浄土見聞集
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
浄土見聞集 『真宗聖教全書』三 歴代部 P-375~P-383
- 浄土見聞集
つたへきく、閻魔王はかゞみを塵の小罪にかけてしり、倶生神は筆をつゆの軽罪に そめてしるす。しかるにわれら慧刀やいばなし、なんぞ煩悩のつなをきらん。戒珠き ずあり、いかでか生死のやみをてらさん。ここにわれら最後のいきひとたびたえ、人 間の報すでにつきて臨終にまなこさらにとぢ、よみぢにむかはんとするとき、三人 の羅刹婆冥途よりたちまちにきたりて、三魂をめして秦広王の庁につく。はじめて 罪門関樹[1]のもとにありて、かなしみのなんだを中有のちまたにながす。たのみをか けし親族は故郷にないてわれをしらず、こころにたくみし罪業は前後にまつはり て身をはなれず。をくれたるものはかなしみのなみだのんど[2]にむせび、さきだてる ものはなやみのうれへ体に変ず。しかうしてのち暴風ふききたりて関樹の葉をふ きおとすに、ことごとくつるぎとなりて身をつらぬく。その葉こかしはのごとし。つ るぎの身にたつ多少によりて業の浅深をしる、そののちの死出の嶮山をこえて奈河 の幽岸にいたる。
二七日のとまり初江王の庁につく。すなはち脱衣鬼をめして罪人のころもをぬが
しめて衣領樹にかく。えだの低昂[タリアガリ]にしたがひてつみの軽重をさだむ。もし慚愧のこ
ろもをきざれば身の皮をはがる。くるしみしのぶべからず。
三七日には宗帝王、罪人の名をしるし、亡者のところを録して、黄泉のきしよりゐて
いでて奈河の津をとほし喪塗河をわたす。引路の牛頭は鉄棒をもてみちををしへ、
催行の馬頭は鉄叉をもてながれをしめす。
四七日には五官王、そらには業量のはかりをかけてつみの軽重をたゞし、地には双
童のふだにまかせて業の多少をしるす。
五七日のあしたより、閻魔王のせめをかうぶる。かしらをつかみておもてを頗●[王+梨]の
業鏡にむかふ。つらつらむかしのわざをみるに、しかしながらつみにとがす。阿防羅
刹のいきほひをみれば猟師の鹿にあへるがごとし、牛頭・馬頭のこゑをきけば雷電
のほとばしるににたり。
六七日には変成王、功徳をまちて罪福をことはる。
七七日には太山王福業のさだまらざるをかなしみて男女の追善をもとむ。
百箇日には平等王、枷樔[クビカセ]をそへてさらに苦悩をます。
一周忌には都市王、罪人群集してさかんなる市のごとし。
第三年には五道転輪王、つみを千日のうちにあがふて、福を三界のほかにもとむ。青
衣の倶生神をもて罪人をひきゐて、しばらく魂宿華のもとにしてしばしば古郷を
みせしむ。ちぎりをむすびし男女はとつぎをあらためてわれをわすれ、たのみをか
けし子孫はつみをつくりてとぶらはず、娑婆の妻子をうらみ自身の罪報をくゐて
黄なるなみだをたれ血のあせをながす。このとき罪業を滅せざればつゐに奈黎に
おつ。熱鉄身をこがし、寒氷くびをとぢ、融銅はらをわかし、生革かしらにまつふ、銅柱
これをいだき、熱地これにふす。
しかればすなはち寒氷熱火のそこにおちずして、華池宝閣のうてなにのぼらんこ
と、このときにあらずば、またいづれの生をか期せん。ひとたび人身をうしなひつれ
ば万劫にもかへらず。天上は楽にほこりていとはず、地獄は苦をかなしみてねがは
ず、餓鬼道は飢饉にせめられてもとめず、畜生道は愚癡にほだされてしらず、修羅道
はまた闘諍ひまなくして菩提をもとむるによしなし。これらの生処にはかつて善
知識なし、なにによりてか出離をわきまへん。人中にも東州・西州・北州は佛法の名字
をしらす、これ善知識なきゆへなり。たまたま知識ありといふとも佛法を信ずる宿
善の機なし。いまこの南州日域は聖徳太子佛法を弘興したまひしよりこのかた、ほ
かには教法流布しうちには善友勧化して、出離生死の要法をもとめんことこのと
きにあたれり。
佛法万差なりといへども、浄土真宗はこれ時機相応の法なり、自力をすて佗力に乗 じて修行せば、「聞已即悟无生法忍」(観経)ととき、「即得往生住不退転」(大経巻下)とのたまへり、平 生業成なにをかうたがはん。この法を信ぜずばこれ无宿善のひとなり。「宿世見諸佛 即能信此事」(礼讃)とも釈し、「憍慢・弊・懈怠はもてこの法を信ずることかたし」(大経巻下)ととき たまへり。まことにこれ希有最勝の要法、決定往生の業因なり。おぼろげの縁にては、 たやすくききうべからず。
もしききえてよろこぶこころあらば、これ宿善のひとな
り。善知識にあひて本願相応のことはりをきくとき、一念もうたがふこころのなき
は、これすなはち摂取の心光行者の心中を照護してすてたまはざるゆへなり。光明
は智慧なり、この光明智相より信心を開発したまふゆへに信心は佛智なり、佛智よ
りすすめられたてまつりてくちに名号はとなへらるるなり。[3]
これさらに行者の心
よりおこりてまうす念佛にはあらず、佛智より信心はおこり、信心より名号をとな
ふるなり。かるがゆへに『教行証』(信巻本意)には「願力の信心はかならず名号を具す」とのた
まへり。光明寺の和尚は「行者の信にあらず、行者の行にあらず、行者の善にあらず」と
も釈したまへり。无碍の佛智は行者の心にいり行者の心は佛の光明におさめとら
れたてまつりて、行者のはからひちりばかりもあるべからず、これを『観経』には「諸
佛如來はこれ法界の身なり、一切衆生の心想のうちにいりたまふ」とはときたまヘ
り。諸佛如來といふは彌陀如來なり、諸佛は彌陀の分身なるがゆへに諸佛をば彌陀
とこころうべしとおほせごとありき。
佗力の信心を獲得するとき、よこさまに五悪趣におつべき業因をきりとゞめられ
たてまつり、悪道のかどながくとぢて自然にすなはちのとき正定聚にさだまる。正
定聚といふは不退のくらゐなり、不退といふはながく二十五有にかへらざるなり。
されば善知識にあひたてまつり、法をききて領解するとき、往生はさだまるなり。そ
ののち名号のとなへらるるは大悲弘誓の恩を報じたてまつるなり。それも行者の
かたよりとなへて佛恩を報ずるにはあらず。佗力よりもよほされたてまつりて、と
なふればをのづから佛恩報謝となるなり。信も行もかつて行者の所作ならず、但佗
力といへり。すでに摂取の心光におさめられたてまつり、ながくすてられたてまつ
らず、御ちかひにあひたてまつること、これ善知識の恩徳なり。まことに報じてもつ
きがたし。もしこの縁なくばつゐに三塗にかへり、多百千劫をふるとも佛法の名字
をきかざらまし。
また知識たらんひとは信不信をわかず、この道理をひとにしめすべし。そのゆへは、
信ずるひとはすなはち往生さだまりて永劫の楽果を証し、信ぜざれども、ひとたび
もききぬれば遠生の縁となりて、つゐにこのひとにむまれあひて、かさねてこの法
をききて生死を度すべし。この佗力の法門は万行諸善の肝心、真如法性の極理なる
がゆへに、ひとたびもみみにふれぬれば、かつてむなしからざるなり。われはよくこ
ころえたりとおもふとも、なをも知識にちかづきて、たづねとひたてまつるべし。き
ればいよいよかたく、あふげばいよいよたかし。よくよくたづねまうさるべし。よく
よくわきまへてこたへをしへたまふべし。きくことのかたきにはあらず、よくきく
ことのかたきなり。信ずることのかたきにはあらず、をしふることのかたきなり。「易
往而无人」(大経巻下)とときたまへるは、ゆきやすくしてひとなしといふこころなり。ひと
なしといふは、よくをしふるひともなく、よくきくひともなきなり。佗力佛智の至極
はいかばかりとしりてか、これまでとおもひて善友知識にもちかづかざるべきや。
楞厳の『要集』(巻上本)には「これを座の右にをきて、廃忘にそなへよ」といひ、龍樹の解釈に
は、「善友のをしへなければ、愚癡のやみいでがたし」とものたまへり。文にあきらかな
らんひとはつねに聖教にむかひて義埋を案じ、文にくらからんものは善友知識に
あひたてまつりて、わがしれるところをたづぬべし。日ごろしるところなりといヘ
ども、きけばまた得分のあるなり。
『経』(大経巻下)に「聞名欲往生」ともとき、「聞其名号」とものたまへば、聞といふはきくとよむ、き
くといふはたゞなをざりに名号をきくにはあらず、「本願の生起本末をききて疑心
あることなし、かるがゆへに聞といふ」(信巻末)とのたまへり。ききてうたがはざるを聞
といふ、たとひ八万法蔵・十二部経をきくとも、疑心あらば聞にあらず。聞よりおこる
信心、思よりおこる信心といふは、ききてうたがはず、たもちてうしなはざるをいふ。
思といふは信なり、きくも佗力よりきき、おもひさだむるも願カによりてさだまる
あひだ、ともに自力のはからひのちりばかりもよりつかざるなり。これを自然とい
ふ、自はをのづからといふ、然はしからしむといふ、法爾法然として、佗力の御はから
ひによりて往生さだまるをいふなり、往生のさだまるしるしには慶喜の心おこる
なり、慶喜心のおこるしるしには報恩謝徳のおもひあり。ここをもて龍樹の偈(智度論巻四九意)
にいはく、「恩をしるはこれ大悲の本なり、恩をしらざるをば畜生となづく」とのたま
へり。もし恩を報ずるこころなくば、畜生に類する義あきらかなり。畜生に類せばな
んぞ佗力の信をうるひとならんや、よくよくこころのうちをかへりみて、慶喜報恩
のこころあらば往生すでにさだまりぬとしるべし。しからずば住生不定なり。これ
行者の用心なり。よくよくわきまふべし。
をよそこのふみ、はじめは『十輪経』・『十王経』等のこころをとりてこれを鈔す、をはり
には『教行証』等の文類を見聞するゆへに、『浄土見聞集』と題す。さらにわたくしなし
といへども、これ自見のためにして弘通のためにあらず。文言つたなしといへども、
愚者のみやすからんことを要す。そもそも楞厳の先徳の『要集』、禅林の永観の『十因』等は厭離穢土欣求浄土とかかれたり。
しかるに鸞聖人の御相伝には、欣求をさきにし、厭離をのちにせよとのたまへり。そのゆへは、まづ穢土をいとへとすすむとも、凡夫はいとふこころあるべからず、これをいとはせんとすすめんいとまに、まづ欣求浄土のゆへをきかせぬれば、をしへざれども信心を獲得しぬれば穢土はいとはるるなりとおほせありけり[4]。されば『教行証』・『浄土文類聚鈔』・『愚禿鈔』等の御作にも、ま た『浄土和讃』・『正像末法和讃』等にも、かつて穢土をいとへとも、无常を観ぜよとも、あ そばされたる一文なし。つらつらこのことを案ずるに、まことに信心ひとたび発起 せしめたまひぬれば、をしへざれども穢土はいとひぬべし。またたとひいとふここ ろかつてなくとも、信をえば往生うたがひなし。一言なりとも、佗力発起の法門もと も大切なり。はじめの十王讃嘆なんどはすでに厭離をさきにする義なり。當流には しかるべからざることなれども浅智愚闇のともがらを誘引せんがためにとて、願 主の所望によりてわたくしの見聞をしるしわたすなり。ゆめゆめ外見あるべから ず。あなかしこあなかしこ。
浄土見聞集