最須敬重絵詞
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
最須敬重絵詞一
夫以、一如法界の真理、凡聖を兼て隔なく、万徳恒沙の寂用、染浄に亘て変ぜず。しかりといへども、妄雲ひとたび覆て本覚の月ひかりをかくし、心水しきりに動て乱想の浪こゑをあげしよりこのかた、業種を善悪に殖て報果を苦楽にうく。このゆへに、生死長遠にして六道の輪廻やむことなく、恩愛繫縛して三界の牢獄いでがたし。十方の諸仏これを憐て済度の方便をめぐらし、四依の大士これを悲て教法の弘通をいたす。
一代教主釈迦如来、耆闍崛山にして『无量寿経』をとき給しとき、当来導師弥勒慈尊に対してくはしく衆生の此死生彼のありさまをあかし、ねんごろに諸趣の修因感果の道理をのべたまへり。かの文をみるに、或は「当行至趣苦楽之地。身自当之、无有代者。善悪変化、殃福異処、宿予厳待当独趣入」(大経*巻下)といひ、或は「独来独去、无一随者。善悪・禍福追命所生。或在楽処、或入苦毒。然後乃悔当復何及」(大経*巻下)といへり。されば曠劫流転のあひだ諸有経歷の程、しづむ時はつねに地獄・鬼・畜の間をはなれず、うかぶ時はわづかに人
中天上のあひだにむまる。しづむもうかぶも独生独死のみち、きくに心ぼそく、むまるゝも死するも自業自得のことはり、つくづくとおもへばかなし。殃悪をつくれば、泥梨の鉄城をかまへてこれをまち、福善をたくはふれば、上界の天宮をかざりてあひまうくるにこそ。しかるに惑業はつくりやすければ悪道の果は感じやすく、福因はうへがたければ善趣の報はまねきがたし。たとひまた人天の快楽をえたりとも、それもさらに解脱の要路にはあらず。光明寺和尚は「人天之楽猶如電光。須臾即捨、還入三悪長時受苦」(定善義)とのたまへり。えてもなにかせん、えんこともまたかたし。おほよそ末代悪世の衆生、けふこのごろの凡夫は劫濁・命濁の不善、五ながらますます増し、五戒・八戒等の律儀、一としてまたからず。楞厳の先徳の解釈に、「善業今世所学、雖欣動退。妄業永劫所習、雖厭猶起。野鹿難繫家狗自馴」(要集*巻中意)といへる。げにをろかなる身におもひしらるゝまゝに、上根利智の人なりとも末世澆季のならひはさまでかはらじとこそおぼゆれ。かくのごときの輩は随縁起行の功をもつみがたければ、いかにしてか進道の資糧をもたくはへん。たとひ随分精勤の法財をえたりとも、六賊知聞の侵奪をのがれがたかるべし。悲哉悲哉、何為何為。
しかるに、弥陀の本願はあやにくにかゝる悪機を摂し、西方の浄土はもはらこの類をもきらはざれば、当今の衆生ことに真宗の教門に帰し、罪悪の凡愚ひとへに極楽の往生を期すべし。如来廻向の威徳なるがゆへに、機の利鈍によらず、他力難思の本誓なるがゆへに、行の多少を論ぜず。馮を懸てみなを称すれば、一念も十声もともにむまれ、願に乗じて誠をいたせば、四重も五逆ももるゝことなし。まことにこれ、唯仏一道独清閑の正門、究竟解脱断根源の直路なり。月氏には竜樹・天親等の大士これを弘通す、ともに恵蔵を製して定判あり。晨旦には曇鸞・道綽等の五祖これを相承す、ことに善導をもて倚頼とす。しかうしてのち、我朝に流布すること連々としてたえず、諸師敷揚すること代々これおほし。慈覚・慈恵等の大師もこぞりて安養の往生をすゝめ、楞厳・禅林等の先徳ももはら弥陀の利益を嘆ぜり。しかりといへども、根機やいまだ熟せざりけん、帰奉ひろきにあらず、時節やいまだいたらざりけん、宗旨なをあらはれず。
爰に黒谷の源空聖人、生を本朝に受て辺域の群類を開導し、化を濁世に施て西方の要行を弘宣す。初の習学は真言・止観の教門なり、かねて諸宗にわたり、あまねく一代をうかゞふ。後の依行は専修念仏の一門なり、ひとへに弥陀をあふぎ、
たゞ極楽をすゝむ。これすなはち、そのかみ恵心の『往生要集』を見給けるより厭穢欣浄のこゝろもやうやくすゝみ、劣機得脱の益のむなしかるまじきことはりも信をもよほし給けるか。彼『集』にひきもちゐるところ、おほく導和尚の釈をもて規とせり。これによりて、『観経義』を披閲し給こと数遍ののち、忽に自力の局情を捨て新に他力の奥旨を得たまへり。たゞしみづからの出離にをいてはすでに決定せり。他のためにこの法をひろめんとおもふに、わが詳覈するところの義、仏意にかなふやいなや。大事の因縁たるによりてなを心労の肝胆をくだき給けるに、夢の中に証をえて慥に仏可を蒙給けり。いはゆる紫雲靉靆として太虚におほひ、光明赫奕として世界をてらす。また高山の嶮阻なるあり、彩雲峯の上にそびく。長河の浩汗たるあり、霊鳥波の辺にかける。更に穢土の境界にあらず、浄刹の荘厳にことならず。雲の中に一の僧あり、上は墨染の衣、下は金色の服なり。聖人誰とかせんと問給に、僧こたへてのたまはく、我はこれ善導なり、汝専修念仏を弘通せんと欲するがゆへに、証をなさんがためにきたれるなりと云々。しかれば、聖人みたて給ところの義、和尚の御意にたがはざること知ぬべし。和尚は弥陀の応化にてましませば、和尚の許可はすなはち弥陀の印定なり。今時の衆生、悪世
の群類、かの化導をあふぎ、その示誨にしたがふべきものなり。聖人の後、業学解林をなし、門流みなまたをわかてる中に、善信聖人親鸞と申しは面受上足の弟子、内外通達の高徳なり。俗姓は藤原、皇太后宮大進有範の息男なり。幼稚にして父に喪し給けるを、伯父若狭三位[範縄卿]猶子として交衆をいたす、扶持の力ともなり、文学をはげむ提撕の訓をも加られけり。また式部大輔W宗業卿Rもおなじく伯父にておはしけるが、彼卿に対し奉て說をうけたてまつらるゝ事共もありけるとなん。かくて生年九歳の時、養和元年春の比、若狭三品W于時四品R青蓮院慈鎮和尚の貴房に伴参して、すなはち出家をとげしめ範宴少納言公と号せられき。同年登檀受戒、それよりこのかた顕を学し密を行ずるつとめをこたらずして、蛍をひろひ雪をあつむる功おほくつもる。しかれども三止三観の窓の前に百界千如の月やゝもすればくもりやすく、五相五輪の壇の上に六大四曼の花しきりにあざやかなる色をかくせり。かゝりければ滅罪生善のはかりごと、事理につけてとゝのほらず、自行化他の益、彼此ともにそむけり。されば仮名の修行なにゝかはせん。いかにしてか、このたびまめやかに生死をまぬかるゝ道をえんと思給ければ、つねに住山をくはだて、とこしなへに練行をいたして医王・山王にもこの一事をの
み祈請し、大師・祖師にも他の悉地を申さるゝ事はなかりけるうへに、娑婆世界施無畏者の悲願をたのみ日本伝灯上宮王の済度を仰て、山上より西坂本にかゝり、六角堂へ百日の参詣をいたし給て、ねがはくは有縁の要法をしめし真の知識にあふことをえしめたまへと、丹誠を抽で祈給に、九十九日に満ずる夜の夢に、末代出離の要路念仏にはしかず。法然聖人いま苦海を度す。かの所に到て要津を問べきよし慥に示現あり。すなはち感淚をのごひ、霊告に任て吉水の禅室にのぞみ、事の子細を啓し給ければ、発心の強盛なることも有がたく、聖応の掲焉なることも他に異なりとて、聖道・浄土、難易の差別手を取てさづけ、安心起行、肝要の奥旨、舌を吐て述給けるに、日来の蓄懐こゝに満足し、今度の往生忽に決定しぬと悦たまふ。于時建仁元年[辛酉]聖人廿九歳、聖道を捨て浄土に帰し、雑行を閣て念仏を専にし給ける始なり。すなはち所望によりて名字をあたへたまふ。その時は綽空とつけ給けるを、後に夢想の告ありける程に聖人に申されて善信とあらため、又実名を親鸞と号し給き。しかありしよりのち、或は製作の『選択集』をさづけられ、或は真影の図画をゆるされて殊に慇懃の恩誨にあづかり、あくまで巨細の指授をかうぶり給けり。されども身に才智をたくはへながら、ことさらに学解を
事とせらるゝすがたもなく、こゝろを浄域にすましむといへども、あながちに世塵をとをざかる行儀をも表し給ざりけり。黒谷の大祖聖人、真宗の興行によりて遠流の罪責に及し時、門弟の上足同科の沙汰ありしに、この上人もその中として越後国国府にうつされて、おほくの春秋を送たまひけり。明師聖人帰京の時、おなじく勅免ありけれども、事の縁ありて東国にこえ、はじめ常陸国にして専修念仏をすゝめたまふ。これひとへに辺鄙在家の輩をたすけて、済度利生の本意をとげんとなり。
おほよそ聖道の諸教は根性利者のため、弥陀の一教は鈍根無智にかうぶらしむ。されども難行の聖道をすて易修の真門に入ても、行学をはげむとはげまざると差別なきにあらず。しかるゆへは、まづ学路にあゆまんとする人は、ふかく三経一論の玄旨をわきまへ、ひろく異朝和国の典籍をうかゞひて、法命をもつき、人師ともなる。まことに智水もしうるほさずは、善苗をそだてがたく、恵灯もしかゝげずは、いかでか迷暗をてらすべきなれば、その器にたへたらん人もとも庶幾するにたれり。しかりといへども、まなぶものは牛毛のごとく、なすものは麟角のごとくなるゆへに、もし学の浅深によりて益の得否あるべくは、天性至愚の族はながくその望をたちぬべし。次に行門におもむく人は昼夜六時の策励をいたして、
転経念仏の熏修をつむ。随て欲塵の境界をはなれ、遁世の威儀をむねとして厭離穢土の素懐をあらはし、道心純熟の形狀をしめすなり。当世の人の欲するところ、おほくはこれにあり、かくのごとくならざらん人は、ほとほと往生しがたしとおもへり。解行の修習もともねがふべしといへども、大悲の利生またくこれにかぎるべからず。今の二途にもれてその一徳もなき田舎卑賤の下輩、一文不通の愚人、仏法の名字をもきかず、因果の道理をもしらで、解脱の術をうしなひ、出離の道にまよへる没々の群生、闇々の衆類に至まで、仏意豈すてたまはんや。知識にあはずしてむなしく人身を失せんこと、かなしむべし、かなしむべし。謹て光明寺和尚の解釈をひらくに、「諸仏大悲於苦者。心偏愍念常没衆生」(玄義分)とのたまへり。このゆへに、下機の中になを下機をあはれみ、悪人の中になを悪人をめぐみて、無縁の慈悲をほどこし救苦の方便をめぐらし給らん。二尊の仏意に順じてかれらを済度せんと企たまへりし本懐ことに甚深なり。これによりて、在世の弘教もいたりてあまねく、滅後の興法も今にさかりなり。
本廟は京都白河大谷にあり、知恩院の西の辺本願寺これなり。根本の門弟はもはら東国にみち、枝末の余塵はやうやく諸邦にをよぶ。面授の弟子おほかりし中に、
奥州東山の如信上人と申人おはしましき。あながちに修学をたしなまざれば、ひろく経典をうかゞはずといへども、出要をもとむるこゝろざしあさからざるゆへに、一すぢに聖人の教示を信仰する外に他事なし。これによりて、幼年の昔より長大の後にいたるまで、禅床のあたりをはなれず。学窓の中にちかづき給ければ、自の望にて開示にあづかり給事も時をえらばず。他のために設化し給ときも、その座にもれ給ことなかりければ、聞法の功もおほくつもり、能持の徳も人にこえ給けり。かの阿難尊者の常に仏後にしたがひ、身座下に臨て多聞広識の名をほどこし、伝說流通の錯なかりけるも、かくやとぞおぼゆる。
この上人の弟子またそのかずあり、東国には数輩にをよぶ。処々の道場をのをの化益をいたす。京都には一人の尊宿まします、勘解由小路中納言法印坊[宗昭]これなり。当流伝来の譜系をば今師よりうけ、親鸞聖人の遺跡をば先考よりつたへたまへり。これ一流の法将、当教の名哲なり。初は南京の綱維をへて三笠山の春の花におもひをそめ、後には西土の行人となりて九品台の秋の月に心をぞすまされける。さるまゝには大旨は籠居の体なり。しかどもとりわき外相に遁世の儀を標せらるゝ事もなし。たゞ内心に後生の得脱をねがひ給ばかりなり。さりながら
念仏門の衆中にしては隠遁の名字をもなのり給けり。或は覚如と称せらるゝ時もあり、一実真如の極理を覚知する謂を存じ給なるべし。或は毫摂と号せらるゝおりもあり、白毫摂取の光益を受得する思をなさるゝなるべし。しかれども人はたゞ法印とのみ申しを、自身にもしゐて辞せらるゝ事もなかりけり。これすなはち外相賢善の儀を現ぜず、遁世捨家のすがたもなかりしによりて、もとより居し給し綱位なれば、喚習たてまつりしにつきて、よそにもあらためず、我としてもいとはるゝ事もなかりけり。本寺の交衆を止て浄土の行人となりし人も、このためしなきにあらず。長楽寺の隆寛律師、生馬の良遍法印等これなり。「大隠は朝市にかくる」といふ事もあれば、中々ありのまゝなるは末代相応の作法をふるまひ給けるにやと、様かはりてたうとくこそ。
こゝにかの尊老の開導を蒙て、わが当来の資貯をになへるひとりの羊僧あり、名を乗専といふ。身をろかに、こゝろくらく、智もなく、行もなし。放逸にして悪業のおそるべきをもしらず、懈怠にして善種のうふべきをももとめず。現在の罪