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現代語 行巻

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2010年4月20日 (火) 15:56時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版 (御自釈)

出典:梯實圓著 教行信証「教行の巻」第一刷 発行:本願寺出版社
このページは、聖典と一体化してこそ意味があるので転載禁止です。


御自釈

(1)

 つつしんで、往相の回向をうかがうと、往生の因として大行と大信が与えられています。

 

大行とは、すなわち尽十方無擬光如来の名を称えることです。この行には、如来が完成されたすべての善徳をおさめ、あらゆる功徳の根本としての徳を具えており、極めて速やかに功徳を行者の身に満足せしめる勝れたはたらきをもっています。それは仏のさとりの領域である真如と呼ばれる絶対不二の真実の顕現態ですから、大行と名づけられるのです。
 ところでこの行は、大悲の願(第17願)より出てきた本願力回向の行です。すなわち、この願を諸仏称揚の願と名づけ、また諸仏称名の願と名づけ、諸仏咨嗟の願と名づけられます。また往相回向の願と名づけることもできますし、また選択称名の願とも名づけることもできます。

(2) 諸仏称名の願(第十七願)は、『無量寿経』に次のように説かれている。

 「わたしが仏になったとき、すべての世界の数限りない仏がたが、ことごとくわたしの名号をほめたたえないようなら、わたしは決してさとりを開くまい」

(3) また次のように説かれている(無量寿経)。

 「わたしが仏のさとりを得たとき、わたしの名号を広くすべての世界に響かせよう。もし聞えないところがあるなら誓って仏にはなるまい。人々のためにすべての教えを説き明かし、広く功徳の宝を与えよう。常に人々の中にあって、獅子が吼ほえるように教えを説こう」

(4) 第十七願成就文は、『無量寿経』に次のように説かれている。

 「すべての世界の数限りない仏がたは、みな同じく無量寿仏のはかり知ることのできないすぐれた功徳をほめたたえておいでになる」

(5) また次のように説かれている(無量寿経)。

 「無量寿仏の大いなる徳はこの上なくすぐれており、すべての世界の数限りない仏がたは、残らずこの仏をほめたたえておいでになる」

(6) また次のように説かれている(無量寿経)。

 「その仏の本願のはたらきにより、名号のいわれを聞いて往生を願うものは、残らずみなその国に往生し、おのずから不退転の位に至る」

(7) 『如来会』に説かれている。

 「わたしは今、仏の前で弘誓をおこした。これを満たして必ずこの上ないさとりを得よう。もしこれらの願いが満たされなかったなら、十力をそなえたこの上なく尊い仏とはなるまい。普通の行に堪えられないものに施し与え、功徳のないものを広く救ってさまざまな苦を離れさせ、世の人々に利益を与えて安楽にさせよう。(中略)

 もっともすぐれた勇気あるものとして、修行を成しとげて、功徳のない人々のために無量の宝をおさめた蔵となろう。そして善をまどかにそなえ、他に並ぶもののない仏となり、大衆の中にあって高らかに法を説こう」

(8) また次のように説かれている(如来会)。

 「阿難よ、無量寿仏にはこのようなすぐれたはたらきがあるから、はかり知ることのできないあらゆる世界の数限りない仏がたが、みなともに無量寿仏の功徳をほめたたえておられるのである」

(9) 『大阿弥陀経』に説かれている。

 「わたしが仏となったときには、わたしの名号をすべての世界の数限りない多くの国々に聞えわたらせ、仏がたに、それぞれの国の比丘たちや大衆の中で、わたしの功徳や浄土の善を説かせよう。それを聞いて神々や人々をはじめとしてさまざまな虫のたぐいに至るまで、わたしの名号を聞いて、喜び敬う心をおこさないものはないであろう。このように喜びにあふれるものをみなわが浄土に往生させたい。わたしは、この願いを成就して仏となろう。もしこの願いが成就しなかったなら、決して仏にはなるまい」

(10) 『平等覚経』に説かれている。

 「無量清浄仏は、ªわたしが仏となったときには、わたしの名号をすべての世界の数限りない多くの国々に聞えさせ、それぞれの仏がたに、弟子たちの中で、わたしの功徳や浄土の善さをほめたたえさせよう。そして、神々や人々をはじめとしてさまざまな虫のたぐいに至るまで、わたしの名号を聞いて喜びに満ちあふれるものをみなことごとく、わたしの浄土に往生させよう。もし、そのようにできなかったなら、わたしは仏になるまいºと願われ、また、ªわたしが仏になったときには、他方の国の人々が、前の世で悪を縁としてわたしの名号を聞いたものも、まさしく道を求めてわたしの国に生まれようと思ったものも、寿命が終ればみなふたたび地獄や餓鬼や畜生の世界にかえることなく、願いのままにわたしの国に生れさせよう。もし、そのようにできなかったなら、わたしは仏になるまいºと願われた。

 阿闍世王の太子や五百人の長者の子たちは、この無量清浄仏の二十四願を聞いて、身にも心にも大いに喜び、ともに心の中でªわたしたちも無量清浄仏のような仏になりたいºと願った。

 釈尊はこれをお知りになって、多くの比丘たちに、ªこの阿闍世王の太子や五百人の長者の子たちは、今後長い年月を経て、みな無量清浄仏のような仏となるであろうºと仰せになった。

 さらに、ªこの阿闍世王の太子や五百人の長者の子たちは、すでに菩薩の道を修めて以来、はかり知れない年月の間に、みなそれぞれ四百億の仏を供養しおわり、今またここに来てわたしを供養している。この阿闍世王の太子や五百人の子たちは、みな前の世に迦葉仏が世に出られた時に、わたしの弟子になっていた。その因縁で今またここに会うことができたのであるºと仰せになった。

 集まっていた多くの比丘たちはこのお言葉を聞いて、心から喜ばないものはなかった。(中略)

 釈尊は、ªこのような人々は、仏の名号を聞いて心楽しく安らかに大きな利益を得るであろう。わたしたちもこの功徳をいただいて、それぞれこのようなよい国を得よう。無量清浄仏は衆生の成仏を予言して、«わたしは前世に本願をたてた。どのような人も、わたしの法を聞けば、ことごとくわたしの国に生れるであろう。わたしの願うところはみな満たされるであろう。多くの国々から生れてくるものは、みなことごとくこの国に至ることができるのである。すなわち、来世をまたずに不退転の位を得るのである»とお述べになった。阿弥陀仏の安楽国に、速やかに往くことができる。限りない光明の世界に至って、無数の仏を供養しよう。過去にこのような功徳を積んでいない人は、この経の名を聞くことができない。ただ清らかに戒律をたもった人だけが、この本願の教えを聞くことができる。邪悪なもの、おごり高ぶるもの、誤った考えを持つもの、おこたりなまけるものは、この教えを信じることが難しい。かこの世で仏を見たてまつった人は、よろこんで仏の教えを聞くであろう。人として生れることはまれであり、仏が世におられても、会うことは難しい。信心の智慧を得ることはさらに困難である。もし仏法に出会えたなら勤め励んで道を求めよ。この法を聞いて忘れず、信を得て敬い大いによろこぶものは、すなわちわたしの善き親友である。だからさとりを求める心をおこすがよい。たとえ世界中に火が満ちみちていても、その中を通り過ぎて法を聞くことができるなら、必ず仏となって、すべての迷いを超えるであろうºと仰せになった」

(11) 『悲華経』に説かれている。

 「わたしがこの上ないさとりを開いたとき、数限りない国々のあらゆる人々が、わたしの名号を聞いて念仏し、わたしの浄土に往生したいと思うなら、彼らが命終って後、かならず往生させよう。ただし、五逆罪を犯し、聖者を謗り、正しい法を破るものは除かれる」


(12)

 こういうわけであるから、阿弥陀仏の名を称えるならば、その名号の徳用としてよく人びとのすべての無明を破り、よく人びとのすべての願いを満たしてくださいます。称名はすなわち、もっとも勝れた、真実にして微妙な徳をもった正定の行業です。正定業は、すなわち称名念仏です。念仏は、すなわち南無阿弥陀仏です。南無阿弥陀仏が、すなわち正念です。このように知るべきです。


(34)

 そこで南無という言葉は、翻訳すれば帰命といいます。「帰」という言葉には、至るという意味があります。また帰説と熟語した場合、説は「悦」と同じ意味になって、悦服のことで、「よろこんで心からしたがう」という意味になります。
 また帰説と熟語した場合、説は「税」と同じ意味になって、舎息のことで「やどる、安らかにいこう」という意味になります。
 説の字には、悦と税の二つの読み方がありますが、説と読めば「告げる、述べる」という意味で、人がその思いを言葉として述べることをいいます。「命」という言葉は、業(はたらき)、招引(まねきひく)、使(せしめる)、教(おしえる)、道(目的地に通ずる道。また「言う」の意)、信(まこと)、計(はからい)、召(めす)という意味を表しています。
 こういうわけですから「命」とは、衆生を招き喚び続けておられる阿弥陀仏の本願の仰せです。
 「発願回向」とは、阿弥陀仏が、衆生の願いに先立って、久遠のむかしに衆生を救済しようという大悲の願いを発し、衆生に往生の行を施し与えてくださる仏心をいいます。「即是其行」とは、如来が発願し回向されたその行が、選択本願において選び定められたものであることを表しています。
 「必得往生」とは、この世で不退転の位に至ることを顕しています。『無量寿経』には「即得往生」と説かれ、その心を釈して『十住毘婆沙論』には、「即時人必定」といわれています。

 

「即」の字は、阿弥陀仏の本願力を疑いなく聞くことによって、真実報土に往生するまことの因が決定する時の極まりを明らかに示された言葉です。「必」の字は、「明らかに定まる」ということであり、本願力によって自ずから然らしめたまうという道理を表しており、迷いの境界と分かれて、さとりを極めるべき正定聚の位につけしめられたことを表しており、金剛のように堅固な信心を得ているすがたを表しています。


(69)

 上来引用された経、論、釈の文によって、本願の念仏は、凡夫であれ聖者であれ、自らのはからいによって往生の行にしていくような自力の行ではないということが明らかにわかりました。
 阿弥陀仏より与えられた往生行ですから、行者のほうからは不回向の行と名づけられています。大乗の聖者も小乗の聖者も、自らの善をたのまず、また悪人も罪の重い軽いをあげつらうことなく、同じく自力のはからいを離れて、大海のような広大無辺の徳をもって一切を平等に救いたまう選択本願に帰入して、念仏し成仏すべきです。


(71)

 そういうわけで、真実の行信を獲たならば、心は大きな喜びに満たされますから、これを歓喜地と名づけます。歓喜地は、小乗の聖者の最初の位である初果、すなわち預流果に喩えられています。それは初めて真理をさとる智慧を得た初果の聖者は、たとえ修行中に居眠りするような、怠け心を起こしたり、修行を中断するようなことがあったとしても、天上界と人界と(中有と)を二十八返往復する生と死を繰り返すならば、自然に煩悩が尽きて、阿羅漢のさとりを完成し、二十九番目の迷いの生存をうけることがないように、歓喜地の菩薩は、必ず仏陀のさとりを完成することに決定しているからです。
 まして十方世界のあらゆる迷いの衆生も、阿弥陀仏の仰せにしたがって、南無(信)阿弥陀仏(行)を受けいれ、本願を信じ、その名を称える身になるならば、阿弥陀仏は必ず大悲の光明のなかに摂め取って、決して見捨てたまうことはありません。それゆえ阿弥陀仏(光明無量の徳をもつ仏陀)と名づけたてまつるのです。このように、人びとを本願を信じ念仏するものに育てて摂取する阿弥陀仏の本願力のはたらきを他力というのです。
 それゆえに、龍樹菩薩は「阿弥陀仏を念ずるものは、即時に必定に入る」といわれ、曇鷲大師は「正定聚の数に入る」といわれたのです。本願の名号は、仰いでたのみたてまつるべきであり、ひとえにこれを行ずべきです。


(72)

 (阿弥陀仏という名は、念仏の衆生を摂取して捨てないといういわれを顕しているということによって)次のような事柄を知ることができました。阿弥陀仏の徳のすべてがこもっている慈父に誓えられるような名号がましまさなかったならば、往生を可能にする因が欠けるでしょう。また念仏の衆生を摂取して護りたまう悲母に誓えられるような光明がましまさなかったならば、往生を可能にする縁がないことになりましょう。
 しかしこれらの因と緑とが揃っていたとしても、もし念仏の衆生を摂取して捨てないという光明・名号のいわれを疑いなく信受するという信心がなければ、さとりの境界である光明無量の浄土に到ることはできません。信心は個体発生の根元である業識に誓えられるようなものです。それゆえ、往生の真因を機のうえで的示するならば、真実の信心を業識のように内に開ける因とし、母なる光明と父なる名号とは、外から加わる法縁とみなすべきです。これら内外の因縁がそろって、真実の報土に往生し、仏と同体のさとりを得るのです。
 それゆえ善導大師は『往生礼讃』の前序に、「阿弥陀仏は、光明と名号をもって十方の世界のあらゆる衆生を育て導いてくださいます。そのお陰で私たちは、その救いのまことであることを疑いなく信受して往生一定と浄土を期するばかりです」といわれ、また『五会法事讃』には、「念仏して成仏することこそ真実の仏法である」といわれ、また『観経疏』には、「真実のみ教えには、私のはからいで遇うことは決してできない」といわれています。よく知るべきです。


(73)

 およそ往相回向の行信に関して、行にも一念ということが説かれており、また信にも一念ということが説かれています。行の一念とは、称名の数の最少単位である一声のところで、阿弥陀仏が選択された易行の称名に込められている究極の意義を顕そうとする教説です。



(77)

 『無量寿経』には「乃至」と説かれ、善導大師の『観経疏』には「下至」といわれています。乃至と下至とは、言葉は違っていますが、いずれも称名の数を限定しないという意味では同じです。また乃至とは、一念も多念もすべて包み込んでいる言葉です。「大利」というのは「小利」に対する言葉であり、「無上」とは「有上」に対する言葉です。
 これによって、大利無上とは、本願一乗の法のもつ真実の利益を表しており、小利有上とは、真実に引き入れるためにしばらく説き与えられた、八万四千の自力聖道門の利益を表していることがよくわかります。
『観経疏』に専心、専念という言葉がありますが、「専心」といわれたのは一心のことであって、二心(ふたごころ)のないことをあらわしています。
「専念」といわれたのは、一行のことであって、二つの行(余行)を並べ行ずることをしないことをいうのです。いま 『無量寿経』の弥勤付属の経文に説かれている「一念」は、すなわち一声のことです。一声はすなわち一念ですが、この一念には一行という意味があります。一行はすなわち正行(正当の行)という意味があります。正行とはすなわち正定の業(正しく往生の決定する行業)という意味があります。
正定の業は、すなわち正念 (正しい信念)です。正念とは、心に仏を信じ、口に仏名を称えていることですから、すなわち念仏です。これは本願の名号が心にあらわれ、口にあらわれていることですから、すなわち南無阿弥陀仏のほかにありません。


(78)

 こうして、大悲本願の船に乗って、摂取不捨の光明がくまなく照らす大海に浮かべば、この上なく尊い功徳の風が静かに吹いて、念仏の衆生を彼岸の浄土へと送り届けてくださいます。

 

さまざまな禍の波は転じて功徳の順風に変わっていきます。すなわち無明煩悩の闇を破って、すみやかに限りない智慧の光の世界へと到れば、煩悩の寂滅した最高のさとりを究め、大悲心をおこして、苦しみ悩む人びとを救うために、十方世界に身を現して普賢菩薩のように自在の救済活動をさせていただくのです。よく知るがよい。

(80)

これらの経論釈の文は、念仏が真実の行であることを顕す明らかな証文です。これらによって明らかに、念仏は如来が選び取られた本願の行であり、他に超え勝れたたぐいなき行であり、万物が分け隔てなく円に融け合っている真実が顕現している正真の法であり、何ものにも妨げられることなく衆生を救う究極の大行であるということを知ることができました。


(81)

他力というのは、阿弥陀仏の本願力のことです。

(84)

一乗海というのは、一乗とは、大乗です。大乗とは、すべてのものが仏になることのできる法を説く教えですから、仏乗ともいいます。
一乗を得るものは、最高のさとりを得ます。
最高のさとりとは、涅槃の境界です。涅槃の境界とは、究極のさとりそのものである究克法身のことです。究竟法身を得るということは、一乗の法を究め尽くすことです。
このほかに異なった如来はありませんし、異なった法身もありません。
如来は、すなわち法身なのです。一乗の法を究め尽くすということは、空間と時間の制約を超えた領域に達することです。
真の大乗からいえば、二乗とか三乗というような教えは実体としてあるわけではありません。二乗とか三乗というような教えは、未熟なものを育て導いていくための方便として、仮にしばらく設定された教えであって、唯一無二の真実教である一乗に引き入れようとして説かれただけのものです。
一乗は、最高の真実が顕現している教え(第一義乗)です。
真の一乗といわれるものは、一切の衆生を平等に救って往生成仏させる阿弥陀仏の誓願一仏乗だけです。



(90)

 上に引文として挙げた『捏磐経』や『華厳経』に説かれたような一乗仏教の完全なさとりは、すべてみな安養浄土にいたって得られる偉大な利益であり、本願力によって与えられる、はかり知ることのできない、尊い功徳なのです。


(91)

 「海」というのは、久遠の昔から今まで、凡夫であれ聖者であれ、自力で修めてきた、さまざまな川の水に等しいような雑行、雑修の善根を転換し、悪人が積み重ねてきた、大海の水ほどもある五逆罪、謗法罪、一闡提など、数限りない無明煩悩の濁水を転換して、本願によって成就された大悲智慧の真実なる無量功徳の宝の海水に成らせることです。
 この転成のはたらきを海のようだと喩えたのです。
これによって、経に「煩悩の氷がとけて功徳の水となる」と説かれている意味がよくわかります。
 本願の海には、下類の声聞や中類の縁覚の自力雑行の善の死骸を宿しません。まして人間や天人の偽善や、煩悩の毒のまじった自力心の死骸を宿すはずがありません。


(98)

 しかるに教法について、念仏と諸善とを比較し、相対して論じると、次のようになります。
難易対、諸善は難行であり、念仏は易行である。
頓漸対、念仏は速やかに成仏し、諸善は長い時間を要する。
横竪対、念仏は他力によって横さまに迷いを超え、諸善は自力によって、竪さまに順を迫って迷いを離れていく。
超渉対、念仏は迷いの世界を飛び超えるが、諸善は歩いて渡るようなものである。
順逆対、念仏は本願に順じているが、諸善は本願に背いている。
大小対、念仏は大功徳であるが、諸善の功徳は小さい。
多少対、念仏は多善根であるが、諸善は少善根である。
勝劣対、念仏は最勝の行であり、諸善は劣行である。
親疎対、念仏は仏に親しく馴染み深いが、諸善は疎遠である。
近遠対、念仏は仏に近く、諸善は遠く離れている。
深浅村、念仏は深い法であり、諸善は浅薄である。
強弱対、念仏は強い本願に支えられているが、諸善を支える自力は弱い。
重軽対、念仏は重い願力に支えられているが、それのない諸善は軽い。
広狭対、念仏は一切を救うから広く、諸善は善人にかぎるから狭い。
純雑対、念仏は純粋な往生行であるが、諸善は三乗に通ずる行である。
径迂対、念仏はさとりに至る近道であり、諸善はまわり道である。
捷遅対、念仏は早くさとりに至る道であり、諸善は遅い道である
通別対、諸善は聖道に通ずる通途の法であり、念仏は特別の法である。
不退退対、念仏は不退転の法であり、諸善は退転のある法である。
直弁因明対、念仏は仏の出世の本意としてただちに説かれた法であり、諸善は自力の機に止むを得ず説かれた法である。
名号定散対、念仏は釈尊が付属された名号であり、諸善は付属されなかった定散二善である。
埋尽非理尽対、念仏は道理を尽くして説かれた完全な法であり、諸善は理を尽くさない不完全な説にすぎない。
勧無勧対、念仏は十方の諸仏が勧められる法であり、諸善には諸仏の勧めはない。
無間間対、念仏は他力に支えられているからその信心は途切れることがないが、諸善を修するものの信は途切れることがある。
断不断対、念仏は摂取されているから信心断絶しないが、諸善は断絶する。
相続不続対、念仏は法の徳によって臨終まで相続するが、諸善は相続しない。
無上有上対、念仏は無上の功徳を具しているが、諸善は有上功徳でしかない。
上上下下対、念仏は最も勝れた上上の法であるが、諸善は下下の法である。
思不思議対、念仏は不可思議の仏智の顕現であり、諸善は分別思議の法である。
因行果徳対、諸善は不完全な囚人の行であるが、念仏は阿弥陀仏の果徳を与えられた完全な法である。
自説他説対、念仏は阿弥陀仏自身が説かれた行法であり、諸善はそうではない。
回不回向対、請書は衆生が回向しなければ往生行にはならないが、念仏は如来回向の法であるから、衆生は回向する必要がない。
護不護対、念仏は如来に護念せられる法であるが、諸善には護念はない。
証不証対、念仏は諸仏が証明されているが、諸善には諸仏の証明がない。
讃不讃対、念仏は諸仏に讃嘆される法であるが、諸善は讃嘆されない。
付嘱不嘱対、念仏は釈迦・弥陀二尊の本意にかなった法であるから付属されたが、諸善は付属されなかった。
了不了教対、念仏は仏の本意が完全に説き示された法であるが、諸善はそうではなかった。
機堪不堪対、念仏はどのような愚劣の機にも堪えられるように成就された法であるが、諸善は劣機には堪えられない法である。
選不選対、念仏は如来が選び取られた法であり、諸善は選び捨てられた法である。
真仮対、念仏は真実の法であり、諸善はしばらく仮に用いられる方便の法である。
仏滅不滅対、諸善のものは往生しても入滅する応化仏を見るが、念仏往生のものは永久に入滅しない真仏を見る。
法滅利不利対、法減の時になっても念仏は滅びることなく衆生を利益し続けるが、諸善は滅びるから利益がない。しかし、これを法減不滅対と利不利対の二対に分ける説もある。
自力他力対、諸善は自力の法であり、念仏は他力の法である。
有願無願対、念仏は本願の行であり、諸善は本願の行ではない。
摂不摂対、念仏は摂取不捨の利益があり、諸善は摂取されない。
入定聚不入対、念仏は正定聚に入る法であるが、諸善は正定聚に入れない。
報化対、念仏は真実報土に往生する行であるが、諸善は化土にとどまる行である。


 教法について念仏と諸善を比較すると、このような違いが明らかになってきます。ところで本願一乗海である念仏について考えてみると、あらゆる善根功徳が円かに融け合って、衆生の煩悩悪業にもさまたげられることなく、速やかに満足せしめていくという、比較を超えた唯一絶対の教法であることがわかります。


(99)

 また機について、念仏の機と諸善の機とを比較し、対論すると、次のようになります。
信疑対、念仏者は本願を信じているが、諸善の人は疑っている。
善悪対、念仏者は名号の大善を領受しているから善人であり、諸善の人は雉毒の善しかないから悪人と貶称される。
正邪対、念仏者は正定聚の機であり、諸善の人は邪定聚の機である。
是非村、念仏者は仏意にかなうから是であり、諸善の人は仏意にかなわないから非である。
実虚対、念仏者は仏の真実心を得ているから実といい、諸善の人は自力虚偽の人であるから虚という。
真偽対、念仏者は真実、諸善の人は虚偽であるから、真といい、偽という。
浄穢対、念仏者は浄心を得ているから浄といい、諸善の人は疑濁の人であるから穢という。
利鈍対、念仏者は仏智を得ているから利根であり、諸善の人は仏智を得ていないから鈍根である。
奢促対、諸善の人の成仏はおそいから奢といい、念仏者の成仏はすみやかであるから促という。
豪賤対、念仏者は名号の功徳を得ているから豪富であり、諸善の人は大功徳を失っているから貧賤である。
明闇対、念仏者は仏智を得て無明を破られているから明であり、諸善の人は無明の闇に閉ざされているから闇である。
 このような十一対が成立します。以上のことから、本願一乗海である念仏を疑いなく受けいれている一乗海の機を考えてみると、その体が仏智であるような金剛の信心は比較を絶した絶対不二の機であることがわかります。

(100)

 謹んですべての往生を願う人びとに申し上げます。弘誓一乗海は、何ものにもさまたげられることなく人びとを救う法であり、きわも辺もなく、最も勝れており、奥深くて、説き尽くすことも、たたえ尽くすことも、思いはかることもできない最高の徳が成就されています。なぜならば、不可思議なる誓願によって成就されたものであるからです。
 その誓願の不可思議なるありさまを誓えで表せば、
1. 悲願は大空のようです、広大無辺のさまざまな素晴らしい功徳を包んでいるからです。
2. ちょうど大車のようです、凡夫であれ聖者であれ、あらゆる人を乗せて、さとりの世界へ運んで行くからです。
3. ちょうど美しい蓮華のようです、一切の世俗の事柄に汚染されることがないからです。
4. 善見薬王樹のようです、すべての煩悩の病を見抜いて退治するからです。
5. ちょうど利剣のようです、人びとが纏っている一切の僑慢の鎧を断ち切るからです。
6. 勇将帝釈天の幡(軍旗) のようです、一切の悪魔の軍勢を降伏させるからです。
7. ちょうど鋭い鋸のようなものです、よく一切の無明の樹を切り倒すからです。
8. ちょうどよく切れる斧のようです、よく一切の苦しみの枝を伐るからです。
9. 善知識のようです、よく人びとを生死に縛りつけている迷妄の絆から解放してくれるからです。
10. ちょうど導師のようです、よく凡夫に生死を超える肝要な道を知らせるからです。
11. ちょうど涌き出る泉のようです、はてしなく智慧の水を出し続けるからです。
12. ちょうど泥沼に咲く蓮華のようです、一切の罪の垢に汚染せられることがないからです。
13. ちょうど疾風のようです、一切衆生の罪障の霧を吹き払うからです。
14. ちょうど美味しい蜜のようです、一切の功徳の味わいが円かに具わっているからです。
15. ちょうど正しい道のようです、あらゆる人びとをさとりの智慧の領域に入れしめるからです。
16. ちょうど磁石のようです、本願に誓われたとおりに信心の行者を吸いつけていくからです。
17. また閻浮檀金(純度の高い金)のようです、常住無為の善である本願の名号の光は、煩悩に汚れた世間の無常有為の善の光を奪い取ってしまうからです。
18. ちょうど伏蔵(地下の宝庫)のようです、よく一切の諸仏の法を摂めているからです。
19. ちょうど大地のようです、過去・現在・未来の三世にわたって、十方に出現されるすべての仏陀たちが、そこから出生されるからです。
20. 太陽の光のようです、一切の凡夫の愚痴の闇を破って、信心を起こさせるからです。
21. ちょうど大王のようです、大王が諸侯に超え勝れているように、一切の諸仏(上乗人)に超え勝れているからです。
22. ちょうど厳しい父のようです、一切の凡夫や聖者を教え導くからです。
23. ちょうど慈愛に満ちた母のようです、一切の凡夫や聖者が報土に往生するまことの因である信心をはぐくみ育てるからです。
24. ちょうど乳母のようです、善人であれ悪人であれ、往生しょうと願うすべての人を守り育てるからです。
25. ちょうど大地のようです、すべての往生人をしっかりと支えているからです。
26. ちょうど洪水のようです、よく一切の煩悩の垢を洗い流してしまうからです。
27. ちょうど大火のようです、火が薪を焼くように、あらゆる邪見や偏見などの誤った見解を焼き尽くすからです。
28. ちょうど大風のようです、あまねく世界に行きわたって、何ものにも妨げられないからです。

 このような誓願一仏乗は、

① 迷いの境界(三界) に繋ぎとめられている衆生をよく救い出し、
② ふたたび迷界へ転落しないように、すべての迷いの境界(二十五有) への門を閉じ、
③ よく真実報土へ往生させ、
④ 邪なる路と正しい道とをはっきりとわきまえさせ、
⑤ 本願を疑う疑惑の海を干上がらせて、
⑥ 信心を獲て本願の海に流れ入れしめられます。
⑦ 浄土に至れば、完全なさとりの智慧をきわめて、大悲をおこし、さとりの船に乗ぜしめて、
⑧ 迷える人びとを救うために衆生海に浮かび、
⑨ 福智蔵と呼ばれる 『無量寿経』を説いて、完全な真実を知らせます。
⑩ しかし、ただちに真実を受けいれられないものには、方便蔵と呼ばれる『観無量寿経』 や『阿弥陀経』を説いて、未熟な人を導くはたらきをさせていきます。まことに信奉すべき教えであり、ことに頂戴しなければならない法であります。



(101)

 そもそも阿弥陀仏の誓願には、真実の行信と、方便の行信とが誓われています。その真実の行を誓われた願は諸仏称名の願(第十七願)であり、その真実の信を誓われた願は至心信楽の願(第十八願)です。
これが選択本願の行信です。それによって救われるものは、一切の善人や悪人であり、大乗や小乗の教えに遇いながらも救われなかった愚かな凡夫のすべてです。
それらが真実の行信を与えられて真実の浄土に往生せしめられるのですが、その往生はそのまま最高のさとりの完成を意味していますから難思議往生といいます。
浄土で感得する仏陀と浄土は、光明無量、寿命無量の徳をもつ真実の報身仏であり報土です。これが私たちの思いはからいを超えた不可思議なる誓願のはたらきによってもたらされる救いなのです。
その本願は、自他の隔てを超え、生死を超えた、真如という唯一無二の真実が実現した教法であって、『大無量寿経』に説かれた教えの要であり、他力真宗といわれる教法の正しい意味です。
 そこで、このような救いを与えてくださった仏陀のご恩を偲び、その徳に報いたいと思って、曇鸞大師の『論註』を開くと、そこにこういう言葉がありました。
「菩薩はつねに仏陀の教えにしたがって行動します。それはちょうど孝子が父母にしたがい、忠臣が君后にしたがって進退し、自分勝手な振る舞いをせず、その行動はいつも父母や君后の意向にかなっているようなものです。
そういう菩薩が仏陀の恩を知って、その徳に報いようとしたとき、何よりもまず第一に仏陀に自分の思いを申しあげるのが当然の道理です。また経典に説かれている法義を、如来のお心にかなって人びとに説き明かすことは、決して軽々しいことではありません。
もし如来の偉大なお力を加えていただかなかったならば、どうして達成することができましょう。
そこで如来にその不可思議な威力を加えてくださることを乞うという意味を込めて、天親菩薩は 『浄土論』 のはじめに、まず『世尊よ』と仰いで、お告げになったのです」と。
 こうして私は大聖釈迦牟尼仏の真実の言葉にしたがい、浄土の祖師方の註釈を拝読して、阿弥陀仏のご恩を深く蒙っていることを知らせていただいたので、「正信念仏偈」を作って仏祖の恩徳に応えたいと思います。

 

正信念仏偈

(102)

限りなき「いのち」の如来に帰順し、はかりなき光の如来に帰依したてまつる。
如来もと法蔵菩薩と現れて、世自在王仏に導かれ、
諸仏の浄土の成り立ちや、人びとの善悪をみそなわし、
こよなく勝れた願をたて、かつてない大誓願を起こされた。
五劫のあいだ思惟を続け、一切を平等に救う道を選び取り、
救いのみ名を十方に、普く聞かそうと誓われた。
光明無量の仏となり、ひろく無量光・無辺光・無擬光・無対光・炎王光、
清浄光・歓喜光・智慧光・不断光・難思光・無称光、超日月光を放って、
あらゆる国を照らしたまえば、生けるものはみな光の内に包まれる。
本願の名号は、正しく往生の決定する行業である。
その行法を受けいれた第十八願の信心を往生の正因とする。
信を得て如来と等しい徳をいただき、涅槃のさとりに至るのは、第十一願の功である。


すべての如来が世間に出現されるのは、ただ阿弥陀仏の本願を説くためであった。
濁ったこの世に生きるものはみな、釈尊の教えにしたがって本願を信じるべきである。
疑いなく本願を慶ぶ心が発れば、煩悩を断ち切らないままで、涅槃の領域にいたる。
凡夫も聖者も、五逆・謗法の極悪人も、本願の智慧海に入れば、
海に流れ込んだ川の水が同じ塩味に変わるように、仏心に転換する。
大智大悲の光明は、信心の行者を常に照らし護りたまう。
信心の行者は、すでに生死に惑う無知の闇は破られているが、
愛憎の煩悩は、雲や霧が天を覆うように、信心の天を覆っている。
しかし太陽が出ているかぎり、厚い雲霧に覆われていても、
地上に闇はないように、信心は煩悩を透して念仏者を導き続ける。
信心を獲て、阿弥陀仏に遇い、救われたことを慶ぶ人は、
本願力によって、迷いの境界を超え離れる徳をいただいている。
愚かな善・悪の凡夫であっても、如来の本願を聞いて疑いなく信受するならば、
仏は、広大な本願のこころを領解した勝れた智者であるとほめ、
白蓮華のような麗しい徳をもつものであると賞賛される。
万人を平等に救う法として如来より与えられる本願の念仏は、
自力をたのむ邪見で倣慢な悪人が、どれほど信じようとしても、
難中の難であって、絶対に不可能なことである。


インドに出現された菩薩たちや、中国・日本に出られた高僧たちは、
釈尊出現の本意は阿弥陀仏の本願を説くためであったことを顕し、
その本願は、凡夫にふさわしい救いの法であることを明らかにされた。
釈尊は楞伽山で、多くの人びとに次のように予言された。


「私が入滅した後、南インドに龍樹菩薩が現れて、
すべての人が有無にとらわれる邪見に陥っているのを打ち破り、
一切の衆生が救われていく最高の大乗仏教を説き示し、
歓喜地の境地にいたり、阿弥陀仏の浄土へ往生するであろう」と。
龍樹菩薩は、この土での修行は、険しい陸路をたどるように難行道であり、
念仏往生の道は、大船に乗って安らかに目的地へ往くような易行道であると教えられた。
「阿弥陀仏の本願の救いを疑いなく聞き受ければ、
本願力によって、即時に必ず仏になる位に入れしめられる。
それゆえ、つねに名号を称えて、仏のご恩を報謝すべきである」といわれた。


天親菩薩は『浄土論』を著し「尽十方無擬光如来に帰依したてまつる」と信を表白された。
『無量寿経』によって、如来・浄土こそ真実であると顕し、
一切衆生を仏にならせる他力横超の本願を広く示された。
本願力の回向によって、普く衆生が救われることを知らせるために、
それを受けいれる一心(信心)が往生の因であると彰された。
本願の名号を受けいれ、海のように広大な本願の世界に帰人した人は、
阿弥陀仏の脊属になり、かならず仏になる位に定まる。
蓮華蔵世界といわれる浄土に往生すれば、直ちに真如をさとり、
迷える人びとを救うために、煩悩の世界に還り来て、不可思議の力を現し、
相手に応じてさまざまな姿をとり、思いのままに人びとを救う身となるといわれている。


曇鸞大師は、梁の天子武帝が、「曇鸞菩薩」と常に礼拝したほどの大徳であった。
菩提流支三蔵が浄土の経典を授けたので、
所持していた神仙術の奥義書を焼き捨てて、浄土の教えに帰入していかれた。
天親菩薩の『浄土論』に註釈を加え、往生の因も果も誓願によって成就すると顕された。
往相も還相も、すべて本願力によって回向されるから、
往生の正因は疑いなく受けいれる信心一つである。
愛憎の煩悩に染まった凡夫も、信心が発るならば、
生死する身でありながら、生死を超えた涅槃をさとるべき身となる。
限りない大智大悲の光の世界である浄土に至れば、
迷いの境界で苦しんでいるすべてのものを救う身となるといわれた。


道綽禅師は、自力聖道の修行によってこの土でさとることは不可能であり、
ただ浄土に往生することのみが、さとりを得る道であると決着された。
この世でさまざまな修行をしても、かならず挫折すると自力修道を退け、
あらゆる功徳が円かに具わった名号をひたすら称えることを勧められた。
自力の飾り心を離れ、二心なく、一生涯相続する他力の信心をねんごろに教え、
正法、像法、末法、法滅の隔てなくお救いくださる大悲本願の念仏を明かされた。
たとえ生涯悪行を造り続けたものも、本願を信じて念仏すれば、
安養浄土に往生して最高のさとりを完成せしめられると説かれた。


善導大師は、ただ独り、古今の『観無量寿経』領解の過ちを正していかれた。
善に誇る善人も、悪にひがむ悪人も、ともに哀れむべきものと思し召す阿弥陀仏は、
大悲の光明を縁として育て、往生の因となる名号を与えて救いたまうと顕された。
心開けて広大な本願の智慧の海に入り、
金剛のように堅固な信心の智慧をいただき、仏心に感応して救いを慶ぶ心がおこった行者は、
韋提希夫人と同じく、本願を喜び、領解し、信順する三忍を得、
浄土に往生すれば直ちに真如法性をさとる身となるといわれた。


源信僧都は、釈尊一代の教法を学び尽くして、
ひとえに浄土の教えに帰依して人びとに念仏を勧められた。
本願を信じて念仏する信心深き専修のものは真実の報土に生まれ、
自力修行の功徳をたのむ信心浅薄な雑修のものは方便化土に往生すると判定し、
信心の浅探によって、往生の果報に報土と化土の別が成立すると説かれた。
極重の悪人は、ただ仏の名を称えるほかに救われる道はないといい、
私もまた阿弥陀仏の光明に摂め取られているが、
煩悩に心の眼が遮られて、阿弥陀仏を拝見することはできない。
しかし阿弥陀仏の大悲は、かたときも目を離さずに私を見護っているといわれた。


恩師源空聖人は、仏教を究め尽くした人であった。
善人であれ悪人であれ、不安な人生を生きるすべての凡夫を哀れんで、
浄土真宗の教えを日本の国に初めて開き顕し、
選択本願の念仏をこの濁悪の世に広めてくださった。
迷いの境界にとどまり、輪廻を繰り返して離れることができないのは、
本願を疑って受けいれないからであり、
すみやかに煩悩の寂滅したさとりの領域に入ることができるのは、
善悪平等に救いたまう本願を疑いなく受けいれる信心を因とすると決着された。


釈尊の正意を伝えてくださった菩薩や祖師方は、
濁悪の世に生きるすべてのものに救いの光をもたらされた。
出家といわず在家といわず、いまこの法縁に遇うものは、
この高僧方の教えをはからいなく受けいれて信じるがよい。

 以上、六十行の詩を説き終わる。百二十句である。


出典:梯實圓著 教行信証「教行の巻」第一刷 発行:本願寺出版社
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