論註
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ろんちゅう
二巻。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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仏教では、経・論・釈といい、経とは仏陀の説いたもの、論とはインドの菩薩(学者)が教説を祖述解釈したもの。釈とは経論の意味を中国の学者が解釈したものをいふ。経釈(経と釈)、論釈(論と釈)ということもある。
御開山は、曇鸞大師を菩薩とみておられた。また曇鸞大師造の『讃阿弥陀仏偈』を経とみようとされておられる場合もある。
『浄土和讃』の「讃阿弥陀仏偈和讃」の冒頭の、
- 南無阿弥陀仏 釈名無量寿 傍経奉讃亦曰安養
は、「南無阿弥陀仏 釈して無量寿と名づく。経に傍そへて讃めたてまつる。また安養ともいふ」という文を、「南無阿弥陀仏 釈して『無量寿傍経』と名づく、讃めたてまつりてまた安養といふ」と『無量寿傍経』とよまれたのである。→釈して…安養といふ
また「正信念仏偈」では、
- 本師曇鸞梁天子 常向鸞処菩薩礼
- 本師曇鸞は、梁の天子、つねに鸞のところに向かひて菩薩と礼したてまつる。
と、曇鸞大師を菩薩とされておられたのであった。いわゆる二種回向である「本願力回向」の往相・還相という『論註』の指示は、浄土教こそ「大乗のなかの至極なり」(消息P.737)であると領解されたのであった。それはまた、
- 二つに還相の回向といふは、すなはちこれ利他教化地の益なり。すなはちこれ必至補処の願(第二十二願)より出でたり。また一生補処の願と名づく。また還相回向の願と名づくべきなり。『註論』(論註)に顕れたり。ゆゑに願文を出さず。『論の註』を披くべし。
や、
- 『『註論』にいはく、「〈荘厳清浄功徳成就とは、『偈』に、《観彼世界相勝過三界道》といへるがゆゑに〉(浄土論)と。これいかんが不思議なるや。凡夫人、煩悩成就せるありて、またかの浄土に生ずることを得るに、三界の繋業畢竟じて牽かず。すなはちこれ煩悩を断ぜずして涅槃分を得。いづくんぞ思議すべきや」と。
と、本来は釈である論註を『註論』とされた意であった。それは論註のの「覈求其本釈」によって、善導、法然両師が示された穢土と浄土という二元論の上に絶対教判として一元論の「誓願一仏乗」という本願を聞信すれば、あらゆる者が仏に成ることが出来るという、なんまんだぶのご法義であった。
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