往生の善知識
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
2017年11月11日 (土) 20:28時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版 (ページの作成:「そもそも予がまえへゝきたりて、見参対面をとげたりといふとも、さればわれらがちからにて後生をたすくべきむねなし。信...」)
そもそも予がまえへゝきたりて、見参対面をとげたりといふとも、さればわれらがちからにて後生をたすくべきむねなし。信心をとりて弥陀如来をたのみたてまつらんひとならでは、後生はたすかるべからず。
わがまへゝきたらんずるよりは、山野の墓原へゆきて五輪卒塔婆をおがみたらんずるは、まことにもてその利益もあるべし。すでに経文にいわく、一見卒塔婆永離三悪道といへり。この卒塔婆をひとたびおがみたらんひとは、ながく三悪道の苦患をば一定のがるべしと、あきらかに経にみえたり。
かえすがえす当山へなにのこゝろえもなきひときたりて、予に対面して手をあはせおがめること、もてのほかなげきおもふところなり。
さらにもてたふときすがたもなし、たゞ朝夕はいたづらにねふせるばかりにて、不法懈怠にして不浄きはまりなく、しわらくさき身にてありけうをおがみぬること、真実真実かたはらいたき風情なり。あさまし、あさまし。
これらの次第を分別して、向後は信心もなきものは、あひかまへてあひかまへて卒塔婆をおがむべし。これすなわち仏道をならんたねになるべし。よくよくここゝろうくべきものなり。