
とき事、目に触るるにみなこれなり。得れども得るとなすにあらず、あれども
あるを守るにあらず。みな虚妄の業の作なるによりて住持することあたはず。
いふところの「不虚作住持」とは、本法蔵菩薩の四十八願と、今日の阿弥陀如
来の自在神力とによるなり。願もつて力を成ず、力もつて願に就く。願徒然な
らず、力虚設ならず。力・願あひ符ひて畢竟じて差はざるがゆゑに「成就」と
いふ。
【90】 すなはちかの仏を見たてまつれば、未証浄心の菩薩畢竟じて平等
- 法身を証することを得て、浄心の菩薩と上地のもろもろの菩薩と畢竟
- じて同じく寂滅平等を得るがゆゑなり。
「平等法身」とは、八地以上の法性生身の菩薩なり。「寂滅平等」とは、
すなはちこの法身の菩薩の所証の寂滅平等の法なり。この寂滅平等の法を得
るをもつてのゆゑに名づけて平等法身となす。平等法身の菩薩の所得なるをも
つてのゆゑに名づけて寂滅平等の法となすなり。この菩薩、報生三昧を得て、
三昧の神力をもつて、よく一処にして一念一時に十方世界に遍して、種々に一
切諸仏および諸仏の大会衆海を供養し、よく無量世界の仏法僧なき処において、
種々に示現し、種々に一切衆生を教化し度脱して、つねに仏事をなせども、初
めより往来の想、供養の想、度脱の想なし。このゆゑに、この身を名づけて平
等法身となし、この法を名づけて寂滅平等の法となすなり。「未証浄心の菩
薩」とは、初地以上七地以還のもろもろの菩薩なり。この菩薩またよく身を現
じて、もしは百、もしは千、もしは万、もしは億、もしは百千万億の無仏の国
土に仏事を施作すれども、かならず作心を須ゐて三昧に入る。すなはちよく作
心せざるにはあらず。作心をもつてのゆゑに名づけて未得浄心となす。この菩
薩、願じて安楽浄土に生ずれば、すなはち阿弥陀仏を見たてまつる。阿弥陀仏
を見たてまつる時、上地のもろもろの菩薩と畢竟じて身等しく法等し。龍樹菩
薩、婆藪槃頭菩薩(天親)の輩、かしこに生ぜんと願ずるは、まさにこれがた
めなるべきのみ。
問ひていはく、『十地経』を案ずるに、菩薩の進趣階級、やうやく無量の功
勲ありて多くの劫数を経、しかして後にすなはちこれを得。いかんが阿弥陀仏
を見たてまつる時、畢竟じて上地のもろもろの菩薩と身等しく法等しきや。答
へていはく、「畢竟」とはいまだ即等といふにはあらず。畢竟じてこの等しき
ことを失はざるがゆゑに「等」といふのみ。
問ひていはく、もし即等にあらずは、またなんぞ菩薩といふことを待たん。
ただ初地に登れば、もつてやうやく増進して、自然にまさに仏と等しかるべし。
なんぞ上地の菩薩と等しといふことを仮らん。答へていはく、菩薩、七地のう
ちにおいて大寂滅を得れば、上に諸仏の求むべきを見ず、下に衆生の度すべき
を見ず。仏道を捨てて実際を証せんと欲す。その時に、もし十方諸仏の神力の
加勧を得ずは、すなはち滅度して二乗と異なることなからん。菩薩もし安楽に
往生して阿弥陀仏を見たてまつれば、すなはちこの難なし。このゆゑにすべか
らく「畢竟じて平等なり」といふべし。また次に『無量寿経』(上)のなかに、
阿弥陀如来の本願(第二十二願)にのたまはく、「たとひわれ仏を得んに、他方
仏土のもろもろの菩薩衆、わが国に来生せば、究竟してかならず一生補処に至
らん。その本願の自在に化せんとするところありて、衆生のためのゆゑに、弘
誓の鎧を被て徳本を積累し、一切を度脱し、諸仏の国に遊びて菩薩の行を修し、
十方の諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して、無上正真の道に立せ
しめんをば除く。常倫諸地の行を超出し、現前に普賢の徳を修習せん。もし
しからずは、正覚を取らじ」と。この経を案じてかの国の菩薩を推するに、あ
るいは一地より一地に至らざるべし。十地の階次といふは、これ釈迦如来の、
閻浮提における一の応化道なるのみ。他方の浄土はなんぞかならずしもかくの
ごとくならん。五種の不思議のなかに仏法もつとも不可思議なり。もし菩薩か
ならず一地より一地に至りて超越の理なしといはば、いまだあへて詳らかなら
ず。たとへば樹あり、名づけて好堅といふ。この樹、地に生ずるに百囲すなは
ち具せり。一日に長ずること高さ百丈なるがごとし。日々にかくのごとし。
百歳の高さを計るに、あに修松に類せんや。松の生長するを見るに、日に寸
を過ぎず。かの好堅を聞きて、なんぞよく即日を疑はざらん。人ありて、釈迦
如来の羅漢を一聴に証し、無生を終朝に制するを聞きて、これ接誘の言なり、
称実の説にあらずといひて、この論事を聞きてまたまさに信ぜざるべし。それ
非常の言は常人の耳に入らず。これをしからずと謂ふは、またそれ宜なり。
【91】 略して八句を説きて、如来の自利利他の功徳荘厳、次第に成就したま
- へることを示現す、知るべし。
これはいかんが次第する。前の十七句は、これ荘厳国土功徳成就なり。すで
に国土の相を知りぬ。国土の主を知るべし。このゆゑに次に仏の荘厳功徳を観
ず。かの仏いかんが荘厳し、いづれの処においてか坐したまふ。このゆゑに先
づ座を観ず。すでに座を知りをはりぬ。よろしく座の主を知るべし。このゆゑ
に次に仏の荘厳身業を観ず。すでに身業を知りぬ。いかなる声名かまします
と知るべき。このゆゑに次に仏の荘厳口業を観ず。すでに名聞を知りぬ。よろ
しく得名の所以を知るべし。このゆゑに次に荘厳心業を観ず。すでに三業具足
して人天の大師たるべきことを知りぬ。化を受くるに堪へたるひとはこれたれ
ぞ。このゆゑに次に大衆の功徳を観ず。すでに大衆に無量の功徳あることを知
りぬ。よろしく上首はたれぞと知るべし。このゆゑに次に上首を観ず。上首は
これ仏(阿弥陀仏)なり。すでに上首を知りぬ。長幼に同ずることを恐る。こ
のゆゑに次に主を観ず。すでにこの主を知りぬ。主にいかなる増上かまします。
このゆゑに次に荘厳不虚作住持を観ず。八句の次第成じをはりぬ。
【92】 菩薩を観ずとは、
- いかんが菩薩の荘厳功徳成就を観察する。菩薩の荘厳功徳成就を観察
- すとは、かの菩薩を観ずるに四種の正修行功徳成就あり、知るべし。
真如はこれ諸法の正体なり。如を体して行ずれば、すなはちこれ不行なり。
不行にして行ずるを如実修行と名づく。体はただ一如なれども、義をもつて分
ちて四となす。このゆゑに四の行、一の正をもつてこれを統ぶ。
【93】 何者をか四となす。一には一仏土において身動揺せずして十方に遍し
- て、種々に応化して如実に修行し、つねに仏事をなす。偈に「安楽国
- 清浄 常転無垢輪 化仏菩薩日 如須弥住持」といへるがゆゑなり。
- もろもろの衆生の淤泥華を開くがゆゑなり。
八地以上の菩薩はつねに三昧にありて、三昧力をもつて、身は本処を動ぜず
して、よくあまねく十方に至りて諸仏を供養し、衆生を教化す。「無垢輪」と
は仏地の功徳なり。仏地の功徳は、習気煩悩の垢なければなり。仏(阿弥陀仏)、
もろもろの菩薩のために、つねにこの法輪を転ず。諸大菩薩もまたよくこの法
輪をもつて一切を開導すること、暫時も休息することなし。ゆゑに「常転」と
いふ。法身は日のごとくして、応化身の光もろもろの世界に遍するなり。「日」
といふにはいまだもつて不動を明かすに足らざれば、また「如須弥住持」とい
へるなり。「淤泥華」といふは、『経』(維摩経)に、「高原の陸地には蓮華を
生ぜず。卑湿の淤泥にすなはち蓮華を生ず」とのたまへり。これは凡夫、煩悩
の泥のなかにありて、菩薩のために開導せられて、よく仏の正覚の華を生ずる
に喩ふ。まことにそれ三宝を紹隆してつねに絶えざらしむ。
【94】 二にはかの応化身、一切の時に前ならず後ならず、一心一念に大光明
- を放ちて、ことごとくよくあまねく十方世界に至りて衆生を教化す。
- 種々に方便し修行し、なすところ一切衆生の苦を滅除するがゆゑなり。
- 偈に「無垢荘厳光 一念及一時 普照諸仏会 利益諸群生」といへる
- がゆゑなり。
上に不動にして至るといふは、あるいは至ること前後あるべし。このゆゑに
また一念一時にして前後なしといへるなり。
【95】 三にはかれ一切世界において余すことなく、諸仏の会の大衆を照らし
- て余すことなく、広大無量に諸仏如来の功徳を供養し恭敬し讃嘆す。
- 偈に「雨天楽華衣 妙香等供養 讃諸仏功徳 無有分別心」といへる
- がゆゑなり。
「余すことなく」とは、あまねく一切世界の一切諸仏の大会に至りて、一世
界にも一仏会にも至らざることあることなきを明かすなり。肇公(僧肇)のい
はく(註維摩経)、「法身は像なくして殊形並び応じ、至韻は言なくして玄籍弥
く布けり。冥権謀なくして、動じて事と会ふ」と。けだしこの意なり。
【96】 四にはかれ十方一切世界の三宝なき処において、仏法僧宝の功徳の大
- 海を住持し荘厳して、あまねく示して如実の修行を解らしむ。偈に
- 「何等世界無 仏法功徳宝 我願皆往生 示仏法如仏」といへるがゆ
- ゑなり。
上の三句は遍至といふといへども、みなこれ有仏の国土なり。もしこの句な
くは、すなはちこれ法身、法ならざるところあらん。上善、善ならざるところ
あらん。観行の体相竟りぬ。
【97】 以下はこれ解義のなかの第四重を名づけて浄入願心となす。浄入願心
とは、
- また向に荘厳仏土功徳成就と荘厳仏功徳成就と荘厳菩薩功徳成就とを
- 観察することを説けり。この三種の成就は、願心をもつて荘厳せり、
- 知るべし。
「知るべし」とは、この三種の荘厳成就は、本四十八願等の清浄願心の荘
厳したまへるところなるによりて、因浄なるがゆゑに果浄なり。無因と他因の
有にはあらざるを知るべしとなり。
【98】 略して一法句に入ることを説くがゆゑなり。
上の国土の荘厳十七句と、如来の荘厳八句と、菩薩の荘厳四句とを広となす。
一法句に入るを略となす。なんがゆゑぞ広略相入を示現するとなれば、諸仏・
菩薩に二種の法身まします。一には法性法身、二には方便法身なり。法性法身
によりて方便法身を生ず。方便法身によりて法性法身を出す。この二の法身は
異にして分つべからず。一にして同ずべからず。このゆゑに広略相入して、
統ぶるに法の名をもつてす。菩薩もし広略相入を知らざれば、すなはち自利
利他することあたはざればなり。
【99】 一法句といふはいはく、清浄句なり。清浄句といふはいはく、真実
- 智慧無為法身なるがゆゑなり。
この三句は展転して相入す。なんの義によりてか、これを名づけて法となす。
清浄をもつてのゆゑなり。なんの義によりてか、名づけて清浄となす。真実
智慧無為法身なるをもつてのゆゑなり。「真実智慧」とは、実相の智慧なり。
実相は無相なるがゆゑに、真智は無知なり。「無為法身」とは法性身なり。法
性は寂滅なるがゆゑに、法身は無相なり。無相のゆゑによく相ならざるはなし。
このゆゑに相好荘厳はすなはち法身なり。無知のゆゑによく知らざるはなし。
このゆゑに一切種智はすなはち真実の智慧なり。真実をもつて智慧に目くるこ
とは、智慧は作にあらず、非作にあらざることを明かすなり。無為をもつて法
身を標すことは、法身は色にあらず、非色にあらざることを明かすなり。非を
非するは、あに非を非するのよく是ならんや。けだし非を無みする、これを是
といふ。みづから是にして待することなきも、また是にあらず。是にあらず、
非にあらず、百非の喩へざるところなり。このゆゑに清浄句といふ。「清浄
句」とは、真実智慧無為法身をいふなり。
【100】 この清浄に二種あり、知るべし。
上の転入句のなか、一法に通じて清浄に入り、清浄に通じて法身に入る。
いままさに清浄を別ちて二種を出さんとするがゆゑに、ことさらに、「知るべ
し」といふ。
【101】 なんらか二種。一には器世間清浄、二には衆生世間清浄なり。器世
- 間清浄とは、向に説くがごとき十七種の荘厳仏土功徳成就なり。こ
- れを器世間清浄と名づく。衆生世間清浄とは、向に説くがごとき八
- 種の荘厳仏功徳成就と四種の荘厳菩薩功徳成就となり。これを衆生世
- 間清浄と名づく。かくのごとく一法句に二種の清浄を摂す、知るべ
- し。
それ衆生を別報の体となし、国土を共報の用となす。体・用一にあらず。ゆ
ゑに「知るべし」といふ。しかるに諸法は心をもつて成ず。余の境界なし。衆
生および器、また異なることを得ず、一なることを得ず。一ならざればすなは
ち義をもつて分つ。異ならざれば同じく「清浄」なり。「器」とは用なり。い
はく、かの浄土は、これかの清浄の衆生の受用するところなるがゆゑに名づ
けて器となす。浄食に不浄の器を用ゐれば、器不浄なるをもつてのゆゑに食ま
た不浄なり。不浄の食に浄器を用ゐれば、食不浄なるがゆゑに器また不浄なる
がごとし。かならず二ともに潔くしてすなはち浄と称することを得。ここをも
つて一の清浄の名にかならず二種を摂するなり。
問ひていはく、衆生清浄といふは、すなはちこれ仏(阿弥陀仏)と〔浄土の〕
菩薩となり。かのもろもろの人天も、この清浄の数に入ることを得やいなや。
答へていはく、清浄と名づくることを得れども、実の清浄にあらず。たとへ
ば出家の聖人は、煩悩の賊を殺すをもつてのゆゑに名づけて比丘となし、凡夫
の出家のものの、持戒・破戒もみな比丘と名づくるがごとし。また灌頂王子の
初生の時に、三十二相を具してすなはち七宝の属するところとなる。いまだ転
輪王の事をなすことあたはずといへども、また転輪王と名づくるがごとし。そ
れかならず転輪王となるべきをもつてのゆゑなり。かのもろもろの人天も、ま
たかくのごとし。みな大乗正定の聚に入りて、畢竟じてまさに清浄法身を
得べし。まさに得べきをもつてのゆゑに清浄と名づくることを得るなり。
【102】 善巧摂化とは、
- かくのごとく菩薩は、奢摩他と毘婆舎那を広略に修行して柔軟心を成
- 就す。
「柔軟心」とは、いはく、広略の止観、あひ順じ修行して不二の心を成ずる
なり。たとへば水をもつて影を取るに、清と静とあひ資けて成就するがごとし。
【103】 如実に広略の諸法を知る。
「如実に知る」とは、実相のごとくに知るなり。広のなかの二十九句、略の
なかの一句、実相にあらざるはなし。
【104】 かくのごとくして巧方便回向を成就す。
「かくのごとく」とは、前後の広略みな実相なるがごとくとなり。実相を知
るをもつてのゆゑに、すなはち三界の衆生の虚妄の相を知るなり。衆生の虚妄
なるを知れば、すなはち真実の慈悲を生ずるなり。真実の法身を知れば、すな
はち真実の帰依を起すなり。慈悲と帰依と、巧方便とは下にあり。
【105】 何者か菩薩の巧方便回向。菩薩の巧方便回向とは、いはく、説ける礼
- 拝等の五種の修行をもつて、集むるところの一切の功徳善根は、自身
- 住持の楽を求めず、一切衆生の苦を抜かんと欲するがゆゑに、一切衆
- 生を摂取して、ともに同じくかの安楽仏国に生ぜんと作願するなり。
- これを菩薩の巧方便回向成就と名づく。
王舎城所説の『無量寿経』(下)を案ずるに、三輩生のなかに、行に優劣あ
りといへども、みな無上菩提の心を発さざるはなし。この無上菩提心とは、す
なはちこれ願作仏心なり。願作仏心とは、すなはちこれ度衆生心なり。度衆生
心とは、すなはち衆生を摂取して有仏の国土に生ぜしむる心なり。このゆゑに
かの安楽浄土に生ぜんと願ずるものは、かならず無上菩提心を発すなり。もし
人、無上菩提心を発さずして、ただかの国土の楽を受くること間なきを聞きて、
楽のためのゆゑに生ずることを願ずるは、またまさに往生を得ざるべし。この
ゆゑに、「自身住持の楽を求めず、一切衆生の苦を抜かんと欲するがゆゑに」
といへり。「住持の楽」とは、いはく、かの安楽浄土は阿弥陀如来の本願力の
ために住持せられて、楽を受くること間なし。おほよそ「回向」の名義を釈せ
ば、いはく、おのが集むるところの一切の功徳をもつて一切衆生に施与して、
ともに仏道に向かふなり。「巧方便」とは、いはく、菩薩願ずらく、おのが智
慧の火をもつて一切衆生の煩悩の草木を焼かんに、もし一衆生として成仏せざ
ることあらば、われ作仏せじと。しかるに、かの衆生いまだことごとく成仏せ
ざるに、菩薩すでにみづから成仏す。たとへば火&M049170;をして一切の草木を摘みて
焼きて尽さしめんと欲するに、草木いまだ尽きざるに、火&M049170;すでに尽くるがご
とし。その身を後にして、しかも身先だつをもつてのゆゑに巧方便と名づく。
このなかに「方便」といふは、いはく、一切衆生を摂取して、ともに同じくか
の安楽仏国に生ぜんと作願す。かの仏国はすなはちこれ畢竟成仏の道路、無
上の方便なり。
【106】 障菩提門とは、
- 菩薩かくのごとくよく回向を知りて成就すれば、三種の菩提門相違の
- 法を遠離す。なんらか三種。一には智慧門によりて自楽を求めず。我
- 心の自身に貪着することを遠離するがゆゑなり。
進むを知りて退くを守るを「智」といふ。空・無我を知るを「慧」といふ。
智によるがゆゑに自楽を求めず。慧によるがゆゑに、我心の自身に貪着するこ
とを遠離す。
【107】 二には慈悲門によりて一切衆生の苦を抜く。衆生を安んずることなき
- 心を遠離するがゆゑなり。
苦を抜くを「慈」といふ。楽を与ふるを「悲」といふ。慈によるがゆゑに一
切衆生の苦を抜く。悲によるがゆゑに衆生を安んずることなき心を遠離す。
【108】 三には方便門によりて一切衆生を憐愍する心なり。自身を供養し恭敬
- する心を遠離するがゆゑなり。
正直を「方」といふ。外己を「便」といふ。正直によるがゆゑに一切衆生を
憐愍する心を生ず。外己によるがゆゑに自身を供養し恭敬する心を遠離す。
- これを三種の菩提門相違の法を遠離すと名づく。
【109】 順菩提門とは、
- 菩薩はかくのごとき三種の菩提門相違の法を遠離して、三種の菩提門
- に随順する法の満足を得るがゆゑなり。なんらか三種。一には無染清
- 浄心なり。自身のために諸楽を求めざるをもつてのゆゑなり。
菩提はこれ無染清浄の処なり。もし身のために楽を求むれば、すなはち菩
提に違せり。このゆゑに「無染清浄心」は、これ菩提門に順ずるなり。
【110】 二には安清浄心なり。一切衆生の苦を抜くをもつてのゆゑなり。
菩提はこれ一切衆生を安穏にする清浄処なり。もし心をなして、一切衆生
を抜きて生死の苦を離れしめざれば、すなはち菩提に違せり。このゆゑに「一
切衆生の苦を抜く」は、これ菩提門に順ずるなり。
【111】 三には楽清浄心なり。一切衆生をして大菩提を得しむるをもつての
- ゆゑなり。衆生を摂取してかの国土に生ぜしむるをもつてのゆゑなり。
菩提はこれ畢竟常楽の処なり。もし一切衆生をして畢竟常楽を得しめざれ
ば、すなはち菩提に違せり。この畢竟常楽はなにによりてか得る。大乗門に
よる。大乗門といふは、いはく、かの安楽仏国土これなり。このゆゑにまた
「衆生を摂取してかの国土に生ぜしむるをもつてのゆゑなり」といへり。
- これを三種の菩提門に随順する法の満足と名づく、知るべし。
【112】 名義摂対とは、
- 向に説く智慧と慈悲と方便との三種の門は、般若を摂取し、般若は方
- 便を摂取す、知るべし。
「般若」といふは、如に達する慧の名なり。「方便」といふは、権に通ずる
智の称なり。如に達すればすなはち心行寂滅なり。権に通ずればすなはちつ
ぶさに衆機を省みる。機を省みる智、つぶさに応じてしかも無知なり。寂滅の
慧、また無知にしてつぶさに省みる。しかればすなはち智慧と方便とあひ縁じ
て動じ、あひ縁じて静なり。動の静を失せざることは智慧の功なり。静の動を
廃せざることは方便の力なり。このゆゑに智慧と慈悲と方便とは般若を摂取し、
般若は方便を摂取す。「知るべし」といふは、いはく、智慧と方便とはこれ菩
薩の父母なり。もし智慧と方便とによらずは、菩薩の法、すなはち成就せずと
知るべしとなり。なにをもつてのゆゑに。もし智慧なくして衆生のためにする
時は、すなはち顛倒に堕す。もし方便なくして法性を観ずる時は、すなはち実
際を証す。このゆゑに「知るべし」といふ。
【113】 向に我心を遠離して自身に貪着せざると、衆生を安んずることなき心
- を遠離すると、自身を供養し恭敬する心を遠離するとを説けり。この
- 三種の法は菩提を障ふる心を遠離す、知るべし。
諸法におのおの障礙の相あり。風はよく静を障へ、土はよく水を障へ、湿は
よく火を障ふるがごとし。五悪・十悪は人天を障ふ。四顛倒は声聞の果を障ふ。
このなかの三種の不遠離は、菩提を障ふる心なり。「知るべし」といふは、も
し障ふることなきことを得んと欲せば、まさにこの三種の障礙を遠離すべしと
なり。
【114】 向に無染清浄心、安清浄心、楽清浄心を説けり。この三種の心は、
- 一処に略して妙楽勝真心を成就す、知るべし。
楽に三種あり。一には外楽、いはく五識所生の楽なり。二には内楽、いはく
初禅・二禅・三禅の意識所生の楽なり。三には法楽楽、いはく智慧所生の楽な
り。この智慧所生の楽は、仏(阿弥陀仏)の功徳を愛するより起れり。これ我心
を遠離すると、無安衆生心を遠離すると、自供養心を遠離するとなり。この三
種の心、清浄にして増進するを、略して妙楽勝真心となす。「妙」の言は、
それ好なり。この楽は仏を縁じて生ずるをもつてのゆゑなり。「勝」の言は、
三界のなかの楽に勝出せり。「真」の言は、虚偽ならず顛倒せず。
【115】 願事成就とは、
- かくのごとく菩薩は智慧心・方便心・無障心・勝真心をもつて、よく
- 清浄の仏国土に生ず、知るべし。
「知るべし」といふは、いはく、この四種の清浄功徳をもつて、よくかの
清浄仏国土に生ずることを得。これ他縁をもつて生ずるにはあらずと知るべ
しとなり。
【116】 これを菩薩摩訶薩、五種の法門に随順し、所作意に随ひて自在に成就
- すと名づく。向の所説のごとき身業・口業・意業・智業・方便智業は、
- 法門に随順するがゆゑなり。
「意に随ひて自在に」とは、この五種の功徳力をもつて、よく清浄仏土に
生ずれば出没自在なるをいふなり。「身業」とは礼拝なり。「口業」とは讃嘆
なり。「意業」とは作願なり。「智業」とは観察なり。「方便智業」とは回向
なり。この五種の業和合すれば、すなはちこれ往生浄土の法門に随順して自
在の業成就するをいふなり。
【117】 利行満足とは、
- また五種の門ありて、漸次に五種の功徳を成就す、知るべし。何者か
- 五門。一には近門、二には大会衆門、三には宅門、四には屋門、五に
- は園林遊戯地門なり。
この五種は、入出の次第の相を示現す。入相のなかに、初めに浄土に至る
は、これ近の相なり。いはく、大乗正定聚に入りて、阿耨多羅三藐三菩提に
近づくなり。浄土に入りをはれば、すなはち如来(阿弥陀仏)の大会衆の数に入
るなり。衆の数に入りをはれば、まさに修行安心の宅に至るべし。宅に入りを
はれば、まさに修行所居の屋宇に至るべし。修行成就しをはれば、まさに教
化地に至るべし。教化地はすなはちこれ菩薩の自娯楽の地なり。このゆゑに出
門を園林遊戯地門と称す。
【118】 この五種の門は、初めの四種の門は入の功徳を成就し、第五門は出の
- 功徳を成就す。
この入出の功徳は、何者かこれや。釈していはく、
- 入第一門とは、阿弥陀仏を礼拝し、かの国に生ぜんとなすをもつての
- ゆゑに、安楽世界に生ずることを得。これを入第一門と名づく。
仏を礼して仏国に生ぜんと願ず。これ初めの功徳の相なり。
【119】 入第二門とは、阿弥陀仏を讃嘆し、名義に随順して如来の名を称し、
- 如来の光明智相によりて修行するをもつてのゆゑに、大会衆の数に入
- ることを得。これを入第二門と名づく。
如来の名義によりて讃嘆す。これ第二の功徳相なり。
【120】 入第三門とは、一心専念にかの国に生ぜんと作願し、奢摩他寂静三
- 昧の行を修するをもつてのゆゑに、蓮華蔵世界に入ることを得。これ
- を入第三門と名づく。
寂静止を修せんがためのゆゑに、一心にかの国に生ぜんと願ず。これ第三
の功徳相なり。
【121】 入第四門とは、専念にかの妙荘厳を観察し、毘婆舎那を修するをも
- つてのゆゑに、かの処に到りて種々の法味楽を受用することを得。こ
- れを入第四門と名づく。
「種々の法味楽」とは、毘婆舎那のなかに、観仏国土清浄味・摂受衆生大
乗味・畢竟住持不虚作味・類事起行願取仏土味あり。かくのごとき等の無量
の荘厳仏道の味あるがゆゑに「種々」といふ。これ第四の門の功徳相なり。
【122】 出第五門とは、大慈悲をもつて一切苦悩の衆生を観察して、応化身を
- 示して、生死の園、煩悩の林のなかに回入して遊戯し、神通もつて教
- 化地に至る。本願力の回向をもつてのゆゑなり。これを出第五門と名
- づく。
「応化身を示して」とは、『法華経』の普門示現の類のごとし。「遊戯」に
二の義あり。一には自在の義なり。菩薩、衆生を度することは、たとへば獅子
の鹿を搏つがごとく、なすところ難からざること遊戯するがごとし。二には度
無所度の義なり。菩薩、衆生を観ずるに畢竟じて所有なし。無量の衆生を度す
といへども、実に一衆生として滅度を得るものなし。衆生を度するを示すこと
遊戯するがごとし。「本願力」といふは、大菩薩、法身のなかにおいて、つね
に三昧にましまして、種々の身、種々の神通、種々の説法を現ずることを示す。
みな本願力をもつて起せり。たとへば阿修羅の琴の鼓するものなしといへども、
音曲自然なるがごとし。これを教化地の第五の功徳相と名づく。
【123】 菩薩は入の四種の門をもつて自利の行成就す、知るべし。
「成就」とは、いはく、自利満足なり。「知るべし」といふは、いはく、自
利によるがゆゑにすなはちよく利他す。これ自利することあたはずしてよく利
他するにあらずと知るべしとなり。
【124】 菩薩は出の第五門の回向をもつて利益他の行成就す、知るべし。
「成就」とは、いはく、回向の因をもつて教化地の果を証す。もしは因、も
しは果、一事として利他することあたはざることあることなし。「知るべし」
といふは、いはく、利他によるがゆゑにすなはちよく自利す。これ利他するこ
とあたはずしてよく自利するにはあらずと知るべしとなり。
【125】 菩薩はかくのごとく五念門の行を修して自利利他す。速やかに阿耨多
- 羅三藐三菩提を成就することを得るがゆゑなり。
仏の所得の法を名づけて阿耨多羅三藐三菩提となす。この菩提を得るをもつ
てのゆゑに名づけて仏となす。いま「速やかに阿耨多羅三藐三菩提を得」とい
ふは、これ早く作仏することを得るなり。「阿」は無に名づく、「耨多羅」は
上に名づく、「三藐」は正に名づく、「三」は遍に名づく、「菩提」は道に名
づく。統べてこれを訳して、名づけて「無上正遍道」となす。「無上」とは、
いふこころは、この道は、理を窮め性を尽してさらに過ぎたるひとなし。なに
をもつてかこれをいふとなれば、「正」をもつてのゆゑなり。「正」とは聖智
なり。法相のごとくして知るがゆゑに称して正智となす。法性無相のゆゑに聖
智は無知なり。「遍」に二種あり。一には聖心あまねく一切の法を知ろしめす。
二には法身あまねく法界に満つ。もしは身、もしは心、遍せざるはなし。「道」
とは無礙道なり。『経』(華厳経・意)にのたまはく、「十方の無礙人、一道よ
り生死を出づ」と。「一道」とは一無礙道なり。「無礙」とは、いはく、生死
すなはちこれ涅槃と知るなり。かくのごとき等の入不二の法門は、無礙の相な
り。
【126】 問ひていはく、なんの因縁ありてか「速やかに阿耨多羅三藐三菩提を
成就することを得」といへる。答へていはく、『論』(浄土論)に「五門の行を
修して、自利利他成就するをもつてのゆゑなり」といへり。しかるに覈に其の
本を求むるに、阿弥陀如来を増上縁となす。他利と利他と、談ずるに左右あり。
もし仏よりしていはば、よろしく利他といふべし。衆生よりしていはば、よろ
しく他利といふべし。いままさに仏力を談ぜんとす。このゆゑに「利他」をも
つてこれをいふ。まさにこの意を知るべし。おほよそこれかの浄土に生ずると、
およびかの菩薩・人・天の所起の諸行とは、みな阿弥陀如来の本願力によるが
ゆゑなり。なにをもつてこれをいふとなれば、もし仏力にあらずは、四十八願
すなはちこれ徒設ならん。いま的らかに三願を取りて、もつて義の意を証せん。
願(第十八願)にのたまはく、「たとひわれ仏を得んに、十方の衆生、心を至し
て信楽してわが国に生ぜんと欲して、すなはち十念に至るまでせん。もし生ず
ることを得ずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とを除く」と。仏願力に
よるがゆゑに十念の念仏をもつてすなはち往生を得。往生を得るがゆゑに、す
なはち三界輪転の事を勉る。輪転なきがゆゑに、ゆゑに速やかなることを得る
一の証なり。願(第十一願)にのたまはく、「たとひわれ仏を得んに、国のうち
の人天、正定聚に住してかならず滅度に至らずは、正覚を取らじ」と。仏願
力によるがゆゑに正定聚に住す。正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に
至りて、もろもろの回伏の難なし。ゆゑに速やかなることを得る二の証なり。
願(第二十二願)にのたまはく、「たとひわれ仏を得んに、他方仏土のもろもろ
の菩薩衆、わが国に来生せば、究竟してかならず一生補処に至らん。その本願
の自在に化するところありて、衆生のためのゆゑに、弘誓の鎧を被て徳本を積
累し、一切を度脱し、諸仏の国に遊びて菩薩の行を修し、十方の諸仏如来を供
養し、恒沙無量の衆生を開化して、無上正真の道を立せしめんをば除く。常
倫諸地の行を超出し、現前に普賢の徳を修習せん。もししからずは、正覚を
取らじ」と。仏願力によるがゆゑに、常倫諸地の行を超出し、現前に普賢の
徳を修習せん。常倫諸地の行を超出するをもつてのゆゑに、ゆゑに速やかな
ることを得る三の証なり。これをもつて推するに、他力を増上縁となす。しか
らざることを得んや。
まさにまた例を引きて、自力・他力の相を示すべし。人の三塗を畏るるがゆ
ゑに禁戒を受持す。禁戒を受持するがゆゑによく禅定を修す。禅定をもつての
ゆゑに神通を修習す。神通をもつてのゆゑによく四天下に遊ぶがごとし。かく
のごとき等を名づけて自力となす。また劣夫の驢に跨りて上らざれども、転輪
王の行に従ひぬれば、すなはち虚空に乗じて四天下に遊ぶに、障礙するところ
なきがごとし。かくのごとき等を名づけて他力となす。愚かなるかな、後の学
者、他力の乗ずべきことを聞きて、まさに信心を生ずべし。みづから局分する
ことなかれ。
【127】 無量寿修多羅優婆提舎願生偈、略して義を解しをはりぬ。
経の始めに「如是」と称するは、信を能入となすことを彰す。末に「奉行」
といふは、服膺の事已ることを表す。『論』(浄土論)の初めに「帰礼」するは、
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宗旨に由あることを明かす。終りに「義竟」といふは、所詮の理畢ることを示
す。述・作の人殊なれども、ここにおいて例を成ず。
無量寿経優婆提舎願生偈註 巻下