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安心論題/行一念義

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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(21)行一念義

 七高僧のお勧めはおおむね念仏往生、すなわち称名念仏して往生を得るという化風であります。しかも千声万声と数多く称えなければ往生できないというのではなくて、わずか一声の念仏(行の一念)で往生の因は円満すると示されています。そのような説示の意味は、要するに阿弥陀如来の願力一つで救われることを顕わすのである、と明らかにされたのが宗祖親鸞聖人の行一念釈(真聖全二―三四)であります。  ところが、その意味を正しく領解しないで、一声称名することによって始めて往生の因が決定すると考えたり、あるいは本願を信受したとき(信の一念)に、同時に最初の一声が必ず称えられると考えられるものがあります。そのように考えるならば信心正因の宗義に違背することになります。  そこで、宗祖聖人の行一念釈はどういう意味であるかということを窺うのが、この「行一念義」という論題であります。

 『教行信証』の行巻に(真聖全二―三四)、

おほよそ往相回向の行信について、行にすなはち一念あり、また信に一念あり。

と、まず行信の両一念を並べて出され、次に(真聖全二―三四)、

行の一念といふは、いわく、称名の遍数について選択易行の至極を顕開す。

等といって、行一年について解釈せられます。そして信一念については信巻(真聖全二―七一)にいたってこれを解釈されるのであります。右にあげた行一念の解釈が「行一念義」の出拠であります。宗祖は右の文につづいて(前掲)、

故に『大本』にのたまはく。
仏、弥勒に語りたまわく、「それかの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。まさに知るべし、この人は大利を得とす。すなわちこれ无上の功徳を具足するなり」。

と、『大経』の弥勒付嘱の一念得大利(わずか一声の称名で無上大利をうる)の文(真聖全一―四六)を引証せられ、更に善導大師の「下至一念」「一声一念」「専心専念」等の文(真聖全二―三四引用)を出されて、その意味を解釈されています。  行巻にあっては、今の行一念釈は七祖の文を引かれた後の宗祖が解釈される一段に出ています。したがって、この行一念釈は前に引かれた七祖の文の意味をあらわされたものと見られます。七祖の文の中には、「下至一念得大利」(真聖全二―一八)とか、「利剣即是弥陀号、一声称念罪皆除」(真聖全二―二二)とか示されています。それらの意味を総じて、この行一念釈で明らかにされ、その基づくところとして、前掲の『大経』の弥勒付嘱の文をお出しになったものと窺われます。

 『大経』の弥勒付嘱の文(前掲)は、『大経』の説法の終わりにのぞんで、経の本論(正宗分)に説かれた本願の法を末の世まで永く伝えるように、弥勒菩薩に付嘱(委嘱)なさるところに示されています。ここでは、聖道の法が末世にはすたれてしまうのに対して、本願の法は末の世まで変わることなく衆生を利益することを述べて、聖道の法と本願の法との廃立(聖道を配して本願を立てる)を示されるのであります。この場合、聖道の諸行の法に対して、本願の法のすぐれていることをお念仏であらわされます。すなわち文の意味は、 かの阿弥陀仏の名号をお聞かせいただいて、これを信じ喜び、わずか一声称名するところに、この人は大利を得させていただき、無上の功徳が身にそなわるのである。 と仰せられるのです。本願の法は名号を与えてお救いくださるのですから、名号が心に届いて信心となり、それが口にあらわれてお念仏となってくださいます。  本願成就文は獲信と同時に正定聚不退の身になることを示されるのですから、本願成就の「一念」は信の一念である、と宗祖は見られます。今の弥勒付嘱の文は、聖道すなわち諸行の法に対して法の廃立を示されるところですから、付嘱の「一念」は行の一念と見るのが文に親しいのであります。宗祖はこの弥勒付嘱の文を解釈されて、『一念多念文意』に(真聖全二―六一一)、

「乃至」は称名の遍数の定まりなきことをあらわす。「一念」は功徳のきわまり、一念に万徳ことごとくそなわる、よろずの善みなおさまるなり。

等と述べられています。  聖道の法は、一年よりも五年十年と修行を積むことによってその功徳が増してゆく教えですが、本願の法は称名の多い少ないは問題ではない。わずか一声のところに無上の功徳が身にそなわるのであると仰せられるのです。これは諸行の法に対して行々相対して、一声の称名で利益を示されますが、称えることによって利益が得られるというのではありません。もし称えるという行為に功を認めるのであれば、一声よりも百声千声の方が功徳が増すはずであります。そうではなくて、本願を信じて念仏申す身になったから無上功徳がそなわるので、その無上功徳とは、いただいた名号の徳にほかなりません。

 さて、行巻に示された行一念釈の文(前掲)でありますが、「行の一念」というのは、称名の初一声であります。  「行」とは造作(しわざ)・進趣(果に進む力)の義で、今は往生成仏の証果を得べき行ですから、「真実の行」といわれ、「大行」といわれるものであります。その大行とは、諸仏によって称揚讃嘆せられている弥陀の名号であります。この名号は、私どもが往生成仏に必要な万行造作の徳をそなえ、私どもを証果に進趣させる力用がありますから、名号を指して大行というのです。  ところで、名号そのものには一念とか多念とかはありません。その名号が私どもに受取られて私の口に称えられるとき、一声・二声と数えられるのです。だから宗祖は「称名の遍数について」と仰せられます。  「一念」の「念」とは、ここでは称念の義で、声の意味であります。「一」とは数の一で、南無阿弥陀仏と一声となえるのが一念です。ただし、今の一念は「乃至一念」といわれるように、上は一生涯の多念の称名から下はわずか一声にいたるまで、という意味の一念ですから、この「一」は初一の義ということになります。  そうしますと、「行の一念」というのは、名号が私の心にいただかれて(信の一念)、それが称名となって出てきた最初の一声ということになります。  その最初の一声について何を顕わすかというと、「選択易行の至極」を開顕するのです。「選択」とは選択本願で第十八願の法であります。「易行の至極」とは、これ以上の易行はないということ。如来の名号願力のひとりばたらきで往生成仏すべき身にしていただくのであって、私の力はまったく要らないことを「易行の至極」といわれるのです。  この行一念釈では(真聖全二―三四)、

称名の遍数に就いて、選択易行の至極を開顕す。

と示され、信一念釈では(真聖全二―七一)、

一念とは、斯れ信楽開発の時剋の極促を顕わし、

等とあります。「就いて顕わす」と「斯れ顕わす」とは表現がちがいます。今は称名の初一声に就いて、選択易行の至極をあらわすと仰せられるのです。つまり、本願の法が、私の力を全く必要とせず、願力一つでお救いくださる法であるということを、称名の初一声について顕わされるのが、行一念だと仰せられるのです。初一声のときに功徳がそなわるというのではありません。名号を信受したとき功徳がそなわるのです。その名号が行者の口に出てきた最初の一声のところで、名号法の徳用を語るのが行一念得大利の説示であります。  「易行」ということについて、二つの場合が考えられます。一つは(15)「十念誓意」で窺ったように、阿弥陀仏が「乃至十念」と誓われた思召しは、信相続の易行をあらわすという。この場合の「易行」とは、いつでも、だれでも、どこでも、行じやすいということで、称名を相続することの容易であることを意味します。  今一つは、この行一念釈でいわれる「易行の至極」。この場合は選択本願即易行の至極であって、私の身口意の三業の力は一切無用、ただ如来の名号願力一つで救われるという他力救済の法を「易行の至極」といわれるのであります。  その易行の至極である本願の法を、聖道の諸行の法に対して、初一声の称名について顕わされたのが行一念の説示である、と宗祖聖人が明らかにされるのです。

 行一念といえば、称名の初一声について示されるのですが、無上大利が語られるのは初一声に限るわけではありません。第二声以後の称名もすべて名号の全現でありますから、その徳をいえば声々はみな無上大利です。そのことは、宗祖が行一念釈(真聖全二―三五)に、『安楽集』の「十念相続」の文を引かれていることによって知られます。  以上、一声称えることによって初めて無上大利が得られるとか、信一念同時に必ず行の一念が出る(事相同時)とか、あるいは信一念のとき初一声はでなくても称えたと同じ意味がある(法理同時)とかいうような考え方は、何らかの意味において能称の功を認めようとするもので、正しい領解とはいえません。

 上来述べてきたのは、行一念の「遍数の釈」といわれるもので、宗祖はまた行一念について「行相の釈」をも示されています(真聖全二―三五)。

「専念」とはすなわち一行なり。二行なきことをあらわすなり。

等と仰せられるのがそれであります。この場合の「一」は専一無二の義で、「一念」とは無二行を意味します。これは余他の行をならべず、「ただ念仏する」という行じぶりをあらわすことになります。  経釈の文にある「一念」は、乃至のついた一念ですから初一声と見るのが文にあう解釈ですが、その「一念」という言葉をもって行じぶりを示されたのが、この行相の釈で、これは文当分の意味を超えた、宗義をあらわされる解釈といえましょう。  これを要するに、如来の名号は私に信じさせ称えさせて往生させてくださる法でありますから、私の信じ称えるままが名号大行のおんはたらきである、とただただ喜ばせていただくほかはありません。

『やさしい 安心論題の話』(灘本愛慈著)p230~