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般舟三昧

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

2016年11月11日 (金) 22:13時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版

はんじゅざんまい

 梵語プラテュトパンナ・ブッダ・サンムカーヴァスティタ・サマーディ(pratyutpanna-buddha-saſmukhāvasthita-samādhi)の訳。諸仏現前三昧・仏立三昧ともいう。この三昧を得れば、十方の諸仏をまのあたりに見ることができるという。(行巻 P.146)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

 御開山の奥様である恵信尼公のお手紙(恵信尼消息)によれば、「殿(親鸞聖人)の比叡の山に堂僧つとめておはしましけるが」(*)と、御開山は比叡山におられた頃は堂僧であったとある。この堂僧とは、天台宗の祖である天台(てんだい)大師智顗(ちぎ) (538-597) の『摩訶(まか)止観(しかん)』 に説かれる四種三昧のうちの一である。『般舟(はんじゅ)三昧(ざんまい)(きょう)』の説によって九十日を一期として堂内に安置された阿弥陀仏のまわりを常に歩行し、その仏名を唱え、心に仏を念ずる般舟三昧の行法である。この念仏三昧の行法が完成すれば十方の諸仏をまのあたりに見る(諸仏現前)ことができるという。シナ浄土教の嚆矢である慧遠による廬山流念仏では、浄土への関心より現世での般舟三昧による見仏を目指す観法を重視し浄土に往生することを目的とするものではなかった。
比叡山時代の御開山を覚如上人は、その著『嘆徳文』で「定水を凝らすといへども識浪しきりに動き、心月を観ずといへども妄雲なほ覆ふ」といわれている。自らの心を鏡面のように穏やかにしようとしても煩悩の想いが動いて安らかではなく、さとりの月が心に至っているということを観じても、迷いの想いがさとりの月を距ててしまうのである、というのである。