操作

唯信鈔文意(正嘉本)

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

2023年4月29日 (土) 13:52時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版

(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)

真宗高田派で伝持されてきた『唯信鈔文意』の異本。末尾に「正嘉元歳丁巳八月十九日」とあることから「正嘉本」と呼ばれる。「註釈版聖典」では御開山の真筆本を底本としているので文に出入りがあるのだが、この「正嘉本」も御開山のものと見てよいといわれる。科段番号をクリックすれば「註釈版」の『唯信鈔文意』を見ることが出来る。
『浄土真宗聖典全書』からの原文は →トーク:唯信鈔文意(正嘉本)


唯信鈔文意

唯信鈔文意

【1】
「唯信鈔」といふは、「唯」はたゞこのことひとつといふ、ふたつならぶことをきらふことばなり。また「唯」はひとりといふこゝろなり。「信」はうたがひなきこゝろなり、すなわちこれ真実の信心也、虚仮はなれたるこゝろなり。虚はむなしといふ、仮はかりなるといふことなり。虚は実ならぬをいふ、仮は真ならぬをいふ也。本願他力をたのみて自力をはなれたる、これを唯信といふ。「鈔」はすぐれたることをぬきいだしあつむることば也。このゆへに唯信鈔といふ也。また「唯信」は、これこの他力の信心のほかによのことならはずとなり。すなわち本弘誓願なるがゆへなればなり。

【2】
「如来尊号甚分明  十方世界普流行
但有称名皆得往  観音勢至自来迎」(五会法 事讚)
「如来尊号甚分明」、このこゝろは、「如来」とまふすは无㝵光如来也。「尊号」とまふすは南无阿弥陀仏なり。「尊」はたふとくすぐれたりと也。「号」は仏になりたまふてのちの御なをまふす、名はいまだ仏になりたまはぬときの御なをまふす也。この如来の尊号は、不可称不可說不可思議にましますゆへに、一切衆生をして无上大般涅槃にいたらしめたまふ大慈大悲のちかひの御号なり。この仏の御なは、よろづの如来の名号にすぐれたまへり。これすなわち誓願なるがゆへなり。「甚分明」といふは、「甚」ははなはだといふ、すぐれたりといふこゝろ也。「分」はわかつといふ、よろづの衆生とわかつこゝろ也。「明」はあきらかなりといふ。十方一切衆生をことごとくわかちたすけみちびきたまふことあきらかなり。あわれみたまふことすぐれたまへりと也。「十方世界普流行」といふは、「普」はあまねく、ひろく、きわなしといふ。「流行」は十方微塵世界にあまねくひろまりて、仏教をすゝめ行ぜしめたまふ也。しかれば、大乗の聖人・小乗の聖人、善人・悪人・一切凡夫、みなともに自力の智慧をもては大涅槃にいたることなければ、无㝵光仏の御かたちは、智慧のひかりにてましますゆへに、この如来の智願海にすゝめいれたまふ也。一切諸仏の智慧をあつめたまへる御かたち也。光明は智慧也としるべし。「但有称名皆得往」といふは、「但有」はひとへに御なをとなふるひとのみ、みな極楽浄土に往生すとなり。かるがゆへに称名皆得往とのたまへるなり。「観音勢至自来迎」といふは、南无阿弥陀仏は智慧の名号なれば、この不可思議の智慧光仏の御なを信受して憶念すれば、観音・勢至はかならずかげのかたちにそえるがごとく也。この无㝵光仏は観音とあらわれ、勢至としめす。ある経には、観音を宝応声菩薩となづけて日天子としめす。これはよろづの衆生の无明の黒闇をはらわしむ。勢至を宝吉祥菩薩となづけて月天子とあらわる。生死の長夜をてらして智慧をひらかしむる也。「自来迎」といふは、「自」はみづからといふ。弥陀无数の化仏・无数の化観音・化大勢志等の无量无数の聖衆みづからつねに、ときをきらはず、ところをへだてず、真実信心をえたる人にそひたまひてまもりたまふゆへに、みづからとまふす也。また「自」はおのづからといふ。おのづからといふは自然といふ。自然といふはしからしむといふ。しからしむといふは、行者のはじめてともかくもはからはざるに、過去・今生・未来の一切のつみを善に転じかへなすといふなり。転ずといふは、つみをけしうしなはずして善になす也、よろづの水大海にいればすなわちうしほとなるがごとし。弥陀の願力を信ずるゆへに、如来の功徳をえしむるがゆへに、しからしむといふ。はじめて功徳をえむとはからはざれば自然といふ也。誓願真実の信心をえたる人は、摂取不捨の御ちかひにおさめとりてまもらせたまふによりて行人のはからひにあらず、金剛の信心となるゆへに正定聚のくらゐに住すといふ。このこゝろになれば憶念の心自然におこるなり。この信心のおこることも、釈迦の慈父・弥陀の悲母の方便によりて无上の信心を発起せしめたまふとみえたり。これ自然の利益也としるべし。「来迎」といふは、「来」は浄土へきたらしむといふ、これすなわち若不生者のちかひをあらはす御のり也。穢土をすてゝ真実の報土にきたらしむと也、すなわち他力をあらはす御ことなり。また「来」はかへるといふ。かへるといふは、願海にいりぬるによりてかならず大涅槃にいたるを、法性のみやこへかへるとまふす也。法性のみやこといふは、法身とまふす如来のさとりを自然にひらく也、さとりひらくときを法性のみやこへかへるとまふす也。これを、真如実相を証すともいふ、无為法身ともいふ、滅度にいたるともいふ、法性の常楽を証すともいふ、无上覚にいたるともまふす也。このさとりをうれば、すなわち大慈大悲きわまりて生死海にかへりいりてよろづの有情をたすくるを、普賢の徳に帰せしむといふ也。この利益におもむくを来といふ。これを法性のみやこへかへるといふなり。「迎」といふはむかへたまふといふ、まつといふこゝろ也。選択不思議の本願の尊号、无上智慧の信心をきゝて、一念もうたがふこゝろなければ真実信心といふ。この信心をうれば、等正覚にいたりて補処の弥勒におなじくして无上覚をなるべしといへり、すなわち正定聚のくらゐにさだまるなり。このゆへに信心やぶれず、かたぶかず、みだれぬこと金剛のことなりと。しかれば金剛の信心といふ也。『大経』(巻下)には、「願生彼国、即得往生、住不退転」とのたまへり。「願生彼国」は、かのくにゝむまれむとねがへと也。「即得往生」は、信心をうればすなわち往生すといふ。すなわち往生すといふは不退転に住するをいふ。不退転に住すといふはすなわち正定聚のくらゐにさだまるなり、成等正覚ともいへり。これを即得往生といふ也。「即」はすなわちといふ。すなわちといふは、ときをへず、日をへだてぬをいふなり。おほよそ十方世界にあまねくひろまることは、法蔵菩薩の四十八の大願の中に、第十七の願に、十方无量の諸仏にわがなをほめられ、となえられむとちかひたまえる、一乗大智海の誓願を成就したまへるによりて也。『阿弥陀経』の証誠護念のありさまにてあきらかなり。証誠護念の御こゝろは、『大経』にもあらわれたり。すでに称名の本願は選択の正因たること、悲願にあらわれたり。この文のこゝろはおもふほどはまふさず。これにておしはからせたまふべし。この文は、後善導法照禅師とまふす聖人の御釈也。この和尚おば法道和尚と、慈覚大師はのたまへり。また『伝』には廬山の弥陀和尚ともまふす、浄業和尚ともまふす。唐朝の光明寺の善導和尚の化身なり、このゆへに後善導とまふすなり。

【3】
「彼仏因中立弘誓  聞名念我総迎来
不簡貧窮将富貴  不簡下智与高才
不簡多聞持浄戒  不簡破戒罪根深
但使廻心多念仏  能令瓦礫変成金」(五会法 事讚)
「彼仏因中立弘誓」、このこゝろは、「彼」はかのといふ。「仏」は阿弥陀仏なり。「因中」は法蔵菩薩とまふししとき也。「立弘誓」は、「立」はたつといふ、なるといふ。「弘」はひろしといふ、ひろまるといふ。「誓」はちかひといふ。法蔵比丘、超世无上のちかひをおこして、ひろくひろめたまふと也。超世は、よの仏の御ちかひにすぐれたまへりと也。超はこえたりといふ、うえなしとなり。如来の弘誓をおこしたまへるやうは、この『唯信鈔』にくわしくあらわせり。「聞名念我」といふは、「聞」はきくといふ、信心をあらわす御のり也。「名」は如来のちかひの名号なり。「念我」とまふすは、このみなを憶念せよと也。諸仏称名の悲願にあらわせり。憶念といふは、信心まことなる人は本願をつねにおもひいづるこゝろのたえずつねなるなり。「総迎来」といふは、「総」はふさねてといふ、すべてみなといふこゝろ也。「迎」はむかふるといふ、まつといふ、他力をあらはすこゝろ也。「来」はかへるといふ、きたるといふ、法性のみやこへむかへゐてかへらしむと也。法性のみやこより、衆生利益のために娑婆界にきたりたまふゆへに、「来」をきたるといふ也。『経』(大経 巻下)には「従如来生」とのたまへり、「従如」といふは真如よりとまふす、「来生」といふはきたり生ずといふなり。「不簡貧窮将富貴」といふは、「不簡」はえらばずといふ、きらはずといふこゝろ也。「貧窮」はまづしく、たしなき也。「将」はまさにといふ、もてといふ、ゐてゆくといふ。「富貴」はとめるといふ、よきひとゝいふ。これらをまさにもてえらばず、浄土へゐてゆくと也。「不簡下智与高才」といふは、「下智」は智慧あさく、せばく、すくなきものなり。「高才」は才学ひろきもの。これらをえらばずと也。「不簡多聞持浄戒」といふは、「多聞」は聖教をひろくおほくきゝ、信ずる也。「持」はたもつといふ。たもつといふは、ならいまなぶことをうしなわず、ちらさぬ也。「浄戒」は大乗小乗のもろもろの戒法、五戒、八戒、十善戒、小乗の具足戒、三千の威儀、六万の斎行、大乗の一心金剛法戒、三聚浄戒、『梵網』の五十八戒等、すべて道俗の戒品、これらをたもつを持といふ、これらの戒品をやぶるを破といふ也。かやうのさまざまの大小の戒品をたもてるいみじきひとびとも、他力真実の信心をえてのちに真実の報土には往生をとぐる也。みづからの、おのおのの戒善、おのおのの自力の信、自力の善にては実の報の浄土にはむまれずとしるべし。「不簡破戒罪根深」といふは、「破戒」はかみにあらわすところのよろづの道俗の戒品をうけてやぶりすてたるもの、これらをきらはずと也。「罪根深」といふは、十悪・五逆の悪人、謗法・闡提の罪人、おほよそ善根すくなきもの、悪業おほきもの、善心あさきもの、悪心ふかきもの、かやうのあさましきさまざまのつみふかき人を深といふ、ふかしといふことば也。すべてよき人あしき人、たふときひといやしきひとを、无㝵光仏の御ちかひにはえらばず、これをみちびきたまふをさきとしむねとする也。真実信心をうれば実報土にむまるとおしえたまへるを、浄土真宗とすとしるべし。「総迎来」といふは、すべてみな真実信楽あるものを浄土へむかへゐてかへらしむとなり。「但使廻心多念仏」といふは、「但使廻心」はひとへに廻心せしめよといふことば也。「廻心」といふは自力の心をひるがへし、すつるをいふ也。実報土にむまるゝ人はかならず无㝵光仏の心中におさめとりたまふゆへに金剛の信心となるなり。このゆへに多念仏とまふす也。「多」は大のこゝろ也、勝のこゝろ也、増上のこゝろ也。大はおほき也。勝はすぐれたり、よろづの善にまされりとしるべし。増上はよろづの善にすぐれたるなり。これすなわち他力本願のゆへ也。自力のこゝろをすつといふは、やうやうさまざまの大小の聖人・善悪の凡夫の、みづからがみをよしとおもふこゝろをすて、みをたのまず、あしきこゝろをさかしくかへりみず、またひとをあしよしとおもふこゝろをすてゝ、ひとすぢに具縛の凡夫・屠沽の下類、无㝵光仏の不可思議の誓願、広大智慧の名号を信楽すれば、煩悩を具足しながら无上大涅槃にいたるなり。具縛といふはよろづの煩悩にしばられたるわれらなり。煩はみをわづらはす、悩はこゝろをなやますといふ。屠はよろづのいきたるものをころし、ほふるもの、これはれうしといふものなり。沽はよろづのものをうりかうもの也、これはあき人也。これらを下類といふなり。かやうのあき人・れうし、さまざまのものはみな、いし・かわら・つぶてのごとくなるわれら也。「能令瓦礫変成金」といふは、「能」はよくといふ。「令」はせしむといふ。「瓦」はかわらといふ。「礫」はつぶてといふ。「変成金」は、「変成」はかへなすといふ。「金」はこがねといふ。如来の本願を信ずれば、かわら・つぶてのごとくなるわれらを、こがねにかえなさしむとたとへたまへる也。あき人・れうしなむどは、いし・かわら・つぶてのごとくなるを、如来の摂取のひかりにおさめとりたまふてすてたまはず、これひとへにまことの信心のゆへなればなりとしるべし。文のこゝろはおもふほどはまふしあらはし候はねども、あらあらまふす也。ふかきことはよからむ人にもとはせたまふべし。この文は、慈愍三蔵とまふす天竺の聖人の御釈也。震旦には恵日三蔵とまふすなり。

【4】
「極楽无為涅槃界  随縁雑善恐難生
故使如来選要法  教念弥陀専復専」(法事讚 巻下)
「極楽无為涅槃界」といふは、「極楽」とまふすはかの安養浄土なり、よろづのたのしみつねにして、くるしみまじわらざる也。かのくにおば安養といへり。曇鸞和尚は、ほめたてまつりて安養とまふすとのたまへり。また『論』(浄土論)には、「蓮華蔵世界」ともいへり、「无為」ともいへり。「涅槃界」といふは无明のまどひをひるがへして、无上覚をさとる也。「界」はさかいといふ、さとりをひらくさかいなりとしるべし。涅槃とまふすに、その名无量なり、くはしくまふすにあたはず、おろおろその名をあらはすべし。「涅槃」おば滅度といふ、无為といふ、安楽といふ、常楽といふ、実相といふ、法身といふ、法性といふ、真如といふ、一如といふ、仏性といふ。仏性すなわち如来也。この如来、微塵世界にみちみちたまへり、すなはち一切群生海の心にみちたまへる也、草木国土ことごとくみな成仏すととけり[1]この一切有情の心に方便法身の誓願を信楽するがゆへに、この信心すなわち仏性なり、この仏性すなわち法性なり、この法性すなわち法身なり。しかれば仏について二種の仏身まします、一には法性法身とまふす、二には方便法身とまふす。法性法身とまふすは、いろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こゝろもおよばず、ことばもたえたり。この一如よりかたちをあらわして、方便法身とまふすその御すがたに、法蔵比丘となのりたまひて、不可思議の四十八の大誓願をおこしあらわしたまふなり。この誓願の中に、光明无量の本願、寿命无量の弘誓を本としてあらわれたまへる御かたちを、世親菩薩は尽十方无㝵光如来となづけたてまつりたまへり。この如来すなわち誓願の業因にむくひたまひて報身如来とまふすなり、すなわち阿弥陀如来とまふす也。報といふは、たねにむくひたるゆへ也。この報身より応・化等の无量无数の身をあらわして、微塵世界に无㝵の智慧光をはなたしめたまふゆへに尽十方无㝵光仏とまふすひかりの御かたちにて、いろもましまさず、かたちもましまさず、すなわち法性法身におなじくして、无明のやみをはらひ悪業にさえられず、このゆへに无㝵光とまふす也。无㝵は有情の悪業煩悩にさえられずと也。しかれば、阿弥陀仏は光明なり、光明は智慧のかたち也としるべし。「随縁雑善恐難生」といふは、「随縁」は衆生のおのおのの縁にしたがひて、もろもろの善を修するを極楽に廻向するなり、すなわち八万四千の法門也。これはみな自力の善根なるゆへに実報土にはむまれずと、きらわるゝゆへに恐難生といへり。「恐」はおそるといふ、実報土に雑善・自力の善むまるといふことをおそるゝ也。「難生」はむまれがたしと也。「故使如来選要法」といふは、釈迦如来、よろづの善のなかより名号をえらびとりて、五濁悪時・悪世界・悪衆生・邪見無信のものにあたえたまへる也としるべし。これを選といふ、ひろくえらぶといふこゝろ也。「要」はもはらといふ、もとむといふ、ちぎるといふ也。「法」といふは名号なり。「教念弥陀専復専」といふは、「教」はおしふといふ、のりといふ、釈尊の教勅也。「念」は心におもひさだめて、ともかくもはたらかぬこゝろ也。すなわち選択本願の名号を一向専修なれとおしえたまふ御こと也。「専復専」といふは、はじめの「専」は一行を修すべしと也。「復」はまたといふ、かさぬといふ。しかれば、また「専」といふは一心なれと也、一行一心をもはらなれと也。「専」は一といふことば也。もはらといふはふたごゝろなかれと也。ともかくもうつるこゝろなきを専といふ也。この一行一心なるひとを「弥陀摂取してすてたまはざれば阿弥陀となづけたてまつる」(礼讚意)と、光明寺の和尚はのたまへり。この一心は横超の信心也。横はよこさまといふ、超はこえてといふ。よろづの法にすぐれて、すみやかにとく生死の大海をこえて无上覚にいたるゆへに超とまふす也。これすなわち如来大悲の誓願力なるゆへ也。この信心は摂取のゆへに金剛心となる。これは念仏往生の本願の三信心也、『観経』の三心にはあらず。この真実信心を、世親菩薩は願作仏心とのたまへり、これ浄土の大菩提心なり。しかればこの願作仏心はすなわち度衆生心なり。この度衆生心とまふすは、すなわち衆生をして生死の大海をわたすこゝろ也。この信楽は衆生をして无上大涅槃にいたらしむる心也。この信心すなわち大慈大悲心也。この信心すなわち仏性也、すなわち如来也。この信心をうるを慶喜といふ。慶喜するひとは諸仏とひとしきひととなづく。慶はうべきことをえてのちによろこぶこゝろ也、信心をえてのちによろこぶ也。喜はこゝろのうちにつねによろこぶこゝろたえずして憶念つねなり。踊躍するなり。踊は天におどるといふ、躍は地におどるといふ、よろこぶこゝろのきわまりなきかたちをあらわす也。信心をえたる人おば、「芬陀利華」(観経)にたとえたまへり。この信心をえがたきことを、『大経』(巻下)には、「若聞斯経信楽受持、難中之難无過此難」とおしへたまえり。『小経』(称讚浄 土経)には「極難信法」とみえたり。この文のこゝろは、この経をきゝて信ずること、かたきが中にかたし、これにすぎてかたきことなしと也。釈迦牟尼如来は、五濁悪世にいでゝこの難信の法を行じて无上涅槃にいたれりとゝきたまふ。さてこの智慧の名号を濁悪の衆生にあたえたまへり。十方諸仏の証誠、恒砂如来の護念、ひとえに真実信心のひとのため也。釈迦は慈父、弥陀は悲母、われらがちゝ・はゝとして信心をおしえたまへりとしるべき也。過去久遠に、三恒河沙の諸仏のよにいでたまひしみもとにして、自力の大菩提心をおこしき。恒沙の善根を修せしめしによりて、いま大願業力にまうあふことをえたり。他力の三信心をえたらむ人は、ゆめゆめ余の善をそしり、余の仏聖をいやしふすることなかれと也。

【5】
「具三心者必生彼国」(観経)といふは、三心を具すればかならずかのくにゝむまると也。しかれば善導は、「具此三心必得往生也、若少一心即不得生」(礼讚)とのたまへり。「具此三心」といふは、みつの心を具すべしと也。「必得往生」といふは、「必」はかならずといふ。「得」はうるといふ、うるといふは往生をうると也。「若少一心」といふは、「若」はもしといふ、ごとしといふ。「少」はかくるといふ、すくなしといふ。一心かけぬればむまるゝものなしと也。一心かくるといふは信心のかくる也、信心かくるといふは本願真実の三信のかくる也。『観経』の三心をえてのちに『大経』の三信心をうるを、一心をうるとはいふ也。このゆへに『大経』の三信をえざるおば、一心かくるといふ也。この一心かけぬれば、実報土にむまれずと也。『観経』の三心は定機散機の自力心也。定散の二善を廻して、『大経』の三信をえむとねがふ方便の深心と至誠心としるべし。真実の三信心をえざれば真の報土にむまれざれば、即不得生といふ也。「即」はすなわちといふ、「不得生」はむまるゝことをえずといふ也。定機・散機の人、雑行雑修して三信心かけたるゆへに、多生曠劫をへて三信心をえてのちにむまるべきゆへに、すなわちむまれずといふ也。もし胎生辺地にむまれても五百歳をへ、あるいは億千万衆のなかに、ときにまれに一人、まことの報土にはすゝむとみえたり。三信をえむことをよくよくこゝろへてねがふべき也。

【6】
「不得外現賢善精進之相」(散善義)といふは、浄土をねがふひとは、あらはに、かしこきすがた、善人のかたちをふるまはざれ、精進なるすがたをしめすことなかれと也。そのゆへは「内懐虚仮」なればなり。「内」はうちといふ。こゝろのうちに煩悩を具せるゆへに虚なり、仮なり。「虚」はむなしくして実ならず。「仮」はかりにして真ならず。しかれば、いまこの世を如来の御のりに末法悪世とさだめたまへるゆへは、一切有情まことのこゝろなくして、師長を軽慢し、父母に孝せず、朋友に信なくして、悪をのみこのむゆへに、世間・出世みな「心口各異、言念无実」(大経 巻下)なりとおしえたまへり。「心口各異」といふは、こゝろとくちにいふこと、みなおのおのことなりと。「言念無実」といふは、ことばとこゝろのうちと実なしといふ也。「実」はまことゝいふことばなり。この世のひとは無実のこゝろのみにして、浄土をねがふひとはいつわり、へつらいのこゝろのみなりときこえたり。よをすつるも名のこゝろ、利のこゝろをさきとするゆへ也。しかれば、われらは善人にもあらず、賢人にもあらず。精進のこゝろもなし、懈怠のこゝろのみにして、うちはむなしく、いつわり、かざり、へつらうこゝろのみつねにして、まことなるこゝろなきみとしるべし。「斟酌すべし」(唯信鈔)といふは、ことのありさまにしたがふて、はからふべしといふことばなり。

【7】
「不簡破戒罪根深」(五会法 事讚)といふは、もろもろの戒をやぶり、つみふかきひとをきらはずと也。このやうは、かみにくはしくあかせり。よくみるべし。

【8】
「乃至十念若不生者不取正覚」(大経 巻上)といふは、選択本願の文也。この文のこゝろは、乃至十念のちかひの名号をとなえむひと、もしわがくにゝむまれずは、仏にならじとちかひたまへる也。「乃至」は、かみしも、おほきすくなき、ちかきとおきひさしきおも、みなおさむることば也。多念にこゝろをとゞめ、一念にとゞまるこゝろをやめむがために、未来の衆生をあわれみて、法蔵菩薩かねて願じまします御ちかひなり。よくよくよろこぶべし、慶楽すべき也。

【9】
「非権非実」(唯信鈔)といふは、法華宗のおしえなり。浄土真宗のこゝろにあらず、聖道家のこゝろ也、易行道のこゝろにあらず。かの宗の人にたづぬべし。

【10】
「汝若不能念」(観経)といふは、五逆・十悪の罪人、不浄說法のもの、やまうのくるしみにとぢられて、こゝろに弥陀を称念したてまつらずは、たゞくちに南无阿弥陀仏ととなえよとすゝめたまへる御のりなり。これは口称を本願とちかひたまへるをあらわさむとなり。「応称无量寿仏」(観経)とのたまへるは、このこゝろなり。「応称」はとなふべしとなり。

【11】
「具足十念、称南无無量寿仏、称仏名故、於念念中除八十億劫生死之罪」(観経意)といふは、五逆の罪人はそのみにつみをもてること、と八十億劫のつみをもてるゆへに、十念南无阿弥陀仏ととなふべしとすゝめたまへるなり。一念にと八十億劫のつみをけすまじきにはあらねども、五逆のつみのおもきほどをしらせむがためなり。「十念」といふは、たゞくちに十返をとなふべしと也。しかれば、選択本願には、「若我成仏、十方衆生、称我名号下至十声、若不生者不取正覚」(礼讚)とまふすは、弥陀の本願には、「下至」といえるは、「下」は上に対して、とこゑまでの衆生かならず往生すとしらせたまへる也。念と声とはひとつこゝろ也。念をはなれたる声なし、声をはなれたる念なしとしるべし。


この文どものこゝろは、おもふほどはまふさず、よからむ人にたづぬべし。ふかきことは、これにてもおしはかりたまふべし。
南无阿弥陀仏
ゐなかの人々の、文字のこゝろもしらず、あさましき愚痴きわまりなきゆへに、やすくこゝろえさせむとて、おなじことを、たびたびとりかへしとりかへしかきつけたり。こゝろあらむ人は、おかしくおもふべし、あざけりをなすべし。しかれども、おほかたのそしりをかへりみず、ひとすぢにおろかなるものを、こゝろえやすからむとてしるせるなり。

本云正嘉元歳丁巳八月十九日
愚禿親鸞 八十五歳 書之


  1. 平安時代前期の天台宗の僧安然(841年)? - 915年)?)の『勘定草木成仏私記』に「一仏成道、観見法界、草木国土、悉皆成仏(一仏成道し法界を観見すれば、草木国土、みなことごとく成仏したり)」とある。