寺檀制度
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
じだん-せいど 寺檀制度
江戸時代に制度化された寺院と檀家との関係のこと。檀家制度などともいう。江戸幕府は、すべての人々を特定の寺院に檀家として所属させる制度を整え、檀家がキリスト教など禁制宗旨の信者ではないことを寺院に証明させた。そのことを定期的に確認することを
千葉 乗隆師の『浄土真宗と北陸門徒』には、元和九(1623)年にはおよそ千ヶ寺ぐらいだった寺院数が、元禄七(1694)年には、八千三百五十九寺にのぼったとされる。この急激な増加は1671年(寛文11)に従来行われていた宗門改めを、人別帳を利用して行うように幕府が指令したことにより、宗門人別改帳作成が制度化されて寺檀関係が制度として成立したからであろう。これは戸籍として機能し全国民はどこかの寺に属しなければならなくなったことから真宗寺院の爆増となった。
真宗の寺院を調査しますと、たいていの寺院は蓮如上人なり親鸞聖人にまでその創立を結びつける場合が多くみられます。しかしその実態は真宗寺院のだいたい90%以上は江戸時代のはじめに寺が出来上がったといえます。真宗寺院の数の移り変わりを見て参りますと、南北朝時代の文安六(1449)年の時点ではだいたい二十二ヶ寺ほどです。
それから百年ほどたちまして戦国時代の天文二十四(1555)年には二百五十ヶ寺ほど、それからまた七~八十年ほどたちまして、江戸時代のごくはじめの元和九(1623)年にはおよそ千ヶ寺ぐらいです。
これが七十年後の元禄七(1694)年には西本願寺だけで八千三百五十九となります。だいたい東もほぼこれに近い数字でございますので、両方合わせますと一万五千~六千になります。
それから安政元(1854)年には西本願寺だけで一万六百六十九ヶ寺です。寛永年間から寛文年間にかけまして、本末制度という寺院の上下関係を定める法令が発布されました。それを契機にしまして道場の寺院化がなされます。
もう一つは寛文年間(1661-1673)に檀家制が設けられます。これは日本全国民が必ずどこかの仏教寺院に所属をしなければいけないという制度です。そうしますと全国民を登録する、寺が必要になってくるわけです。それで各村々に寺が一挙に出来上がってくるのです。こういうふうな檀家制度と本末制度の整備により寺が急増します。➡(2)道場と毛坊主