操作

現代語 教巻

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

2018年6月21日 (木) 06:20時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版

出典:梯實圓著 教行信証「教行の巻」第一刷 発行:本願寺出版社
このページは、聖典と一体化してこそ意味があるので転載禁止です。

御自釈

(1)

つつしんで、浄土真宗の法義を窺うと阿弥陀仏の本願力のはたらきとして二種の回向があります。
一つには往相回向であり、二つには、還相回向です。その往相の法として与えられたものに真実の教と行と信と証とがあります。

(2)

 さて真実の教を顕すならば、それは『無量寿経』である。
 この『無量寿経』が明かそうとされている法義を要約すると、まず阿弥陀仏は、万人を平等に救おうという、諸仏に超え勝れた誓願をおこし、わけても愚かな凡夫を哀れんで、仏のみがしろしめすさとりの蔵を開いて、その無量の徳を南無阿弥陀仏という名号におさめて、施されていることが説かれています。この阿弥陀仏のこころを承けて、この世に出現された釈尊は、さまざまな経を説いて未熟なものを導かれましたが、その本意は、一切の衆生に阿弥陀仏の本願のいわれを聞かせて、往生させ、成仏させるという、真実の利益を恵むために、この経を説かれたといわれています。
 ですからこの経典は、阿弥陀如来の本願(第十八願)のいわれを説くことを肝要としている経であり、それはすなわち南無阿弥陀仏が経の本体であるということを顕しています。

(3)  『無量寿経』に説かれている。

 「阿難が申しあげた。<世尊は今日、喜びに満ちあふれ、お姿も清らかで、そして輝かしいお顔がひときわ気高く見受けられます。まるでくもりのない鏡に映った清らかな姿が、透きとおって見えているかのようでございます。そして、その神々しいお姿がこの上なく超えすぐれて輝いておいでになります。わたしは今日までこのような尊いお姿を拝見したことがございません。

そうです、世尊、わたしが思いますには、①世尊は、今日、世の中でもっとも尊いものとして、とくにすぐれた禅定に入っておいでになります。②また、煩悩を断ち悪魔を打ち負かす雄々しいものとして、仏のさとりの世界そのものに入っておいでになります。③また、迷いの世界を照らす智慧の眼として、人々を導く徳をそなえておいでになります。④また、世の中でもっとも秀でたものとして、何よりもすぐれた智慧の境地に入っておいでになります。⑤そしてまた、すべての世界でもっとも尊いものとして、如来の徳を行じておいでになります。

過去・現在・未来の仏がたは、互いに念じあわれるということでありますが、今、世尊もまた、仏がたを念じておいでになるに違いありません。そうでなければ、なぜ世尊のお姿がこのように神々しく輝いておいでになるのでしょうか>

 そこで釈尊は阿難に対して仰せになった。<阿難よ、神々がそなたにそのような質問をさせたのか、それともそなた自身のすぐれた考えから尋ねたのか>

 阿難が答えていう。<神々が来てわたしにそうさせたのではなく、まったく自分の考えからこのことをお尋ねしたのでございます>

 そこで釈尊は仰せになった。<よろしい、阿難よ、そなたの問いは大変結構である。そなたは深い智慧と巧みな弁舌の力で、人々を哀れむ心からこのすぐれた質問をしたのである。

如来はこの上ない慈悲の心で迷いの世界をお哀れみになる。世にお出ましになるわけは、仏の教えを説き述べて人々を救い、まことの利益を恵みたいとお考えになるからである。

このような仏のお出ましに会うことは、はかり知れない長い時を経てもなかなか難しいのであって、ちょうど優曇華の咲くことがきわめてまれであるようなものである。だから、今のそなたの問いは大きな利益をもたらすもので、すべての神々や人々をみな真実の道に入らせることができるのである。阿難よ、知るがよい。如来のさとりは、はかり知れない尊い智慧をそなえ、人々を限りなく導くのである。その智慧は実に自在であり、何ものにもさまたげられない>」

(4)  『如来会』に説かれている。

 「阿難が申しあげた。<世尊、わたしは世尊のたぐいまれな輝かしいお姿を拝見して、このように思ったのです。決して神々に教えられてお尋ねしたのではありません>

 釈尊は阿難に仰せになった。<よろしい、そなたは今まことによい質問をした。如来のすぐれた弁舌の智慧をよく観察して、このことについて尋ねたのである。

すべての仏がたは大いなる慈悲の心から人々を救うために世に現れるのであり、それは優曇華が咲くほどきわめてまれなことである。今、わたしが仏としてこの世に現れた。そこで、あなたはこのことを尋ねたのである。また、あらゆる人々を哀れんで、恵みと安らぎを与えるために、このことについて尋ねたのである>」

(5)  『平等覚経』に説かれている。

 「釈尊が阿難に仰せになった。<世間にある優曇鉢樹には、ただ実だけがあって花はないが、この世に仏が現れることは、その優曇鉢樹に花が咲くほどまれなことである。

たとえ世間に仏がおられても、出会うことはきわめて難しい。今、わたしは仏となってこの世に現れた。阿難よ、そなたはすぐれた徳があり、聡明で善い心をそなえ、あらかじめ仏のおこころを知って忘れず、いつも仏のそばに仕えているのである。そなたが今尋ねたことについて説くから、よく聞くがよい>」

(6)  憬興が『述文賛』にいっている。

 「<世尊は、今日、世の中でもっとも尊いものとして、とくにすぐれた禅定に入っておいでになります>とあるのは、仏の神通力によって現された姿であり、ただ普通と異なるというだけでなく、等しいものがないからである。

<煩悩を断ち悪魔を打ち負かす雄々しいものとして、仏のさとりの世界そのものに入っておいでになります>とあるのは、普等三昧に入って、多くの悪魔や魔王を制圧しておられるからである。

<迷いの世界を照らす智慧の眼として、人々を導く徳をそなえておいでになります>とあるのは、五眼を導師の徳といい、人々を導くのに、これ以上のものはないからである。

<世の中でもっとも秀でたものとして、何よりもすぐれた智慧の境地に入っておいでになります>とあるのは、仏は四智をそなえて、独り秀でておられ、等しいものがいないからである。

<すべての世界でもっとも尊いものとして、如来の徳を行じておいでになります>とあるのは、仏は第一義天であり、仏性は無量の徳をそなえ常住であることをさとっておられるからである。

<阿難よ、よく知るがよい。如来のさとりは>とあるのは、とくにすぐれた禅定について述べられたのである。<その智慧は、実に自在であり>とあるのは、何よりもすぐれた智慧の境地について述べられたのである。

<何ものにもさまたげられない>とあるのは、如来の徳について述べられたのである」

(7)

 このようなわけで、上に挙げた経文は、『無量寿経』が真実の教であることを顕す明らかな証文です。まことにこの経は、如来がこの世に出現された正意が説き顕されており、奇特にして最勝なる仏徳を顕す経典であり、一切の衆生を仏にならせる唯一の道を説く究極の教説であり、極めて速やかに円融無擬のさとりを得させる尊い御言葉であり、末法の時代に生きる凡夫にまことの救いをもたらす時機相応の真実教であると知るべきです。