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教行証文類のこころ

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

2022年3月22日 (火) 23:32時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版

2001年8月1~3日にわたって、真宗出雲路派夏安居での梯實圓和上の講義、『教行証文類のこころ』をテープから起こしたもの。なお午前中はご講義で、午後は本堂でのご法話でしたが講義だけを収録しています。途中テープ切れや板書を略したりして正確に和上の真意を伝えていない恐れがあることに注意してください。文責は林遊にあります。講義終了後、カメラが趣味の和上を近くの世界の花ハス約130種があるといふ「花はす公園」へ案内させて下さったことは良い思い出である。


教行証文類のこころ

第一日目-1

  • 2001年 真宗出雲路派夏安居講録  梯實圓和上


 つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり、と。


ただいまご紹介頂きました、梯でございます。
浄土真宗の一番の根本のお聖教でございます、『教行証文類』のお心についてお話をさせて頂きたいと思います。
ご存じのように親鸞聖人は、ずいぶん沢山のお聖教をお書きになるのでございますけれども、やはり一番、主著、といわれるものが、この『教行証文類』でございます。
正確には『顕浄土真実教行証文類』と、こう書かれておりますが、のちに教行信証文類と言う名前でよばれることもあり、また、教行信証とよばれる場合もございます。
けれども、親鸞聖人が、ご自身で表わされているのは、『顕浄土真実教行証文類』、でございまして、また直弟子の方々がよばれるときには、教行証あるいは教行証文類というようなよび方がされております。それで、いちおうこの度は、『教行証文類』という、こういうよび名でよばせて頂こうと思います。
勿論、教行信証といっても、教行信証文類といっても、決して間違いではございませんけれども、親鸞聖人のよび名、あるいはその直弟子の方々のよび名に従って、『教行証文類』とよばせて頂きたいと思います。
この『教行証文類』でございますが、いつ頃これを親鸞聖人が著されたのか、よく分かりません。
よく分かりませんというと何ですが、現在、公式には、『教行証文類』を書かれたのは元仁(げんにん)元年(1224年)といわれております。親鸞聖人のお年で五十二歳、といわれているのでございます。
それは『教行証文類』の中にですね。親鸞聖人自身が化身土文類の所で、お釈迦さまがお亡くなりあそばしてから今日まで、何年経っているかという年代測定をなさっているのでございますが。これは今の時が末法であるということを、証明するための年代測定をなさっているのですが、その基準年になっているのが元仁元年でございます。
つまり、お釈迦さまは中国の年代に合わせると、周の第五の穆王(ぼくおう)の五十三年にお亡くなりになって、それからずっと数えてみると、我が元仁元年に至るまで二千一百八十三年と書いてあります。これは正確には十年計算違いがあるわけですが、とにかくそこにお釈迦さまが亡くなられてから今日まで、何年経っているか、というその仏滅後の年代を著す時の基準年として元仁元年という年が挙げられています。
そういうことから、この元仁元年というのが親鸞聖人が『教行証文類』を著された年である、と、こういうふうに、いわれてきたのでございます。
どこかで決めなければならないとすれば、これで決めるしかないだろうと思います。そういうことで、今日(こんにち)この『教行証文類』が著された年を、浄土真宗の立教開宗の年と、こういうふうに見ますので、立教開宗以来何年経っているか、ということを測定するのには、この元仁元年を基準として測定していくわけでございます。
しかし、実際問題としてですね。元仁元年、丁度その、ここの部分を書かれておった時が、つまり化身土文類の化巻(本)の終わり頃でございますけど、そのあたりが書かれておられたときが元仁元年であったから、元仁元年といわれたんだと、そういうふうに機械的に考えるには少し無理があろうと思うのでございます。
といいますのは、この元仁元年といいますのはですね。ほんの僅かな期間でしかないんです。
貞応三年という年でございますが、この年が、貞応三年の十一月の終わり頃に改元になって、そして元仁元年になっている訳でございます。
したがって元仁元年は一月そこそこしかないわけですね。従ってその元仁元年にですね。丁度書いていらっしゃったその時が元仁元年だったというとですね。おそらく京都で改元になったと、今年は貞応三年から元仁と改元になった、ということが、京都で決定いたしましてそして幕府へ通達されまして、そして幕府のほうからですね。こういうふうになったと地方へ伝わっていくのは、今日みたいに情報が即時に伝わるような時代なら別ですけれども、その当時はそんなわけにはいきませんので。
おそらく親鸞聖人が五十二歳、関東の稲田の草庵にいらしゃったといわれております。たしかにそうだろうと思いますが、常陸の笠間の郡(こおり)の稲田のあたりへその情報が達するのは、おそらくその年の暮れ、終わり頃だったはずでございます。
それを親鸞聖人がお聞きになって、そして今日(きょう)、今は元仁元年だ、そりゃぁあまりに時間的にちょっと無理がありすぎますね。
おそらくこれは、元仁元年というのは、親鸞聖人は改元になりますと改元になった年の名前で、その年をよんでいかれるわけですね。たとえば有名な念仏停止(ちょうじ)の法難が起こったといわれる、親鸞聖人の三十五歳の年でございますけれども、承元の法難とよんでおりますが、承元(じょうげん)元年でございますけれども、あれは承元元年ですけれども、念仏停止の院宣が下りましたのは建永(けんえい)二年でございます。まだ建永二年なんです。つまり承元にはなっていない、改元にはなっていない。建永二年の一月の下旬に、念仏停止の院宣が下りまして、そして二月上旬に一斉検挙があって、親鸞聖人たちが有罪判決を受けて、それぞれ処分をされますのは二月の終わりから三月の初めでございます。
この時期はまだ建永でございまして、承元じゃないんですね。けれどもこの年に承元になりますので、承元に改元になりますので、親鸞聖人は「承元元年の仲春上旬の候に奏達す」(後序)、と書いてありますが、あれは正確にいいますと、建永二年なんですね。ですから浄土宗の方ではあれは建永の法難、とよんでおります。ただ、真宗では親鸞聖人に従って、親鸞聖人は改元になりましたらその改元になった名前でその年をおよびになるという、そういうことから、承元というふうによんでおる訳でございます。
その『教行証文類』が元仁元年に完成したのではないということが、どうして証明できるかといわれますと、現在の遺っています親鸞聖人の御真筆本ですね。直筆本の『教行証文類』が一部だけ遺っております。
これが今、東本願寺に伝承されておりますので、東本願寺本とよんでおります。これが親鸞聖人の直筆で書かれたものです。なんで直筆というねんとこういわれますとね。同じ筆跡で、添削が沢山されておることですね。あの書物にね、添削をすることが出来る人は著者以外にはありません。
従って親鸞聖人の筆跡というのは、あれが一番根本になるわけですね。その筆跡を見ますとですね。ずいぶんいろんな筆跡が出ております。いろんな筆跡というのは、色んな年代の筆跡が出ております。
六十代の筆跡、そして七十代以後の筆跡、八十代以後の筆跡もございます。一番何ですね、ベースになっているのは六十代の初め頃の筆跡でございます。今日では東本願寺本の研究によりまして、大体、親鸞聖人が、いま言いました東本願寺本はまず原本があった。もう一つ前の原本があった、それを清書しておられる。親鸞聖人が清書したというのは何故分かるかと言いますと、何ですかその、写し間違いがあるんです。あきらかなケアレスミスでございます。
そのケアレスミスがございますので、これは写し間違いだと言うことが分ります。原本がありましてそれを清書した。その清書したのが、今の東本願寺本の元になっておりまして、それに添削を加えた。さらにその清書された年代がだいたい六十二~三歳頃の筆跡と考えられます。六十二~三歳頃の親鸞聖人の他の筆写本と合わせますと筆跡が非常によく似ておりますので、だいたいこの時期の筆跡だ、という事が分かります。
それを六十二~三歳頃にいわゆる原『教行証文類』、元の『教行証文類』をそれを清書した。そしてその清書したものに添削を加えた。さらに大改訂を行なっていらっしゃる。その大改訂を行なったのが七十代以降の筆跡でございます。
史実から見ますとですね、親鸞聖人は七十五歳の時にお弟子の、沙弥尊蓮という方にこの『教行証文類』を伝授されているわけでございます。沙弥尊蓮がそれを写したという記録が残っているのでございます。(大谷大学蔵室町時代写本・寛永版・恵空写教行信証奥書)この沙弥尊蓮というのは親鸞聖人の従兄弟でございます。親鸞聖人の叔父さんにあたります日野宗業(むねなり)、従三位まで上りまして、文章博士として有名な方ですね。
平家物語にも登場してくる方でございますが、この宗業公のお子さまで親鸞聖人とは従兄弟にあたる方ですね。この尊蓮という方、親鸞聖人の洛中でのお弟子でございます。京都へお帰りになってからのお弟子でございますが、その沙弥尊蓮にそれを伝授をされておる。ということは大体親鸞聖人は、これでいちおう完成した、という自信があったから伝写することを許されたわけでございまして、そうしますと、まずその時点、つまり七十五歳ぐらいで大改訂が終了した、と、みていいでしょう。
そしてその後もさらに添削はされている。ことに八十歳以降でなければ分からない事柄をそこに書き入れていらっしゃるのは明らかに出てきます。
例えば天皇の諡号(おくりな)というものが、何年にこの天皇にはどういう諡号がされたかというということを合わせてみますと、これは親鸞聖人が八十以降でなければ分からない事柄でございます。そういうものが直筆で欄外に出ておるということになりますと八十以後にもなお手を入れていらしゃった、という事が分かるわけでございますね。
そういう意味にみまして元仁元年というのは全く無意味な年ではなくて、実はこれは先ほど言いました、貞応三年でございますけども、この貞応三年といいますのは、これは第二回目の念仏停止の勅命が下った年なんです。
法然聖人が亡くなって丁度十三回忌、あの前の第一回の大弾圧によって致命的な、致命的なというとおかしいですが、随分激しい弾圧を受けたわけですね。あの承元の法難の時には。死刑がですね。四人が死刑になって八人が遠流の刑罰に処せられる。その中で一人だけは、何ですね。歎異抄は二人と書いてありますが、本当は一人だけですね。一人だけが慈円僧正ですね、慈円の庇護を、慈円によって身柄預かりというかたちで流罪にはならなかった。けれども後七人はそれぞれ流罪になっておりますが。
あの死刑というのは、ご承知のように、平安時代三百五十年間、死刑はなかったんです。日本の国には死刑はなかったんですね。律令の条文にはありましたが実際に死刑というものはなかった。これが保元(ほうげん)の乱の時にはじめて死刑が復活するんですね。あれ死刑復活させたのが、あの隆寛律師のお爺さまにあたります、藤原信西入道(藤原通憲)でありますね。
彼は自ら死刑復活しまして、その次の平治の乱の時には彼自身が死刑になるわけでございますね。ずいぶん皮肉な話でございます。
とにかく保元平治の乱まで死刑はなかった。まして僧侶がですね、死刑になるということは考えられなかったですね。それがあの承元の法難では、四人まで死刑になって、これはものすごい弾圧なんです、これは。我々想像以上の弾圧を受けているわけですね。
そういうことで壊滅的な打撃を受けておったのですけども、法然聖人が亡くなって十三回忌を迎えたこの元仁元年、つまり貞応三年の時期になりますとずいぶん復活してきまして、京都の街では再び専修念仏が盛んになってきた。殊にこの十三回忌を期して念仏者が澎湃(ほうはい)と京都の街に起こってきた。
それを恐れた叡山からですね。再び念仏停止を要請する「延暦寺奏状」というのが、この年の五月に朝廷に出されます。で、それを受けまして、朝廷はその年の八月に念仏停止が宣下される訳です。再び専修念仏は弾圧を受けていくわけですね。
そしてやがて、三年のちの嘉禄三年には有名な嘉禄の法難というのが起こりまして、この時には死刑はございませんでしたけれども、法然門下の生き残った、法然門下の重鎮たちは、皆流罪に処せられる、というような嘉禄(かろく)の法難というような事件が起こる訳です。
その嘉禄の法難のきっかけになったのは、この貞応三年、つまり元仁元年の「延暦寺奏状」でございます。
承元の法難の思想的に裏付けた、あの法難を思想的に裏付けたのは、あの有名な「興福寺奏状」でございましたが、それに対して「延暦寺奏状」が元になって貞応の、貞応三年の念仏停止の院宣が下る、と、こいうことになってきたのですね。
実はその「延暦寺奏状」の中にですね。今は必ずしも末法ではないんだということで、末法思想に立って、この教えを、念仏の教えを宣布している、その法然聖人の一門を、その思想の根底からひっくり返していこうとしたのが「延暦寺奏状」でございます。
その「延暦寺奏状」に、今は必ずしも末法ではないんだ。たとえ末法であったとしても、たとえ末法になったとしても、少なくとも五千年間は仏法は、実際に覚りへの道として効力を発揮するんだといわれているお経もあるんだ。
それを末法の時代になったら、行も証もなくなって、覚りへの聖道門の教えは覚りへの道ではなくなってしまう。ことに法滅の時代になったら仏法は完全に滅びるが、ただ念仏一門だけが遺るというふうに言っているけれども、実にそれは愚民を惑わす虚構の説であるということでですね。この「延暦寺奏状」の中で言うている訳なんですね。
実は親鸞聖人がこの「化身土文類」の、本の終わりごろ、本巻の終わりごろにですね。今は末法であるということを、親鸞聖人ははっきりと論定をしまして、そして末法の時代になったらもはや行証の、行も証もない。覚りへの道としての実効は失われるんだ、ということを論証していこうとする為に化身土文類の本巻の終わりの部分は説かれている訳なんですね。
そのために親鸞聖人は延暦寺の開祖であった、比叡山延暦寺の開祖であった伝教大師の書物を引用される。これが「末法灯明記」ですね。
この「末法灯明記」を引いてお前たちの祖師の伝教大師はこう仰っているじゃないか。この伝教大師の説がお前たちは受け容れられないのかという形でですね。逆にいわば敵刀を以て敵を斬るという形で。
はっきりと「延暦寺奏状」への論難とは仰っていませんけれども、もう読めば、誰が読んでもこれは「延暦寺奏状」を根底から論駁したものだということはよく判る訳ですね。
そういう形で書かれている。そこに今、言いました仏滅後何年経っているかということを、算定する。仏滅年代の算定という、そして仏滅後の年代測定というものがなされている。そこに元仁元年という年号が出ているわけですね。だからこれはもう、ただこれを書いておられた時がそれだったと言うんじゃなくて、この年がいわば専修念仏の息の根を止めるような、そういうような弾圧が起きてきた。それをふまえて仰っているんだ、ということは明らかですね。
そういうことで、私は元仁元年という年は非常に大事な年だし、むしろこれは『教行証文類』を親鸞聖人が、どうしてもこの『教行証文類』を書かねばおれないという、そういう使命感といいますかね。そういうものに燃えた年だろうと思います。むしろ『教行証文類』選述の動機になった年、であったんじゃないかと考えられる訳でございます。しかし、少なくとも関東時代に『教行証文類』の原型は成立しておった、と考えてよかろうと思います。
その原型はいちおう成立したんだけれども、それをさらに完成する、そういう意味をもって親鸞聖人は関東から京都へ帰って来られたんじゃないかと昔から言われておりますが、たしかにそういう意味があっただろうと思いますね。
ひとつは法然聖人関係の書物はね、書物というか、書写した法然聖人の法語だとかお手紙だとか御法語の聞書であるとか、そういうものは関東ではちょっと手に入りにくい。
ふつうの書物であるなら関東で、いわゆる一切経といわれるようなものですと関東でも手に入りますけれども、法然聖人関係のものですと関東ではちょっと手に入りにくい。
やはり京都でなければ手に入らないでしょうね。そういうこともあって『教行証文類』を文献的にも、また思想的にも完成していくために、京都へ帰ってこられたんじゃないかと考えられる訳でございますけれども。
お帰りになってすぐに手を付けられたのも『教行証文類』を清書して、そしてもう一度添削をしていくという、そういう作業だったと考えられます。
そうして考えますと少なくとも五十二歳ぐらいから、七十四~五歳で完成するまで二十数年の年月を費やしている訳ですね。
さらに八十代以降の筆跡も多く見られますから、それをみますと親鸞聖人の後半生がこの『教行証文類』には凝集しておるということが言えるわけです。ずいぶん親鸞聖人という人は息の長い人だったという感じがしますね。
普通そんなねぇ、一冊の書物にね、何十年という歳月をかけるということはないですよ。
一冊書物を著しましたらそれはそれでケリつけまして、また次の著作にかかるものなんですがね。どうもそのようなことをしないで、この書物に心血を注いでおられる。
親鸞聖人という方は非常に筆まめな方でございまして、沢山書物を残してくださる方なんですが、その親鸞聖人が七十四~五歳までは、この『教行証文類』以外にですね。もっと若いときには「観経集註」、「阿弥陀経集註」といわれるような、これは著作というよりもご自身の勉強なんですが、そういうもの以外にはですね。メモ以外には何も残っておりません。
したがってもし親鸞聖人がもし五十代でお亡くなりになっていたら、未完成の『教行証文類』が一部残っただけで、おそらく親鸞聖人が今日のようなかたちで、祖師として崇められるということもおそらくなかったかもわからないですね。
そうしますと、大体七十四~五歳までこの書物の完成にかかりきっていらっしゃった、とみていいでしょうね。それくらいの書物なんですね、あの親鸞聖人ほどの方が畢生の力をこめ心血を注いで書かれた書物、これは大変なものでございます。そうですね、おっそろしく難しい。これははなから言うておきます。『教行証文類』とおそろしく難しい書物でございます。
大体親鸞聖人という方は、こんな言い方をしたらいけないかもしれませんが、きわめて独創的な天才でございます。ああいう独創的な天才、宗教的な天才というのはね。なかなか啓蒙家にはなれないんですよね。啓蒙的な書物は書けないです。
書けないと言うと何ですが、親鸞聖人も啓蒙的な書物を書こうと一所懸命になっていらっしゃるんですね。
たとえば『一念多念文意』であるとか、『唯信鈔文意』であるとかいうような書物を晩年お書きになりますけれども、その一番最後のところには、田舎の人々の仏教のことは何も知れない、また文字さえも判らない人達に、仏教のこころを知っていただきたいと思って、この書物は書いた。同じ事を繰り返し繰り返し書いたから、心ある人は嗤うかもしれない。
この心ある人というのは文字のこころを知っているということで、言替えれば学者ですね。学者が読んだら嗤うかもしれないけれども、とにかく愚かな人達が心得やすくと思って、書いた。こういって一番最後のところに識語が書かれてれております。
『唯信鈔文意』は先ほど言いました聖覚法印が著された唯信鈔の註釈なんですね。「唯信鈔」の中に書かれた難しい漢文の引用文がございます。それを註釈したものなんです。
それから『一念他念文意』は、これは「一念多念分別事」という隆寛律師の書物の、そこに引かれている漢文の引用文を註釈する。こういう形で書かれたものなんですね。
注釈書なんです。ところがお読みになったら判りますけれども、『唯信鈔文意』と元の「唯信鈔」を合わしたら、「唯信鈔」の方がずっと判りやすいです。親鸞聖人の註釈された『唯信鈔文意』の方がず~っと難しいです。『一念多念文意』でもそうです。「一念多念分別事」のほうがすっとわかる。「一念多念分別事」と親鸞聖人のお書きになったものを比べるとおっそろしく難しいです。難しいというたら何だけど、難しいです。
これは聖覚法印という方は、元々布教家なんですよ。安居院流という伝道ですね、唱道と読みましたけどお説教ですね。お説教の一派を開いた安居院の澄憲(ちょうけん)、その澄憲の跡をついで、安居院流というお説教の流儀を大成した人ですから元々布教師でございます。ですからね、書かれいるのは非常に解りやすい。しかもね、随所に七五調の文章がございまして非常に口調のいい、解りやすい文章なんです。ですから親鸞聖人は関東の門弟達に是非読みなさいといって推奨された訳なんですね。
ところがそれを註釈した「唯信鈔文意」になりますと、これは一筋縄ではいかない。恐ろしく難しい書物になっております。つまりね、親鸞聖人、註釈するつもりで書いていらっしやるんですが、書き始めたら前人未踏の境地を開いてしまうというような、これはもう独創的な思想家の常でございましてね。あの何ですね、書けば書くほど難しくなるような、そういうとこがありまして。
そういうのを見ますと解りやすくと思って書かれたものでさえもあれだけ難しいんです。『教行証文類』になりますと、ほんな、解りやすくなどと考えてはりゃしませんね。こりゃあもう何ですね。解ってくれる人が、一人でも二人でもおりゃあそりゃぁ有り難い。
これは解ってもらう為に書いたんじゃなくてね。書かねばならないことを書いた書物なんですね。
あれだけの人がね。書かねばならん事を書くんだ。そういう覚語を決めて、そして相手にするのは仏祖である。仏様と祖師方を相手にしながらね、そんな態度で書かれたら、そらあ、たまったもんじゃない(笑)。たまったもんじゃないといったらおかしいけど。そりゃあ難しいですよ。『教行証文類』というのは恐ろしく難しい。
しかし、凄い深みのある文章でござまして、もう、何と言いますかね、文章の密度が全然違うんですね、普通の文章と。ですから一字一字に精魂がこもっているというか、そういう感じのするお聖教でございます。
しかもね、この『教行証文類』は大部分引用文なんです。文類と言われておりますように、文章を集めた書物なんですね。経典の、あるいは祖師方のお聖教の文章を集めたものなんです。それを真実の教、真実の行、真実の信、真実の証、あるいは真仏土、方便化身土というふうに分類分けをいたしまして、それぞれを表す文章を引用してこられた、大部分が引用文なんです。
ところがね、よく見ますとただの引用じゃないんでございます。その引用の仕方、そして親鸞聖人が引用されてきますと、全然違った意味を持ってくるんですね。そういうことが沢山出てくるんです。
例えば龍樹菩薩の「十住毘婆沙論」というのを引用されます。その「十住毘婆沙論」を引用されるんですけどね。親鸞聖人が引用されたとこから読んでいきますとね。そこから読んでいきますと、元の「十住毘婆沙論」の文脈と全く違った世界がそこに出てくる。そして、親鸞聖人がそこで引用された文章だけをたどっていきますと、「十住毘婆沙論」とは全然違った領域を表しているんじゃないかと思われるような、そういうものが顕われてくるんです。
つまり、引用文でもって、創作をしている。しかもね、時によっては経典の文章であり、あるいは祖師方の文章でもね。訓点を変えるわけですね。漢文ですから漢文の訓点を変えて読まれます。訓点を変えて読みますとね、これは元の書物とは全然違った風景が顕われてくるわけでございます。
で、最近ね。あれ何っていうのかしれませんが、表から見たら普通の写真なんですね。ところが目の焦点を、焦点の合わせ方を変えますと、絵の中から全然違った絵が浮き上がってくるというような、あんなんのがありますな。あれ何ちゅうんですかな。夕刊に週に一回ずつ出てくる、ありゃあ面白い。
ふっと見たら、普通の花とか花畑とかきれいな写真なんですよ。ところが焦点を、違ったところへ焦点をあててみますと、この絵の中から動物が出てきたり、あるいは違った風景が顕われてきたり、そういうのがございます。とにかくそういうなのがあります。
つまりね、お聖教を読むときの目の焦点の合わせ方によって、お聖教の中から実に深いものがすーっと浮き上がってくるんですね。
また、そういうことはね、普通の写真だったら誰が見ても普通のものしか見えないんですよ。ちゃんと、そういう操作がしてあるから焦点を、違ったところに焦点を合わせますと、その絵の中から違ったものが顕われてくるようなものですね。
お聖教にはそういうものがある。普通の本とは全然違う。読み方によっては随分違った風景が顕われてくる。まぁ実は、そういうものを読みとっていくのが、祖師方なんです。これは普通の人間に出来る技じゃない。ある意味では覚りの眼を開いていないとああいうものは読めないだろうなと思いますね。
御開山てね、凄い覚りの境地をもっていらっしゃると、見ていいですね。私は愚かな者でなんにもわかりません、ちゅうて御開山仰っていますけど、どういたしまして、『教行証文類』を拝読いたしましたら、あるいはその他のお聖教を拝読いたしましたら、あなたはおそろしい覚りの境地、開いていらっしゃるんじゃないですかと、言わざるを得ないですね。
あの、いわば、大乗経典を読んでいるのと同じような感じを、ぴーんと受けますね、御開山の。他の人はあんまりそういう感じを受けないんですけど、御開山の読んでると。そんなん、ばぁーっと受けるような、おそろしい迫力がありますね。ありゃあ、ただ人じゃないですね、やっぱ御開山は。日本民族の産んだ素晴らしい仏様だと私は思っているでのすが。あっ、えらい話が長うなってしまいました。
そういうことで、御開山は引文を通して、そしてある意味では、前人未踏の境地を開いていくような、そういう操作をなさっているのが『教行証文類』です。
だから『教行証文類』を読むときにはね、書いてある文章だけ読んだって解らないんです。原文と合わせてね、原文の文脈と、御開山の文脈と文脈を合わせながら読んでいかないと駄目なんですね。
そして引用してある文章だけ読んだって駄目なんです。引用してないところを読まなきゃいけない。そしてね、これを引くんだったらこっちの文章を引かねばならないのに、何故この文章を引くのか、そこんところを読まないと解らないです。
それから何ですね、その今言いましたような、読替があります。その読替をなさったところにですね。こりゃあ読み替えたんじゃないんです。御開山は読み替えていらっしゃるんじゃないんです。わしらが読んだら読み替えているようにみえます。
ようするに、「至心に廻向して、彼の国に生まれんと願ずれば」と訓むところを、「至心に廻向せしめたまえり。彼の国に生まれんと願ずれば」、と読み変えていらっしゃいますが、あれは我々からみれば読み替えなんですが、御開山は読み替えていらっしゃるんじゃないんです。それが訓めるんです。そう読めるんですね。それをすうっと読みとれる文脈を読みとれないと駄目なんですね。
ですからね、ただ書いてあることを書いてあるようにざっと読んだって駄目。あの書いてないところを読んでいかんにゃならんのですね。そういうのが『教行証文類』でございますので、まぁ恐ろしく難しいんです。最初から難しい難しいと言うていたら、もうやめとこかなと思われるかもしれませんが、そういう恐ろしく難解な書物でございますけども、しかし考えてみると八百年間。御開山が『教行証文類』をお書きになってから七百数十年、もう七百五十年になりますけども、この七百五十年間、色んな人たちが精魂込めて拝読し続けて、なおわからんわからんと言うてはるんですからね。んでわからんちゅうて嫌になってるちゅうかというとそうじゃないんです。
みんな、わからんわからんと言いながら、有り難いなぁ、ありがたいなぁ、ちゅうて言うているんですから、面白い書物ですなぁ、これは。わしらわからんちゅうたら、こんなん、もうつまらん止めた、というんですが。
つまりね、一生かかって読んでもね、わからんほどの書物に遇えたから、自分の生きてきた人生に意味があった、というようなことを感じさせる書物なんですね。解ってもたら、なんじゃい、この程度のもんかいというようなもんです。本当はそんなものです。そうじゃなくて、一生かかっても解らない、しかし解らないからなんにも解らないんじゃないんですよ。その触れたところ、触れたところで、ぴたーっと光るようなものに出合いますからね。全体像はつかめません。これははっきり言いまして、私は『教行証文類』の全体像はよお掴めません。これが掴めたらわしゃあ御開山より偉ぉなるんじゃけど、そうはいかん。それは掴めません。けれどね、随所、随所に光る言葉がね、それが私たちの人生を照らして下さる。そういう意味で、『教行証文類』。まあ何ですわ、毎日こぉ、拝読さして頂いて、楽しんでいるわけでございます。
今日はそういうことで、ここまでの間、何ですわ、前置きですねん。前置きが長すぎた。(笑)
ちょっとここで、休憩をいたしまして、内容ですね、この『教行証文類』が表わそうとしている内容をですね、それを少しお話を、これからさして頂こうとおもいます。

それでは休憩をさして頂きます。なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・(和上退出)

第一日目-2

『教行証文類』というお聖教でございますけど、一体何が書いてあるのか、とこういいますと、一口で言えば浄土真宗とは何か、ということが表わされている、と、こうみていいでしょうね。というのは、この『教行証文類』の一番最初、教文類というのがございますが、教文類の一番最初に「 つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教・行・信・証あり」こういうふうに仰せられています。実はこれだけの言葉が、『教行証文類』に顕わされている内容を要約して、体系的に示されたものでございます。
つまり、浄土真宗というものを、往相、還相の回向という、こういう体系をもって顕わされていくわけでございます。この二種回向というのは、これは本願力の回向です。
『教行証文類』は全部で六巻に分かれていますが、それを一巻に要約した書物が『浄土文類聚鈔』というのでございます。
この『浄土文類聚鈔』、もちろん親鸞聖人がお書きになったものですが、その『浄土文類聚鈔』では、「本願力の回向に二種の相あり。一つには往相、二つには還相なり。往相について大行あり、また浄信あり」と、こういうかたちで仰っています。
つまり、二種回向というのは本願力回向の、二種の相なんですね。したがってこれを見ますと、浄土真宗に二種の相がある、というのは『教行証文類』の顕わし方であり、本願力の回向について二種の相あり、というのは『浄土文類聚鈔』の顕わし方ですから、この二つ合わせますと、浄土真宗と本願力回向というのが、同じ事をいっているということが判りますね。
つまり、浄土真宗も往相、還相の二種回向を持っている、本願力回向にも往相、還相の二種回向を持っている、とこういうんですから、浄土真宗と本願力回向というのは同じ事を違った言葉で顕わしたということが判ります。
つまり浄土真宗とは本願力回向という、浄土真宗と本願力回向というは言葉は、一方は宗義で顕わし一方は法義の名前で表わしていますが、この二つは同じ内容を持っておる。同じ事を顕わしておるということですね。そういうことが分かります。
ちょっとここで皆さん不思議に思われるかと思うんですが、浄土真宗というのは我々は今、教団の名前として使っておりますね。浄土真宗を教団の名前として使うのは大分後からなんです。
親鸞聖人や、親鸞聖人の頃の方々が浄土真宗という言葉を使った時には、これは教団の名前ではございません。教法の名前なんです。ですから浄土真宗というのは今申しますように、基本的には教法の名前ですね。教えの名前なんです。それを後に教団の名前として用いるようになりますが、これは後からの話でございます。
もっと言替えましたら、法然聖人が浄土宗と言われたのと親鸞聖人が浄土真宗と言われたのは、根元的には全く同じ内容を持っている。
ですから、それは教団の名前じゃないです、教法の名前、教えの名前なんです。
これは、そうですねぇ、浄土真宗というのを、教団の名前という非常に近い形で使った人はですね。阿佐布の了海(仏光寺四世1239-1320)という方だと思いますね。余り一般には知られておりませんが、阿佐布の了海という方がいるんですね。この人が「他力信心聞書」、「還相回向聞書」というような書物を著わしている訳なんです。鎌倉の末期から南北朝初期にかけて出た人なんです
これは親鸞聖人のお弟子に、真仏上人という方がいらっしゃる。この真仏上人が高田の真仏上人なのか、それとも平太郎真仏なのか、平太郎が親鸞聖人がなくなった後、平太郎入道が真仏と名乗りますので、この平太郎真仏なのか高田真仏なのかこれちょっと問題があるんですが、その弟子に荒木の玄海という人がおります。荒木というのは武蔵の国でございます。その荒木の玄海の弟子に阿佐布の了海というのがおります。その弟子に甘縄の誓海というのが出ます。鎌倉の方ですね。その弟子に、同じく甘縄におりました了円、明光上人という人が出ます。その明光了円の弟子が仏光寺了源でございます。仏光寺派をお建てになった、了源上人ですね。
ですから仏光寺派の了源上人からいいますと、その学系にあたる人、後の仏光寺系にあたる人なんです。その阿佐布の了海という人の、「他力信心聞書」の最後の所にですね、この宗派は、我々の派は、一向宗といい、また浄土真宗というんだ、というようなことをいうております。そういう言葉がございます。余り一般にはこの書物は知られておりません。これは仏光寺系に伝承されてくる書物なんですが、そういうのがあります。
けど実際に教団名として浄土真宗というのを公に使った方は蓮如上人でございましょうな。文明五年の九月、我々は一向宗と違うんだ、浄土真宗なんだということをいいます。
さらに延徳年間、あの長享の一揆が終わって一向宗と呼ぶな、浄土真宗と呼べというような言い方がされております。そういうことで教団名として浄土真宗が定着しますのは、あまり定着もしないけど、まあ一応蓮如上人の頃からでしょうな。
これがず~っと尾を引きまして江戸時代になりまして、宗名論争が、激しい宗名論争が余宗との間で繰り広げられまして、幕府困ってしまいましてな。もうそれ止めてくれというわけで、何日でしたかね。五万日だったかな棚上げにして。そのうち幕府潰れてしまった。(笑)。そんな事があるんですけども、とにかくそんな事件があるんです。
実は今では教団名として使っておりますけども、御開山がお使いになったときは教団名ではございません。教法の名前なんです。
親鸞聖人は浄土真宗というのはこれは、浄土真宗を開いた方は、法然聖人だと言い続けておられますね。皆さん、お正信偈拝読させて頂きましたら、一番最後が法然聖人の徳を讃える源空讃になりますね。あのとこにね、本師源空は、仏教にあきらかなり、善悪の凡夫人を憐愍し、真宗の教証を片州に興し、選択本願悪世に弘めしむ、と仰ってますでしょ。
あれ同じ事を和讃、法然聖人の和讃見ますとね、

智慧光のちからより
本師源空あらはれて
浄土真宗をひらきつつ
選択本願のべたまふ

と、こう仰ってます。つまり日本の国で浄土真宗を開いた方は法然聖人だというんですね。源空聖人、法然聖人というのは房号ですからね。正確に言うと源空、法然房源空というのがこの方のフルネームでございます。
この法然聖人が浄土真宗を開いた最初の方だ。つまり、浄土真宗という教義体系ですね。浄土真宗という教義体系を持つ宗教を日本で初めて開いた方は法然聖人である。
『教行証文類』でも一番最後の所に、「真宗興隆の大祖源空法師」、とこういうふうに仰っています。
浄土真宗を日本の国で興隆して下さった方は源空である、とこう仰っていますから、法然聖人が浄土真宗を開いた方だというふうに仰っているわけですね。
事実ですね、法然聖人のお弟子に中では浄土真宗という名前を使った方は他にいたはすです。文献的に確かめることが出来るのは親鸞聖人が一番早うございますけれども。
しかし、真宗という言葉を使った方は沢山います。成覚房幸西、あるいは隆寛律師、あるいは西山浄土宗の派祖証空上人、このあたりは真宗という言葉は盛んに使っていらっしゃいます。法然聖人の浄土宗のことを真宗と呼んでいるんです。
法然聖人の言われた浄土宗とは真宗である。真実の仏法であるということです。そういう意味で真宗、真宗ということはよく使っていらっしゃるんです。
何も真宗と言うことは親鸞聖人の専売特許じゃない。ただし、浄土真宗というこの四字熟語はですね。歴史的には文献的にはこの親鸞聖人のものが一番早い。
五十二歳としますと、五十二歳の頃にはもうその構想はまとまっていたはずですから、その構想の元で書いていかれるわけですから。そうしますと文献的には一番早い。
けれども、真宗という言葉はず~っと前から使ってある。
今言いました隆寛律師、隆寛律師というのは親鸞聖人より二十五歳年上なんです。二十五年上ということになりますと、先輩なんてものじゃないですよ、こりゃあもう先生でしょうね。
比叡山きっての学僧であってね。親鸞聖人はそのグループにいらしたんでしょうね。
あの法然聖人のお弟子というのは色んなグループがあるんです。その色んなグループがございましてね。その一つのグループに叡山出身の秀才ですね。叡山のエリート学僧が何らかのかたちで挫折いたしまして、その挫折感を通して法然聖人の弟子になる。
そして法然聖人の門下でですね、一つのエリート集団を作っていく訳なんですよ。こういう集団があるんですね。それが今言いました、隆寛律師、あるいは成覚房幸西あるいは親鸞聖人というような方なんです。先程申しました安居院の聖覚法院などもそうですね。
その特徴はね。大体奥さん持っているということですね。そりゃちょっと話が横へ飛びますけれども。
そういうことでそのようなグループがある。そりゃあねぇ、どんな天才だって一人では何も出来ません。やはりグループ思考なんですね。一つのグループがあってそのグループの中でだ~っと研鑽をする訳なんです。その中からずば抜けたのがズバッと出てくるわけなんですね。あんなん一人だけで考えて出来るちゅうなんではないんですよ。
そこで浄土真宗という言葉ですけどね。これは西山派の人たちはよく使っていたようでありまして、証空上人の弟子の円空(立信)というかたがいらっしゃいます。この(立信)という方は深草流というものを大成する方なんです。この深草流を開いた円空(立信)という方のお寺は真宗院(誓願寺)といいます。深草の真宗院というんですね。
この弟子に顕意上人というか方が出まして、この顕意上人が深草流というものを大成していくんですね。この顕意の書かれた書物、たとえば「揩定記」というのございますが、ここには浄土真宗という言葉でもって法然聖人の教えを著わしております。
あるいは、おそらくこの顕意の書物だと思うんですが、山叢林、「竹林鈔」と一般に呼ばれている書物がございます。
「テープ切れ」
これは法然聖人の直弟子ではないんです。法然聖人の一番弟子であった信空上人、う~ん一番弟子と言っていいでしょうね。この信空上人というのは法然聖人がまだ二十五歳ぐいの間に、弟弟子として叡空、黒谷別所の叡空の弟子になってきた人なんです。この人が兄弟子であった法然聖人に非常に私淑いたしまして、そして法然聖人が山を下る時も一緒に下った。そして法然聖人の弟子としてず~っと、最晩年まで法然聖人が亡くなるまでお仕えをした方。それが信空上人。この信空上人の弟子にですね、信瑞という人がいる。この人は信空上人の弟子でもあり隆寛律師の弟子でもあるわけです。
この信瑞がですね、「明義進行集」という書物を書いている。この「明義進行集」三巻あるんですがね。上巻がないんです。いま中巻と下巻しか残っていないんです。上巻が出てきたら、これ法然聖人や色んな事が出て来ますんで、これが出てきますと法然聖人の身辺が非常に明らかになる筈なんですがね。どっかにないかなぁと思うんですけども。
まだ何が出てくるかも分かりませんからねぇ。これが出てくると素晴らしいんですがね。あっそらいらんこっちゃ(笑)
とにかく、この信瑞上人の書かれた「明義進行集」、ここにはやはり法然聖人の教えを特徴付けまして、法然聖人の教え浄土真宗は、無観称名。観念をしない、ただ称名一つで助かるとこれを教えてくださった、無観の称名であると。これが浄土真宗の特徴であるとこういうふうに書いています。つまり浄土真宗とは法然聖人の浄土宗の事なんですね。
この法然聖人の直弟子の中のあるグループ、おそらくこれは文献では確かめられませんが先程申しました成覚房幸西という方ね。残っているのは「玄義分鈔」という書物一冊だけしか残っていない、一巻だけしか残っていない。あと全部散逸してしまった。しかし随分沢山書いている人なんです。この人の中には(浄土真宗という言葉が)おそらくあっただろうと思います。そういう事が考えられる人です。
まっ、とにかく法然聖人の教えを浄土真宗と名付けるというのは直弟子、孫弟子あたりになりますとこれはもうポピュラーになります。
もう孫弟子あたりは一般的に浄土真宗という言葉を使っている訳なんですね。だから親鸞聖人の専売特許じゃないと。けれども、親鸞聖人ほど、深い意味をこめて浄土真宗を使った人は他にありません。つまり浄土真宗というものをこれから言います、往相・還相の二種の回向、そして教行信証という、こういう体系を持ってですね、浄土真宗というものを顕わそうとした人は、他にはありません。だからどうしてもこれから言いますけれども、浄土真宗の御開山はやはり御開山になってもらわないと、親鸞聖人になってもらわないと困るというところもあるんです。困るちゅうと悪いんだけど。
ということは法然聖人は浄土宗という言葉で表わす。浄土宗という言葉でもって阿弥陀さまの本願の救いを表わしていく。いわゆる選択本願念仏。浄土宗という言葉でもって選択本願念仏を表わしていく。つまり選択本願念仏、これを浄土宗と名付けるというのが法然聖人の教えなんです。
浄土宗というのは往生浄土宗ということでしてね。浄土へ往生することを目指し、浄土に往生する事を中心としているみ教え。これを浄土宗、往生浄土宗、略して浄土宗と呼ぶわけです。その浄土へ往生する道。それが選択本願念仏であるということでね。浄土宗の内容は、選択本願念仏だと、こう言われたんですね。
だから浄土宗というのは、選択本願念仏というのが法然聖人の教えだったわけです。
ですから法然聖人の中には浄土真宗という言葉は一カ所もありません。もしあったらその書物は偽作です。偽作ですちゅうたら何ですがね。あることはあるんですが偽作の書物ですね。
法然聖人の書物といわれる中にはずいぶん偽作が多いんです。ですからこれは文献をきちっと、そのいわゆる原典批判をしないと、危ないですね。法然聖人という方はほとんど書かない人なんです。先程申しましたように、御開山はすごく筆まめな方でございましてね。よく沢山お書き下さる方でございますが。法然聖人というのは筆無精でございましてね、お書きにならない。法然聖人の主著は「選択本願念仏集」なんですが、あの「選択本願念仏集」もご自分で書いたものじゃない。弟子に書かしている。ご自分は仰って口述筆記ですね.。三人の助手を使いまして、そして口述筆記をして、顕わしたのが「選択本願念仏集」なんです。
その一番最初の、「選択本願念仏集、南無阿弥陀仏 往生之業念仏為先(本)」、これだけの文章が法然聖人の直筆なんです。あとは弟子達の字なんですね。これが原本といいますか、現在残っている廬山寺本もそうなんです。これはもう原本です。添削をいたしまして所々添削をし、切っておりますから原本ですね、草稿本といわれるものです。それでも法然聖人の直筆じゃない。
法然聖人の直筆のものというのは非常に少ない。お手紙の中に僅かに残っているだけなんですね。最近まではわかりませんでしたけれども、昭和三〇年代の初めに奈良の興善寺という浄土宗のお寺があって、そこの阿弥陀さまの修理をいたしますと胎内文書が出てきまして、正行房という方がそこのお寺を建てた人だったんですね。
その正行房に宛てて法然聖人から手紙が来てる。その手紙が出てきたわけですね。それはどうしてこれが残ったかと言いますと、寄付してくれた人の名前をず~っと連名で書いているわけです。その寄付してくれた人の名前を書く紙が、その当時、紙はなかなかないですからね、手紙の裏紙使うているわけです。
法然聖人から頂いた手紙、それから証空上人から頂いた手紙のその裏紙を使って、裏に名前を書いているんですね。そしてその名前を書いたのを(阿弥陀如来像の)胎内に納めているわけです。たまたまその手紙が法然聖人の手紙を使うていたわけですね。法然聖人の手紙やから胎内に入れたんと違うんです(笑)。寄付した人の名前を書くために胎内に入れた、それが法然聖人の手紙の裏を使っていたんですね。
それで法然聖人の筆跡がはっきり判るようになったんです。それとこれとですね、今まで法然聖人のお手紙だ、といわれていたけれども証明できなかったのが、嵯峨の清凉寺ですね釈迦堂。あそこへ伝わっていた熊谷次郎直実宛ての手紙なんです。これは法然聖人の御真筆だと言われていたんだが、これを証明するものがなかった。ところがこれと合わせると筆跡がぴたっと一致するんですね。これで直筆だということが証明された。これで法然聖人の直筆の手紙が二通はっきりと確認された。
すると法然聖人の文章のスタイルが判りますね。文章の書き方その時の文章のスタイルが判ってきます。その文章のスタイルに合わせて、法然聖人のお手紙類を全部読み返してみますとね、あ、これは法然聖人が元のは直筆で書いておられたはずだ、これはお弟子に書かされたもんだ、あるいはこれはただの代筆だというようなことが判るようになってくるわけですね。そんな事はどうでもいいことなんだけども・・・。
そういうわけでこのごろは法然聖人の直筆の手紙というものも出てきているし、そしていくつか直筆であった筈の手紙も残っております。弟子に書かされた手紙もありますけどもね。相当それは多いです。ですから法然聖人の名前であるといったって必ずしも法然聖人が自分で書かれたものではない。
しかし、そういうようなものがありますから法然聖人の文献をきちっと調べますと、本物と偽物というのも出てきます。信疑未詳というのも多いですけど、あきらかな偽物というのも出てくる。浄土真宗という言葉が出てくるようなものは明らかな偽物です。
ですから、浄土宗という言葉しか法然聖人は使っていらっしゃらない、これは言い切れます。
ところが親鸞聖人は浄土真宗は法然聖人が開かれたんだと、法然聖人が浄土真宗を開いたんだと仰っていますから、そうしますとこりゃあ嘘じゃないでしょうね、直弟子なんですから、直弟子の親鸞聖人がそう仰っているんだから嘘じゃない。
けど、法然聖人が浄土真宗という言葉を使ったわけがない。じゃ一体どうなるかというと法然聖人の言われた浄土宗の真実義はこれなんだ、ということで浄土真宗という言葉を使ったということですね。つまり浄土真宗は法然聖人の浄土宗の真実のおいわれを明かすという、こういうことでございます。真という字を付け加えて真実義を顕わす。ですから浄土真宗と浄土宗は本質的に同じものでございます。
あのね、今ね、浄土宗というと鎮西浄土宗を考えるんですね、知恩院さんであるとか、あるいは芝の増上寺であるとかいうのをご本山とした鎮西浄土宗を、浄土宗と考えておられますがそんなことを考えたら西山派のお方から叱られますよ。西山浄土宗はあれは鎮西派とは全く別の思想体系を持っている教えですからね。鎮西派は浄土宗、浄土宗と言いますがあれは鎮西浄土宗または浄土宗鎮西派、西山浄土宗あるいは浄土宗西山派とですね。それと浄土真宗これが今残っています。
西山浄土宗から出た時宗も現在残っていますけどね。時宗というのも元々は時衆、これは話が何しますけど、時衆というのはこういう字を書くんです。(板書:時衆)これが後に十五世紀くらい、あの応仁の乱が起こる十五世紀くらい、あの頃に初めて時宗という名前が生まれてきますけれども、元々は時衆です、宗派の名前じゃございません。彼らは、その時宗といわれる。あぁあの時宗というのは、六時衆から出たんでしょうね。時宗の話をしていると日が暮れるさかいやめとこ(笑)。
元々宗派の名前じゃなかったんです、後にこれを宗派の名前にしました、時宗というのはね。十五世紀くらいです。真宗で言ったら蓮如上人が出られたあたりです、それまでは時衆です。時衆というのは元々宗派の名前でも何でもない、また教法の名前でもない。じゃこの時衆の教法の名前は何かというと浄土真宗なんです。彼らは浄土真宗と名乗っているんです。時宗の第三祖がですね、智得という方ですが、この智得の書かれた書物には、明らかに浄土真宗という名前で自分たちの立場を表現しています。だからわしらが時宗だというと、いやうちは浄土真宗ですときっと言いよりますよ向こうは、そういうことなんです。
だから浄土真宗という言葉は、そういうふうな言葉として使われておった。いずれも法然聖人の言われた、浄土宗の真実のおいわれを伝統しておる。そういう意味を表そうとしているんですね。
さ、そうしますと浄土真宗とは法然聖人が顕わされた浄土宗の真実義をいうんだ。こういう事が判ります。実は『教行証文類』は、それを展開していくわけなんです。『教行証文類』というのはね、これが法然聖人が言おうとされた浄土宗の本当の姿なんだ、ということを『教行証文類』として親鸞聖人は展開していくんです。
先ほど最初に言いましたように法然聖人の教えはですね、おそろしい弾圧を受け続けるわけですね。そしてその弾圧の中で圧殺されようとしている法然聖人の教えの正当性をはっきりと立証して、どんな弾圧にも耐えられるような思想構造として、思想的な構築物として確立していく、それが弟子に与えられた遺弟の責任だ、そういう思いで『教行証文類』は書かれているわけです。ですから『教行証文類』というのはただ平和な時代にね、書斎に籠もって書いたというようなもんじゃなくてね。弾圧の嵐の吹きすさぶ中で、その弾圧に耐えながらお念仏の道を守っている人達、そういう人達の心を支えながら、同時に法然聖人の教えこそ真実の仏法である、これこそ真の仏弟子の歩む道であるという事を顕彰していこうという、そういう想いを秘めながらお書きになっている書物なんですよね。
さて、じゃ親鸞聖人に浄土真宗、貴方の仰る浄土真宗って一体何でございますかと言えば、まず第一に法然聖人の仰った浄土宗の真実義を顕わすんだ、これがまず第一。
実際ね、法然聖人が言おうとされていた事を、一番的確にその神髄を的確に表している方は親鸞聖人だと言っていいですよ、これは。私はこれは身びいきで言ってるんじゃない、ちょっとくらいは身びいきもあるけどね。そのぉ、身びいきじゃなしにね、あのう客観的に見てもね、やはり親鸞聖人が法然聖人の教えの心髄を明確に顕わしている方だということは、判ります。
それはね、殊に法然聖人の晩年のお聖教、手紙であるとか御法語であるとかいうものを精密に調べていきますと、やはり法然聖人の心髄を伝承する、最晩年の法然聖人聖人の教えを伝承しているのは親鸞聖人だと、これはもう言い切っていいですわ。親鸞聖人が筆録編集されたと考えられるあの『西方指南鈔』、あるいは醍醐寺に伝わっておった醍醐本の「法然聖人伝記」。そういったものを参考にしながら法然聖人の晩年の思想動向というものを見ていきますと、親鸞聖人とそっくりなんですね。
今まで私たちは親鸞聖人が初めて言われたと、これは親鸞聖人が読み替えられたんだと言われていた文章も実は法然聖人が仰ってた、ということは醍醐本の法然聖人伝記なんか見ますとはっきり判ります。例えば悪人正機なんかもそうですね。善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや、とあれをね。善人なほ往生す、いわんや悪人をや(善人尚以往生、況悪人乎)ということを言葉で表わしたのは法然聖人。醍醐本の法然聖人伝記にちゃんと出ておりまして。だから覚如上人がですね、あの悪人正機というのは、黒谷源空聖人、そして大谷親鸞聖人そして、大網の如信上人を通して私は聞いた、とあの『口伝鈔』に書いていくのはね嘘じゃないんです、ほんまなんです。法然聖人はちゃんと言ってるんですね。だから悪人正機を親鸞聖人の専売特許のように言うけれども、やっぱり法然聖人がちゃんと言ってらっしゃるんですね、そういうとこがあるんですね。
とにかく浄土宗鎮西派っていいますけどね、あの鎮西浄土宗と言いますが、浄土宗というのは、ほんまは六派あったんです。関東に三派、京都に三派あった、その六派の中の一つなんですね。白旗流という一派、これだけが今残っているんです。これは一番最右翼、右翼ちゅうか左翼ちゅうんうかどこでいうんか知らんけど、真宗から一番離れているとこなんです。浄土真宗の立場から言ったら一番離れたところにある派が、白旗流でんねん。
浄土宗でもね、藤田流であるとかねそういうのんなると浄土真宗とそっくりなんですよ。あるいは浄花院流なんかんなりますと真宗に非常に近いですね。だから今残っている浄土宗ってのは、浄土宗の中で一番非真宗的なところにあるのが残ったんです。
現生正定聚説をいう浄土宗もあったんですよ。今の浄土宗と真反対ですな。今の浄土宗つまり白旗流では絶対言わない、現生正定聚説というのは絶対言わない。
だけど藤田流なんかでは言うてた、鎌倉時代の末期、あるいは南北朝時代には藤田流は厳然としてありましたからね、そこらではちゃんと言うていた。ですから浄土宗の中でも一番右翼ちゅうんか左翼ちゅうんか知りませんが、とにかく真宗から一番離れたところにいる一派だけが残ったんですな。
実は法然聖人の教えというものは実は大変な誤解を受けていたんですね。その誤解に善意の誤解もあれば、悪意の誤解もある。悪意の誤解というのは興福寺奏状とかあるいは延暦寺奏状とか、そういう形で法然聖人を徹底的に論難していく悪意の誤解もある。けどね、弟子の中には善意の誤解がある、判ったつもり(笑)。あのねえ困るんだなぁ、法然聖人の教えってのは分かりやすいですよ。分かりやすいというのは正確に伝わるとは限らない。こりゃあ困った事でしてな。非常に解りやすい、けれども非常に誤解しやすい、そういうとこがあるんですね。やはりこれはきちっとした論理体系を持って、思想構造をちゃんと確立しておかなければ、非常に危ないというところがありますね。御開山の『教行証文類』は、それを補完したわけですね。
さて、その浄土真宗、具体的にいったらどういう教えなんですか、といったら、それは大無量寿経の宗教だと。浄土真宗とは大経の宗教である、大無量寿経の宗教であるというのが親鸞聖人のこの『教行証文類』で顕わす表わし方なんです。
実をいうと法然聖人もそう言われている。法然聖人は浄土宗の拠り所は浄土三部経だと言った。浄土三部経だと言ったけれども三部経の中で中心は何処ですかともし聞いたならば、大経だと答えられるんです。それは法然聖人の逆修説法、漢文のお聖教として残っているのは「逆修説法」、親鸞聖人が編集されたものでは「法然聖人御説法の事」(西方指南鈔所収)というので残ってます。
「逆修説法」というのとね、「師秀説草」というのとね、それから因縁説草(無縁集?)というのとね、それから「法然聖人御説法事」というのとね四種類残ってるんです。それ全部に共通しているのは浄土三部経の中で一番中心になるのは、根本になるのは大無量寿経だと言われているんです。これはもう共通しております。
親鸞聖人の『西方指南鈔』の本と末とに収録された、「法然聖人御説法の事」というのはおそらく親鸞聖人が取捨してなさる。取捨というのは大事でないところは省略して、そして大事なとこだけを残していく。違う言葉をいれたわけじゃないんですよ。大事なとこだけを取捨して編集しなおしたものこれが『西方指南鈔』所収の法然聖人御説法の事です。

何故そのようなことをいうかと言いますと、これ法然聖人御説法の事というんですが、その聖人はこの字(聖)を書いてある。法然聖人を上人とは絶対書かない、これが親鸞聖人の特長なんです。こう(上人)書くのは浄土宗の伝統なんです。けれども浄土真宗及びその系統の人はね、法然聖人のことを、絶対この字(上人)を書かない、ひじりびとと書きます。
この聖人というのはね、普通のひじりびとじゃなくてね。和讃に、源空ひじりとしめしつつ、といわれたあの聖なんですね。ですからこれはね、如来さまの化現した方、阿弥陀さまの化身、あるいは勢至菩薩の化身として崇めていらっしゃる。そういう意味の聖です。この聖には色んな意味の聖があるんですけども、親鸞聖人が法然聖人を聖人(ひじりびと)と書かれたときの聖は、阿弥陀さまの権化のお方、勢至菩薩の化身としてのお方、こういう意味をこめて聖人と言われている。これは浄土真宗ではこれ(聖)以外使わない。ですからね、法然聖人の伝記は二十種類くらいありますがね、この字(聖)を使って源空聖人あるいは法然聖人と書いてあったら、これは真宗系のものだと分かります。それくらい厳格なんです。江戸時代になりまして浄土宗と一緒になりまして上人と書きます。
それで親鸞聖人のことをこっちの聖人と書きます。親鸞聖人はね真宗では揺れているんです。覚如上人なんかは親鸞聖人のことを聖人と書いたり上人と書いたりします。御伝鈔なんかを見ましても親鸞聖人をこっち(上人)書いたりこっち(聖人)書いたりして揺れているんですよ。こっち(聖人)書くときは親鸞聖人を阿弥陀如来の化身として思いを込めて書いているんですね。
真宗では後に親鸞聖人はこれ(聖人)に限定してしまいます。だけど法然聖人は揺れないです、法然聖人を聖人と書くのはず~っと室町期までこれ(聖人)以外は書かない。後になりまして江戸時代になりまして法然上人とこちらを書くようになりますけどね。私は法然聖人はこっち(聖人)書いてますねん、ちょっとへそ曲がりやけどね。昔の祖師方の、御開山やら蓮如上人やら覚如上人やら、そして存覚上人のお書きになった書き方で書こうということで私は源空聖人、法然聖人と書くときにはこっち(聖人)書くことに決めてまんねん。ちょっと目障りかも知れませんが、ちょっと堪忍してください。

その法然聖人は三部経の中では、大経を持って根本とする。何故ならば本願が説かれているからだ。本願が全ての根本である。したがって大無量寿経をもって根本経とする。それ以外の観経・阿弥陀経、またそれ以外の阿弥陀仏が説かれている経は全部枝末である、枝末の経である。大経が根本経と法然聖人は断定されているんですね。
で、それを受けているんです、親鸞聖人はね、真宗は大無量寿経の宗教だと確立していくんですね。これが『教行証文類』です。だから浄土真宗の拠り所としての経典は浄土三部経であるというのは間違いではありません。間違いじゃないけれども必ずしも正確じゃない。正確に言いますと浄土真宗の拠り所とするのは大無量寿経です。観経と阿弥陀経を拠り所とするのは、その観経と阿弥陀経の中に大経が説かれているときです。
それを隠彰、隠れた形で真実が説かれている、表の形では方便の法が説かれている。観経と阿弥陀経には表には方便の教が説かれている。しかし真実が真実としてその全相を表わしてあるのは大無量寿経である、と、この『教行証文類』は表していくわけです。
それで、「それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり」と、こう宣言していかれます。これからまあ出てくるんですがね。

ちょっと長くなりましたな。ここで一寸休憩しましょうか。それでは十分ほど休憩します。なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・(和上退出)


第一日目-3

浄土真宗という言葉で、まず親鸞聖人は、それは法然聖人の教えの真髄を顕わすんだと、法然聖人の教えの真髄を浄土真宗と名付けるんだと、こういうふうに仰っているんですね。じゃその浄土真宗とは具体的にはどういうことですか、というとまずそれは大無量寿経の教えであるということです。
じゃその大無量寿経の宗-教。ここで宗教という言葉を使いましたが、単に外国語のレリジョン(religion)の翻訳としてでの宗教じゃなくて、仏教で言っている宗教なんです。
宗としている教え、という意味です。宗というのは中心、一番肝要な教えということですね。大無量寿経の肝要、大無量寿経の宗/致であるような、大無量寿経の宗であるような教え、それを浄土真宗というんだ、という意味なんです。
明治からこちら、仏教の用語を外国語の訳語として使うことがありますので、元々の意味が逆に忘れられていますんでね。それで一寸困るんですが、やはり言葉を使う場合には一つ一つ定義して使わないと、誤解を受けますんで、宗であるような教えという意味です。宗教というのはね。
だから大無量寿経の宗であるような教え、宗というのは宗要、一番肝要なところ、要(かなめ)ということです。じゃ大無量寿経の要であるような教えって一体何か、それは阿弥陀さまの本願だ。親鸞聖人はこの『教行証文類』で、「如来の本願を説きて経の宗致とす」と仰っておられます。経の宗致、大無量寿経の宗致。それは阿弥陀さまの本願だということで言われていますんで、ここで本願というのは第十八願のことです。広く言えば四十八願ですけども、その四十八願の中心を言えば第十八願である。つまり浄土真宗とは第十八願の法義であるということです。これを浄土真宗という、こういうことなんですね。
これは親鸞聖人ね、御消息の中に、お手紙で言われております。現在年代が確かめられるものとしては一番早い時期に書かれたお手紙ですね。七十九歳の時のお手紙でございますが、そのお手紙の中で「選択本願は浄土真宗なり」(p737)こういうふうに仰っています。
「浄土宗のなかに真あり、仮あり」、浄土真宗の中に真と化とがある。化というのは定散二善、自力の法義のことだ。真というは選択本願である。そして選択本願は浄土真宗なり、定散二善は方便仮門なりというように仰っていまして、選択本願は浄土真宗なりとこう仰っています。
ですからあの「正信偈」にですね、真宗の教証を片州に興し、選択本願を悪世に弘めしむと言われたのがそれなんです。浄土真宗というのは何か、真宗の教彰?は何かといえば、それは選択本願だと仰るんですね。「浄土真宗をひらきつつ、選択本願のべたまふ」(595)と和讃に仰ったのもそうですね。浄土真宗とは選択本願の法義のことをいうんだ。
ですから浄土真宗とは第十八願、つまり選択本願のご法義のことをいうんです。選択本願というのはね、これはまた後に詳しいことを言いますけども、選択というのは選び取り、選び捨てるということですね。一切の自力の行を選び捨てて、他力のお念仏一つを選び取って、お願いだからお念仏して我が国に帰ってくれよ、私の国に生まれて来てくれよと如来さまが願っていてくださる。これを選択本願と、こういうんですね。これが浄土真宗というものだ、と、こういうことです。
したがって浄土真宗とは第十八願の法義のことをいう。その第十八願のご法義とは何か、如来さまが一切の自力の行を選び捨て、他力のお念仏一つを選び取って、これを成仏の法として、仏になる法として選び定めて下さったのが選択本願です。
そうすると選択本願とは何かと言いますと第十八願の法義ですが、第十八願の法義を一言で言ったら何になるんですかと御開山に聞いたら、「念仏成仏これ真宗」(569)とこう仰る。念仏成仏の法門、これを浄土真宗と言うんだ。
和讃の中にね、先ほど言った浄土真宗がそこに表わされてる大無量寿経を和讃として、詳しく説かれたのが大経和讃、その大経和讃の終わりから二首目のとこです。終わりから二首目のとこに、念仏成仏これ真宗と書いてありますね。

念仏成仏これ真宗 
 万行諸善これ仮門 
 権実真仮をわかずして 
 自然の浄土をえぞしらぬ

あの和讃をみますと、念仏成仏これ真宗と言われております。これは実は法然聖人は念仏往生ということを仰ったんですね。第十八願は念仏往生の法門である法義を説かれていると法然聖人は仰った。念仏往生の願であると仰った。それを親鸞聖人はもう一歩踏み込んでね、念仏成仏の法義である、とこう仰るんです。これは浄土に往生するということは成仏することだ、仏になることだということを御開山は仰るんです。
これはまあ大変なことなんですね。これはまた後に時間があったら。時間があったらじゃない時間つくって言わにゃならんのだけれども(笑)。大体わたしは話があっちゃこっちゃ飛ぶもんすからね、余談が多いので申し訳ないんですが。
とにかく、仏を念じて仏になる。念仏成仏、これが真宗だと言われたんですね。この念仏成仏の法義を浄土真宗というんだと、こういうことです。その念仏成仏。本願を信じ念仏を申せば仏になるという教えなんですね。歎異抄の第十二条に、うまいこと要約してありますな。
「他力真実のむねをあかせるもろもろの正教は、本願を信じ念仏を申さば仏に成る、そのほかなにの学問かは往生の要なるべきや」。実にうまく仰っていますね。さすが歎異抄の著者唯円坊というのは、実に的確に親鸞聖人の教えというものを把握してらっしゃるなという事が分かりますが。
さ、その念仏。この念仏を開きますと、この念仏の「法」を顕わしますと、これは「行」ですね。南無阿弥陀仏というお念仏、これが法でございます。そのお念仏を往生成仏の道であると疑いなく受け容れる、それが「機」のすがたを表します。その機受を言いますと「信」になるわけです。
信とはこれから言いますが、疑いなく計らいなく受け容れることです。仏様の仰せを仰せの通りにすっと受け容れることですね。それを「信」とこう言うんです。
如来さまの仰せを、仰せの通り受け容れるというのは、これは大変なことです。これはまた言います。私たちは自分の考え、私たちは自分の考え自分を中心にしますから、おれが納得しなけりゃそんなもん受け入れるかい、とこう言いよります。そんなこと言うさかいあかんのやろな。(笑)
いや、自分の納得出来ないことは受け容れないというのは人間の常なんですがね。人間ちゅうのはそうはいきませんで。納得のいかん事でも受け入れにゃしゃあないとこまで追いつめられますがね。それをね、そんなしゃあさかい受け入れる、そうじゃなくてね。
仏様の仰せをまことと受け容れる。如来さまの仰ることに嘘はない。納得しないわしが悪いんじゃ、わからんのはわしがあほやからや、如来さまの仰ることがほんまや、と仰せをすっと素直に、受け容れると、その受け容れたみ教えが新しい世界を開いて下さるんですね。それが信心ということですが。
その仏様の念仏という法を、計らいなく受け容れ、本願を信じ念仏を申せば仏に成るというのは、そういう世界を現していますが、これを行/信と顕したんですね。
そして仏になる、これを証と顕わしますと、行・信・証というんですね。
それを教えてくれるのが真実の「教」である大無量寿経ですから、ここで教・行・信・証というものが成立していきますね。この法門、これを教えてくれるのが大経です。行・信・証の法義を顕わすのが真実の教、大無量寿経ですね。
ということで、実はここに現わされるのは念仏成仏の法義。すなわち第十八願の法義、これが法然聖人の教えの中核なんだ。それをこれから教・行・信・証という形で展開していくと、こういうわけなんですね。そこで「浄土真宗を案ずるに」と、こう言われたんです。
それを、この浄土真宗を二種の回向という形で、本願力の回向という形で位置付けていくわけです。教も行も信も証も、これは私が考えた道でもなければ、私が自らの力によって行じ、信じ、証っていく道ではなくて、阿弥陀さまがその本願の中で選び定めて、私に与えて下さった道である、ということでね。それは本願力回向の法である、というふうに表わしていくわけです。
つまり法然聖人が言われた念仏往生、つまり念仏成仏の道は、阿弥陀さまが大悲本願をこめて私に与えて下さった道である。これを頂戴してこの道に信順していくこと、これが私たちの歩むべき道である。それを法然聖人は教えて下さったんだ、というふうにこの『教行証文類』というのは顕すわけですね。
そこでね、この浄土真宗、内容から言いますと『教行証文類』という法義を表します。
それは阿弥陀さまの本願力回向の法門である。阿弥陀さまが大悲本願をこめて私に与えて下さった、そして阿弥陀さまの本願が私の上で躍動しているような教え。
それが、教・行・信・証という相(すがた)なんだ、もっと言替えたら阿弥陀さまは、教となり、行となり、信となり、証となって、私の上に顕現してくる、これが阿弥陀さまの救いの働きなんだ、ということを阿弥陀さまの方から証明してみせるわけですね。これが『教行証文類』という書物になるわけです。
ところでこの本願力回向とか、往相廻向・還相廻向というような、こういう言葉はね。
その発想の根元は、天親菩薩の「浄土論」と、それを註釈された曇鸞大師の「往生論註」に依っていらっしゃるわけです。
もっともその論・論註、「浄土論」とか「論註」で表されてるのと直接的には、言葉は同じですけども内容は違ってきますけども、本願力回向とか、往相廻向とか還相廻向という言葉はですね、曇鸞大師そして天親菩薩から頂戴された教えなんですね。
実は親鸞聖人が、いつ頃曇鸞大師のあるいは天親菩薩の教えに開眼されたのかよく分かりませんけどね。おそらく御流罪以後じゃないかと思うんですよ。
ただしね、法然聖人のお弟子であった頃にですね。先ほど言いました隆寛律師という方にお会いになります。この隆寛律師が実は論註、曇鸞大師の「往生論註」の研究家だったわけですね。
そして「往生論註」を通して善導大師の教えというものを、そして法然聖人の教えというものを、理解していこうという、そういう姿勢を持っておられた方なんです。
その影響があるんですね。その隆寛律師の思想傾向というものを親鸞聖人は受け継ぐわけですが、しかし論註の顕そうとしておる世界が、はっきり解ったのはいつ頃ですかね。案外、御流罪以後じゃないかと思うんですがね。
とにかく親鸞という名前を付けられるのはその時なんですよ。天親菩薩の親と曇鸞大師の鸞を採りましてね、そして自ら親鸞と名乗っていったのはね、あれは曇鸞大師を通して天親菩薩の心がそれが解った時です。
あれはよっぽど嬉しかったようですな。おそらく解ったぁ、というようなものですな。
それはね、どういうことが解ったかというとね、法然聖人の教えをすっぽりと包み込んでいけるようなね、そういう地平が開かれたんです。解ったぁ解ったぁ、これで解ったというようなとこがあったんでしょうな。
そういう時にね、あの人は名前変えるちゅう癖がありまんねん(笑)。面白い癖ありますねん、ありますねんと言うたら何ですけど、御開山は何か大きな精神的な転換をなさいますと、その時名前を変えるという、どうも癖がありまんな。おそらくね、新しい私が生まれた、新しい視野が開けた、その喜びをね、名前変えていくというそんな形で表わす方ですわ。
あの方はそういう物事のけり付ける人でんなぁ。しかしねぇこの娑婆ちゅうのはねぇ、あっ、こりゃあええですよ、教学的にはこれでよかったんですよ。
あの方はね、人生全体をけりつける人ですわ。ですからねぇ、ああいう人生にけり付けるという人はこの娑婆は生きにくかっただろうと思いますよ。娑婆ちゅうのは大概なし崩しに生きるとこでしてねぇ(笑)。それをぴしっぴしっとね、けじめ付けて生きていくというのは、それは随分差し障りがあっただろうと思いますよ。たとえば比叡山を離れて法然聖人の弟子になるでしょ。あの時、比叡山を捨てるですね。ご自身でね「雑行を捨て本願に帰す」とはっきり言いますな。
雑行を捨て本願に帰す、きちっとけじめたててる。あんな人あんまりいませんのよ。
法然聖人の弟子やったかて、そんなにおりゃあしません。先程言いました隆寛律師にしましてもね、比叡山きっての学僧ですけどね。法然聖人の教えを受けまして法然聖人のお弟子になるんですよ、そして法然聖人にほんとに心酔しましてね。法然聖人はそれを見抜いて、あの人に選択集の伝授を行なうわけです。
その法然聖人から選択集の伝授を受けた明くる年に、比叡山の根本中堂の安居の本講、講師をお勤めになりまして、その功績によりましてあの人は律師、権律師に昇格していらっしゃいますね。比叡山を捨ててはりゃしません。まぁ最後には御流罪になりますけどね、そういう事件が起きますけども、最後にはけじめ付ける人になってるわけですけども。
ほとんどは別に比叡山をやめて来ているわけじゃないんです。そんな人は少ないんです、法然聖人のお弟子でも。おそらく親鸞聖人のグループの中でも、そうですねぇ成覚房幸西と親鸞聖人ぐらいでしょうなぁ、けじめ付ける人は。だからあの人達はそうとう生きにくかったりして・・・.。
まっ、そういう事で親鸞と名乗りを挙げられますが、あれはね法然教学・善導教学というようなのをすっぽり包むような教学的な地平が開けた時です。それが嬉しかったんだろうね。それをずーっと追求していくことによって、この『教行証文類』というものは成立していくわけですね。そのことがこの本願力回向、そして往相廻向・還相廻向というところで出てくるんですが、それはまた昼からお話をしていきます。

それでは午前中は、これで終わらして頂きます。なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・(和上退出)


第二日目-1

往相の回向について真実の教行信証あり、と。称名・・。(讃題)

おはようございます。(おはようございます)
昨日からこのご法縁を頂きまして、『教行証文類』のご法義について少しお話をさして頂こうということです。

まず、一番最初のところに浄土真宗の法義の綱格を述べて、浄土真宗には往相回向/還相回向といわれる二種の回向があって、その往相の回向に教・行・信・証という法義が展開していく、そういう教えであるということを仰っているわけですね。
その往相廻向/還相廻向ということは、昨日申しましたように本願力回向の二つのすがた(相)でございまして、浄土文類聚鈔には「本願力の回向に二種の相あり。一つには往相、二つには還相」(478)と、こういうふうに仰っておりますから、そうしますと『教行証文類』では浄土真宗から二種の回向を展開されておりますが、浄土文類聚鈔は本願力から二種の回向を出していらっしゃる。

したがって浄土真宗という宗名(しゅうみょう)と、本願力回向という法義の名前と、法義を表わす場合と宗義を表わすとの違いはありますけれども、内容は一つだということでございます。
そこで浄土真宗という教えは、これは昨日申しましたように、浄土真宗というのは教団の名前じゃなくて、教義の名前、法義の名前でございます。浄土真宗といわれる教えは本願力回向という法義を軸として、展開していく教法であると、そういうふうにいわれてるわけですね。そこで、その本願力回向ということを、昨日は昼からのご法座のところで、本願力回向ということについて少しお話をいたしました。

この本願力回向という言葉でございますけれども、これは言葉としてはですね、「浄土論」、あるいは「論註」の中に言われている言葉なんです。また往相廻向/還相廻向という言葉も「論註」の中に出てくる言葉なんです。言葉はそこから採っていらっしゃるんですけども、その内容は違っているわけですね。
ですから『教行証文類』を拝読する時にはそのあたりのところをよく気を付けて拝読する必要があるわけでございます。
まず、本願力回向という言葉でございますけれども、これは五功徳門を明かす中の、第五園林遊戯地門(42)の釈の中に(153)、出てくる言葉でございます。けれども、この本願力回向によって園林遊戯地門といわれる功徳が成就すると、こういう事が言われているんですが、この場合の本願力とは阿弥陀さまの本願力ではございません。これは願生行者の本願力なんですね。[1]

「浄土論」というものを見ますとご存じのように、五念門行によって浄土願生の菩薩道というものが組織されているわけでございます。この五念門ですね、礼拝、讃歎、作願、観察、回向という五念門。五念門というのは念仏ですね、五つの念仏門ということです。念というのは念仏のことですね。
念仏行を中心にしてそれを五種類に分類したものなんです。この五念門行というのは浄土論によって初めて組織された行業体系なんですね。ちょっと他にはないんです。
天親菩薩が浄土願生の菩薩道としてね、いわゆる大乗の菩薩道というものを浄土願生の菩薩道として新しく組織されたもので、おそらくその背後には天親菩薩の学系であった瑜伽行派の行業体系というものが背後にあります。その瑜伽行派の行業体系を背景にしながら新しい菩薩道の体系を建てていった。浄土の菩薩道というものの体系を建てていった、これが五念門行といわれるものなんですね。

礼拝というのは身業でございます。身体で礼拝するんですから身業ですね。讃歎というのは口で仏徳を讃歎する事ですから口業でございます。それから作願・観察は意業でございますが、そのなかの作願、これが一応、意業といわれております。身業・口業・意業でございますね。それから観察というのは智慧をもって浄土を観察する、浄土の徳を観察するわけですね、そして浄土を知る。

浄土を観察するっていうのはね、観経のように浄土をイメージとして思い浮かべる事じゃないんですね。そういうことじゃなしに、いわゆる心象としてね、観経で説かれたような浄土の荘厳相というものを描き出していく、心で描き出していく一種の心象風景として描き出していく、そんなんじゃなくてね。浄土の一つひとつの荘厳をですね、正確に、確実に理解していくことです。
そして浄土を正確に理解をする、ということによって何が真実であるかということが解るようになります。真実とは何か、そして真実なる生き方とはどのようなものであるか。
そういうことが正確に解るようになる。これが観察なんです。したがってそこで智慧が生まれるんですね。浄土を観察するといっても具体的にはどうするのかといいますと、経典に説かれている浄土の教説ですね。あの浄土の教説というものを正確に理解していくことです。まず正確に理解することですね。

ご存じのように浄土の荘厳というのは全部象徴表現で示されていきます。これは形にない世界を形で現わすわけです。言葉を超えた世界を言葉で表します。言葉を超えた世界を表す言葉、それは普通の言葉ではありません。形を超えた世界を現わすかたちというものはこれは普通の形じゃありません。
こういう言葉を超えた世界を領解するための言葉、こういう言葉は一種の象徴表現でございます。普通の言葉とは質が違います。こんな事を話し出すとまた長くなるんですけども、仏陀の悟りの境地というものは、いわゆる生死を超え、自他を超え、愛憎を超え、是非を超えた、そういう、何ですね、生と死とか、あるいは善と悪とか、あるいは自と他とか、そういう分別、いわゆる分けて知る、もっと言替えればいわゆる概念的思考ですね。概念的思考というものを完全に超越した領域を無分別智。分別を離れた無分別、そういう知り方ですので、そういう智慧を無分別智と言います。

その無分別智というのはしたがって言葉で表現する事は出来ません。言葉というのは概念ですから。概念というのは具体的にあるものを抽象化するわけですね。人なら人という特徴をですね。猿でもない猫でもない植物でもないというようにその特徴を、個々の存在にある特徴を抽出してきまして、その特徴によって一つの名前を付けます。人と人間とか、あるいは男とか女とかいうように名前を付けていきます。
実際には人などというのは何処にもおりません。いるのは私という個人しかいないわけですけども、個体しかないわけですけども、それをひとからげにして理解していく為に、それぞれの特徴を抽出してきまして、そして共通の特徴を持っておるものに一つの名前を付けます。
その名前を付けまして、これは人、これは猿、これは犬、あるいは猫、というふうに名前を付けますと、これは非常にものを考えていくときに実に便利なんですね。
そういうことが出来るようになったのが人間、そういうことをやる奴が、いや奴じゃない、やるお方を人間とこう呼ぶわけなんです。とにかく実にうまく考えたものでございます。
そういう概念的思考というものをやるようになりますね。そしてその概念を使って判断をいたします。何かそこにありますけどそれが何であるか判らない。これはとにかく植物だ、というわけで植物の中へ入れてしまいます。その植物の中でこれ何だろうかな。これはバラ科に共通した特徴を持っている。するとこれはバラ科に入る。しかもこれはバラ科の中のバラである。そのバラ科の中で赤いバラもあれば白いバラもあるし黄色いバラもある。大輪のバラもあれば小さいバラもありますけども、とにかくバラ科のなかのバラという中に分類しますね。それでこれはバラであると判断しますと、これで分かった。分かったというのは分類完了ですね。

つまり我々の持っている既成の知識の体系の中にきちんと納めることが出来るわけですね。こういうふうにして物事をどんどん理解していく、また新しいものが出てきますと、それを既成の知識の体系の中で位置づけることによって、そのものをまた理解していく。
このように知識をどんどんと増やしていくわけですが、全部概念的思考によって行なっていくわけですね。私たちはそういうようにものを考えていくようになっております。
ところがですね、これは概念的思考というのは具体的なものを抽象したわけですからね、具体的なものは表わせません。本当は具体的なものっていうのは、なかなか表せないわけなんですね。もののあるがままのありようというものは、とても言葉では表現し尽くす事が出来ません。ことに生と死、生死という問題、あるいは私たちは自とか他というように、言葉を作りまして、生と死、あるいは自と他とかいう言葉を使って判断をしていきますね。自と他というんだけどその他の中に二種類ありましてね。自というのは自分、この自というのはそれを言うている人のことを自というんですね。(銘記しておくこと)
つまり私なら私を自というんです。そして私でないものを他と言います。その私でないものを他と言うんですが、その他の中に二種類ありまして、私の話し相手になっている人とここにはいない人とがあります。

私の話し相手になっている人は他なんですけど、その他をあなた方とこう言う。あなたもしくはあなた方と言います。あるいは汝、汝等とこう言います。それから此処にいない人のことは、彼もしくは彼らといいます。そこで我と汝と彼、わたしとあなた方と彼らと分類いたします。で、分類いたしまして此処にいない人は全部十把ひとからげにして彼らとこう言ってしまいます。
ここにいらっしゃる方々は、あなた方と言って一つに包んでしまいます。本当は失礼な話なんですね。あなた方という人は一人もいないんで、一人ひとり「私」という方ばっかりがいらっしゃるわけなんですね、
私があなた方と言った時にはね、もうこれは実はこれは私が再構成した領域なんです。まことに申し訳ございません。あなた方一人ひとりの特徴は全部捨象してしまいます。全部捨象してしまいまして、あなた方という実に一般的な言葉で表しているわけです。

みんな一人ひとりが違った人生を持ち、それぞれが違った環境の中で、その人しか生きられない生き方で、一瞬一瞬を生きていらっしゃるあなた方ですが、そんなものは全部捨象してしまいまして、私の前にいらっしゃる方々をみんなあなた方とこう申します。

私の前にいる方々をあなた方と言いますが、実はこれは私が再構成したものです。前にいる方は大きく見えます。ず~っと後ろにいらっしゃる方は小さく見えます。そちらの方が小さいんじゃないんですよ、私から遠く離れているから小さく見えるだけなんですね。
あの電車の線路見ていたら分かりますな。あれは向こうへ行くほど線路が狭くなっているでしょ。あれほんまに狭もなってたら電車みんなひっくり返りまっせ。だけど電車もまあ小そうなります、だからまあ機嫌よういっております(笑)。

しかし、あれは小さくなっているんではないんですね。私の視野が広がったから、私の視野の広がりに反比例して、小さくなっているだけなんです。ということは、広い視野の中へ入れていくためには小さくならにゃ入らんでしょ。それで私はあなた方を小さくして私の視野の中へ入れてしまっておりますんで、まことの申し訳ないんですけども、あなた方がどんなお方であるかほんまは知らない。私に見えているだけのあなた方を知っているだけなんです。
つまりあなた方は私の表象として存在しているだけであって、あなた方のほんとのすがたを私は知らない。おそらくあなた方も私を知らないだろうと思います。

とにかく、私を中心にして、あなた方/彼らと分類しましたね。
しかしそれを分類したのは誰かと言いますと、私なんですね。私を中心にして分類するわけなんです。それで私を自己、私とこう言うんです。そうじゃない方を他者とこういうわけなんですが、道元禅師などは他人、他者などと言うことはまことに申し訳ないことだというわけで、私からいったら他なんだが、一人ひとり私という方ばかりなんだから他己と言うべきだ。自己に対して他己と言うべきなんだ、とあの人はいいますけれども、そういやそうだろな。しかし申し訳ないんですがあなた方とこう申しておきます。

で、私は。今私と言いましたがこの私というものは今此処に居るのを私とこう言うんですが、ここというのは私が、今居るところ、を此処というんですね。私が居るところを此処と言うんです。私の居ないところはそこなんです。だからここと言ったときには此処なんですね。此処ちゅたら此処ですよ、前おったところはあそこ。つまり此処というのは私の居る所、任意の一点、何処でもいいんです、私のいるところが此処なんです。
ここを中心にして私は自分の世界を描き出します。近い方遠い方、左の方右の方というように描き出していきます。つまり私が描き出す世界ですね。座標軸の原点は、私、此処でございます。時間から言いましても私のいる時を、今と言います。私のいなくなった時を過去と言い、未だいない時を未来と言います。
ですから時間というものは、いつでも私の居るところを中心として、時間軸と空間軸いずれも私を中心として座標軸を創っていってそこから位置づけていきますね。

それを単純じゃなくて、これを非常に複雑に位置づけていきます。そのときに具体的には私を中心にして、私に都合のいい人と、私に都合の悪い人と、こう分けます。もっと言替えますと私の役に立つ人と、私の役に立たない人とに分けます。で、役に立つ人は大事な人、役に立たない人の中には二種類ありまして、邪魔になる奴と、どうでもいい人がありまして、その邪魔になるのはなるべくはよ死んで欲しい人(笑)。それからどうでもいい人はどうでもいいんですから、生きようと死のうと知った事じゃないという事。
そこで、いい人と、悪い人と、どうでもいい人と、こう分けまして、愛する人、憎む人、そしてどうでもいい人と、愛と憎しみ、そして冷淡というものをそこで描き出していきます。敵と味方、そしてその他大勢とこういうふうに分類していきます。そして私の世界を私は構築しているわけなんですね。

これを迷いといいますねん。

そうしますとここに私たちは自己を中心として描き出す世界というものが出てきますね。これを仏教では唯識所変(ゆいしき-しょへん)と言うんです。時間だって空間だって、そしてその時間軸と空間軸の中に無数のものを描き出して、そして今言ったように自己中心的に分類して、そして自己の態度というものをそこで決めていく。そういうすがた(相)、まさに唯識所変という、そういう世界を描き出しているわけなんですね。こういうふうに自とか他というふうに分類をしています、生と死というふうに分類しています。

あの、生と死というのもそうですね。生と死というものを私たちは定立しています。よお判らんままで定立しています。生が何であるか、そんなもん誰も知っていない。生きているってどういうこっちゃ説明してみろと言われても、そんなん説明できる訳がないですね。
これ、生きているという現象、生きているという現象だけでも正確に説明できたらノーベル賞10ほど取れるでしょうよ(笑)。ですからそんなん解りゃあしませんよね。

ま、しかし一応、生まれて、生きて、そして死ぬと、我々は一応考えて生きているわけです。そういうふうに考えているわけですね。だいたいそうです。これは昨日お昼にもお話ししたんですけども、生と死というのは、私達の存在理解の枠組みなんですね。自己あるいは他者の存在を理解するときに、生きている人か、死んでいる人か、生きてるか死んでるか、いつ生まれたか、いつ死んだか、これでそれぞれの存在を理解していく存在理解の枠組みになっているんですね。
ですからこれ、私達はそう考えてんだけど、ほんと言うたら、生が何であるか死が何であるか解りません。第一生まれてきたっていっても、生まれてきた経験を持っているって人はあまりいないんだろうね。あのなぁ生まれてきたとき産湯、あのお湯ちょっと熱すぎたでぇなんて、そんな事を覚えている人はありませんしね。あの時の盥(たらい)大きかったなぁ、なんてそんなこと覚えている人は誰もあらへん(笑)。
それと自分が生まれてきたという意識はまずないですね。もちろん記憶にもありません。そういうことでしょうね。

死ぬということもそうでしょうね。死ぬということは何であるか私達は絶対解らない。少なくともあの死を内面的に理解することは出来ませんね。いやみんな死んでるじゃないですか、とこう言うけど、あれは死の影を見ているだけで、死そのものを知っていない。
人の死というのは死の影ですよ。たとえばね一回もお砂糖を嘗めた事のない人に対して、お砂糖の説明できますか。砂糖って甘いんですよ。甘いってどういうことですか。甘いと言ったって砂糖嘗めたことのない人に対して、甘いってこれ絶対説明出来ないと思いますよ。
塩は辛いんですよったってね。辛いと言っても、どんな辛さであるか、唐辛子の辛さもあれば塩の辛さもある、ソースの辛さもあればカレーの辛さもあるし、色んな辛さがあるんでね、辛さったって。あの塩の辛さってそんなもん説明できるわけないでしょう。

そうするとあの塩というものを内面的に理解しようと思ったら嘗めてみるしかない。砂糖の甘さを経験しようと思ったら嘗めてみるしかないですね。それでしか内面的にその事柄を経験するということは体験するしかないでしょうね。
ところが死ぬということは、その体験する主体が無くなったことが死なんですね。体験できないじゃないですか。経験できないじゃないですか。経験できないことに対して述語することはできない筈なんですね。

ですから死ぬという動詞を、私以外を主語にした場合はソクラテスは死んだ、誰それは今死んでいる、クリントンはそのうちに死ぬであろう(笑)ということは言えますね。
私以外の人を主語とした場合には、過去形も現在形も未来形も取れますよ。ところが私を主語とした場合は死という動詞は、過去形と現在形をとることは出来ませんわな。
私は昨日死にました、嘘つけお前生きてるやないかということになりますな。私は今死んでいますねん、死んでる者がもの言うか、ということになりますから、そうしますと、私を主語としたときに死という動詞は、未来形でしか語ることは出来ないでしょう。ということは死というものを、我々は経験内容として捉えることは絶対出来ないということです。したがって内面的に死を理解することは出来ないということですね。そうすると死というものは理解できない。理解出来ないことを解ったつもりで言葉で言うているわけです。話がえらいややこしいことを言いますけども(笑)。

そういうことですから、生きてるってどんな事ですかぁと言ったら、これ言葉として成立するときに、生きてるってどういう事ですかちゅうたら、定義のしようがないから、まだ死んでないことですと言って反対の概念、つまり生の反対概念として、死を定立しますから、その反対概念取ってきて、生きているということはまだ死んでないことですと、こう言うんですね。ほいじゃまだ死んでないこっちゃという死ぬって何ですかと言うと、もう生きてないこっちゃ、と反対概念持ってきて説明する訳です。
ところが生きているということの意味も解らんし、死ぬことの意味も解らんとって、解らん言葉で解らん言葉を定義して解るわけがないでしょうが。
ところがその解らん言葉で解らん言葉に定義して解ったつもり、それで生きているわけですね。これが、私達の実にあやふやな、ものの考え方というのはそういう事でしょうね。その解らんままの言葉を反対概念として使っている。生きているという事は死んでないという事だと、死ぬということはもう生きてない事だ、とこう反対にしますから、これはあらゆる事柄に対して、生と死は反対になりますね。

そうすると生きている事がいいことだと言う者にとっては、死はいけないことだとこういうわけですね。生きている事に価値があるという者にとっては死ぬという事は価値のない事だということになります。生きている事がうれしい人にとっては、死ぬことは惨めだという事になります。
それで終いかちゅうと、これ反対にするのもおります。生きていることが辛くて辛くてしょうがない者は、はよ死にたいと思うようになります。死を期待するようになります。自殺願望というものですね。そうすると生を肯定して死を否定するか、逆に生を否定して死を肯定するか、どちらかに揺れながら生きているということですね。ようするにこれは歪(いびつ)な、ものの考え方ですね。(有愛・非有愛)
これは、その元として生と死を反対概念として定立した、そこから間違いが出てきているんでしょうね。
私という存在を、そして全てのものを、その存在理解をするときに、その存在理解に錯ちがあれば、その存在理解は根底から間違ってしまうんだということでしょう。

そこでお釈迦さまは、生と死を一望の下に見通すような精神の領域を開いて、そして生きることも死ぬことも同じような意味、同じように尊いこととして意味付けができるような、そういう精神の領域はないもんだろうかとお考えになったんですね。
これは普通の人間には考えられないことです。その生と死を一望の下に見通すような精神の領域を開いて、生きることも素晴らしいことだ、死ぬことも素晴らしいことだと、こういう境地を開こうとされた、それがお釈迦さまなんでしょうね。
自と他と私達は二つに分けるけれども、実は自と他というものは一つであるような所に、本当の有り様というものがあるんだ、という、そういうようなことを見極めていったお方が仏陀なんでしょうね。
実は私達は自と他と分けました。私を私を定立するとは、私は私でないものではないと。だから私は私であると、いうふうに考えていきますね。私は私でないものではない、だから私は私であると自覚しますね。自覚するとはそういうふうに自覚します。
つまり私が私としての自覚を持つためには、私以外のものを否定的に媒介しないと私というものは成立しません。しかし私を成立する、私を成立させる、私の成立基盤を否定しなければ私は成立しないとなると、私が私であるということは、私は私の成立基盤を切り捨てているということですね。立たないのは当たり前じゃないですか。

私は私であるというこの自覚というのは、すごく孤独な自覚であるんでしょうね。そういう形でアイデンティティというものを確立していこうとするんですけれども、そのアイデンティティの確立の仕方に間違いがあるんじゃないんでしょうかね。

お釈迦さまは、そういう自と他というものをね、互いに否定しあう関係としてではなく、他において自を見、自において他を見る。一切衆生の上に自己を見、自己の中に一切衆生を見る。自と他とが一つに溶け合っていくような精神の領域、そういうものを開いたのがお釈迦さまなんですね。そして生と死を一望の下に見通して、私が考えているような生も、私が考えているような死も実在しない、と言い切っていった。そして、生きることも素晴らしいことだし、死ぬことだって私の考えるようなものじゃなくて、死ぬことだって素晴らしいことなんだと、こう言えるような精神の領域を開いた。それがお釈迦さまでしょうね。
ここでは生と死というのは生は不死、生は不生であり死は不死である。
不死とか不生というのは、死にも生きもしないという事じゃないんですよ。お前が考えているような生も、お前が考えているような死もない、ということを不生不死というわけです。
そうした領域がさとりの境地なんですね。これを生死を解脱するとか、自他一如といわれるような境地なんです。そこでは愛と憎しみといものは完全に克服されていきます。
そういう領域がいわゆる怨親平等といわれるような悟りの境地なんですね。そういう覚りの境地というものはね、二元的対立的な概念で表現すること出来ません。絶対に表現すること出来ない。
しかし、表現すること出来ないからといって黙っているわけにはいかない。
それを多くの人達にお伝えしなければならない、そして自分と同じような悟りの境地に至ってもらいたい、ということでお釈迦さまは説法をされるわけです。
ですからお釈迦さまの説法はそういう分別を超えた、無分別智の領域を、それを大悲をもって人々に伝えていこうとした所から仏陀の教えというものは始まる。これは後に少し教えの方に入っていきますからどうせもう一遍言うことですから、ここで言うてしまいます。
この無分別智の境地を、それを万人に開示していく為に、いかに説けばいいか、どのように表わせばいいか、それは言葉を超えた世界を言葉で表現するんですから、その言葉は、先程いいました、もう普通の言葉じゃなくて象徴表現でしかない。
その象徴表現、的確な象徴表現をどのように行なうか、それが力の見せ所なんです。これがお釈迦さまの一番大きなお仕事だったんですよ。仏陀が我々にとって大きな意味を持つ方になるのは、実はこの無分別値の領域を、それを実に見事な言葉、言葉である以上はそれは分別の世界ですが、この分別の言葉をもって無分別の世界を顕わす為の、こういう言葉をお釈迦さまはお使いになるわけですね。それは極めて象徴的な表現をとります。
そういうことを行なう智慧を後得智、無分別後得智といいます。これは天親菩薩のお兄さんの無着菩薩が著わされた摂大乗論、その摂大乗論に天親菩薩が註釈された摂大乗論釈というのがございます。
この摂大乗論、及び摂大乗論釈にですね、悟りの智慧を加行無分智、根本無分別智、無分別後得智という形で仏陀の智慧の領域というものを説明していらっしゃいますね。
その根本無分別智というのが生死を超え、自他を超えた、言葉を超越した、しかし、いのちそのものに直参した、もののあるがままの有り様というものを、言葉を媒介せずに体得した、そういう境地を無分別智と言います。

言葉を媒介にして捉えるんじゃなくて言葉を使わずに、したがって普通の知識を介さずに、いのちと直結するような、そういう知り方を無分別智。
ここでは知るものと知られるものとを分けない。知るものが知られるものであり、知られるものが、知るものであるような知りかたです。
普通知るちゅうたら、知るものと知られるものがあって、知るものが知られるものを知るとこう言うんですが、知るものと知られるものが一つであるような知り方ですね。
えらいややこしいんですが、私が花を見るんじゃなくてね、花が花を見るごとく、いやむしろ天地が花を見るごとく、花を知ることです。
私が知るんじゃない。私が花を知るんじゃなくて、花が自らを自覚するがごとく花を知るんです。
私達、花を見るときそうですね。きれいな花やな、えらいきれいな花やな、とこう言いますね。一本なんぼするやろ。この頃えらい高いから、この花一本五百円くらいするんとちゃうか。あれ花見てるんじゃなくて値段見てますねんで。あんなん花見たっていえません。私はバラも好きだけど、私はダリヤの方が好きだとこう言ったら、あれは自分の好みを見てるんであって、花を見てるんと違いますねん。

私達は、花が、その一輪の花が、後にも先にも、唯一度っきりこの地上に現れて、しかし無限の歴史を背景にしながら、この一輪の花がここに顕われて、この一点に宇宙の生命力が凝集しているような、そんな花になって、花が見えたら、花を見た、無分別智をもって花を見たということになりますねん。見る者なくして見る、花が自ら、自己を自覚するがごとく見る・・・。

あ、いや知りまへんねんで私は、断っておきますが。私が知っていたらこんなとこにおれへん、もうお浄土へいってますねん(笑)。

しかし、お釈迦さまはそう仰っている。そういう世界が無分別智の領域。それを言葉で表現して私達に伝えて下さった、それが無分別後得智。
この無分別智から無分別後得智が出てくる、そこに動くものが大悲ですね。一切衆生と連帯し、一切衆生の苦しみを、自らの痛みと感ずるが故に、彼らの苦しみを彼らの苦しみじゃなくて、自らの痛みとしてそれを癒やそうとするはたらきが、それがこの無分別後得智のはたらきを生み出していきます。で、これが教説なんですね。ここから教説が出てきます。

浄土の世界というのは・・・。ま、ここで話が元の話へ返ります、五念門の話へ、元へかえりますわ。お浄土観察というのは、この作願・観察というのは、智慧をもって浄土を観察することですね。智慧をもって浄土を観察するということは、つまり浄土にふさわしい知り方をすることです。浄土にふさわしい知り方・・・、これはま少し問題ですが、また後で言いますが。

浄土を正確に捉える。つまり浄土を捉えるということは浄土を説かれたお言葉です。あの浄土を説かれた教説を通して、その浄土が私達に何を伝えようとしているか。あの浄土の教説が、そこで真実とはこういうあり方をしているんだぞ。真実というはこのような生き方をするようなものなんだよ、ということを浄土は私達に教えてくれる。
それを正確に知ることによって、自分のものの見方考え方の過ちがわかる。何だおれの考え方真反対の考え方しとったな、真実に背いた生き方してたな、といことがわかりますと、真実の方向を目指すように、方向転換がそこに生まれてきます。これが智慧が生まれるということですね。
智慧が生まれるというのはね、自らの虚偽を知ることです。知識が生まれると賢うなったと思うんです。智慧が生まれると自己の愚かさが判るんです。
しかし、自己の愚かさが判るということは真実への指向性が生まれれくることですね。
それが智慧なんです。
そこで観察によって智慧が生ずる、これを智業といわれる。そして真実を知るが故に真実に背く自他に対して、自らを正すと同時に人々の過ちに対して、正しい方向に向かって下さるようにはたらきかけていく、そういうはたらきかけが生まれてくる。これを回向と呼びます、これを方便智業と言われた。

つまり五念門というのは、礼拝・讃歎・作願・観察・回向。これは身業・口業・意業・智業・方便智業と言われているんですね。
この中でどれが中心にあるかと言いますと、作願(止 奢摩他 シャマタ)、そして観察(観 毘婆舎那 ヴィバシュヤナー)、この止観というものを中心に致します。
止/作願というのは浄土に心を集中することです。浄土を願生する人は浄土へ心を集中する。そして浄土に心を集中することによって浄土の教説というものを正確に見ていく。

あの、お浄土というのは何遍も言いますけれども、あの教説を離れていくら考えてみたってただの虚構にしか過ぎないんですよ。あのお釈迦さまがお説き下さった、あの浄土の教説というものが浄土を開くんです。それ以外にね、お浄土ってどこにあるやろときょろきょろしてみたかって見えてくるのはただの自分の心の影にすぎません。
私達の心の影を破って真実を知らせる、あの言葉以外に私達は真実を知ることは出来ないんですから、そこで、これからだんだんと大無量寿経のお話に入っていきますけども、そういうことですね。御開山のお浄土の味わい方というのは正確に知っておかなけりゃならん。

実はその浄土三部経の中に説かれた浄土の教説、それをですね、天親菩薩が実に見事にまとめてみせる。これがあの浄土論の三種荘厳二十九種という分類の仕方でですね、浄土は涅槃の境界であり、如来の大悲の境界である。その涅槃を覚る智慧と大悲の活動、これが浄土を支える二本の柱なんだ。そしてその智慧と慈悲を中心にして展開するのが浄土の領域なんだ。これが真実の領域であり真実の生き方なんだということをね、天親菩薩は実に見事に説かれいくんですよ。それを、礼拝・讃歎・作願・観察・回向と実践の上でそれを確認していくのが、この五念門行という行業なんですね。

去年、一昨年でしたか、ニューヨークへ参りまして、向こうの仏教界。あっちはね真宗のお寺はニューヨークに一ヶ寺しかないんですよね。
やってくる方はテーラヴァーダのお坊さんであったり、中国系の方であったり、日本ですと禅宗の方であったり、またチベット仏教の方であったり、そんな方ばかりなんでございましてね。
丁度そんなことがあって、浄土教の菩薩道についてちょっと話してくれと言われまして、この五念門の話をしたんですが、こんな話、私初めて聞きましたちゅうてはりましたが、わしも初めてしたわいちゅうて笑うていたんだけれども(笑)。とにかくそんなことを言うたこともあるんですけど。もう一度浄土教の五念門行というものをもう一遍、一番天親菩薩の所へ返して、もう一遍読み直してみる必要はありますね。何の話になったんや、こらえらいことになるがな。

さ、そこで、止観によって智慧が生まれる、柔軟心(にゅうなんしん)が生まれる。「奢摩他と毘婆舎那を広略に修行して柔軟心を成就」(39)する、とこう仰っております。柔軟心とは柔らかいこころ、あれはいいですね。柔軟心とはあらゆる事態に柔軟に対応出来るような、そういう弾力性のあるこころが、智慧が完成すると言うことですね。剛直な心じゃなくてね、がちがちの心じゃなくてね。実に柔軟にあらゆる事態に対応できる。
つまりね、一つの事柄をただ一面からだけ見るんじゃなくて、多方面から見て、そして様々な状況に応じて、一番適切な行動が取れるような、そういう実践的な智慧、これがね般若波羅蜜(智慧波羅蜜)と言われる、あの空という考え方なんです。
柔軟心というのは、この空を覚る智慧なんです。空というのは何もないという事じゃなくてね、固定的な観念を破って、そして、もののあるがままの有り様を、確実に捉えながら、柔軟に対応していく。時間というのは今しかないし、時というのは此処しかないし、私というものは今、此処に存在しているものでしかない、としますと、私を既成の観念でもって捉えたんでは、私というものは、ほんとのすがたは捉えられない。
ただ今の事態で、ただ今の自己を的確に捉えて、そしてそん中に様々な意味と方向をそこで捉えていくことが出来るような多面的な、柔軟な対応が出来る、そういう智慧をね、それを般若波羅蜜、つまり一切は空であると悟る智慧なんです。
空であるというのはね、すごく柔軟な生き方のことです。
とにかくここで柔軟心を成就する、柔軟心を成就したものは方便智業を、つまり人々を救済しようという、そういう回向心が発ってくる。これを回向門という。

回向というのは自らが完成した、智慧の徳を以て人々を導くことです。だから回向というのは教育のことですよ。此の功徳を以て、平等に一切に施し(299)、とこういいますね。
この功徳というのは、教えを聞いて獲得した功徳です。教えを聞いて獲得したその教えの智慧を、それを人々に言葉を通し、行動を通して人々に伝達していくことを、回向と言うんです。

回向するというの事はね、ただお経読んでれば回向になるんじゃないんです。
正確に理解し、正確に確認して、その確認した真理を人々にお伝えしていくことを回向と言うんですね。そして、もろともに浄土を目指して生きていこうとする、これを回向門とよぶ訳なんです。(普共諸衆生 往生安楽国)

真実を知った、その智慧は自己の虚構を知り、人々の虚偽を知る。それ故に自己を正し、また人々の有り様を正し、そして正しい浄土の方向へ向かっていこうとする、そういうはたらきを回向門と言います。この回向の中に二種類がある、と、曇鸞大師が仰ったわけです。
その二種類とは何かといいますと、往相の回向と還相の回向なんだと曇鸞大師は仰った。
そこで、往相回向と還相回向というのはどういうことを現わすかということ、そして先ほど言った本願力回向というその本願力とは一体何を現わすかということですね。
浄土論や論註ではどう意味を表わしているかということをね、それだけをまず知っておかないと、御開山がどう転換していくかということが解りませんのでね。ちょっとここまで長話になりました。これは余談になったようだけれども、これから真実の教、経典とはどういうものなのかと言うときに、これが一番中心になるので前もってお話しをしておきました。

ちょっとここで休憩を致しまして、今度は本願力回向というこということで話を展開することに致します。

では休息をさせていただきます。なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・(和上退出)

第二日目-2

お話を続けさして頂きます。

本願力回向という言葉、そして往相(おうそう)回向/還相(げんそう)回向という言葉いずれも、これ本願力回向という言葉は天親菩薩の「「浄土論」」の中にもありますし、往相回向・還相回向という言葉は曇鸞大師の「往生論註」の中にある言葉、それを親鸞聖人は引いてこられた訳でございます。
ところが「「浄土論」とか「論註」ですね、本願力回向という言葉を使われる場合にですね。
殊に回向門で仰る場合に・・。回向、これは利他回向の事でございまして、先程言いました自分が獲得した知識、あるいは智慧を以て人々を導いて行く事を回向と言うんです。
ですから、回向ということは教育という事だとみてもらったらいいですね。
ただ神秘的な、何か訳の判らない回向と言うんじゃなくてね、正確に正しい道理を人々に知らせて、人々を正しい方向に育て導いていく。そういうことを回向という言葉で、利他回向という言葉で表わしているわけです。もっとも回向という言葉には後でまた申しますけども、三種類の回向がありまして、菩提回向、そして衆生回向、実際回向という回向に三種類の回向がありますけれども、今言っているのは衆生回向の意味なんです。ここの回向門は衆生回向の意味で、人々に自分の獲得した智慧を与えていくことですね。そして人々を目覚めさせていくこと、それが回向なんです。
この今、回向門は、作願・観察によって獲得した智慧ですね。これは浄土を観(み)る、浄土を正確に観察する。浄土を正確に観察することによって、真実の有り様というのは何であるかということを知る。
そうすると、自分の生き方の間違いが解る、人々の生き方の間違いも解る。そこで自らを正し、人々を正していく。そして人々をまず正しい方向に導いていこうというので、浄土に往生しよう、と人々に伝えていくことを回向と言うわけです。これを往相回向とよんだんですね。これを往相回向と言う。

往相回向と言うのは、これは浄土に往生しながら人々に回向すること、という意味なんです。これは「論註」の意味ですよ。「論註」はね。往相というのは浄土に往生するすがた(相)。だから、浄土に往生しながら人々を教化していく事ですから。だから一緒にお浄土へ生まれさせて頂きましょうと、人々を誘うていくことを往相回向というんです。

その往相の回向によって、大悲心を成就しようと願うことだと言われておりますね。
この「浄土論」及び「論註」の読み方はですね、御開山は独特の訓(よ)み方をしてらっしゃるので、普通の訓み方、漢文の普通の訓み方で読んでいくと、「浄土論」もしくは「論註」の考え方というものはよく判ってきます。[2]

最近ですね、龍谷大学の教授の相馬先生という方が、「論註」の講義を、薄いものですけども、「論註」の講読書を出された。これは中心は曇鸞大師の「論註」というものを、したがって「浄土論」もその中に全文引いてありますから、「浄土論」、及び「論註」を普通の漢文の読み方で訓んだらどう読めるか、ということを書いておられます。非常に参考になりますから機会があったらお読みになったらいいと思います。

ただ、親鸞聖人は、全く違った訓みかたをされるんです。これは昨日から申しておりますように、これは普通の人間が出来る事じゃない。御開山だから出来る独特の訓み方をなさいます。それはどういうようにしたらそう訓めるかということは、「論註」理解の親鸞聖人の結論なんですが、またそれは後に時間があったらお話ししますが・・・。

とにかく浄土に往生しながら、人々を救済しようとするのを往相回向と言うんですね。そして浄土に往生しますと、この礼拝・讃歎・作願・観察・回向という五念門の修行をすることによって、自利と利他。これが自利ですね。止観によって自利が完成する。そして回向門によって、往相回向によって、利他行が完成する。この自利と利他というのを行ずることによって、浄土に往生することが出来るようになるんだ、と言っているんですね。

「論註」にはですね。お浄土というのはね、遊びに行くところじゃないんだぞ、とこう言われてます。随分厳しい言葉で言われていますね。
浄土は受楽無間である。ひま無く楽しみを受ける世界だから浄土へ生まれたいと思う者には浄土へ生まれることが出来ない、とこう曇鸞大師は、はっきり仰っています。ただ菩提心を発す者のみが浄土へ生まれることが出来る、とこう言われていますね。
(若し人、無上菩提心を発さずして、但彼の国土の楽を受くること間無きを聞きて、楽の為の故に生ずることを願ずるは、亦当に往生を得ざるべし。(144))

何故かと言ったら、浄土は自利利他円満の覚りの境地なんだ。その覚りの境地に生まれようとする者は、その覚りの境地にふさわしい自利利他の心、菩提心を発さなけりゃならない。菩提心といったらすごく難しいようだけれど、先程私が言いましたように、浄土を正確に知りますと、真実が何であるかということが解る。
浄土というのは真実功徳相と言われるように、浄土とは真実の世界なんですね。
だから浄土を知ることによって真実とは何かということが判る。それと同時に真実に背いている自分が判る。真実に背いている自分が判るから浅ましい事であるということが判る。その浅ましい事だということを知ったら、真実の方に向かっていこうするそういう心の方向性が生まれる。それを菩提心というんだと言うんですね。これを菩提心という、菩提を願う心ですから、真実を願う心ですから、それを菩提心と言うんだ。
その真実を目指す心、菩提心、それ無けりゃ浄土の世界は開けない。浄土というのは遊びに行くとこと違うんだ、と曇鸞大師は仰る。三泊四日で遊びに行こうちゅうのとはだいぶ違うんだとこういうわけですね(笑)。

そういうことで浄土にふれたものは、真実を知る智慧が生まれる。先ほど言いましたが智慧が生まれたらね、賢こうなるんと違うんですよ。愚かさを知ることですよ。これだけは、はっきり知っておいた方がいいでしょうね。智慧が生まれたら賢うなると言うのは知識の間違いです。智慧が生まれたら懺悔が出てくるんです、慚愧が生まれるんです。その慚愧と懺悔がないところには智慧はありません。ですから知識と智慧は全然違う。
その事を知らないと、仏教ははなから判らなくなってしまうんですね。そこからもろともに浄土を目指そうという心が起きてきまして、さあ一緒にお浄土へ参りましょうね、とこう言うて人々をお浄土へ誘うていくのを往相回向というんだ。
だから回向する主体は、往相回向の主体は行者ですね、浄土を願生する行者です。
そして、その浄土を願生する行者が、浄土に往生いたしますと、礼拝・讃歎・作願・観察・回向という五念門に応じて、そして、近門、大会衆門、そして宅門、屋門、そして園林(おんりん)遊戯地門(ゆげじもん)という、五功徳門を完成する。あるいは五果門とも言ってもいいですが、五功徳門を完成する。
近門、大会衆門、宅門、屋門、これが自利と利他。その園林遊戯地門のことを還相回向とよんだわけです。
そして八地以上の菩薩になって、八地以上の菩薩になったら無功用地と言いましてね、あれを助けてやろう、これをどうしてやろうと考えなくったってね、自然と苦しみ悩む人々を救うていくはたらきが出てくるわけですね。「阿修羅の琴の鼓する者無しといえども、音曲自然なるがごとし」(153)、というて説かれておりますが、自然と人々を救済するはたらきが出てくる。これを園林遊戯地門と言うんですね。
この園林遊戯地門のことを曇鸞大師は還相と言われたんです。だから還相回向というのも浄土に往生した人が、大悲心を発こして、そして一切衆生を救済していこうという、そういう教化活動を行なっていくことを、還相回向とよんでいるわけですね。こういうことなんです。
で、回向の主体は、どこまでも行者ですね。浄土を願生する行者、そして浄土に往生して、自利利他の行を、完成していった行者のことです。その行者が往相し、還相し、回向していくわけですね。だから往相回向、還相回向というのは行者が主体となっている。
「浄土論」や「論註」で、その還相回向を語るときに、それは本願力の回向によって、そういうふうになるんだ、ということが言われているが、あの本願力というのは、この回向門のことなんです。
この場合の本願力というの本願つまり、プールヴァですね、プールヴァ・プラニダーナ(pūrva-praņidhāna 前からの願いという意)。つまり前に、浄土に往生する前に、浄土に往生する前、願生者であったときに発した願いです。
私は今度お浄土へ参ったら、苦しみ悩む全ての人々を救済しよう、そういう願いを持って浄土へ往生する。実は、「論」、「論註」に出てくる願生行者というのはそういう行者なんです。
浄土へ遊びに往くんじゃないんだ。浄土へ何しに往くんだ、それは人々を救済する力を完成する為に浄土へ往くんだ。そしてお浄土へ往ったら、仏さまに会わせて頂いて不虚作住持の功徳[3]によって、八地以上の菩薩となって、自在に思いのままに人々を救済する力を完成して頂いて、そして人々を救済しよう、そういう願いを持って浄土へ往生していく。それを本願とこうよぶ。その本願に応じて、その本願の力によって自然に人々を救済していくことを、本願力の回向と言うんだ、こういうふうに言われているんですね。

ですから、直接阿弥陀さまの本願力ではありません。修行者の本願力。
実は二十二願がそうなんですね。あの二十二願というのはね、あれは三通りに読むことが出来る文章なんです。三通りに読むと言うとおかしいけれども・・・。

普通は、サンスクリットの、今の大経のサンスクリット本もそうだし、あるいは如来会、無量寿如来会の翻訳もそうなんですが、そこから読みますと、二十二願というものは、浄土へ往生した者は、究極的には一生補処の位に入れしめてやろう、こう誓ってあるんですね。ただし、浄土へ生まれてくる前に、私は浄土へ往ったら一切の衆生を救済する為に、十方の世界に身を変幻して、十方の諸仏を供養し、そして十方の衆生を救済していこう。そういう願いを持っている者、そういう本願を持っている者は、その願いの通りにそれをさしてやろう。だからそれは一生補処の位に入れしめるというところからは除くと書いてあるんですね。
「除其本願 自在所化 為衆生故 被弘誓鎧 積累徳本 度脱一切」[4]。あそこから後は全部除外例です。そう読むのが普通の読み方なんです。ところが曇鸞大師は、もう一つ違った読み方をするんですね。それは一番最後の、「超出常倫 諸地之行 現前修習 普賢之徳」[5]、というあの言葉ですね。あの言葉の前までが除外例だと、除其本願というところから、浄土に往生した者は一生補処に至らしめるといったけれども、その一生補処の位に至らしめるのにどうするかというと、普通の菩薩のように、初地、二地、三地、四地、五地、六地、と、常倫の初地の行に超出して、そして現前に普賢の徳、つまり一生補処の徳を出現させてやろうと、こう誓ってあるんで、あの除という言葉は真ん中の所を除いて一番最後の部分と、一番最初の部分とは引っ付くんだと、こういう形で曇鸞大師は解釈されているんですね。
「論註」はそういう解釈をしている。親鸞聖人はその「論註」の釈を受けながら一番最後のところを、(曇鸞大師の)「常倫諸地之行に超出し」、というのと、「常倫に超出して諸地之行現前し」、と読むのと親鸞聖人は違った訓み方をされる。
それによって全体が、一生補処の位に入ることも、それから他方世界に行って(衆生を)摂化することも全部還相のすがた(相)。浄土において一生補処の位に入り、そして諸地の行を超出して、そして現前に普賢の徳を修習するということ。あれは全部ひっくるめて還相回向の願とこう見ていくんですね。
二十二願を還相回向の願というのは御開山の特徴でして、あの願は三種類の読み方が出来るわけです。その三種類の読み方は、願文当分と、それから曇鸞大師の読み方と、それから親鸞聖人の読み方と三種類の読み方があるんですね。→三種類の読み方
そういう読み方がされていますんで、すごくこれ複雑なんです。ですから還相回向というのは、実は曇鸞大師が言われる還相回向と親鸞聖人が言われる還相回向とは大分違う。

で、そこまで分かってもらえますと、まず回向の中に、回向門の中に往相回向と還相回向とを分けた。これが曇鸞大師の分け方でございまして、浄土へ往生しながら人々を救済するのを往相回向と言い、浄土に往生してから人々を救済する利他回向することを還相相回向と言うと、こういうふうに言われ、いづれも回向の主体は願生行者であったんですね。
ところが御開山はこれをひっくり返してしまう。そして回向の主体は阿弥陀さまだ。往相を回向し、還相を回向するんだ。
私が浄土へ往生するすがた(相)を如来は回向してくださる。浄土に往生したものが、その覚りの内容を菩薩道として顕現することを還相回向というんだが、菩薩道として顕現していくはたらきも如来が、あらしめて下さるんだ、如来の本願力、先ほど言った二十二願力があらしめてくれるすがた(相)なんだと、こういうふうにご覧になるんですね

そこで本願力というのは直接的には二十二願力、阿弥陀仏の二十二願力によって還相と言う。往相は、十七、十八、十一。この十八願と十七願と十一願とによって往相を回向して下さる。
それから、二十二願によって還相を回向して下さる。これは全部、阿弥陀仏の本願力によって回向されるものである。こういうふうにご覧になるんですね。
だから回向の主体が阿弥陀さまになる。阿弥陀如来さまが回向の主体になって、私達はその回向していただくものになる。回向される者になる。
こういうな形で回向の主体が転換されております。何故そういう転換を、曇鸞大師の「論註」を通しながら、「論註」と違った解釈を、何故されたんかと言いますと、実は曇鸞大師が「論註」の一番最後にですね、とんでもない釈がされているんですね。

それはですね。浄土へ往生する、礼拝、讃歎、作願、観察、回向という五念門行は私達が修行するように見えるけれども、実はこれは阿弥陀如来の本願力を増上縁としてあらしめられる事であって、実は私の力で完成する事じゃないんだと、曇鸞大師は論註の一番最後の釈に言われるんです。これは覈本釈(かくほんしゃく)(覈其本釈)という非常に特徴のある解釈がされる。その覈本釈の中に一カ所だけ、他利/利他という釈が出てくるんですね。これが訳のわからん釈なんです。訳のわからん釈だと言うのは、何のこっちゃよく判らないんですね。
その訳のわからん釈、だから誰もわからなかった。それを親鸞聖人がこれはとんでもない大事な事を言われているんだという事を、親鸞聖人は気付かれるんですね。これを「他利利他の深義」という言葉で御開山は表わされる。それで本願力回向、阿弥陀さまの本願力回向というものを、曇鸞大師の論註の中から読み取っていくということが、行なわれるようになるんですね。その一つのきっかけになるのが他利利他の釈、「他利利他の深義」と言われる釈なんですね。これね、こういう言葉なんです。

「他利と利他と談ずるに左右(さう)有り。若し仏よりして言はば、宜しく利他と言ふべし。衆生よりして言はば、宜しく他利と言ふべし。今(まさ)に仏力を談ぜむとす。故に利他を以て之を言ふ」(155)

と言われておるんですね。何のこっちゃこれは、ということでね。判らない、よく分からないですね。よく解らないというよりは何を言おうとしているのか、この人はという、そういう釈なんです。

それで親鸞聖人と同じ頃に出ました、浄土宗の大学者でね。良忠上人(1199-1287)が「論註記」(往生論註記)という注釈書を書かれている。論註の注釈書としてはもっとも古いものでね。そして正確にと言いますか、文章の解釈は非常に見事にされている。ところがね、他利利他の深義に関する限りは、何かよく解らないままで終わっているなぁという感じがするんですね、解釈が。
というのはね、他利と利他というのはほんとは同じ事なんですよ。他利といっても利他といっても同じことを言うてたんです。ですから、例えば「浄土論」を翻訳したといわれる菩提留支三蔵訳のいろんな経論を見ましても、あるいは曇無讖三蔵の訳されたものを見ましても、他利と利他とはちっとも変えてないんです。

他利というのは他の利を計ることですね。他者の利を計る事なんですから利他のことなんです。利他というのは他を利するということでね、他のものを利益していく。ですからようするに、利他と言っても他利と言っても自分が人々を救済していくことなんです。
だから、他の利を計るから他利と言うし、他を利益するから利他というだけのことで。
他利と言っても利他と言っても同じ事を意味しているんです。
だから文章見ますとね、利他というは、とこう註釈してきまして最後に、故に他利というと結んである文章なんぼでもあるわけです。
利他と他利は同義語として使っている訳ですね。ところがここでは、他利と利他と談ずるに左右(さう)有り、左右(さゆう)がある、仏よりしていうたら利他と言うんだ。衆生からいえば他利と言うんだ。今は仏力を談ぜんとするから、利他と言うんだ、とこういうふうに言われていますね。

これ、どういうことかと言いますとね、先ほど言いましたように、この五念門行というのは、私が、礼拝、讃歎、作願、観察の修行をして、自利利他完成して浄土に往生するように書いてあるけれども、覈(まこと)に其の本を求むれば、阿弥陀如来を増上縁とするなりと、こういうふうに曇鸞大師は仰るんですね。私がやっているようだけれども実は阿弥陀さまの、阿弥陀如来さまのお働きによってあらしめられる事なんだ、とこう言うてね。
そこへ他利利他の釈があってね、もしね、阿弥陀さまの本願力によって、阿弥陀さまの本願のはたらきによって、五念門を完成して五功徳門を完成して、往生し成仏していくこと、阿弥陀さまの本願力によってなされることでなかったとしたならば、阿弥陀さまが四十八願を建てた意味がない。阿弥陀さまが四十八願をお建てになった意味がない。[6]
私が自分の力でやっていけるんだったら、阿弥陀さん必要ない。阿弥陀さまが必要でないことを阿弥陀さまがお誓いになるわけがない。したがって浄土に往生することも、浄土に往生したものは速やかに覚りを開くことも、すべて阿弥陀如来の本願力によってあらしめられる事であるとしなければならない。こういう事を結論付けてね。[7]

そして、その事を立証するために、十八願と十一願と二十二願と三願を引用することによって、浄土に往生することは十八願の力によって、浄土に往生して正定聚に入ることは十一願によって、そして正定聚に入ったものは速やかに一生補処の位に入るのは二十二願の力によって完成することである。だから浄土に往生することも、往生したものは速やかに成仏することも、それは阿弥陀如来の本願力に依るのだと証明してみせる。これを三願的証(さんがん-てきしょう)(156)というんですね。こういうことを曇鸞大師はやっていらっしゃるんですね。

これは今言いましたように曇鸞大師は二十二願を還相回向の願と見ているんじゃないんです。そうじゃなくて浄土に往生した者は、速やかに覚りを完成するという事の証拠、として引いてある。超出常倫 諸地之行 現前修習 普賢之徳、といわれた、あそこの文章を中心にこの二十二願を引いているんですね。これが曇鸞大師の特長なんです。
その真ん中にこの言葉が入る。「他利と利他と談ずるに左右有り」、これは一体何を言うているんだろかな。仏から言ったら利他と言う。衆生から言ったら他利という。これは何を言ってんだろかとこういうことなんです。
今は仏力[8]、仏のはたらきを現わすから利他と言うんだ、とこう言われたんですね。そこでこりゃあまあ、解らん言葉でございます。

ところが御開山はこれは素晴らしい、「他利利他の深義」を開闡した。これによって解ったぁ。実は御開山がね、『論』、『論註』の秘密が解ったのはこの釈から解ったんです。ところがどうなってるんですかというたら、親鸞聖人、なんにも説明してない。天才というのは付き合いしにくい。もうとにかく解るんだな、ぱーんと解るんだけどね、説明しないですね。
くだくだしい説明をするのはただの秀才がやることなんです。でまあ、御開山ていうのは、おっそろしい人でっせぇ。しかしね、後の者は何とかわからにゃならんもんだから皆んな苦心惨憺しているんですが・・・。

とにかくね、「他利」も「利他」も阿弥陀さまの救いを現わしているのには違いない。つまり阿弥陀さまの救いを阿弥陀さまの救済を、私の方から言うたら「他利」と言うんだ。その救済のはたらきを仏様の方から言ったら「利他」と言うんだ。衆生よりして言えば「他利」と言うべし、仏よりして言わば「利他」と言うべし。何を言うんですかちゅうたら救済ですね。
阿弥陀さまの救済を・・、ですから事柄は一つです。私が阿弥陀さまにお救いいただくという事柄は一つなんです。その私が阿弥陀さまのお救いに預かるということを、私の方から言うたら「他利」という。如来さまの方から言うたら「利他」という。ところがこの『浄土論』の中には、「他利」という言葉は一カ所もない、全部「利他」という言葉で統一されている。
同じ菩提留支が翻訳した他の経論には、他利といったり利他といった言葉が何度も出てくるけれども、ここでは利他という言葉だけしか出てこない。他利という言葉は一カ所も出てこない。ということはこれは全部、阿弥陀さまの救済のはたらきを、阿弥陀さまの側から言っているんだ、と、いうことなんですね。

だから五念門行を完成して自利利他して、そして速やかに阿耨多羅三藐三菩提、覚りを完成すると言われているが、あの利他ということは阿弥陀さまのはたらきを阿弥陀さまの側から言ったことなんだ。そうすると私の側から言うと他利なんだが、如来さまの側から言ったら利他というんだから、自利利他というのは阿弥陀さまのはたらきによって私の自利、私が浄土に往生するということが成立するんだ、こういうことを表わしているんだ。こういうふうに見られたとしなければならないでしょうね。これを他力と言うんだといわれているんです。一番最後に他力釈が出てくるんですが。

どういうことなのかと言いますとね、おそらくね、この他利と言ったのは、ある言葉が省略されていると見られたんでしょうな。

「板書」

他利(自)(他が自を利する)
(自)利他(自が他を利する)

利というのは動詞ですから、動詞の前にある言葉は主語(他)にしなければならない。この後(利)に目的語が省略されていると、こう見たんですね。他が自を利する「他利自」と、こうみたわけですね。この自が省略されている。
利他というのは他を利するとうことですから、ここでは自(主語)が省略されている「自利他」ということになるわけですね。
そうしますと他が自を利する。この場合に利益するというのは阿弥陀さまですから、この救済全体は阿弥陀さまを現わしているんですから、他が自を利するという他は阿弥陀さまになります。

仏が衆生を利益する。仏が主語(他)で、衆生が目的語(自)で、利益するが(利)仏の働きで動詞になりますね。そこで他が自を利するのを「他利」と言っているんだ。自という語を省略している。

利他というのは自を省略している。他を利するんですから、仏(自)が他である衆生を利益する、ということ。

(ここは板書で丁寧にご説明下さったのだが、林遊はノートを取らないし、文字でどうやって表現していいのか判らないので少し略。なお和上の他利利他についての論文の一部は『親鸞聖入の他力観』を参照)

そうしますと、仏が衆生を利益することを、衆生の側から言えば、他者が私(自)を利益するということになりますから、他利と、こういうことになります。
同じ事を仏の方から言えば、仏は自です。私(自)が衆生(他)を利益(利)する。この場合は仏が自になります。だから仏から言ったことになります。

そうしますとね、他利に対して、この利他の事を他力(仏力)とこう言うんです。「今、仏力を談ぜんとす。」仏の働きを現わそうとする。正確に言うと仏の働きを仏の側から表現する。それが利他という言葉だ、とこういことになりますね。これを他力(仏力)と言うんだ。そうすると他力と謂うことは利他力の略と、こうなりますね。ちょっとややこしい。これは御開山の非常に特異な釈を言うんです。

この利他の事を、他力と言うんですね。さ、<他力の他というのは一体何なんだ。他力の他というのは「他の力」じゃないんだな>。利他の力なんですねこれは。他力とは利他力の事になります。利他力ということになりますとね。仏様の方から仏様の働きを顕わしている言葉なんです。私の側から言った言葉じゃない。
他力というのを、私の側から言ったらどうなるんか、と言うと、御開山は、他力というのを私の側から言ったら「他力と申し候ふは、とかくのはからひなきを申し候ふなり。」(御消息783)。
私の方から言えば、私の計らいをまじえないということを他力と言うんだ、と言われていますね。だから、他力ということは私の計らいをまじえない、ということ。
(衆生よりして言わば他利=私の計らいを雑えない=無作の義B-<)
だから、他力には義なきを義とす、必ず、他力には義なきを義とす、という言葉で表現されているんです。歎異抄には「念仏には無義をもって義とす」(837)、という言葉が出ていますが、ありゃあ、もうひとつ正確じゃないだろうな。正確に言うと、他力の念仏には、と言うべきでしょうね。「他力の念仏には無義をもつて義とす」、とこういう事を言いたかったんですね。

他力という言葉が必ずつくんです、これが「義なきを義とす」という言葉を言う時の、私の計らいをまじえないことを、それを義なきを義とすというんですね。それが他力の本義であるというので、「義なきを義とす」と言うんですが、これは実は他力という言葉は私の方から言った言葉じゃ無いんです。仏様の方から仰った言葉なんです。汝を救うという言葉なんです。我よく汝を護らんという言葉なんです。そこで私は私じゃないんです、汝なんです。
私はね、私ではなく、仏様から汝を救うと言われた汝なんです。私じゃ無いんです。あの、何ですね、あそこ(二河白道の招喚)で、我と言われるのは仏様なんですね。[9]

御開山がね、不思議な言葉遣いをなさるんです。それは信心、あるいは念仏を仰るときにね。利他の大行。あるいは利他の信心。利他真実の信心。利他の一心。それから利他円満の妙位。
行・信・証、全部、利他の大行、利他の信心、利他円満の妙位無上涅槃の極果なり。と、いうように行・信・証、全部利他と言われていますね。あれは如来より与えられたという意味なんです。如来さまから与えられた大行、如来さまから与えられた大信、如来さまから与えられた真実の証果、覚り、という事なんですね。それを利他という言葉で表わす。
ですからこれは何故利他という言葉に親鸞聖人は着眼されたかということなんですが、実は昨日からちょっと申しておりますが、隆寛律師という方が初めてこの利他という言葉に着眼するんです。隆寛律師は、善導大師の三心釈の中でですね、利他という事を非常に問題にしなさる。ご存じのように他力という言葉は、浄土門には曇鸞大師によって導入されたんです。そして、曇鸞大師はよくお使いになり、その次の道綽禅師もお使いになるんですがそこでぷつっと切れます。

善導大師は他力という言葉を一カ所も使いません。自力・他力という言葉は、善導大師のあの五部九巻の広博なお聖教の中に一カ所も出てこない。これは面白いですねぇ。
何故、あの人は他力という言葉を使わなかったのか。これはやはり、他力という言葉が変貌したんでしょう。曇鸞大師が言おうとしていた他力が、違った意味に解釈されてしまった。だからこの言葉でもっては、浄土教の信心を顕わすことは出来ないと思ったんでしょうね。だから善導大師は一カ所も使いません。ただその代わりにですね、あの至誠心の中に利他真実・自利真実という言葉が使われているんです。これはまあ、善導大師の当分では自利真実というのは、いわゆる自利、利他真実というのは念仏の行者が利他すること、自利と利他するという意味だったんです。善導大師の当分では。

ところが今申しました隆寛律師が、(具三心義?)あの善導大師が言われた利他の真実というのは、他力の真実という事なんだ。自利の真実というのは、自力の真実ということなんだ、というふうに仰るんですね。
これを親鸞聖人は承けるわけなんです。そして善導大師の至上心釈を、自利真実と利他真実に分けるんです。利他真実というのは他力の真実、自利真実とは自力の真実というように真実信を二つに分けてしまうんですね[10]。この分け方は今言いましたように隆寛から承けるんですが、隆寛は何処から出したかというと『論註』からです。実は法然門下で『論註』を初めて導入するのは隆寛律師なんです。この系統を親鸞聖人は承けていくわけですね。
この中で利他という言葉で他力を表わしているとすれば、善導大師は自力・他力という言葉を一切使ってないけれども、その代わり自利・利他という言葉で自力・他力を表わしているんだ、とこう考えたわけですね。そこで親鸞聖人は、他力という言葉を、利他という言葉で表わすようになる。利他真実、自利真実という言葉と対応させましてね。

それで他力というのは「利他力」の事なんですね。すると他というのは仏様の事じゃないんですよ。 他というのは私達の事なんです。 仏様からご覧になった私達の事なんですね。仏様は他なる私達を自らの事として救済してくださる。ご自身の責任において私達を救うて下さる仏様の働きを、仏様の方から現わしたのを他力と言うんだ。だからこれは衆生の側から言う言葉じゃない。衆生の側から言うときは計らいをまじえないで、有り難く頂戴する。仰せをはからいなく頂戴する。そのほかに他力というものはない。

これ反対に使いますと判らなくなってしまう。御開山が仰っている他力というのはここから出てくる。実は本願力回向のことをを他力と言われる、この本願力回向というのは利他力なんです。如来の利他力を表す。ですから仏様の側から仰っている言葉だというのは、非常に重要なことなんですので、私達ご法義を味わうときに、人間から言っちゃいけないという言葉、というものがいくらかあるんですよ。

人間から言っちゃいけない、ただ仏様からだけ仰る。如来さまからだけ言える言葉、私はただ有り難く聞くだけしかない言葉。私の方から言ったら嘘になる。仏様が仰ることを有り難く頂戴する、そういう言葉っていうものがありましてね。これを間違えないようにしないとね。仏様から仰る言葉を、こちら側から言うと嘘になるという言葉はいくらでもあります。どんな愚かな者でも助けるぞ、という言葉は仏様の言葉ですよ。どんな愚かな者でも助けて下さるんですなぁ、と私の方が言うたら、お前が言うな!。ということで、お前が言うな、お前は有り難く頂くだけなんだ、お前から言うな。

これから悪人正機などという、おそろしく過激な言葉が出て参りますが、あの悪人正機などという過激な言葉なんかもね、あれだって、言い場所を間違ったら偽物になるだろうな。だから難しいんです言葉は。誰が言うてもええちゅうもんと違いますで。

例えばほめ言葉でもそうでしょ。お釈迦さまが、阿弥陀さまが誉めてくださる、「この人を分陀利華と名づく」[11]と誉めてくださる。お釈迦さまは「私の親友」[12]であるとまで仰って下さる。あるいは「真の仏弟子」[13]として呼んでくださる。みなあれ仏様の方から仰る言葉ですよ。
わしの方からね、私は阿弥陀さまと、仏様と親友でござんすな、と言ったらお前から言うな!(笑)。誉め言葉というのは聞いて喜ぶ言葉であって、こっちから言うたら嘘になります。

例えばあなた方のお家に、よぉ出来るお子さんいらっしゃいますわなぁ。あんたんとこのお子さんねぇ、今度京大通りなはったん。そぉまあよお出来なはるで、お父さんもお母さんもよぉ出来なはるからなぁ。そらまぁ出来なはるのあたりまえやけど、そら楽しみですなぁちゅうて、もし言うてもろうたらでっせ。いえいえ、まぁどうなることですか、ちゅうて喜んどったらええねん(笑)。
あれ、自分の方から言うたらいけまへんで。うちの子、よぉでけましてな。今度あんた京都大学通りましてな。いや親もなぁ、そこそこ出来まっさかいな、ほら子供出来けるの当たり前ですわ。アホかぁちゅうなもんで(爆)

あのね、誉め言葉ちゅうのは自分で言うたらいけまへん。あれは人が言うてくれて聞いて喜べばいいんで、いえいえ、言いながら喜んでたらええねん(笑)。まあそういうことです。
ですから言葉というものはね、誰から言うか。聞いて喜ぶ言葉と、言うて喜ばせる言葉とありますがね。ちょっと話が横へ飛んだ・・・。

他力ということが、利他力という言葉、如来さまから言う言葉だということが、こういう、「仏よりして言はば、宜しく利他と言ふべし」。これは仏さまから言ったんだ。私から言ったら他利と言うんだ、他が利する。したがって私は計らいなく受け容れる、計らいをまじえない。だから他力(本願)に対する態度というのは計らいをまじえない、一切の自力の計らいを捨てる。これが他力に対する態度であってね。
他力ですからなぁ、何してもよろしいねん、んなアホな。もう大体、はなから間違うてる、そういう事ですね。そのへんのところを正確に聞き拓いてもらわないと、危ないという事ですね。

えらい話が長うなりました。ちょっとここで十分ほど休憩さして頂きます。
なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・(和上退出)


第二日目-3

覈本釈によって親鸞聖人は、本願力の根元は阿弥陀さまの本願にあるんだ、とこういうふうにご覧になるわけです。その事が解って、「浄土論」及び「論註」に説かれている五念門というのは、実は私の「行」である前に、阿弥陀さまのはたらきだったんだ。
阿弥陀さまから本願力をもって回向された行徳であったんだ。こういう事に気づかれたんですね。

そういう視点から「浄土論」と「論註」を読み直してみた。すると我々が普通読むような「浄土論」や「論註」とは一味違った「論註」が見えてくる。昨日申しましたけれでも、写真を、同じ写真を見ているんだけれども、目の焦点の合わせ方が違うと違った風景がその写真の中から浮かび出てくるという、ああいう構造がありますけれども・・。
これは普通の写真を見ても駄目ですが、そういう細工をされた写真の場合ですと、目の焦点の合わせ方によって立体的なものがその写真の中から浮き上がってくる。こういう事がございますが、まるでそのようなかたちで、「浄土論」や「論註」が重層的なかたちで読み込まれていくわけでございます。

そういうとこから、往相廻向/還相廻向という事も、元々願生行者の回向であったのを、親鸞聖人は阿弥陀仏の回向となさいまして、阿弥陀さまが私に本願力をもって往相を回向し、本願力をもって還相を回向して下さるんだ。こういうふうに味わっていかれたんですね。これが、「本願力の回向に二種の相あり。一つには往相、二つには還相(478)」と言われた事であり、「つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相(135)」と言われた釈の意味でございます。こういうふうに親鸞聖人のお聖教というものは、深い読み方が施されているという事ですね。

先程、回向ということを言いましたが、この回向ということを中国で非常に深く展開さしたのが浄影寺の慧遠という方ですね。中国では浄土門関係の慧遠というかたが二人いらっしゃいましてね。一人は廬山の慧遠(334-416)という方です。もう一人は浄影寺の慧遠(523-592)という方ですね。時代は相当隔たっています。廬山の慧遠は四世紀の後半から五世紀にかけて中国でいったら南方の揚子江の流域です。もう一人は浄影寺の慧遠。これは大体六世紀の後半に活躍した人です。この浄影寺の慧遠が「大乗義章」というのを著わしています。
この「大乗義章」の中に回向義という一項目があります。この「大乗義章」というのは仏教の仏教事典みたいなものですね。字引じゃないんです、事柄の事典ですね。つまり回向なら回向という法義について、涅槃なら涅槃というあるいは菩提心なら菩提心という法義について詳しく述べていく、そういうものでございます。善導大師より少し前、道綽禅師より少し先輩の人ですね。

その浄影寺の慧遠が、回向という中に三種の回向ということを言われる。一つは菩提回向、もう一つは衆生回向、そしてもう一つは実際回向ですね。この三種回向というものがあります。もともと回向ということは方向転換する事です。方向を変える事ですね。
どういうことかと言いますと、行業、行というのは行いということですね。その行いをどういう意味を持たせるかという事です。行いに意味を持たせることですね。その意味を持たせることによって行いの意味が転換します。

例えば同じ勉強をしましても、やってることは同じだけれども、目的によって意味は随分変わってきます。英語なら英語を勉強するということでも、お医者さんになる人が英語を勉強する場合にはですね。文献を読み、あるいは英語圏に行って研究をするのに差し支えのないように、医学の為に勉強する事もあるでしょう。あるいは通訳になる為に勉強する人もあるでしょう。英文学を研究するために勉強する人もあるでしょう。あるいは外交官になるために英語を勉強する人もあるでしょう。あらゆる技術を学ぶために勉強する人もあるでしょう。やってるのは同じ勉強ですけれども、そこから意味が、その勉強に意味づけがされます。学問が一つの方向に統一されていきます。

学んだこと、修行したことに意味と方向を与えていく。その事が回向ということなんです。だからあらゆる修行を菩提に。菩提というのは智慧です。智慧の完成に向かってあらゆる修行を集中していく。これを菩提回向とよぶわけですね。だけど菩提というのは覚りの智慧ですが、自分だけ覚りを開けばいいという事じゃなしに、覚りを開いてどうするのかといったら、一切の衆生を覚らせる為の覚りを開くんですから。そうしますと、覚りを開くというそのままが、一切の衆生を教育し一切の衆生を教化していく、そういう方向を持つことになります。これを衆生回向と言うわけです。だから菩提回向がそのまま衆生回向でもあるような、そういうものが仏道修行というものだ。この菩提回向のことを「自利」、衆生回向のことを「利他」ということですね。それに対して実際回向というのは、実際というのは涅槃のことです。煩悩が寂滅した、煩悩がきれいに消えた涅槃の安らかな覚りの境地を、実際と申します。実際ということはニルバーナ(nirvāņa 涅槃)の事ですね。

ですから、あらゆる修行は、煩悩の寂滅というものを目指しております。例えば修行をして超能力が身についた。それでその超能力をもって金儲けをしようというのがおりますと、これはまさに邪道に陥るわけですね。名利の為、勝他の為に修行したのは、たとえ仏道修行していても、それは地獄道に墜ちる、といわれるのはそういうことですね。それは方向が変わってしまう、意味が変わってしまう。

お医者さんもそうでしょ、お医者さんというのは長いですね。大学でも普通の大学よりも医学部は長いですからね。さらに国家試験があって、その上実地でも長く研修医として技術と知識を身につけて、実際の患者を診て治療してくださる。それがお医者さんですね。そのお医者さんがそれだけ長い期間をかけて修行した、その修行というのはやはり患者の病気を治し、そして患者の苦しみに寄り添うていく。そういう力をつける為ですわな。

あの怪我でもね。大きな怪我でもしているのを見たら、私ら手の付けようがないから目を背けますよ。見とられへんですな。
あれお医者さんは、目を背けませんで。どんな恐ろしい怪我しとったかって、外科のお医者さんはそれをしかっと見据えますな。見据えるのは治す自信があるからですね。その場合は病気を、きちっと見据えないかんですわな。そしてちゃんと治療して治してくれる。これはまことにありがたいですね。普通の人間なら目を逸らさにゃならんところでも、それを見据えながら手術をしてくださる。これは非常にありがたい。そうして人々の苦しみや悲しみを救うてくれる。これはお医者さんの医は仁術というのはここから出るんでしょうな。(仁)
ところが場合によっては、中には薬漬けにして金儲けしよというのが、これは医は算術になってしまいまして、やっぱり困るということになりますね。名利の為に、学問と技術を回向しますと、とんでもないことになるわけですね。
しかし、それを病人の為に回向しますと、素晴らしいお仕事になるという事ですね。ですから一つの仕事をどっちの方向へ向けていくか、方向を転換して尊い意味に向かって意義のある仕事を意味づけていく。これを回向とよぶわけです。

昔から、「行は願によって転ず」[14]と言いますね。行は願によって転ず、どういう願いを持つか、ということによって、その行の意味が変わってくる。回向というのはそういう事です。ですから、この場合には覚りに向かって一切の修行を覚りに向かって歩む。しかしその覚りに向かうということが一切の衆生と共に、一切衆生と共にというところで、人々と連帯しながら人々を教育し、人々を正しい方向に共に向かっていくという衆生回向がある。そして、それによって自他ともに煩悩寂滅した涅槃を開いていく。そういう方向性というものが出てきます。これを三種回向とよぶわけです。
今、この中で阿弥陀さまの本願力回向というものは、衆生回向を中心としたものですね。三種回向というものは離れることはありませんけれども、中心は、本願力回向と言う場合の中心は、衆生回向を中心にして統合しておるという、回向であるわけですね。

さて、その本願力の回向に二種の相があって、一つには往相、二つには還相だと言われる。往相というのは往生浄土の相状、これを省略した言葉とみていいでしょうね。
往・相ですね。浄土へ往生するありさま。相状というのはありさまという意味です。そうしますと浄土へ往生するありさまということは、私達の人生を浄土へ向かったものとして。
我々の人生を浄土へ向かったものとして転換していく。その仏様のはたらき、どういうかたちで私の上に、どういうありさまで私の上に顕われてくるか。それは教・行・信・証というかたちで現われてくるんだというので、「往相の回向について真実の教行信証あり」(135) と、こういうふうに(親鸞聖人が)言われるわけですね。教行信証というのはこの往相のありさまでございます。

「教」というのは。もっと詳しいことは後ほど申しますけど、教というのは、おしえですけども、教えというのは昔から教諭(ぎょうゆ)の義といわれます。言葉の意味としては教諭、教え諭すという事ですね。師匠が弟子に学問や技術とかいうものを教えて、そしてその学問や技術を身に付けさせる。そういう事を教えるというんですが、この教えの中に二種類ありまして、「教説」と「教法」とがあります。教説というのは言葉です。教えの言葉です。
教法というのは、その言葉によって表現される法義内容のことです。だから「教」といっても教法の事を意味しているのか教説のことを意味しているのか、前後の文脈によって読み分けねばなりません。

(それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり)

今ここでいわれる真実の教というのは、実は教説のことです。教法のほうは、教・行・信・証が教法なんです。つまり教説の方はこれは能詮(のうせん)といいますね。よく法義を詮顕する言葉、能詮の言教(ごんきょう)。こんな言葉で昔は能詮の言教といいます。要するに言葉ですね。
その言葉が、教法を顕わしている、これを所詮(しょせん)の法義と言います。詮というのはあらわすという事ですから、よくあらわす言葉(能詮)、表わされる法義(所詮)。これを能詮の言教、所詮の法義と言います。
そこで今、「教」と言っているのは、能詮の言教ですね。ですからこれは教えの言葉です。行・信・証が所詮の法義です。この教にあらわされている内容を、行・信・証と親鸞聖人はここで表わしていくんですが、これが所詮の法義ですね。

例えば、行の事を教という言葉であらわされる場合があります。行文類の中に、一乗海釈というのがありまして、「教について念仏諸善比挍対論するに(199)」とこういってね。
念仏と諸善を比較して対論して、そして四十八の対論を行なっていく。最後に本願一乗の法は絶対不二の教であると結論づけていかれます。この場合の教は教法です。それは行の事です。法のことを「教」という言葉で表してありますね。ですから教といっても「念仏諸善比挍対論するに」と、こういっているときは念仏のことを教と仰っているとこういうことです。
念仏がなんで教なんだというと、念仏は教法なんです、法なんですね。我々がそれによって生きていく生き方をあらわしたものなんですね、行です。
信というのはそれを受け容れる、疑いなく受け容れる機のあり方をあらわしていますから機受と言います。「機について対論するに」と信疑対というふうに十二対がず~っと出されていきますね。そして、「金剛の信心は絶対不二の機」である、信心は絶対不二の機だという言葉で表わされていますね。念仏が絶対不二の教であるように、信心は絶対不二の機であるというてはりますが、あの時の教と機という場合の教は教法の事であって教説の事じゃないわけですね。ですから文脈によって言葉を読み分けなければ仕方がないですね。

さ、そうしまして、教という言葉そのものは教え諭すという事です。その、教え諭す言葉と教え諭す法とがありますが、いまは言葉の方であって、大無量寿経これなり、「それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり」、と言われております。

ただその教なんですけど、その法を表わす教というものをね、説けるのは一体誰かということになりますね。これは教の分斉といいましてね、この教という言葉は誰の上で使えるか、ということが問題になります。
これは天台大師が「法華玄義」という書物をお書きになりますが、その天台大師の「法華玄義」の中に、教というは聖人、しもにかむらしめる言葉なり、ということを仰っていますね。
聖者(しょうじゃ)が下にかむらしめるというんですから、聖者というのは覚りを開いた方です。覚りの境地に到達された方が、未だ覚っていない迷うている者にかむらしめる言葉、それを教と言うんだといわれてますね。だから教というのは聖者でなければ説けない、というのが教なんです。仏教でいう教は、誰が言っても教といえるんじゃない。聖者でなければ説けないという枠にはまっているということです。聖者というのは、覚りの智慧を開いた方です。

昨日ちょっと言いましたが、聖者と凡夫は違う。きちっと分けます。凡夫というのは畏怖心のさらぬ者、びくびくしながら暮らしている者を凡夫と名付けるんですが、これは正しい道理が判っていない者。正しい道理が身に付いてない者、完全に身に付いていない者、頭でわかっていても身に付いていない者。だからいろんな面でびくびくしながら癇(かん)立てながら生きている[15]、これが凡夫ちゅうんですな。まぁ凡夫は説明せんでもだいたい判るんです(笑)。
聖者の方はわからん。これは覚りの智慧を開いた御方、そして一切のとらわれを離れている。それが聖者。一般の仏教で申しますと初地以上の菩薩、これが聖者。完全な聖者は仏様です。しかし完全ではないけれども覚りの智慧の目を開いていらっしゃる方々は沢山いらっしゃる、これは聖者といわれます。この聖者になりますと法が説ける。聖人、しもにかむらしめる言葉なりです。
これはお釈迦さまなんかやっぱりそうなんでしょうね。お釈迦さまよく仰ってますがね。私が法を説くのは丁度手のひらの中・・・・

(テープ切れ。多分、「掌のうちにおいて阿摩勒菓を観ずるがごとし」の例だと思う。まるで手のひらの上の果物を見るように、ハッキリと明らかに法を説くという事かな? 真巻356を参照)

それはねぇ、覚った人が説く言葉というのは全然響きが違うんですな。そやから「論註」の中にも「羅漢を一聴に証し」という言葉がありますが、もう一言聴いただけで阿羅漢の覚りをぱっと開くようなね。それはよっぽどすぐれた人ですけどね、お釈迦さまの説法を聴いただけで覚りを開くような、そういう人もいたんですね。
そういやそうですな。お釈迦さまが最初説法をなさった時、五人の比丘達の中でコンダンニャ(解了の義 大経では了本際)という方がいますが、アンニャ・コンダンニャ、阿若多憍陳那。あの方はお釈迦さまの説法を聞いて、解ったということで最初覚りを開きますよ。そこでコンダンニャが解ってくれた、コンダンニャが解ってくれたというのでお釈迦さま大変喜ばれたという事があります。
そこから、アンニャ・コンダンニャ[16]という言葉が始まったといわれていますが、あの人なんか、一ぺんお釈迦さまの説法聞いただけでぱっと解ったという。

あなた方もなんでしょうなぁ。私が覚りを開いていたらぱ~っと解るんでしょうが、申し訳ありません(笑)。こらまあしゃあないですね、受売りやから。受売りとほんまもんは違いまっせ。言葉の響きが違う、だからぱっと心の一番深いとこへ入っていくんですな。そういうものがあるんですよ。聖者というのはそういう真理を目の当りに体得した人ですね。ですから真実を非常に的確に説く事が出来る、こういう人が聖者といわれる。この聖者が説く言葉を、これを「教」というんだ。

そうすると凡夫は教を説く資格がないんだなぁこれは。お説教ちゅうけどどやろ。あっ、これ心配せんでも、御開山は『教行証文類』見ますと、三種類「教」の主体を、教を説ける人を、挙げておられます。一つはお釈迦さまです。これは教文類の教がそうですね。
「それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり」と、お釈迦さまがお説きになった「大無量寿経」を教と仰っているんですから、お釈迦さまの教ですね。
もう一つは阿弥陀さまの教がありますね。あの六字釈(170)のなかにね、帰命の帰と命の釈があります。あれは全体は南無阿弥陀仏の釈です。六字釈全体が阿弥陀さまの本願招喚の勅命。その本願招喚の勅命という言葉を出していくのに、命の字の訓がありますね。
「命の言は、業なり、招引なり、使なり、教なり、道なり、信なり、計なり、召なり」と八つ出してあります。あの中に教なりとありますが、あれは阿弥陀さまの教ですね。で、これを押さえて「本願招喚の勅命なり」というのを出してくるんですから、あの教は阿弥陀様の教です。
もう一つはね。自信教人信の教ですわ、自ら信じ人をして信ぜしむる。あれ普通は人をして信ぜしむると訓むんですけど、親鸞聖人は、人を教えて信ぜしむると、教の字を教えると訓んでらっしゃるんです。あれ普通は漢文では、教は教えると訓まないで、人をして信ぜしむと訓むんですがね(教ー使役)、自信教人信というのはね。けど、御開山はハッキリと、人を教えて信ぜしむると仰ってますから。ということはこれは念仏者ですね。自ら本願を信ずる人は教を説くことが出来るんでしょうな。

そうすると教の主体は、釈迦、弥陀、念仏者の三者になります。ただし、念仏者は阿弥陀さまの仰せを、お釈迦さまのみ教えを正確に頂いて、そして頂いたとおりを正確にお伝えをするときに教というのであって、私の計らいを雑えたらそれは教ではありません。ただの邪教になる。私の計らいを雑えずに釈迦・弥陀二尊、さらにいえば祖師のお言葉を正確にお伝えする時に教と言えるんですね。

さて、もう時間がきましたが、このお聖教という場合もね、やはり聖者の言葉としなければならんでしょうね。じゃ聖教って何なんだというと、これは随分難しい問題があるんですね。浄土真宗では基本的には御開山ですね。御開山が聖教と認めて下さったものを聖教とするということが基本でしょうね。御開山はどうなんかと言いますと、御開山はやはり無漏智を開いている。そりゃあ無漏の智慧を持っていらっしゃる。これは普通じゃないですね、昨日申しましたけど並の人ではございません。
私は愚かな者で何も判りませんと仰いますけどね。「念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり」(832)と言われますがね。総じてもつて存知せざるなりとずばっと言い切れる人ってのは、解ってるとこがあるから言えますねんで。だいたい判ってるか分かってないか解かってないんや(笑)。それで判らんくせに解ったような顔しているか、分かったか分からんかどっちかや。ワカランと言い切ってしまう人ってのはねぇ、喨々として開いた一隻眼があるんですよ。御開山ていうのは凄い眼を開いてらっしゃいますね。

だから御開山が見抜いていかれたお聖教を辿っていきますと、やはり凄い世界が開けてきますからね。そして、御開山が選定された七人の高僧方。しかし七人の高僧方といいますが真宗のお聖教というのは何でもかんでもいいちゅうもんじゃない。御開山が定められたものだけですわ。例えば源信僧都といっても、「往生要集」だけですよ。「一乗要訣」であるとか、そういったのは真宗のお聖教とはしません。やっぱり御開山がちゃんと定めて下さったものが我々が辿る一番の目途ですね。
真宗の聖教の選定というのは相当に難しい問題がありましてね。

一応、今日はここで終わりまして行・信・証、そして教の内容について、もう少しお話せんならんことがありますので、お昼から又もう少し教の内容、行の内容等についてもお話させて頂きたいと思います。どうも失礼いたしました。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・(和上退出)

第三日目-1

往相の回向について真実の教行信証あり、と。称名・・。(讃題)

おはようございます。(おはようございます)

真実の教行信証ありと、これから現わされていく内容を、あらかじめ提示されておるわけでございます。昨日まで本願力回向の二種の相として往相/還相という事がある。その往相の回向に、真実の教行信証があるといわれた中で、特に本願力回向を中心にしながらお話をしてきたんですが、今日は、その内容である真実の教・行・信・証ということを簡単にお話をしていきたいと思います。

教という事ですが、これは昨日申しましたように、教というものは、真実の教といわれるのは『大経』であると、こう言われてます。真実の教が『大経』だというのであって、したがって、真実でない教というものがあるんですね。この場合、教というのは、聖人下にかむらしめる言葉、というふうに定義されていますように、聖者が、ここではお釈迦さまがお説きになったお言葉、そのお釈迦さまがお説きになったお言葉の中で、真実の教といわれるものが「大経」だと言われてるんですから、したがってこの場合(釈尊の説かれた経典)には真実でない教がある。それを方便とよんでおります。

真実なるもの、その真実教は方便教に対しているんですね。真実教、方便教、これはどちらも仏陀の説法の中で分けていくわけでございます。真実というのはどういうことかと言いますと、仏の随自意ですね。仏が自らの本意を現した、自らの心に随って仏の本意を顕わされた。その仏の本意を本意の教えを、これを真実教と言います。

(板書 林遊記憶なし)
真実教ーー随自意ーー仏の心に随って説いた。仏の御本意。
方便教ーー随他意ーー他の心に随って説いた。仏の不本意

随自意、随他意という言葉で真実と方便ということを分けるのは法然聖人です。勿論、天台宗でも、その他の仏教でも一般的に使われているんですが、浄土教の中で随自意、随他意という言葉で真実と方便を分けたのは法然聖人の「選択集」ですね。
「選択集」の念仏付属章というのがございまして、そこに「随他の前にはしばらく定散の門を開くと雖も、随自の後には還りて定散の門を閉づ」(1273)。

定善・散善というような自力の法門というものは、他の心に随って、つまり、未だ未熟な者、仏の本意を直ちに受け取る事が出来ない未熟な者を教育して、仏の本意が理解できるところまで育てていく。そういう教育的手段として定善・散善というような自力法門が説かれたんだと、随他の前にはしばらく定散の門を開く、と雖も、随自の後には、随時というのは自らの心に随って説くということですね。随自の後には還りて定散の門を閉じる。その方便の教えというものを閉じる、とこう仰っているんですね。
「一たび開きて以後永くぢざるは、唯是念仏の一門なり」と仰って、念仏の法義、定善・散善という自力の法門に対して、他力の念仏の法門というものは仏の随自意、自らの本意に随って説かれたものだ。
したがって、この随自意の法門は、一たび開きて長く閉じることはない。これは仏の本意を現わしているんですから決して閉じることはない。

「随他の前にはしばらく定散の門を開くと雖も、随自の後には還りて定散の門を閉づ。一たび開きて以後永く閉ぢざるは、唯是念仏の一門なり。弥陀の本願、釈尊の付属、意此に在り」。
こういうふうに随自意・随他意ということで、真実と方便とを分けていくわけですね。
これは仏教の中で分けるわけですね。この方便の教えとはどういうものかということを親鸞聖人が展開されるのが化身土文類です。その化身土文類の中のですね。方便の法門として、真門と要門とそして、聖道門と、こういうものを開いて明かされているわけですね。要門章、真門章、そして、方便法として聖道門を明かしているわけです。

この中の真門というのは第二十願の法義ですね。これは経典で言いますと、「阿弥陀経」の顕説です。「阿弥陀経」と「観経」には隠顕があると、親鸞聖人は仰るんですね。顕というのは顕わに説かれている法義、穏というのは隠れたかたちで説かれている。隠れたかたちという、それが見える人と、見えない人がありますわね。
「阿弥陀経」は、阿弥陀さまの本願の第二十願の自力念仏の法門というものを開説したものだ、と見られたんですね。つまりこれは自力念仏の法義、自力の念仏往生の法義、これを真門とよぶ。
それに対して、要門というのは第十九願を開説したのでそれは「観経」である、と見られているんですね。これは諸行往生ですね。自力の諸行往生の法門を要門とよぶ。
そして聖道門ですね。聖道門というのは、この土で覚りを開くことを目指す法門ですね。此土入聖、この土において覚りを目指す法門を聖道門とよんでいる。

真実の教といわれるのは第十八願の法義であって、その第十八願の法義を開説した『大無量寿経』の法義、他力念仏の法門のことでございます。
こういうふうに分けて、真実教とその真実教の内容を表わすのは、教・行・信・証、そして真仏土という、『教行証文類』の全五巻の法義ですね。

それから方便の教えというのを明かすのが、いま申しました化身土文類の本巻です。化身土文類の末巻にはですね、邪偽を、真偽を勘決して、外教邪偽の異執を教誡という言葉で始まっていますので、邪偽の教え、それを説いていくのが化身土文類の末巻の方です。
ただしこれは、随分複雑な説き方がされておりますんで、よほど注意をしなければなりません。
そこで親鸞聖人の教えというものは、真実の教えと、方便の教えと、邪偽の教えと分けるんですね。宗教の中に、真実の宗教と、そして方便の宗教と、そして邪偽の宗教と、こういうものを分けていく。真と仮と偽という三種の枠組みで、あらゆる宗教現象というものを網羅していくわけです。

で、その邪偽の宗教とは何かというと、これは真実に背くものなんです。真実に背反したもの。真実に背反しているという事は煩悩ですね。煩悩を肯定し、その煩悩を助長しようとする宗教。煩悩を助長するような宗教、これを邪偽の宗教とよんでいるわけなんですね。
いうならば、煩悩を肯定し助長するために神さんであるとか、そういうものを設定していく、そういう宗教を親鸞聖人は邪偽と言われたわけです。したがって邪偽の宗教というものは煩悩を肯定していくわけですね。肯定するばかりか、その煩悩を超越者の力によって助長し満足させようとする宗教、これは邪偽の宗教だ。真実に背いたものであるというんですね。その真実に背いたものから、真実の宗教へと私達を導いていく。そういう体系でもって、仏教というものが説かれているんだ、と親鸞聖人はご覧になるわけですね。

その邪偽の宗教から真実の宗教へ転換させる為に説かれたものが、これが聖道門だ、とこう見ていらっしゃる。したがって聖道門とは頭から人間の煩悩というものを、無明煩悩というものを完全に否定していきますね。邪偽を否定する、邪偽の否定というものが聖道門の役割なんです。ところで、よく嘘も方便とかいうことを言いますが、嘘と方便とは全然違います。嘘というのは真実に背くものですね。方便とは、その真実に背く邪偽から真実へと導いていくものなんです。だから方便は嘘ではありません。方便が嘘だったら方便じゃない、ということですね。方便としての意味を持たない。

ですから全体として仏教、仏陀の教えというものは、これは邪偽を否定して、そして真実に引き入れようとするところにあるということで、親鸞聖人は、この聖道門というものを、邪偽の宗教から真実の宗教へと転換させる転換点として、仏陀が設定されたものだと、こういうふうに位置づけられるわけです。
こういうふうに仏教というものをその機能によって、位置づけをしていくわけなんですね。これが『教行証文類』に現わされている、非常に動的な、躍動的な仏教観なんですね。
聖道門というものはどういうものかといいますと、まず煩悩を許さない。つまり、無明煩悩を断ち切る。そして、真実をはっきりと現わしていく、これが聖道門なんですね。ですから、聖道門の教えはつまらん教えなんじゃない、素晴らしい教えなんですね。煩悩を断ち切るにはどうしたらいいのか。一朝一夕にいけるわけではないんですから、自分の生活全体がそういう方向を持たなければなりませんから、そのためにはまず戒律を保つ。
衣食住の三に対する執着を離れるということですね。食う事と、着る事と、そして住む事と、衣食住の三に対する執着を離れる。これがまず第一でございますね。だから出家をするわけです。聖道門というのはもちろん出家仏教でございます、基本的には出家仏教ですね。

一日に食事は一食、それも、人の食べ残した残りものを頂いて、それを昼までに頂戴する。お昼までに頂けなければその日は食べない。そういう最低限の生活をする。ですから原則として、お仏飯は午前中に上げるというのはそれなんですね。正午過ぎたら一切食べない。牛乳も駄目、牛乳も食事の中ですから駄目。午後、口に入れていいのは水だけです。ただし水を飲むときにも水の中には微生物がおりますから、それを飲まないようにします。それは、汚いから飲まないのじゃなくて、殺すから飲まないんですね。その為に漉し布を持っていまして、布で漉して微生物はちゃんと元へ返すようにして水だけを頂く。こういうことをするわけですね。そして、明日のために一握りの塩も残すな、今日の命は今日で終わってしまえ、明日の事なんて考える必要はない。こういうのがまず出家の掟(戒)でございます。一日一日いのちは頂戴して、そして一日一日終わっていくわけですから、今日の命は今日で終わる、明日の事は考えるなということですね。そらそうでしょうなぁ、鶏だって明日のことは考えへんのやから・・。

そういうことで、衣食住の三を捨てる。食はそういうことですが、着るものは下衣(したぎ)と上衣と中衣、熱いときは一枚のサリーですね、薄い一枚のサリーを羽織る。寒くなりますと二枚三枚と重ねますけれども。結構寒期になりますと北の方へ行きますと寒いですからね。冬になると三枚を重ねますが、それ以上は持たない。この三衣、下衣と上衣と中衣、ようするに広い布です。この布は原則として人が捨てた布を拾ってきて、継ぎ合わすわけですね。いわゆる糞掃衣といわれるものでございます。糞掃衣というのは死体置き場へ行きますと死体をくるんだ布が落ちている。その死体をくるんだ布は誰も欲しがりません。その捨てたものを拾ってきて、綺麗に洗って繕りあわせて一枚の布にして、それを身に纏うわけですね。それが着物でございます。

住まいは、樹下石上、あるいは岩陰とか木陰でやすみます。横になって寝るということはしません。座ったまま寝ます。座ったまま座禅くみましてサリーを纏って朝までねます。お釈迦さまでも(横になるのは)亡くなる時だけですね。病気をしたときなどには横になって寝ますけども、それ以外は座ったまま寝ます。岩陰とか木陰でやすみますから、家は持たない。お金は一文も持っちゃいけない。具足金剛法戒というのがあって、びた一文金持っちゃいけないことになっております。だから泥棒の心配はないと(笑)。
そういうことが、衣食住に対する執着を捨てる。そして、命は一日一日、その命だけで終わっていく、そういうかたちの生活をする。これが戒律の基礎ですね。それを行なうためにいろんな規約が設けられているわけです。

結婚しちゃいけないというのもね。何故結婚しちゃいけないというと、結婚したら子供が産まれる。子供が産まれたら養育する責任がある。子供産んでおいて養育しないというのは無責任という事ですね。子供を養育するためには、衣食住の三がどうしても大事になってきますよね。だから出家というものは勝手にしてもらっては困るんですよ。養育の責任あるものがそれを捨てるには単なる責任放棄ですからね、許さない。出家は許しません。だから出家する時にはね、きち~っと、あっこんな事言うとったら・・。もうやめとこ。

とにかく、聖道門というのは一切の欲望を、我欲を捨て、そして怒りを捨て、そして憎み腹立ち妬み嫉む、そういう煩悩をすっかりと心から除去していく。そういう心のけがれ、いわゆる煩悩ですね、煩悩というのは心の汚れです。この心の汚れをきれいに無くしていくということが、邪偽の宗教を徹底的に否定していく。これは、論理として否定するんじゃない、生活をあげてそれを否定するんです。

邪偽の宗教たってね、それは自分自身の中にあるんです。煩悩を満足させる為に何でも利用したろというでしょ。何でも利用しようとする心、それがあるから邪偽の宗教が出てくるんですから、邪偽の宗教が悪いんじゃなくて、そいつを作り出していく煩悩が一番悪いんですから、そいつを無くしていかにゃならんですね。
出来上がった宗教の教団を否定したってそんなもんしゃあない。それを作り上げていく人間の心というものを改造しなけりゃならん。それが聖道門ですね。だから徹底して否定します。そこには一点の妥協も許さない。

この聖道門の修行を、例えば日本で言いますとね。その道を真っ直ぐに行こうとした人が栂尾の明恵上人高弁という人がいますね。これは実に清潔な人ですね。あの人ね、男前だったんですよね。すごく男前だったんですが、美しい人だと言われることを嫌がりまして自分の顔を焼け火箸で焼いてしまおうとしたんですね。ところがそれはいかんという注意を受けまして、焼くの止めますけど結局自分の耳を切ってしまいますね。こっちの耳を自分で切ってしまいます。だ~っと血が噴き出すのをじっと押さえながら、耳無し法師と自分で言っておりますね。自分の耳を断ち切って、俺は普通の人間の仲間入りはしないというわけでね。人間の仲間入りをしないという標(しるし)に自分の耳を切ってしまう、恐ろしいことをやる人なんですよね。

そして、実に厳しい生活をしていきます。日本で本格的に戒律を保って生きていこうとした、そしてそれを自分自身に身に付けていこうとした人ってのは明恵上人でしょうな。
寝た間も修行はやめません。寝た間も修行止めないちゅうたらどないなるんじゃちゅうたら、夢を見るでしょうが。その夢を克明に記すことによって自分の心の中を知り、そして心の奥底を知り、そしてそれを浄化しようとするんですね。彼は若いときから夢の記というのを書き続けている。栂尾へ行きますとね、彼の夢の記が残っておりますが、とにかく四六時中修行しているんです。

樹上で、木の股になったところで座禅している姿が描かれていますが(*)、本当にやったんですね。木の上で座禅して、あんなん居眠りしたら落ちますよ、落ちて怪我しますよ。
だから居眠りしないように木の上で座禅をやった人です。まさに日本で本格的に聖道門の修行をやった方ですね。しかし日本では難しいだろうなぁ。だからしょちゅう山ん中へ籠もってしまって出てこないという事をやるわけですね。そういうふうにして自分自身と格闘し、自分の煩悩を浄化していく、それが至上命令ですからね。これは絶対、最後まで仏教である限りは、邪偽の宗教に対して徹底的にやり抜いていくわけですね。

で、この道を通って浄土真宗というのは出てくるんですね。初めから人間は煩悩があるからしゃぁないねん、などということは許されない事なんです。絶対許されない事なんですね。
この頃、真宗が衰えたと言われますが、真宗が衰えたんじゃなくて聖道門が衰えたんだろうな。否定的に媒介すべき聖道門が衰えた為に、今度はその媒介項が無くなってしまいますとこっちもややこしくなってしまうんですね。もう一度内部で再生産せにゃいけないことになってくるんですね、これは。これからの真宗というもの、聖道門無き真宗というものは、聖道門無き真宗と言うとえらい悪いけどね。あの本来の此土入聖を目指した、あの本来の聖道門がないというと、真宗は一つ間違うと邪道に墜ちてしまいますよ。邪教に墜ちてしまうんです。非常に危険なものなんですね。だからここでは(邪教・聖道の対判)、きちっと歯止めをきかしているわけです。この聖道門の歯止めというのはすごく大事なものなんですね。
これで(聖道門)方向性という事がきちっと決まる。ところが実際聖道門の修行をしていきますと必ず行き詰まる。自分の煩悩と格闘しながら、そこで行き詰まってしまう。先程言いました栂尾の明恵上人が、法然聖人の「選択集」を徹底的に批判いたしまして、お前は畜生か、とまで言っているんですね。お前は畜生だという恐ろしい言葉を吐いてね、法然聖人を批判しているんですね。邪道であり邪祠邪教であり、そしてお前は畜生か、とそんなことまで「摧邪輪」の中で言っているわけです。何故かというと菩提心を撥無した、菩提心が無くてもいいと言った。菩提心のない仏法なんてあるか。
菩提心というのは覚りを開こうとしている、菩提を求める心じゃないか。その、菩提を求める心なくしてどこに仏教があるか。菩提心無くてもただ念仏だけすればお浄土へ行けるなんて、そんな馬鹿な仏教はあるわけがない。あるいは戒律を保たなくてもお念仏さえ申せばお浄土へ行けるんだと、戒律を否定してどこに仏教があるかと言うてですね、強烈な批判をするわけですね。お前は仏教を破壊する悪魔であるとまで言ってしまうんです。
ところがね、あんたね、お前は本当に菩提心を発したのかと(明恵上人に)言いますとね。彼はこう言うんです。非常に自分自身を内省している人ですからね。私もね、本当の意味での菩提心は発きない。けれども私は菩提心を発そうとして日夜努めているんだ。お前はそれを初めから止めてしまっている。それがけしからんとこう言ってるんですよ。発せないないとこ一緒やないかと言うたら、ほんなこと言うたらあかんのやな。そこが難しいとこやねん。

ところがね、法然聖人や親鸞聖人はね、自力の大菩提心が起せないことを恥ずかしいことだと仰っている。恥ずべし痛むべしと仰っています。あの恥ずべし痛むべしという言葉が出て来なければ真宗じゃない。当たり前だと思ったらそこには真宗はない。いやむしろ邪道にもう一度逆転してしまったことになる。法然聖人も愚痴の法然房、十悪の法然房、破壊無慚な法然房、まことに恥ずかしい者でございます、と法然聖人は仰っている。あの恥ずかしい者でございますと言うのは、聖道門の規格がぴしっと心の中にあるからですね。そして、そこで邪道へ邪教へ逆転するという事がないという、心の中にきちっと方向性が決められているわけです。聖道門というのは意味あるんですよね、これが無くなったら浄土教というのは・・。実は浄土教というのはそれを前提にしています。戒律が前提になって戒律が保てない。あるいは、その戒律を保つこともできない、せっかく戒律を受けても戒律を破ってしまう。そういう自分を浅ましき事として、申し訳ないこととして感ずる心が、如来の大悲を仰ぐ心に転換していくわけですね。これがなかったら仏教じゃなくなる、という事ですね。

親鸞聖人は、ただ聖道門を否定したんじゃないんですよ。もしただ否定しているんだったら何故あの『教行証文類』の中に、「華厳経」、あるいは「涅槃経」、あるいは「維摩経」、あるいは「不空羂索観音経」(不空羂索神変真言経)、様々な経典がそこに引用されてですね、あるいは「大集経」というような経典が引用されています。あれは聖道の経典やないかというと、聖道の経典じゃない、あれは浄土門の内容なんだ。『大無量寿経』の内容として一代仏教を全部包摂している、これが親鸞聖人なんですね。だから親鸞聖人の教えは凄くスケールが大きいんだということ。ただその否定したとこだけ見て、じゃ捨てればいいのか。捨てりゃいいんじゃないんです。捨てるには捨てるだけの決意がいるし、捨てるには捨てるだけの、その覚語がいる。『教行証文類』が現わそうとしている内容をよく見てみますと、非常に厳しいものが説かれているということが解ります。

さ、とにかく、その聖道門では行き詰まりがやってくる。非常に深遠な、そして、どう考えても真っ当な、これが真実の生き方だ、というのはあるけれども、その真実の生き方に実際に現実に背いている自分というものが見えてくる。そこから一つ間違えば邪道に墜ちてしまう。邪教に墜ちてしまう。しかし、その邪教に落ちることはもう許されない。聖道門の洗礼を受けた限り、仏法の洗礼を受けた限り、もう邪道へ落ちることは出来ない。
しかし煩悩を持て余してしまう。その煩悩を持て余した中で、死ぬるまで煩悩具足の凡夫でしかないありえない者は一体どうしたらいいのか、という問題が出てきて、その死ぬまで煩悩具足の凡夫でしかあり得ない者を救うて浄土へ生まれさせて、そして、お浄土で覚りを完成させようという宗教があるんだ、という事を言ったのが浄土門であり、それがまず最初、要門ですね。

その聖道門の行き詰まりを通して、その聖道門の修行を、そのままこの土で覚りを開くことはできないが、浄土において覚りを開かして頂こう。そこから浄土願生というものが生まれてくる。聖道門の行者が浄土願生の行者になる。そこには理想主義的には、理想的には自分自身の煩悩を浄化しなければならないが、現実の自分は煩悩にどっぷり浸かったままの自己である。その事が見えてくれば見えてくるほどですね、死ぬまで煩悩具足の凡夫でしかあり得ないという事の悲しさを通して、浄土を願生しようというものが出てくる。これが要門といわれるものなんですね。そこでは今まで修行してきた修行が、そのまま浄土願生の行として、浄土を目指していく行としての意味を、浄土を目指す意味を与えていく。そこに要門というものが出てくる。
諸行というのは聖道門の修行でございます。その聖道門の修行を通して浄土を願生しようという方向性が生まれる。そこには一つの挫折がある。その挫折というのはこの世で生きている限りは煩悩を起こし続けるしかない。その意味では、この土で覚りを完成することが出来ないという挫折感をとおして浄土願生というのが出てくる。

浄土教というのは、何らかの形で自己自身に対する挫折感というものがなければ、浄土教というのは成立しません。挫折感のない浄土教なんてあり得ない。
私は何処まででも伸びていくんだ、などと考えているのは聖道門的発想であって、それは本気でやれば明恵のような強烈な理想主義を生きていく。そういう人もいますよね。しかし、彼もどこかで挫折しているんですね。挫折しながら、しかし、その中で聖道門の教えの中でそれを包んでいこうとしております。実際それは信仰としては、彼の信仰としてはそれは出来上がります。けど、彼は最後には、念仏ですね。ただし釈迦念仏です、南無釈迦牟尼仏、南無釈迦牟尼仏と唱える、あるいは南無同体異体一体三宝(南無同相別相住持仏法僧三宝)、三宝念仏ですね。念仏、念法、念僧、三宝念仏。南無同体異体一体三宝と書いてですね、それを本尊として三宝念仏を始めていきます。皆ああいうかたちになるんですね。そして、死んでもこの修行を続けて行こうというのを彼は現わしていきますけど、どうもあそこから、やはり要門というのが出てきますね。

法然聖人や親鸞聖人を弾圧いたしました、あの笠置の貞慶。この人が「興福寺奏状」を書いた、その興福寺奏状が承元の法難の思想的な裏付けになったものなんですね。
親鸞聖人が、興福寺の学徒が、承元丁卯の歳、仲春上旬の候に奏達す(471)、と言われているのは興福寺奏状を指しているんですが、あの興福寺奏状を書いた笠置の解脱上人貞慶もやっぱりそうですね。如実の菩提心を発してこの土において覚りを極める目途だけでも立てたいと思ったんだけど、結局駄目だったんですね。

亡くなる一月程前に、彼は弟子達に法語を語っているんですね。それは「観心為清浄円明事」(*)という名前ですが、漢文で書かれた法語が残っておりますが、それを見ますと、私は一生涯、清浄菩提心、清らかな菩提心を発そうとして努めてきたけれども、結局は如実の菩提心を発すことは出来なかったと言うんですね。これは如実の菩提心を発したらね、生死を超えるんです。覚り開くんです。そうでしょ、衆生無辺誓願度といいますね。一切の衆生を済度しようというでしょ、一切の衆生を済度しようという人間が死んでどないすんねん。生きとし生ける全てのものを救うていこうという人間がね、一人も救えないまま死んでいってどないすんねん。だから一切衆生を済度しようという心を発した人は死なない。俺は永遠に死なない、という、そういう境地に到達しなければ駄目ですよ。そうでなかったら本当に誓ったことにはなりませんよ。
そうでしょ。衆生無辺誓願度、わしらも言いますわな。衆生無辺誓願度、煩悩無尽誓願断って歌、唱いますけど、わし唱ったら音痴になるさけ止めとくけど。
そういう歌があります。あんなん自分のことと思てますせんから平気で唱ていますけどね。
あの言葉。一切の衆生と連帯しよう、一切の衆生の上に俺は生き続けるんだ。そういう誓いが本気で発った瞬間に、私は一切の衆生と連帯している。一切の衆生が私である。自己の中に一切衆生を見、一切衆生の上に自己を見る人間に、死んだや生まれたやということはありません。生死は完全に超えられます。
だから初めて発心した時、即ち正覚を成ずる、とお経に説いてある。初発心時 便成正覚というのが華厳経の有名な信満成佛といわれる思想なんです。実は親鸞聖人はそれを『教行証文類』の中にぴしっと引用してくるんですね。あの信満成佛をいったところにね。
ですから本当に菩提心を発したらその瞬間に覚りが開ける。ところが彼(解脱上人貞慶)は、そこまでの菩提心は発きない。口先で、衆生無辺誓願度、煩悩無尽誓願断と言うているけど本気にその心が発きない。それが彼の生涯の問題だったんですね。

若い時分にですね、どうしても本当の菩提心がおきないので、色んな人に聞いた。これは教えに欠陥があるのか、それとも私に欠陥があるのか、どっちに欠陥があるのかと聞いたけれども、誰も教えてくれる者はなかったというんです。
ないはずだ。それを教えてくれる者は一人だけしかいなかった。その一人だけを彼は敵にまわした。その一人が法然聖人です。この問いに答えてくれる人は、法然聖人しかいないんですよ。法然聖人というのは、その問題を抱えて、そしてそれを転換したところに法然聖人の宗教が出るんですからね。彼には法然聖人は見えなかった、ということですね。
大体ね、下から上は見えないんだ。上から下はよお見えるんだけどな。

彼(貞慶)はどう言ったかというとね。最後はね、もう死ぬ一月前ですからね。病床に横たわっている、もはや山の中へ籠もって修行するどころじゃない。もう寝ているんですからね。笠置の解脱上人貞慶は最後は、私は、この上はお念仏を申して、つまり南無阿弥陀仏を唱えて、臨終来迎を期するしかない。念仏を申し、戒律を保ってお念仏を申し続けるならば、阿弥陀さまは臨終に迎えに来てくださると観経に説いてある。そうすると私には、念仏申し続けるならば臨終正念に住して、そして阿弥陀仏の来迎を感得するはずだ。
その阿弥陀さまの光明赫奕として輝くお姿を拝見した時、その喜びの心と同時に無上菩提心が発り。<心が浄化されてね、仏様の光を見ることは、如来様の光を見ることは煩悩が浄化されることです。>その瞬間に煩悩が浄化されて、私の心に如実の菩提心が発るであろう。それを目指すしかない、と彼は言うているんですね。
そうしますと、彼は一生涯修行と学問を通して、最後はお念仏を申して、そして、臨終正念を祈り続けて終わっていったわけですね。これが要門なんです。

御開山は、そういう真剣な生き方、ど真剣な生き方を、修行者の生き方を、目の当りに見ているわけなんですよ。要門というのはそういう真剣な修行者の前に現われる宗教なんですね。だから、諸行往生。
けれども気の毒なことに、そこには救いの確証というものは、生きている間に得る事はできない。命、終わった時に臨終の来迎を感得して、そして往生しようというんだけど、その来迎が確実であるということが誰にも言い切れない。そこに一抹の不安があり続ける。死ぬまで不安を抱えながら、しかしまっしぐらに仏道の完成を求めながら一抹の不安を感じながら生きていく。そういう姿の中に、なお救われざる姿、というものを親鸞聖人は見たわけですね。

そこからですね、要門。聖道門から要門へ、そして諸行から念仏へと阿弥陀仏の浄土を目指す人間は、当然、阿弥陀仏のみ名を称えていく、念仏一つにず~っと集約されていくようになるわけですね。そして、そこからお念仏を称えて、そのお念仏の功徳によって阿弥陀さまの浄土へ生まれていこうと、こういうことを目指す、そういう一点に集約してしまう。これが真門ですね。
真門念仏というのは、ただ、なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶとお念仏を続け、そして、そのお念仏の功徳によって臨終来迎を感得し浄土に往生しよう、というのが真門自力念仏といわれるものですね。しかし、最後までお念仏を称えるというのは大変な事なんですよ、口で言うのは簡単だけどね。わしぁ死んだことないからよお知らんけれども、昔から金儲けと死に病には易いこと無い、と言いますけど、結構しんどい話ですね。

法然聖人には師匠は、少なくともこの念仏に関する限り直接の師匠はなかった。二十年余り叡空上人につきますけども、彼の念仏では法然聖人は救われなかったんですからね。したがって叡空上人も本当の意味では師匠ではない。六百年前の善導大師のお聖教によって、心、開かれた、それが法然聖人ですね。だから偏に善導一師によると仰るんですね。善導大師は六百年前の人ですよ。目の当りに善知識に遇うということはなかった人なんだ。
その法然聖人が一人だけですね。素晴らしい人に出会うんですね。これが遊蓮房という方ですね。遊蓮房円照という人です。聖覚法印や今言いました笠置の解脱上人貞慶から言いますと伯父(叔父)さんにあたる方ですね。聖覚法印も笠置の解脱上人貞慶もどちらも遊蓮房の甥でございます。この遊蓮房円照は法然聖人より年は六つ下だったんですね。これが念仏一行を専修する専修念仏者になるわけです。法然聖人が四十五歳の時、遊蓮房は三十九歳の若さで亡くなるんです。
実は法然聖人が後にお住まいになる、東山吉水の草庵はこの遊蓮房円照から譲られた草庵なんですね。広谷別所にあったのを法然聖人が譲られて、それを移築したのが吉水の草庵なんですが、あれを譲ってくれた。そして自分は胸を病んでいましてね、結核を患っておりまして、善峰の方に隠遁をしましてそこで亡くなる。
その亡くなる最後はですね、最後まで念仏を続けるんですよ。その最期の時にね、なまんだぶ、なまんだぶ、なまんだぶと九度(ここのたび)称えるんですね。そこで力尽きるんです。そこで臨終の導師を勤めたられた法然聖人がね、さぁもう一声申しなさい、とこう言う。そうすると最後の力を振り絞って、南無阿弥陀仏と称えて息引き取ったんですね。これは大変有名な話なんで、ほんまなんですよ。臨終十念といいますけどそんな簡単に出来るもんじゃないんですよ。あの遊蓮房円照でも最後の一声がなかなか出なかったというんですね。しかし法然聖人はね、晩年、私の今生の思い出は、浄土の教えに遇えた事、つまり善導大師のみ教えに遇えた事と、遊蓮房に遇えたことが私の今生の思い出である、とこう言われる。それほど法然聖人に大きな影響を及ぼしたのが遊蓮房円照、年は六つ下です。しかも三十九歳の若さで死んでいる。けどね専修念仏、念仏一行というものがね、実に豊かに人生を荘厳していくということを法然聖人は彼を通して確認したんですね。
これは法然聖人の大きな支えになるわけです。さぁそれがどの程度の念仏であったのか分かりませんが、しかし渾身の力を込めて最後の一念を称え、そして十念具足して浄土に往生するというような、そういうことをやってのける。二十願でしょうなあ、御開山から言えば。尊い姿だけれども、なお彼には本当のとこは未だ解ってない、というとこがあったんだろうね。

それがもう一つ転換しまして、この第十八願の他力念仏に入る。この他力の念仏というのは私が称えている念仏じゃない。如来が私の上にあってはたらく念仏なんだ。一声一声お念仏を申している。その一声一声の念仏に如来の顕現を仰いでいるわけですね。
如来、我にあってはたらきたもう、それがお念仏だ。こう味わっていかれた、これが本願力、本願力回向の念仏なんですね。本願力回向というのは、本願力回向が念仏となって私の上にあって実を結び、私の上に花開いていく。そういう姿として念仏を味わっていく、こういうのを他力の念仏。だから称えるとか称えないとかいう自分のはたらきに眼をつけない。なまんだぶ、なまんだぶ、なまんだぶつと、お念仏が一声一声に出てくださる。このお念仏の上に如来のはたらき、私を救いつつある仏様のはたらきを味わっていく。そのことを感得する心が信心ですね。

こういう世界が真実の行信、つまり第十八願の行信はこれなんだ、ということを親鸞聖人はこれから展開するんですね。それを現わしたのが真実の教といわれる『大無量寿経』なんだ。「観経」の念仏、あるいは「阿弥陀経」の念仏とは違う。『大無量寿経』の念仏は、阿弥陀仏の本願力が私の上に実を結んでいる。それがお念仏だ、と頂いた。
だから念仏しているけど、救われるやら救われんやら分からんという、そんな不義理な念仏は親鸞聖人の念仏じゃない、ということですね。不義理な念仏ちゅうたらおかしいけどね。
念仏を申す身に育て上げて私を浄土へ連れて行こうとしている。それが阿弥陀仏の本願力でしょ。だったら念仏していることは阿弥陀仏の本願力が私の上で躍動している姿じゃないか。念仏させた力と、お浄土へ連れて行く力は同じ力だ。茄子(なすび)の花開かせたあの力が、茄子の実を実らせる力なんですよ。
あの茄子の花ちゅうのは徒花(あだばな)がないそうでんな。親の意見と茄子の花は千に一つの徒はないと言う。
そうしますと花咲かせた、念仏の花を咲かせたあの力が、私を浄土の実りにあらしめてくれる力なんだから、念仏していることが、私が阿弥陀さまの本願力の真っ只中に包まれてある姿ですわな。そういう事を感得する、それを信とよぶわけでしょ。だから行と信とは絶対離れない。行のない信なんてものはないし、信のない行なんてものはないんですよ。
これが親鸞聖人の行信なんです。それを現わすのが「大無量寿経」だと、こういうことなんですね。その「大無量寿経」に真実の教というものを見た。そして、そこまで私を導くためにお釈迦さまは様々に手だてを設けて、私の心を育て続けて、邪偽から真実へと私を導いて下さった。
だから、たとえば蓮如上人が方便をわろしというのはいかんぞ、とこう言われています(聞書p1286)。方便を悪しというのはいかん、方便は有り難いと言え、と言われています。これはその通りですね。私を、導き育てて下さった、その仏様のお手立てのご恩を感謝するという事がなければね。ただし、方便のところに止まってはいけない。
階段ちゅうのはね、二階へ上がるために階段があるんです。階段の途中で止まったらいかん。あそこで昼寝したらいかん、やはりちゃんと上まであがらにゃ。

階段ってのは、なんですな、一階から二階へ上がっているんですか、二階から一階へ下りて来ているんですか。あれは一階の延長なんですか、二階の延長なんですか。二階が一階へ延長して来ているのか、一階が二階へ上がっているんですか、どっちや思いなはる。
しかしねぁ、二階がなければ階段なんてあり得ないんだからな。階段だけあって上ってみたら二階がなかった、んなあほな(笑)。
二階があるから階段があるんなら、階段というのは二階の延長なんですよ。二階が一階まで降りて来たんですね。そして一階におる者を二階まで上げていくんでしょう。
真実が、邪偽の泥にまみれている者を引き上げる為に、真実が邪偽の所まで降りてきて、そして私達を真実へと導いていく。これが方便のはたらきなんですからね。
方便だって先ほど言いました十九願、二十願と申しましたが、実は十九願というのは聖道門の延長戦ですから。
そうしますと、阿弥陀仏の本願が、邪偽の煩悩の真っ只中に埋没している私を導くために降りてきて下さった。それが方便の教えなら方便の教えはありがたい。しかし、方便の教えが有り難い、と判れば真実の教えに転入になければ申し訳ない、ということになってきますね。

そこで、真実の教というのは、随自意。仏様が一番説きたかったのはこれだ。しかし相手を導くために相手の心に応じて、そして、順次それを育てていく法門として方便の教えというものが建てられた。それは何処を目指しているかというと、邪偽の世界に踞(うずくま)っている者を、真実の世界へと導き上げて行くために設けられた方便のみ教えなんだ、という事を化身土文類が現わすわけですね。
こうして宗教を邪偽と方便と真実とに分けて、邪偽から真実へという形で仏陀の心のはたらきをまとめていく。これが『教行証文類』というものでね、邪偽の宗教にまでも仏様のお心が入っている。そこから私達を邪偽から救うために様々な手だてを設けているんだぞ、ということを言うために、実は「大集経」という経典が長々と引用されているんですね。
あの「大集経」の引文というのは凄く難しいです。今日はその話をしている時間がありませんので、もう止めますけども、「大集経」とか「地蔵十輪経」とか様々な経典を引用いたしまして、邪偽の中に埋没する私達を真実へと導くために、如来様はこういう世界にまで身をやつして我々を導いて下さるんだということをね。それを「大集経」だとか「正法念経」とかいう経典を通して我々に知らして下さる、それが化身土文類の末巻です。
化身土文類の末巻は難しいんですけどね。昔からあんまり講義されないとこなんでね。
文、解し易しって、解しやすいことはない、難しいんだけどな。これはなかなか面白い事が書いてある。

さて、真実の教といわれた教え。その真実の根元は仏陀の覚り、その仏陀の覚りが、言葉となって私達を導いていく。それが無分別後得智と言われる世界だ。その無分別後得智の世界の中に真実と方便とがあるわけですね。無分別後得智の中に真実なる教えと、そして真実に至らしめる為の巧みな手だてである方便の法門とがある。それを親鸞聖人は真・化という法門として表わしていかれた。その真実の法義という事を、教・行・信・証というかたちで展開していくわけです。
えらい話が長くなりました。ちょっとここで暫く十五分ほど休憩させて頂きまして、そしてもう少しお話をさせて頂きたいと思います。今度は、行・信を中心にして、もう少しお話をさせて頂きたいと思います。

なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・(和上退出)


第三日目-2

つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。しかるにこの行は大悲の願(第十七願)より出でたり。と。称名・・。(讃題)

それでは、もう少しお話を続けさせて頂きたいと思います。

『大無量寿経』が真実の教であると親鸞聖人は断定されていくわけですが、それが仏の随自意の法門であるということを論証する為に、教文類が書かれております。
その仏の随自意であるということを表わすのに、ここでは出世の本懐、お釈迦さまがこの世に出現された本意を現した経典であるということを『大経』の言葉で以て論証されていくわけでございます。
経典が真実であるということは経典自身が語るしかないわけですね。経典以外のものが経典の真実を証明することは出来ません。経典以外のものによって経典の真実を証明すれば、その証明の元になったものが真実であって、経典はそれにあわせて真実だということになるんですからね。経典の真実性を示すのは経典しかありません。

したがって、この教文類を拝読しますと、ここには「大経」の異訳の経典ですね、そういうものが引用されるだけでございまして、祖師方の論釈は一切引用されておりません。
だだ最後の処に、新羅の憬興師の述文賛の文章が引用されていますが、あれは五徳瑞現の言葉の意味を註釈したものとして、五徳瑞現の言葉の追釈としてのみ引用しているんで、あれは真実教を表わす為の、証明の文として引用しているのではありません。

七高僧、あるいは浄土の祖師方の文章に依って念仏が大行であること、信心が、三信即一の至心信楽欲生という本願の信が三信即一の信であること、それが大菩提心であること、そういうことは、全部祖師方の書物に依ってお聖教によって証明されていくわけですね。
けれども、経典だけは経典の言葉で証明するというかたちで教文類は説かれております。実は、『大経』という経典は、お釈迦さまとはいったい何なんだ、ということを説いているんですよ。お釈迦さまというのは、実は阿弥陀の本願で現わされるような、阿弥陀仏で現わされるような、そういう覚りを本質としている仏陀なんだ、ということを言っているわけなんですね。大経の上巻の一番最後の華光出仏という文章が出ております。親鸞聖人は和讃に、

  一々のはなのなかよりは
   三十六百千億の
   光明てらしてほがらかに
   いたらぬところはさらになし

  一々のはなのなかよりは
   三十六百千億の
   仏身もひかりもひとしくて
   相好金山のごとくなり

  相好ごとに百千の
   ひかりを十方にはなちてぞ
   つねに妙法ときひろめ
   衆生を仏道にいらしむる

と、こういう言葉で表わされておられますね。
あれは、大経の上巻の一番最後に出てくる浄土の蓮華の世界ですね。浄土の蓮華の光が、三十六百千億の光が放たれている。その三十六百千億の光が十方の世界に至って、そして無数の仏様となって現われている。お釈迦さまはその一人だ。そして、そのお釈迦さまは百千の光を放って、そして衆生に妙法を説き広めて衆生を仏道に入らしめておられる、とこういうふうな言葉で表わしておられますね。

あの三十六百千億というのは変な言葉でございますね。あれは三十六の百千億なんですね。三十六(6*6)というのは何かというと浄土の蓮華は、「大経」の蓮華は六種類、六色になっているんですね。「阿弥陀経」はいわゆる四顕色、四つの色、青黄赤白で表わします。色の元を四顕色、四つでみていきます。いま虹を分析しますと七色ですね、紫外線と赤外線は見えませんから、その中を分類していきますけど、ああいう色の分析などというものは文化によって全部違うんです。
ですからそれぞれの民族がそれぞれの文化の中で色の素というのを色々定めておりますが、仏教では大体四色ですね。青黄赤白、これが眼識に依って感得される色境というものは、四顕色である、と言われています。それが無数に混ざり合って無数の色を作り出しているわけなんだ、というのが四色原色論です。テレビは三色ですかな。(会場:赤緑青の三色です。)
そういう事ですから、色というものは、どういうふうにみるかというのは様々な文化の枠組みが決めることです。

「大経」は六色になっています。青黄赤(朱)白、それ以外に黒(玄)と紫を加えますね。黒と紫を加えて六色になっています。六色の華の一つの華に、他の一切が収まっている、他の五つが収まっている。他の五つを納めた一つが、他の一つ一つに収まっていきますから、したがって一つひとつに六色が納まるわけですね。
ですから、白は白であるまんま他の一切の色をそこに持っている。他の一切の色を持ちながら自らの個性を決して失わない。個性をちゃんと失わないながら、他の一切と調和をしている。それが一が一切であり、一切が一であるという、こういう世界でして、それは仏陀の覚りの境地である縁起の領域というものをそういうかたちで現わします。一が一切であり、一切が一であるというんですね。だから、私達の一人ひとりが小宇宙なんですね。
阿弥陀経には、青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光と非常に単純に描かれていますけども、大経は六色にして、しかもその六色に一つひとつが納まる、一が一切に収まり、一切が一に納まる、しかも雑乱しない。それぞれの個性を持ちながら他の一切を納めている、一人ひとりが小宇宙なんだという、そういう世界観が述べられている。そういう光、そういう境地、覚りの世界が、釈尊というかたちを以て、私達の煩悩の世界に写って来ているんだ。だから、煩悩の世界へ出現した浄土の光、それが釈尊だ。その釈尊が光の言葉を以て、私達のこころに光あらしめ、私達のこころに新しい秩序を形成していく。それが『大無量寿経』という経典なんだ、というふうに説いているわけなんですね。

あのお経というのはそういう事が説かれているわけですね。阿弥陀仏を中心とした一つの世界観、あるいは宇宙観と言ってもいいですね。一種のコスモロジーというものを「大経」はそういうかたちで展開している。だから『大経』見ますとね、浄土はこれより西方であると言ってますけど、内容をみましたら浄土は宇宙の中心にありますね。
南西北方四維上下、いわゆる十方の世界から無数の菩薩が浄土へ往覲する。そして浄土へ往覲した菩薩達が、さらに浄土から十方の世界に至って、そして十方の世界で、それぞれが仏陀となり人々を救済していくという事が説かれていますね。浄土は法界の中心にあるわけです。いや実は世界観の中心なんですね。阿弥陀仏を中心とした、壮大な一つのコスモロジーというものを展開していくのが、『大無量寿経』という経典なんです。(*)

それによってお釈迦さまというものがどのようなものであるか、ということを『大経』自身はそういうかたちで語っているわけですね。だから大乗経典は、仏が説いたものであると同時に、仏とは何かという事を、仏の言葉でもって説いていくわけなんです。それによって私達は仏陀とは何かということを知らされ、そして仏陀を中心とした宇宙観というものを確立していくわけですね。

そういうものがね、『大経』の世界観、宇宙観といわれる。宇宙観なんて言ったらややこしいですがね。独自のコスモロジーでしょうね。そういうものが展開しているわけです。
その『大経』が我々に、覚りへの道として行信というものを現わしていく。『大経』というのは、「如来の本願を説きて経の宗致とす、すなはち仏の名号をもつて経の体とする」、と言われております。阿弥陀仏の中核は、本願にある。その本願は、本願を信じ念仏を申さば仏になる、というかたちで本願は展開されている。それが第十八願の法義ですね。

「十方の衆生、至心に信楽してわが国に生まれんと欲うて、乃ち十念に至るまでせん。もし生まれずは、正覚を取らじ。ただ五逆と正法を誹謗せんとをば除く」、というかたちで第十八願が説かれておりますが、この第十八願の内容を開けば『大無量寿経』となる。それをつづめれば一つの南無阿弥陀仏というみ名につづまっていく。本願を説くもって経の宗致となす、すなはち仏の名号をもつて経の本体とするんだ。『大無量寿経』というのは名号を現わしたものだ、南無阿弥陀仏という名号を現わしたものだ。その名号を、阿弥陀仏の本願をもってその名号のいわれ、阿弥陀仏のいわれを説明したものだ。それが『大無量寿経』だということですね。
その意味で『大無量寿経』というのは、お釈迦さまが本願をもって阿弥陀さまを私達に紹介してくださったということでしょう。いや自らの自内証を開諦したと、こう言っていいでしょうね。それが『大無量寿経』という経典なんでございます。

その『大経』の中核をなしている本願はどういうことが説いてあるかというと、いま言いました、本願を信じ念仏を申さば仏になるという、行・信・証が説かれているんだというわけです。それが、教・行・信・証というかたちで往相の回向というふうに表わされるわけですね。教によって行を信ずる、これが、教・行・信ということですね。

この、行・信・証というのは大経の内容なんですけども、往相の回向を案ずるに、大行あり、大信ありとこういうふうに言われています。
大行・大信という言葉なんですけれども、この大行・大信というかたちで行業体系を現わしたのは、これは実は、「摩訶止観」なんですね、天台の「摩訶止観」。
「摩訶止観」を見ますとですね、たとえば四種三昧が明かしてあるあたりにね、いわゆる円頓止観ですね。天台の行法というものを明かしますが、この摩訶止観、一念三千の行法、これを四種三昧の業法として説いていくわけですが、大行と大信というかたちで説いてあります。いわゆる止観の行ですね、大行というのは止観の行ですね。この止観の行というのは具体的には四種三昧として説かれています。
定座三昧、常行三昧、そして半行半座三昧、非行非座三昧というかたちで四種三昧の法として説かれています。これを大行と呼んでいますね。そして、それを支えていくのが大菩提心。あの四弘誓願で表わされる大菩提心ですね。衆生無辺誓願度、煩悩無尽誓願断、法門無量誓願学、仏道無上誓願成、度断知証(度断学成)の四弘誓願、これを大信と呼ぶんですね。大信・大行というかたちで天台の「摩訶止観」というものは展開しているんです。

おそらく親鸞聖人が、大行あり、大信あり、と、こういう言葉で行信というものを言った時には、明らかに天台の摩訶止観を意識しておったということが判りますね。
親鸞聖人は天台学の権威者ですからな、二十年間叡山で天台学をみっちりと学んでいられるわけですから、その特色、その尊さというのはよく知っている方なんですね。しかし、その大行、大信というものに対して、浄土の念仏というものが、大行であり大信であるということを表わしていくわけですね。
親鸞聖人が見てらっしゃるのは、そういう広~い仏道体系全体をみて、この仏道体系を建てていらっしゃるんです。そんなちまちまとしたようなね、自分達の内部だけの殻の中に籠もってしまって、自分達の内部だけでちょかちょか言うているような、そんな方と違うんですね。
もっと広~い世界、もっと大きく言えば宗教全体を見通しながら、また、仏教全体を見通しながら、その中で浄土教というものの体系を確立していく。非常にスケールの大きな宗教者、思想家なんですね。あの人は、いわゆる早熟の天才じゃないですよね。そりゃあ凄い才能を持った人だったけれど、どちらかというとスロースターターですわな、ゆっくりしたはります。皆さんもゆっくりしなはれ(笑)。

あのぉ、人にも色々ありましてな、早熟の天才というものがいますわなあ。道元禅師なんかどちらかというたら早熟の天才ですわ。九歳の時にね、「阿毘達磨倶舎論」を、ことごとく諳んじて、そして漢文の詩なんかを書き上げたなんていう恐ろしい才能を持っているんですね。十三歳で比叡山に登って、十五歳の時には俺を導く先生はここにはおらんちゅうて、山、出てまいよったというんですからな。十五歳といったら今でいうたら十三か四ですよ。まだ中学生くらいか、そんなんですよね。何ったって、当時、比叡山というたら超一流の大学なんですからね。延暦寺であるとか興福寺であるとか東大寺というのは超一流の大学なんですよ。天下の秀才が集まって、そこで学問と修業にいそしんでいるんでしょう。それをわずか十五歳、今で言うたら十四歳の少年が、ここには俺を導く先生はおらん、ちゅうて飛び出してきよったちゅうのは恐ろしい人ですね。

それに比べれば親鸞聖人は、実にゆっくりしてなはる。大器晩成型ですな、ああいう晩成型の思想家、きらきらと若い頃からきらめくような才能の持ち主じゃなくて、どちらかというと若い頃にはその才能は普通の人には見えないでしょうね。これが後の親鸞聖人となるというようなことは、誰も見えないでしょうな。あの人が七十までに亡くなっていたら未完成の『教行証文類』だけが残っただけで、あとは阿弥陀経と観経の集注、これは三十代の物でしょうが、これは著作じゃなくて自分の勉強ですからね。ノートですから。
七十三、四で『教行証文類』を一応完成されて、それから七十六歳で『浄土和讃』と『高僧和讃』が書かれ、さらに七十八歳で『唯信鈔文意』が書かれ、それから八十過ぎてから『唯信鈔文意』の添削がなされ、更に『尊号真像銘文』であるとか『一念多念文意』であるとかいうものがどんどん書かれ、『正像末和讃』が八十五歳から八十六歳で『正像末和讃』が完成する。
そして八十五歳で『聖徳太子和讃』百十四首というものを完成していくわけですね。まっ、実にゆっくりしてなる。だからだいぶん長生きせないかん。みなさん頑張りましょうや(笑)。

その御開山ですがね、全仏教を見通しながら体系を建てていく。大行大信というのは、そういう表現なんですね。これは明らかに摩訶止観に対している。だから天台止観に対して、それをはるかに凌駕する、そういう真実の行、真実の信があるんだ。それが阿弥陀仏によって、回向された念仏であり信心であるという事をね、展開してみせるんです。
行信の行なんですけど、これが念仏が行であることを証明しなければならない。ことに第十八願の乃至十念が、念仏であるということを証明しなければならんのです。それ証明するために十七願においてそれを建立していくんですね。念仏が行でないということを言う為に書いたんじゃないんですよ。念仏が行であることを証明する、それが法然聖人に浴びせかけられていた論難に対する応答になるわけなんです。しかもそれは一乗の行法である、ということを展開していくのが行文類といわれるものなんです。

信文類というのは、信心が菩提心であるということを展開していくんです。そして、これが成仏の因である、ということを証明していくわけですね。これが行信というものを表わすときの親鸞聖人に課せられていた課題なんです。こういう書物はね、何でも書いてあります。何でも書いてあると言うたら悪いですけど、一つの世界なんです。『教行証文類』ぐらいになりますと一つの世界です。探し出したら何でも出てきます。占星術でも出てきます。仏教占星術までも出てくる程のスケールを持っているんです。ですから何でも出てくるんです、何でも出てくるんだったら手の付けようがないです。

けどね、一番大事なことは、この人が何を問題として、どういうことを表現しようとしているのか、何を説こうとしているのか、親鸞聖人の問題意識に則して『教行証文類』というのをまず読んでいくということが大事でしょうね。これがまず第一なんです。
親鸞聖人の問題意識に則して『教行証文類』を理解する。これが一番大事なことでしょうね。その上で、今度は私達の課題に応じて、そして、私達はここから何を読みとり、何を聞き取って、どういう世界観を展開するか、というのはこれは私の仕事。だけどその前に、『教行証文類』は、まず親鸞聖人の問題意識に則して読まなけりゃならない。そうでなければそこに説かれているのが何が書いてあるのか解らなくなってしまう。迷路には入ってしまいますよ、この書物は。

『教行証文類』はわかりませんて言いますが、解らんのが当たり前なんでね。そんな簡単に解るようなものじゃないんだということなんです。この人の問題意識に則して、ことに行信などは、あるいは化身土文類なんかを見るときには、問題意識を、ぴしっと捉えながら見ていかないとよく解らないですね。そういう書物なんです。

さて、その大行、大信という言葉ですが、大というのは偉大なる、そして勝れた、万人を包括している、そういう意味を持っているのが大ということです。大には、大と多と勝の三つの意味がある、といわれておりますが、それをここでは「大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり」、これは論註の言葉を使っている。これは昨日だったか一昨日だったか本堂でお話しさせて頂きましたが、論註の讃歎門の言葉をもって大行の出体をしているわけですね。「大行とは即ち無碍光如来の名を称する」、という言葉で言われる。何故あの言葉を使ったのか。
大行とは南無阿弥陀仏と称するなりと言っていいんです。それをあえて言わずに、大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり、というところに一つ問題がある、大きな問題がある。それは親鸞聖人が行信というものを表わすときに、つまり法然聖人から頂いた、念仏と念仏の信心を展開するときに、一番最初申しました「論」、「論註」ですね。ことに「論註」の讃歎門に明かされた念仏と信心のいわれによって、(法然聖人の)称名正定業説というものをすっぽりと包み込んでいこうとしているわけですね。
そういう意味で書かれているんです。だからこれは善導・法然の教学がきちっと解ってると同時に、天親・曇鸞の教学というものをきちっと知って、そしてこの二つがどのように包摂され、どのように連関していくかというものを見ていく必要があるわけですね。
それが解らなかったら『教行証文類』なんて読めやしない。

大行とはすなはち無碍光如来の名を称する、こういうんですね。称無碍光如来名。
で、この称無碍光如来名というのは、「論」、「論註」では讃歎門を現わした言葉なんです。五念門の中の讃歎門を表わした言葉なんですね。つまりね、五念門というものを讃歎門に収束しようとしているわけなんです。これは特に曇鸞大師の場合は、止観中心の五念門というものを、讃歎中心の五念門に転換しようとする、そういう意図を持っているんですね。
それを的確に把握して、そしてこの讃歎門釈の中に、行信というものを見ていこうとするわけですね。それが親鸞聖人の特長なんです。

さ、称無碍光如来名とは何かと言うたらこれは讃歎ですね。如実讃歎と書いてある。讃歎ということは誉め称えるということですね。誉めるという事は難しいことなんです、わしはいつも言うんですけども。誉めるのはね、相手の徳に(称)かなって誉めなければ誉めた事にならないんですよ。すかたんな誉め方したらね、誉めすぎたらおべんちゃらだな。誉めたり足りなかったら馬鹿にした事になる。だから誉める時はよっぽど気を付けて誉めないと駄目。それにちゃんとふさわしい誉め方をしないと誉めたことにならない。
仏様を讃歎するということになると、したがって仏様の徳をを知らなければ仏様を誉めることはできません。ところが仏様の徳は私達に知りようのない、解りようのない徳なんですね。

安養浄土の荘厳は 唯仏与仏の知見なり
 究竟せること虚空にして 広大にして辺際なし 

と言われた、あの浄土をどないして誉めるの。唯仏与仏の知見というのは、ただ仏と仏が知ろしめす世界です。菩薩といえども知らん。弥勒菩薩といえども窺う事の出来ない境地。それが唯仏与仏の知見なんです。それが、安養浄土の荘厳だと言うんですね。そして、究竟せること虚空にして 広大にして辺際なし。広大にして辺際なしって言われたらもうわからんわなぁ。辺際というと、たとえばこの机ですとここが辺際ですわな。こっから此処までが机で、この辺際から向こうは机じゃないでしょう。辺際というのは境界でございます。境界がないというんです。ボーダーレスというのがこの頃流行っているそうですが。とにかく、境界が無いということになると、ここまでがお浄土だけど、こっから先はお浄土じゃないという処があったら、浄土じゃないというんです。判りますか。
浄土を、浄土において感得したら一体どうなるのか。天地浄土ならざるなしということになるんでしょうな。そんな事言うたかって浄土と穢土とあるやないかいと、こう言うでしょ、それが凡夫の浅ましさ。

浄土、と言った以上は穢土に対する言葉ですよ。穢土に対する言葉使いながら、辺際なしというんだったら、浄・穢がない事です。浄・穢があったら辺際がある。辺際なしなら浄・穢がない。だったら何故浄土と言うんだ。それ言いながら親鸞聖人、そんなこと解った上でそれ言う。「安養浄土の荘厳は 唯仏与仏の知見なり 究竟せること虚空にして 広大にして辺際なし。」 つまり浄土の領域というのは仏陀の覚りの境地、根元的には無分別智の世界であるということですね。昨日から申しております、あの無分別智の領域が浄土の領域なんです。

こんなことね、浄土とは無分別智の領域であるというようなことね、阿弥陀仏の浄土は本質的には無分別智の領域であるということを、はっきりと言い切るのは御開山だけなんです。本当はね、無分別後得智の領域なんです。無分別後得智の領域ですから浄・穢があるわけです。浄・穢がありますと、救うものと救われるものがある。救うものと救われるものがある限りは、浄・穢があり辺際があるわけですね。
ところが、安養浄土の荘厳は 広大にして辺際なしといったら浄・穢がない。救うものと救われるものがない。だったら救済が成立しないじゃないか。さあ、こうなると、浄土教というのが消滅のところで、浄土教の消滅点において、浄土教の出発点を親鸞聖人はあらわしてらっしゃる。あの御開山の浄土観というのは、とてつもない世界を出しているんですね。これは誰も解らない。誰も解らないというよりも御開山以外に言うた人はいない。それを往生即成仏。あの往生即成仏、などという世界はとんでもない世界でね。あれだけは誰も言えなかった。さすがの法然聖人といえどもあそこまでは言い切れなかった。法然聖人のことですからね、恐ろしい方ですからおそらく感得はしておられたんかも知れないけど、言葉では表現できない。

往生即成仏なんてのはね、とてつもない事ですよ。救うものと救われるものがいないんですからね。その救うものと救われるものがいなくなってしまう、そういう領域が浄土の本質である、とこういう事を言ってのける御開山ていうのは端倪すべからざるものがあってね。この書物の最初の注釈書を書いたのは「六要鈔」、存覚上人ですね。御開山の曾孫にあたりますが、あの存覚上人がこの問題でさすが模着してますね。模着してるってのは悪いですけど、持て余しているとこがありますな。
それはね、仏教の常識を完全に越えている、仏教の常識というのは浄土教の常識を完全に越えている。しかしこれが仏道の本流である。そこまでいかないと浄土教というのは完成しない、というところがあるんですね。
実はね、還相廻向ということなどもそこから考えないと、あの還相廻向ちゃあ何のこっちゃ解りませんよ。ちょっと話が横へ飛びましたけど。

そうしますと私達には仏様の徳は絶対解らない。解らないもの誉めようがないじゃないですか。解らないのに闇雲に誉めたらね、誉めてるのやら貶しているのやら分かりませへんで。
私達のお説教、お説教は昔から讃歎と言った、仏徳讃歎と言った。讃歎してるんかな、凡夫くさい仏様作り上げたりしてね、仏様泣いたり笑うたり、仏様は泣いて喜びなはる、んなあほな。一坐無移亦不動(一たび坐して移ることなくまた不動なり。「法事讃」560)という仏様には泣いたり笑うたりはありません。
泣いたり笑うたりするのは凡夫がする事です。仏様の覚りの境地に泣いたり笑うたりはありません、そんな単純なものじゃない。
けどね、仏様は、まあ、あれで誉めているつもりなんだから、まあ許してやろというわけで黙ってはると思うんだ。そない思わなんだらこれ喋られへんでな、喋ってますねんけど(笑)。

ほんま言うたら仏様のお徳と言うたら全然解りません。わからないことは誉めようがないじゃないか、ということですね。じゃ何故讃歎といえるのか。如実、しかも真実にかなった、真実にかなった讃歎、そんなことは仏様しか出来ないことなんです。
だから、第十七願で阿弥陀さまが、仏徳を讃歎させようとしたのは、菩薩や凡夫じゃないんですよ。十方の諸仏に讃歎させようとされているんです。十方世界の無量の諸仏、我が名を、私の名前、南無阿弥陀仏という名前を、それを咨嗟し称せずば正覚を取らじ、と言われているんですね。
だから名号の徳を讃歎させるのは、仏様に讃歎させるのであってね、凡夫やら菩薩に讃歎させようなどとは考えていらっしゃらない。はなから(凡夫は)規格外なんですね。
それを、(凡夫でも可能な)如実の讃歎というのがあるんだ、と天親菩薩が仰っているんです。それを讃歎門というんですね、仏徳讃歎。
それは、この言葉を言えば、讃歎した事になるんだという言葉を与えて貰っているからです。それが、帰命尽十方無碍光如来という言葉であり、南無阿弥陀仏という言葉なんです。
この南無阿弥陀仏という言葉を口に称えれば、阿弥陀さまのお徳を過不足なしに、誉め過ぎもせず誉め足たりもせず、仏様の徳に称(かな)って仏様を誉めたことになるんだぞと。だから、誉めるんじゃなくて、誉めたことになるんだ、と御開山は仰っています。

これは尊号真像銘文に讃歎ということを、智栄という方が善導大師の徳を讃えるところに、「称仏六字即嘆仏」、仏の六字、南無阿弥陀仏という六字を称えれば即ち仏を嘆ずる、即嘆仏 即懴悔 即発願回向という言葉が出てくるんですが、ここにですね。
「南無阿弥陀仏をとなふるは仏をほめたてまつるになるとなり」(*)と御開山は仰っていますね。ほめたてまつるになるとなり、誉めたんじゃないんだよ、誉めたことになる言葉を頂戴しているんだぞ、という事なんです。
だから、なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶつと言っている事が、阿弥陀さまのお徳を、過不足なしに、如実に、真実に称って誉めた事になるんだ。
ということは、どういうことかというと、南無阿弥陀仏、帰命尽十方無碍光如来という言葉に如来様のお徳が過不足なしにあらわされている、ということなんですね。
だから、親鸞聖人は帰命尽十方無碍光如来という名を通して、阿弥陀さまの徳を味わっていかれるわけなんですね。その話を昨日、昼からしたんですが、もう一度することになりますから止めますが・・・。

この如実讃歎、これが大行だ。そうするとね、如実讃歎を行なうことが出来るのは仏ですよ、仏だけが出来る。その仏陀だけが出来ることを私達はさせて頂いている、それが念仏だ、ということなんです。
だから念仏というのはね、凡夫の行と違うぞ、凡夫の行と違う。これはただ、仏と仏とのみがなしうる業(わざ:行為)を、私達はなさせて頂いているんだ、そんな行なんだぞと(御開山は)言うんですね。それがお念仏だ、と言われておられるんです。
だから、「大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり」。(141)
仏陀の覚りの領域の全体が、南無阿弥陀仏というみ名となって私に与えられているから、そのみ名を称えれば仏徳の全てを、真如一実の功徳宝海を誉め称えたような徳を持っているんだ、だから大行と名付けるんだ。
これは摩訶止観の行よりも、もっと勝れているんだ。摩訶止観の行といえどもなお菩薩の行である。これは菩薩の行ではない仏行だ。まさに念仏とは仏行であるといわれる、そういうものを現わそうとして、かるがゆえにに大行と名づく。したがってこの行は凡夫の口から出たものだとは思うなと書いてある。
「しかるにこの行は大悲の願より出でたり」(141)。 出どころが違うぞと言われているんです。念仏は私の口から出ているけれども、私の口から出たんじゃない。
蛇口捻ったら水が出てくるから蛇口だけあったら・・。あのねぇ、蛇口捻ったら水が出てくるというけどね。
あれ水道管を通して水源地につながってなけりゃ水は出やしないだろう、蛇口だけあってあれだけで水が出るんならあれだけ持って砂漠行けばいいんだからな、砂漠行ったかって水には不自由せんわ、ほんなあほな(笑)。
だからね、出どころがあるんだ、それは「大悲の願より出でたり。」 この大悲の願より出でたりという言葉の中にねぇ、お念仏の出どころは凡夫の心から出たもんじゃないんだ。凡夫の口に現われているけれども、それは如来の大悲の願から流れ出て来た、如来の大願海から流れ出て来たお念仏であって、その本質はまさに仏行、仏陀の行いといわれるようなものだ。行というのは行いですからね、仏陀の行いといわれるようなものだ。

ですからね、親鸞聖人が、「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはこと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」(歎異抄853)。何故、念仏だけがまことなんだ、人間の行いならば、全てそらごとたわごとじゃないか。
その人間の行いであるように見えていながら、実は如来の行いであるようなのが念仏だから、ただ念仏のみぞまことにておはします。質がちがうんだぞ、人間の行いと行いの質が違うんだということで、ただ念仏のみぞまことにておはしますと言われたんです。

この念仏を真実と受け容れる、この本願のお念仏を真実と受け容れるすがたを信心という。信心というのは無疑、疑いなき心と言われています。今日は信心ということを詳しく言っている時間がありませんが・・。

信心ということをいわれたときには、親鸞聖人は基本的には無疑、疑いなき心。これね、「一念多念文意」にはですね。「信心は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり」と言われております。信心というのは、如来の御ちかひをききて疑う心がないことだと言われる。そうするとね、信心というのは「ない」状態ですよ。「ない」状態を言っているんです、捕まえようがないわなぁこれは。
あるいは「唯信鈔文意」には、「疑ふこころなき」とこう言われております。端的に言うと、疑う心が「ない」状態です。

(板書?)
疑蓋無有間雑 故名信楽  (法義釈234)
疑蓋無間雑 (字訓釈230)

教行証文類では、「疑蓋間雑あることなし。ゆゑに信楽と名づく」。疑いという蓋(ふた)が間(あいだ)に雑(まじ)わっていない。疑蓋間雑なし、あるいは疑蓋間雑あることなし。疑蓋間雑なし、というのは字訓釈の最後ですね。それから法義釈の中の信楽釈には、疑蓋間雑あることなし、と書いてあります、ゆゑに信楽と名づくと言ってありますから信楽の名義ですね。
信心とはどういう事かと言いますと、疑いというふた(蓋)を、あいだに(間)、まじえない事(雑)、だという、これは実によく解る言葉です。元々、蓋(がい)というのは真理を覆い隠すという事でね、煩悩の異名なんです。ですけどここではね、真実を覆い隠す最たるものは「疑い」であるということでね。

例えば、ここにフラスコがあって水を入れるとする。これ蓋がなかったら水はなんぼでも入りますけど、ここへ蓋をしますともう水は入らない。なんぼ水を入れたかって入らない。
この蓋を取りなさいということです、疑いという蓋を取りなさい。この蓋をちょっと横へおく、そうすると水はなんぼでも入ってくる。信心といったら何かと言ったら、器に水があるすがたですね、器の中にあるすがた。
信心というのは「疑いがない状態」なんです。疑いがない状態と何かと言ったら、「法」が「機」にある状態なんです。助けるという法が、計らいをまじえなかったら、疑いをまじえなかったら、助けるという法が、法の通りに私に届く。法の通りに私に届けば、助けるという法が私に届けば、助かるという信になる。しかし助かるという信は、助けるという法の他にはないんですね。実は親鸞聖人は『教行証文類』を書かれるときに不思議な著し方がある。

一つは、教と、行と、証とは、全部ものがらが出してある。真実というのはなにものであるかと体を出されています。教とは先ほど言いました、『大無量寿経』なんだ。行とは称名のことなんだ、無碍光如来のみ名を称えることだ。証とは、利他円満の妙位、無上涅槃の極果だ、仏陀としての覚り、完全な覚りの事を証というんだ、というふうにものがらを出してあります。物柄という言葉は解りにくいんだけど、その言葉が現わす実体とみてもらったらいいと思います。「中論」が言うような意味の実体じゃないんですよ、言葉が現わす内容ですね。
「教」という、真実教という言葉が現わしている内容は何かと言ったら、『大無量寿経』なんです。真実の「行」、大行というものを現わしているといったら称名なんです。
「証」という言葉が現わしている内容は、何かといったら仏陀の覚りなんです、仏陀の覚りの境地なんです。
「信」の内容は何かといったら、何も書いてない。つまり信文類には、教・行・証には出体釈があるんですが、信文類だけには出体釈がないんです。

『教行証文類』の信文類を見てもらったら判りますが、行文類では、「往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり」、と出ましたから、今度は(信文類では)、「往相の回向を案ずるに、大信あり。大信心は」、と言って、大信というものの物柄を出さんならんところなんですが、ここには何も書いてない。
いきなり讃歎になる、いきなり信心の徳を讃歎する。信心とは何かということは一つも言うてない。信文類の中には「信」の出体釈はないんです。つまり信には「体」がないんです。体はないけど徳がある、その体なくして徳があるというのは一体どういうことか。
「大信心はすなはちこれ長生不死の神方、欣浄厭穢の妙術、選択回向の直心、利他深広の信楽」(211)というふうに十二の嘆釈がなされておるわけですね。そしてこの信心は、念仏往生の願より出でたりというふうに言われているんです。その信心の物柄は何ですかという事はなにも書いてない。出体釈がない、出体釈がないということは信心には「体」がないということです。信心に体がないということは、疑いがないことだから体がないのは当たり前だ。じゃ信心の体をあえて押さえれば何ですかといったら法なんです。法が信の物柄になるんですね。法ということになると行(なんまんだぶ)です。大行が信の物柄になるわけです。

つまり念仏往生の本願を信じた、信じたということは、念仏往生の本願を受け容れた事です。念仏往生の本願を受け容れたんだから、あるのは念仏往生の本願が私に届いて、そして、お念仏をまことと受け容れている状態を信というんですから、あるのはお念仏しかないんです。
そのお念仏申している事が、計らいなく、疑いなく、お念仏申しているその状態が、その受け容れている状態を信とよぶわけです。だから行のない信、信のない行、というのは存在しない、というのはそれなんですね。親鸞聖人においては「行信」というのは一具の法門です。
だから、真実信心には必ず名号を具す。名号にはかならずしも願力の信心を具せない(245)というのはね。あの名号は念仏のことです。覚如上人も存覚上人もあの名号というのは念仏の事だ〔なんまんだぶ〕と言われていますね。
そうしますと、真実信心には名号を具すというのは、念仏往生と受け容れたんだから、念仏往生と受け容れたその信は、当然お念仏となって相続していく。お念仏となって顕現するのが当然なんです。だから信心には「称名を具す」、具(そなえ)えているというんですね。
しかし、称名には必ずしも願力の信心は具せない。ということは何でかというと、称名しているけど信心のない称名がある。疑いを雑じえて称名をしているのは、受け容れているんじゃない、拒絶しているんです。如来から賜ったお念仏を拒絶して、自分の行として念仏をしている。これは願力の信心を具せず、だから称名にはかならずしも願力の信心を具せず。もちろん願力の信心を具している称名、これは如実の称名ですね。

信のない称名というのはね。お念仏を自らの行として、私の行として念仏を称えていく者。如来から賜ったものであるということを気づかずに、私の行として称えていくから、お念仏してるけれども仏様に助けてもらえるかどうか判らんと、そういうことが出てくるんですね。如来から賜った念仏なら助けて下さるか下さらんか判らんというような事は絶対にあり得ない。そんな事はあり得ないわけなんですね。
それが念仏しているけど、お浄土へ往けるやどうか判らんと言うのは、あれは如実に受け容れていない、他力の念仏を受け容れていない証拠ですね。それで願力の信心を具せず。

至心信楽欲生という三信釈をおこなったときに、三信の三重出体というのを行ないまして、至心は至徳の尊号をもってその体となす。至徳の尊号つまり名号ですね。法です、法を体とするとこういうんです。
その至心は、名号を体としている。信楽は、至心を体としている。欲生は信楽を体としている。三重出体というのが行なわれておりますが、あえて信心の体を言えば「法」なんです。
法を法の位で語れば行なんですね。行というのは、お念仏というのは、私達が生涯歩むべき道として、私達がそれに則って生きるべき法として与えられているんです。

ですから行には、時はないんです。時処所縁を嫌わず、時と場所とを選ばないと言いますね。ですからね、お念仏を称えた時に往生が定まるとは絶対に言わない。法然聖人といえどもそういう事は仰っていません。
お念仏称えた時に往生するとは言わない。何故かといったらお念仏は時は言わない、時と処を選ばないのがお念仏です。時節の久遠を問わず、というのが念仏なんですね。ですからお念仏は、それに則って生きていく法として与えられているんですね。その法を疑いなく受け容れて、このお念仏の道を受け容れて歩む、そのお念仏を受け容れたことを信という。
受け容れたんだから、それには時がある。いつ受け容れたかという時がある。だから信というときには時が立ちます。信の一念は時剋の極促というかたちで、時を語ります。法を頂いた時に往生は定まるんだ、それが、信の一念に往生が定まるという法相になるんです。
行の一念では時は言いません。親鸞聖人は行の一念というのは、「称名の遍数について選択易行の至極を顕開す」(*)、と言われました。そうするとあれは時は語らない。
選択易行の至極、仏様が選び取ってこの道を行けよ、この道を歩めよと如来様が選び取って与えて下さったお念仏は、無上の徳を持ち、無上の功徳を持っておると、その念仏の持っておる無上の功徳を表すのが、行の一念という釈であって、念仏したときに往生するとは絶対に言わない。一言も言われていない。これは法然聖人の上でも親鸞聖人の上でもそういうことはない。
時をいうのは信でい言います。何故なら信は、受け容れる事を表しますから、永遠な法と時間的な私との接点をあらわします。その法が機に届いた、その法が私に届いた「時」、ここで時が立ちます。しかし、その時は普通の時じゃないんですよ。私達が客観的に対照的に見ていく時じゃないんですよ。時剋の極促と言います。
極促というのはつづまりの極まり。極促というのは促まりの極まりという言葉ですから、そこには対照的な時はない。生きるしかない時、主体的な時ですね、これが信の一念。

今日は信の一念を話している時間はありませんが、行の一念、信の一念だけでもこれは大きな問題なんですが、行信というのは、法と機の関係を表わす。行は法、信はそれを疑いなく受け容れる機のありさまを表します。
そして、疑いなく受け容れる時、法が身に付く、その法が私に宿ったとき、自利利他円満の法として大菩提心である、といわれる意味があって、それが仏道の正因であるというところから、信心が正因であるということを言われる。信心正因というのは、称名報恩に対する言葉じゃ本来ないんです。称名報恩に対する言葉として御開山は仰ったんじゃなくて、称名は法として、信はそれを受け容れる機として「機法」の関係で表わされた。そういうものが『教行証文類』の行信の表し方なんですね。

与えられた時間がもう来たようですから、長くなりましたが、これくらいで私の話は終わらせて頂きまして、質疑応答に入らせて頂きたいと思います。

以下、質疑応答は略。


  1. 『浄土論』では、
     出第五門とは、大慈悲をもつて一切苦悩の衆生を観察して、応化身を示して、生死の園、煩悩の林のなかに回入して遊戯し、神通をもつて教化地に至る。本願力の回向をもつてのゆゑなり。これを出第五門と名づく。p.42
    『論註』では、本願力の回向を解釈して
     「本願力」といふは、大菩薩、法身のなかにおいて、つねに三昧にましまして、種々の身、種々の神通、種々の説法を現ずることを示す。みな本願力をもつて起せり。たとへば阿修羅の琴の鼓するものなしといへども、音曲自然なるがごとし。これを教化地の第五の功徳相と名づく。p.153
    と、あって、両方とも浄土への願生者の持っていた本願(プールヴァ・プラニダーナ(pūrva-praņidhāna 前からの願いという意)としてみている。
  2. 本願寺派の原典版七祖聖教や註釈版七祖聖教は、御開山の訓点ではなく各祖師方の訓点で読まれている。なぜこのように読むかについては註釈版聖典七祖篇を読むを参照。
  3. 不虚作住持功徳(ふこさ-じゅうじ-くどく)。『浄土論』の偈文「観仏本願力 遇無空過者 能令速満足 功徳大宝海(仏の本願力を観ずるに、遇ひて空しく過ぐるものなし。よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむ)」をいう。『浄土論註』では、この成就を「不虚作住持とは、本法蔵菩薩の四十八願と、今日の阿弥陀如来の自在神力とによるなり。願もつて力を成ず、力もつて願に就(つ)く。願徒然ならず、力虚設ならず。力・願あひ符(かな)ひて畢竟じて差(たが)はざるがゆゑに「成就」といふ。」p.131と成就しているとされている。
  4. 「その本願の自在に化せんとするところありて、衆生のためのゆゑに、弘誓の鎧を被て徳本を積累し、一切を度脱し……」
  5. 常倫諸地の行を超出し、現前に普賢の徳を修習せん。
  6. 不虚作住持功徳に「願もつて力を成ず、力もつて願に就(つ)く。願徒然ならず、力虚設ならず。力・願あひ符(かな)ひて畢竟じて差(たが)はざるがゆゑに「成就」といふ。」p.131とある。
  7. 覈本釈を終わって「まさにこの意を知るべし。おほよそこれかの浄土に生ずると、およびかの菩薩・人・天の所起の諸行とは、みな阿弥陀如来の本願力によるがゆゑなり。なにをもつてこれをいふとなれば、もし仏力にあらずは、四十八願すなはちこれ徒設ならん。いま的(あき)らかに三願を取りて、もつて義の意を証せん。」とある。
  8. 今まさに仏力を談ぜんとす。このゆゑに「利他」をもつてこれをいふ。
  9. 『愚禿鈔』#82 では「「汝」の言は行者なり」とあり「「我」の言は、尽十方無礙光如来なり、不可思議光仏なり」とある。
  10. 利他真実は他力を意味するので「信巻」で引き、自利真実は自力の法門を説く「化巻」で引かれておられる。
  11. 『観経』流通分p.117 に「もし念仏するものは、まさに知るべし、この人はこれ人中の分陀利華なり。」とある。
  12. 『無量寿経』往覲偈p.47 に「法を聞きてよく忘れず、見て敬ひ得て大きに慶ばば、すなはちわが善き親友なり。このゆゑにまさに意を発すべし。」とある。
  13. 「散善義」p457 の唯信仏語に「仏の捨てしめたまふをばすなはち捨て、仏の行ぜしめたまふをばすなはち行じ、仏の去らしめたまふ処をばすなはち去る。これを仏教に随順し、仏意に随順すと名づけ、これを仏願に随順すと名づく。これを真の仏弟子と名づく。」とある。
  14. 行は願によって転ず。『往生要集』に「業は願によりて転ず。ゆゑに随願往生といふ」p.1031 という語があるので、林遊の聞き間違いかもしれない。ただ業には行為という意味もあるので行でもOKか。
  15. 癇立てる。多分東日本では意味が判らないだろうが「癇にさわる」や「癪にさわる」などの意味。二つ合わせると癇癪(かんしゃく)になる(笑
  16. 釈尊がお覚りになってから、鹿野苑に赴いて初めて5人の修行者に法を説いた。この時に、コンダンニャは5人の中で仏の教えを一番最初によく理解したので、釈尊が、阿若(アニャー、意味:よく了解した!)と言われて称賛され、この名がついた。