還相回向
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
げんそうえこう
阿弥陀仏が本願力によって還相を回向(ふりむけ、与えること)すること。 親鸞聖人は回向の主体を阿弥陀仏とし、往生成仏の証果を開いた者が示す還相の活動は阿弥陀仏が施し与えるものであるとする。→往相回向(おうそうえこう)、補註12 他力・本願力回向。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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- →二種回向
◆ 参照読み込み (transclusion) JDS:往相回向・還相回向
おうそうえこう・げんそうえこう/往相回向・還相回向
自己の功徳を他の人に振り向けてともに浄土に生まれようと願うことを往相回向といい、浄土に往生した者が再びこの穢土(迷いの世界)に還ってきて、人々を教導し共に浄土へ向かうことを還相回向という。往相と還相とは対語。曇鸞は『往生論註』で「回向に二種の相有り。一は往相、二は還相。往相とは己が功徳を以て一切の衆生に回施して、共に彼の阿弥陀如来の安楽浄土に往生せんと作願するなり。還相とは彼の土に生じ已って、奢摩他、毘婆舎那を得て、方便力を成就しぬれば、生死の稠林に回入し、一切の衆生を教化して共に仏道に向かう」(浄全一・二三九下~四〇上)という。善導が『観経疏』散善義の回向発願心釈で二河白道の譬喩によって、浄土へ往生するための回向を説き明かすのは往相回向であるが、その説示の終わりの部分で「回向と言うは、かの国に生じ已って、還って大悲を起こし、生死に回入して衆生を教化するを、また回向と名づく」(聖典二・二九九~三〇〇/浄全二・六〇下~一上)と述べ、また、『往生礼讃』日没発願文で「彼の国に到り已って六神通を得て十方界に入りて苦の衆生を救摂せん」(浄全四・三六〇上)といっているのが還相回向である。法然は『御消息』において「まず我が身につきて、前の世及びこの世に身にも口にも意にも造りたらん功徳、みなことごとく極楽に回向して往生を願うなり。次には我が身の功徳のみならず異人のなしたらん功徳をも、仏菩薩のつくらせたまいたらん功徳をも随喜すればみな我が功徳となるをもて、ことごとく極楽に回向して往生を願うなり」(聖典四・五四〇/昭法全五八三)と語り、一方で『一百四十五箇条問答』で「極楽へ一度生まれそうらいぬれば永くこの世に還る事そうらわず。みな仏に成る事にてそうろうなり。ただし人を導かんためには故に還る事もそうろう。されども生死に回る人にてはそうらわず」というが、結論は「三界を離れ極楽に往生するには念仏に過ぎたる事はそうらわぬなり。よくよく御念仏のそうろうべきなり」(聖典四・四五六/昭法全六五二)なのである。ちなみに、真宗においては、回向の主体を阿弥陀仏のみと捉えるため、衆生による回向は説かない。
【参考】藤吉慈海「往相と還相」(『浄土宗学研究』一一、知恩院浄土宗学研究所、一九七八)
【参照項目】➡回向
【執筆者:藤本淨彦】
讃岐の妙好人庄松の言行。
「庄松よ。還相回向とはどうじゃ」と問われ、「ワシが放ったお念仏を、喜んで拾うモンが居る」と答えた。
庄松の口から出たお念仏も仏のはたらき。それを聞いて念仏相続した周りの人間の口から出た念仏も仏のはたらきであるから、還相回向というのである。