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安心論題/歓喜初後

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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(4)歓喜初後

 真宗は信心をいただいた初一念のとき、往生成仏の因が決定して正定聚不退の身にならせていただく法であります。  その信心をいただいた初一念のときにも歓喜の思いがあるのであろうか、それとも初一念のときには歓喜の思いはなくて、歓喜は第二念以後の相続の上にだけあるのであろうか。  初起一念のときにも歓喜があるというのであれば、そのときの歓喜はどのようなものであるのか、そうした問題について論ずるのが、この「歓喜初後」という論題であります。  なぜそのようなことが問題になるのかといいますと、もし初一念のときに歓喜の思いがあるというならば、その思いは私のこころのしわざ(意業)であろう。それならば、わたしのこころのしわざが、往生の因が決定するについて関与することになりましょう。ここに「意業安心」とか、「歓喜正因」とか、さらに「一念覚知」というような、誤った考え方におちいる危険性が生じます。  そうかといって、初起一念のときには歓喜はなく、歓喜は第二念以後の信相続の上にだけあると考えるならば、その初起一念は信楽の開発した一念といえず、信心歓喜の初一念とはいえないことになりましょう。  こうした点をどのように理解すべきかということをうかがうのが、この論題の趣旨であります。

 『大経』の本願成就文に(真聖全一―二四)、

諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心回向 願生彼国 即得往生 住不退転
(あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に回向したまえり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。)

と説かれています。「信心歓喜乃至一念……即得往生住不退転」というのは、信心歓喜は一生涯相続するが(乃至)、その信初発のとき(一念)、ただちに往生成仏すべき身に定まり(即得往生)、不退転の位に入るのである(住不退転)、という意味であります。  宗祖聖人は、『教行信証』の「信巻」信一念釈(真聖全二―七一)、

それ真実の信楽を按ずるに、信楽に一念あり。一念とは、これ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰わすなり。

と解釈されています。一念の「念」は「時剋」の義、「一」は「極促」の義として、信心歓喜の一念を「信楽開発の時剋の極促」と仰せられるのです。  極促の「促」とは「延」に対する語であります。『浄土文類聚鈔』には(真聖全二―四四五)、

往生の心行を獲得する時節の延促について乃至一念というなり。

と示されています。「延」とは「のびる」ということで、乃至一念の「乃至」にあたり、第二念以後の生涯の信相続を指します。これに対して、「促」とは「つづまる」ということで、乃至一念の「一念」にあたり、信心がおこって初際を指します。いま「極促」と仰せられるのは、促の時をいっそう強めて、「きわめての初際」といわれるのです。『一念多念文意』には(真聖全二―六〇五)、

一念というは、信心を売るときのきわまりをあらわすことばなり。

と示されています。  宗祖が信一念のときをきびしくおおせられるのは、信心を獲得してから時をへて往生の因が決定するのではなく、信心獲得の初際に往生の因が決定する。つまり、受法(信心をいただくこと)と得益(往生が決定すること)とが同時である旨を示されるのであります。受法と得益とが同時であるということは、その間に私どもの力をまじえず、名号願力が私の心にとどいたときに往生が決定する、いいかえますと、信心ひとつが正因であるということを、徹底してあらわされるのであります。  また、「広大難思の慶心を彰わすなり」というのは、一念のときにあるものは広大難思の徳をそなえた慶び心、すなわち信楽である、と示されるのであります。

 「歓喜」については、「信巻」に(真聖全二―七二)、

歓喜というは、身心悦貌を形わすなり。

と示され、『一念多念文意』には(真聖全二―六〇五)、

歓喜というは、歓はみ(身)をよろこばしむるなり、喜はこころ(心)によろこばしむるなり。

等と述べられています。また同じく『一念多念文意』に、『大経』流通分の弥勒付嘱(真聖全一―四六)の文を解釈されて(真聖全二―六一〇)、

歓喜は、うべきことをえてんずと、さきだちてかねてよろこぶこころなり。踊は天におどるという、躍は地におどるという、よろこぶこころのきわまりなきかたちなり、慶楽するありさまをあらわすなり。慶はうべきことをえてのちによろこぶこころなり、楽はたのしむこころなり、これは正定聚の位をうるかたちをあらわすなり。

と述べられています。天におどり地におどるといのは、必ずしも実際におどりまわるということではなくて、喜びの形容と見るのが穏当でありましょう。と申しますのは、「よろこぶこころのきわまりなきかたちなり」とか、「正定聚のくらいをうるかたちをあらわすなり」と示されていますし、『歎異抄』の第九章に(真聖全二―七七七)、

天におどり地におどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもいたもうべきなり。

等と述べられていることからも、そのことが窺われます。「宇部起ことを獲てんずと、さきだちてかねてよろこぶ」というのは、やがて必ず往生成仏の果を得ることを今から喜ばせていただくことであり、「うべきことをえてのちによろこぶ」というのは、すでに如来の摂取をこうむり正定聚の身にならせていただいたことを喜ぶ意味であります。正定聚とは仏になるべき身に定まったことですから、この二つの喜びは別のものではないといえましょう。

 さて、前項にあげた「歓喜」のご解釈は、初起と後続とを一括して、総じてお示しくだされたものと考えられます。もしまた、初起一念のときの歓喜について解釈されたものと見ても、それは後続の歓喜の顕著な相をもって、初起の歓喜を示されたものとうかがわなければなりません。  なぜなれば、身心にわたって歓喜の相があらわれ、身口意の三業の上に歓喜が出てくるのは、第二念以後に属するのであって、信楽開発の時剋の極促といわれる初際には、口業や身業はもとよりのこと、意業の運想(想をはこぶ)もあり得ないからであります。  それならば、初起一念のときには、無疑心(信)だけがあって、歓喜(楽)はないのかというと、決してそうではありません。信楽の開発した一念であり、信心歓喜の一念ですから、無疑愛楽の心相がないとはいえません。この場合、無疑心即歓喜愛楽の心であります。  「信巻」の字訓釈(真聖全二―五九)には、信楽のことを「欲願愛悦の心」とか、「歓喜賀慶の心」と仰せられます。「欲願愛悦の心」というのは、欲生(欲願)が信楽(愛悦)におさまることを示すために欲願愛悦の心といわれたので、信楽の当義は「愛悦の心」であります。また『文類聚鈔』(真聖全二―四五一)には、信楽のことを「歓喜賀慶の心」と示されています。これはつまり、「信楽」即是「愛悦の心」、即是「歓喜賀慶の心」、即是「慶喜楽の心」ということであります。  また、「行巻」六字釈(真聖全二―二二)に、帰命の「帰」を「帰悦なり、帰税なり」と釈されています。帰悦の悦は喜びしたがうこと、帰税の税は如来の願力のもとにやどり、やすらぐ意味であります。  このように見てまいりますと、無疑心(信)即歓喜(楽)であって、初起一念に歓喜があることは自明であります。  その初起一念のときの歓喜は、如来の勅命が聞こえたままの歓喜であり、如来の慈悲が私の心に届いたままの歓喜であり、無疑決定心が開発した当初の大安堵心であります。これは如来の勅命が私の心中に印現したまま(印をおしたようにそのまま現れる)の歓喜であって、私が意業に想いを運んで生じたものではありません。「ああ有難い」とか、「勿体ないことよ」とか思うのは、すでに第二念以後であります。

 無疑心即歓喜愛楽心であり、信心には必ず歓喜をともないますから、信心のことを歓喜という語で表わされる場合が少なくありません。「正信偈」に、

能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃

とか、

慶喜一念相応後 与韋提等獲三忍

と示され、『浄土和讃』の讃阿弥陀仏偈讃に(真聖全二―四八九)、

一念慶喜するひとは 往生かならずさだまりぬ

と讃じ、『高僧和讃』の曇鸞章に(真聖全二―五〇五)、

一念歓喜するひとを かならず滅度にいたらしむ

とおおせられるごときは、いずれも信心のことを歓喜の語で表わされたものであります。覚如上人の『願願鈔』(真聖全三―四七)や、『本願鈔』(真聖全三―五五)にも、これと同様の用例が見られます。

 歓喜の語をもって信心の代え名として用いられるのであれば、信心正因を歓喜正因といってもよいかというとそれはよくありません。正因というのは、それによって私の往生の因がまさしく決定することであります。歓喜することによって、私の往生が決定するのではありません。名号を信受することによって、往生の因が決定するのであります。  私を往生成仏させてくださる因体は、如来の名号願力であって、それを私が領受するから、私の往生が決定するのです。如来の名号願力が私の心に到りとどいてくださるから、私の往生成仏の因が円満するといってもよいでしょう。その名号を領受すること、願力が私の心に届いてくださったことを示すのが信心であります。だから、信心正因といわれるのであって、歓喜をもって正因ということはできません。  以上、真宗の信心にあっては、歓喜は初起と後続とに通じていえますが、初起の歓喜は仏勅の印現した当初の大安堵心をいうのであって、意業の運想による歓喜ではありません。口業や身業にあらわれるのは第二念以後であり、意業の歓喜も第二念以後に属するものであります。