吉崎
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
よしざき
現在の福井県あわら市(旧金津町)吉崎。文明三年(1471)蓮如上人が北陸教化の根本道場として吉崎御坊を建立された地。
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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吉崎に道場を建てた経緯は、比叡山延暦寺からの本願寺破却(1465)などいう迫害から逃れるという面がある。
このような比叡山からの迫害は、浄土真宗の説く「帰命尽十方無碍光如来」の、善悪のへだてなき済度を説く無碍を「造悪無碍」と受け取った為であった。また一向に弥陀に帰命するところから他宗を疎かにするという危惧もあったのであろう。
ともあれ、京都から非難した当時の根拠地であった江州(滋賀県)は比叡山に近く、より比叡山から遠い地へと避難する必要もあったのである。それに力を貸したのが、父存如の従兄弟である法相宗大乗院の経覚であった。
越前河口庄細呂木郷には、大乗院の荘園があり、その管理を本願寺の末寺である和田本覚寺がしていたこともあり、このような縁によって細呂宜郷内吉崎の地に一宇を建立したのであった。(吉崎建立章)
この地での、ある意味で捨て身の蓮如上人の教化が、北陸はおろか奥州にまで勧化の力が及び、一大教団となるのであった。