要門
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
ようもん
浄土要門。
浄土に往生する肝要の法門。(帰三宝偈 P.1452、安楽集 P.246)
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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要門、真門、弘願という言葉の初出は善導大師であるが、親鸞聖人はこの言葉を浄土門内の自力と他力をあらわす教判の意味に使われている。親鸞聖人は聖道門仏教から浄土門へ入る要門と見られた。このために『観経』には聖道門の行体が顕説で説かれている。
『観経疏』玄義分には、
- しかも娑婆の化主(釈尊)はその請によるがゆゑにすなはち広く浄土の要門を開き、安楽の能人(阿弥陀仏)は別意の弘願を顕彰したまふ。
とあり『観経』は、韋提希の要請によって釈尊が説かれた教法であり、そこには『無量寿経』の阿弥陀仏の「弘願」が説かれているという示唆によって、御開山は『観経』の「要門」の教から『無量寿経』の本願の教法へ移行されたのであった。
それは『観経』の流通分(=経典の本意を後世に伝える方法を期する部分)に、
- なんぢ、よくこの語を持(たも)て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名(みな)を持てとなり。
とある経語によって『観経』は定善十三観や廃悪修善の三観を説く経典ではなく、〔なんまんだぶ〕(=即是持無量寿仏名)を説く経典であると御開山は見られたのであった。法然聖人の提唱された「選択本願念仏」の意を『無量寿経』の乃至十念の〔なんまんだぶ〕という、
- しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。
と、されたのであった。
- →六三法門