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安心論題/正定滅度

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(25)正定滅度


 往生教というのは、この世にあるうちは往生を得るための行業を修め、それによって来世には浄土に生まれることができ、浄土に往けばみんな正定聚不退の位に住し、そこで更に自利利他の菩薩行を積んで、速かに仏果に至ることができる、というように考えるのが従来の見方であってといえましょう。
 宗祖親鸞聖人は、そうした従来の考え方を打ちやぶって、現在にあって名号のいわれを聞信した一念に正定聚不退の身とならせていただき、この世の命が終わったときには往生即成仏の証果を得るのであるという宗義を明らかにしてくださいました。そのことは、既に「信一念義」「即得往生」などの論題において窺ったとおりであります。
 これによって、正定聚不退の身にならせていただくのは死後のことではなくて、現に生きていることの世において得る利益であることが知られ、力強く満ち足りた喜びの中に人生を生き抜くことができるわけであります。
 しかしながら、この現生正定聚はあくまで往生成仏の果を得べき因が決定したということであって、現生にあって証果を得るということではありません。それを信一念のときに、もう浄土の往生を得て、この世が浄土に変わるように考え、あるいは信心をえたならば、ひそかに仏のさとりを得たように考えるのは、誤りであります。
 浄土真宗は、この世にあっては正定聚不退の身にしていただき、命終わって真実報土に往生して直ちに仏果すなわち滅度の果を得させていただく、つまり、現生正定聚・彼土滅度の二益であるということを明らかにするのが、この論題であります。


 『御文章』一帖目第四通に(真聖全三―四〇七)、

問うていわく、正定と滅度とは一益とこころうべきか、また二益とこころうべきや。答へていわく、一念発起のかたは正定聚なり。これは穢土の益なり。つぎに滅度は浄土にてうべき益にてあるなりとこころうべきなり。されば二益なりとおもうべきものなり。

とあるが、この論題の出拠であります。存覚師の『六要鈔』にも(真聖全二―三二一)、

問う、定聚・滅度はこれ二益か、また一益か。答う、これ二益なり。定聚というはこれ不退に当たる。滅度というはこれ涅槃を指す。

と釈されており、そのもとは、宗祖親鸞聖人の釈義の上に示されています。


 「正定」とは正定聚の略で、正定聚というのは不定聚・邪定聚に対する語であります。この三定聚は仏教にあっては、十信・十住・十行・十廻向・十地・等覚・妙覚という五十二段の階位にあてはめますと、『六要鈔』に示す一説によれば(真聖全二―三二三)、十信の前を邪定聚、十聖(初地以上)を正定聚、十信と三賢(十住・十行・十廻向)を不定聚とします。
 ところが、宗祖聖人は第十九願の諸行往生の行人を邪定聚とし、第二十願の自力念仏の行人を不定聚とし、第十八願の他力念仏の行者を正定聚として宗義をあらわされるのです。その「正定聚」というのは、まさしく滅度に至ることに定まった聚類(なかま)という意味であります。
 つぎに「滅度」というのは大涅槃のことです。すべての煩悩を断滅して生死海(迷いの世界)を度った仏果を意味します。
 そこで、「正定滅度」という論題は、正定聚と滅度とは一益であるのか二益であるのかをうかがい、一益ではなくて現生と当来との二益であるという旨を明らかにするものであります。


 『大経』の第十一願文には(真聖全一―九)、

たといわれ仏を得たらんに、国の中の人天、定聚に住し、必ず滅度に至らずば、正覚を取らじ。

と誓われています。ここに「定聚」とあるのが正定聚のことであり、「滅度」とあるのは仏果のことであります。
 この文によれば、阿弥陀仏が「国の中の人天」と仰せられるのですから浄土の中にいる人たちのことであって、浄土に来生した人たちを正定聚に住させて必ず滅度に至らせようというお誓いであります。ですから、この第十一願文で見る限り、正定聚不退の位に入るのは浄土に往生してからでありましょう。しかもこの願文には正定聚と滅度と二つのことが誓われていますけれども、その重点はむしろ正定聚の方にあると考えられます。というのは、「必ず滅度に至る」ということは正定聚の説明であって、かならず滅度に至るべき地位すなわち正定聚に住させるということであります。なぜそのように考えられるかと申しますと、この第十一願の成就文には(真聖全一―二四)、

それ衆生ありて彼の国に生ずれば、皆ことごとく正定の聚に住す。ゆえんはいかん。かの仏国の中にはもろもろの邪聚および不定聚なければなり。

と説かれてあって、浄土に往生した者はすべて正定聚に住することを述べて、滅度の果については述べられていないからであります。したがって、曇鸞大師も『論註』に(真聖全一―二七九)、

仏願力に乗じてすなわちかの清浄の土に往生することをえ、仏力住持して即ち大乗正定の聚に入る。

と仰せられ、道綽禅師も『安楽集』に(真聖全一―四二九)、

命終の時に臨めば光台迎接して迅くかの方に至り、くらい不退にかなう。この故に『大経』いわく、「十方の人天、わが国に来生して、もしついに滅度に至らずして更に退転あらば、正覚を取らじ」と。(第十一願の意)

と述べ、正定聚不退は浄土における得益とされています。
 ところが、宗祖聖人は正定聚不退を現生における得益とし、題十一願は滅度を誓われた願として当来に得る往生即成仏の証果とされるのであります。すなわち『本典』にあっては、信巻の標挙に(真聖全二―四八)、

至心信楽の願 正定聚之機

と示され、証巻の標挙に(真聖全二―一〇三)、

必至滅度之願
難思義往生

と示されています。宗祖の上で正定聚を現生の益として示される文は枚挙にいとまありませんが、しばらく一文を挙げますと、証巻のはじめに(真聖全二―一〇三)、

煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即の時に大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するが故に必ず滅度に至る。必ず滅度に至るはすなわちこれ常楽なり。……すなはちこれ一如なり。

と示されています。他力の信心をいただいたと同時に正定聚不退の位に入ると仰せられるのです。
 経釈の上では浄土で得る利益と見られる正定聚を、宗祖はなぜ現生に得る利益であると仰せられるのでありましょうか。
 それは阿弥陀仏の名号というものは、単に浄土に生まれさせるだけの因であって、浄土に往生してから行者が自利利他の菩薩行を修することによって仏果に到達するという程度の業因ではない。名号は阿弥陀仏の智慧・慈悲すべての功徳を摂めた大行であって、真実報土の往生即成仏の証果を得しめる業因であります。したがって、この名号を信受した者は、この世の命が尽きたとき直ちに往生即成仏の果を得るのであります。とすれば、仏となるにまちがいない身になるのは、現生信一念のときであるといわざるを得ないのであります。
 このように、仏となるにまちがいない身にしていただいた、仏果を得べき因徳が円満したという意味において現生正定聚をいわれるのであって、宗祖が真実信心の行者のことを「歓喜地」(真聖全二―三三)、「便同弥勒」(同二―七九)、「次如弥勒」(同上)、「等正覚」(同二―五五三)、「諸仏同等」(同二―六六六)などといわれるのも、すべて正定聚と同じく因徳円満の義を示されるのであります。


 つぎに滅度は真実報土に往生したときに得る証果であって、これは現生における得益ではありません。『本典』の証巻に(真聖全二―一〇三)、

つつしんで真実証を顕わさば、すなわちこれ利他円満の妙位、无上涅槃の極果なり。

等と仰せられるのがそれであります。信巻の横超断四流釈には(真聖全二―七三)、

大願清浄の報土には、品位階次をいわず、一念須臾のあいだに速かに疾く无上正真道を超証す。

とあり、同じく信巻の便同弥勒の釈には(真聖全二―七九)、

念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。

と示され、「諸経和讃」にも(真聖全二―四九七)、

如来すなわち涅槃なり
涅槃を仏性となづけたり
凡地にしてはさとられず
安養にいたりて証すべし

「天親讃」にも(真聖全二―五〇三)、

願土にいたればすみやかに
無上涅槃を証してぞ

等と示されています。これたの文によって、真実報土に往生して滅度の果を得証することは当来の益であって、現生の益でないことは明らかであります。


 すでに「即得往生」の論題で窺った通り、宗祖は本願成就文の「即得往生住不退転」を現生の益と見られます。しかし、この「即得往生」は浄土(真実報土)の往生を得るということではなく、この世にあって正定聚不退の位に入ることであります。もし、信心を獲ればこの世は浄土となるというならば、往生即成仏の故にこの世で仏果を開いてしまうことになりましょう。それは宗祖のお示しくださった宗義にあいません。
 なお、経釈の上に、浄土における正定聚の有様が説かれているのは、宗祖はこれを果後の示現相と見られます。すなわち滅度の果を開いた上で因相を示現されているものと見られるのです。この場合の正定聚は、正定聚の相を示すままが仏のさとりを開いた方であるとされます。
 これを要するに、宗祖は正定聚不退を現生の益とされるけれども、報土の往生、即成仏は当来に得る証果であって、これを現生に得ると考えるのは誤りであると知らねばなりません。

『やさしい 安心論題の話』(灘本愛慈著)p270~