大谷本願寺
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
2020年1月22日 (水) 15:29時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版 (ページの作成:「{{Inyou2| おおたにほんがんじ 大谷本願寺 吉水の北辺(現在の京都市東山区)にあった初期の本願寺のこと。鳥部野の北、大谷...」)
おおたにほんがんじ 大谷本願寺
吉水の北辺(現在の京都市東山区)にあった初期の本願寺のこと。鳥部野の北、大谷に納められていた親鸞の遺骨を、文永9年(1272)、吉水の北辺に改葬し、廟堂(現在の崇康院境内にあたる)を建て、親鸞の影像を安置したことに始まる。敷地は親鸞の末娘、覚信尼が寄進し、関東の門弟の承認をうけて、覚信尼の子孫が管理することになった。覚信尼の孫、覚如は廟堂の寺院化を図り、正和元年(1312)、専修寺の額を掲げたが、その後本願寺と改称した。寛正6年(1465)、延暦寺の衆徒によって堂舎が破却(寛正の法難)されるまで、この地に本願寺の寺基があった。(浄土真宗辞典)