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全分他力

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

2024年11月15日 (金) 09:41時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版

ぜんぶん-たりき

 自力と他力があいまって救済が成立するといふ半自力・半他力説に対する語。

『法然教学の研究』(梯實圓著) の「証空の全分他力説」には、

 今、此の本願の名号には、五劫思惟の心内に南無のをのせて願じ、兆載永劫の万行は、流転の我等どもの行にして、知らざるに仏の方よりぞ南無阿弥陀仏と一つに成じ、凡夫往生の仏とは成りたまへり。此の故に衆生の方よりは何一つも用意すべき事なく、全分に仏の方より、何一つも漏らさず御認(おんしたた)め候なり。是を心得て凡夫の往生を成じ給へるなり。(『述成』(『西山上人短篇鈔物集』八三頁))→証空の全分他力説

と、「衆生の方よりは何一つも用意すべき事なく、全分に仏の方より」とある。これを「全分他力」といふ。浄土真宗でも本願力回向の全分利他力を示す意で「全分他力」の語を使用する。

法然聖人の他力思想#二、証空の全分他力説

 これに対し鎮西浄土宗では、聖道門は「自力は強く他力は弱し(自強・他弱)」とし、浄土門は「他力は強く自力は弱し(他強・自弱)」とし、自力と他力が相俟(あい-ま)って救済が成立するとして、浄土真宗や西山浄土宗のような本願力回向による全分他力説を否定する。

 以下は、自力強・他力弱(聖道門)、他力強・自力弱(浄土門)を主張する鎮西派の派祖良忠上人の『選択伝弘決疑鈔』から引用。

選択伝弘決疑鈔 良忠

自力他力者、自三學力名爲自力、佛本願力名爲他力也。

自力他力とは、自の三学力(戒定慧の三学)を名けて自力となす、仏の本願力を名けて他力となすなり。

問 聖道修行亦請佛加、淨土欣求行自三業、而偏名意如何。

問う、聖道の修行もまた仏加[1]を請う、浄土の欣求も自の三業を行ず、(しかる)(ひとえ)に名ける意いかん。

答 聖道行人先行三學、爲成此行而請加力、故屬自力。

答う、聖道の行人は先づ三学を行ず、此の行を成ぜんが為に而(しか)も加力を請う、故に自力に属す。

淨土行人先信佛力、爲順佛願而行念佛故屬他力也。

浄土の行人は先ず仏力を信じ、仏願に順ぜんが為に而も念仏を行ず、故に他力に属するなり。

自強他弱、他強自弱思之可知、水陸二道の譬意自―顯也。

自は強く他は弱しと、他は強く自は弱きとこれを思てしるべし、水陸二道の譬[2]の意おのずから顕わるなり。

乘佛願力者 即指第十八念佛往生願。

乗仏願力とは即ち第十八念仏往生の願を指す。
(選択伝弘決疑鈔)

たとえば、聖道門は自力が90%で他力が10%であり、浄土門は他力が90%で自力が10%であるというのであるから、御開山の示された100%の本願力回向の法義と異なる。「鎮西」の説はいわゆる半自力・半他力である。
次下では、

浄土宗名目問答 弁長 

問 有人云。數遍是自力也 自力難行道 難行道陸路步行 雖苦其身 於往生者 全以不可遂也。

問ふ。有る人の云く。数遍はこれ自力なり[3]、自力は難行道なり。難行道は陸路の步行なり。その身を苦しむといえども、往生においては全く以て遂ぐべからざるなり。

一念是他力也 他力是易行道也。易行道乘船水路 安樂其身 於往生速得之此義如何。

一念はこれ他力なり、他力はこれ易行道なり。易行道は乘船水路なり。その身を安樂にして往生において速にこれを得と、この義いかん。

答。此事極僻也。其故 云他力者 全馮他力 一分無自力事 道理不可然。

答ふ。この事、極たる僻(ひが)ごとなり。その故は、他力とは全く他力を馮み、一分も自力無しと云ふ事、道理しからず。

云雖無自力善根 依他力得往生者 一切凡夫之輩 于今不可留穢土 皆悉可往生淨土。又一念他力數遍自力者 何人師釋耶。

自力の善根無しといえども 他力に依て往生を得ると云はば、一切の凡夫の輩、今に穢土に留まらず、みな悉く淨土に往生すべし。 また一念の他力、數遍の自力とは何(いか)なる人師の釈なるや。

善導釋中 有自力他力義 無自力他力釋。一念他力數遍自力釋難得意。

善導の釈の中に自力と他力の義あれども、自力他力の釈無し[4]。一念は他力数編は自力の釈こころ得がたし。

又善導釋中 云以水陸譬難易二道 其釋未見。

また善導の釈の中に、水陸のたとえをもって難易二道と云えること、その釈いまだ見えず。

但曇鸞導綽二師 以水陸譬難易二道。

ただ曇鸞・道綽の二師、水陸をもって難易二道にたとふ。

又雖作自力他力釋 其又以一念 爲易行道 以數遍爲難行道 釋全所不作也。

また自力他力の釈をなすといえども、それまた一念をもって易行道となし、数偏をもって難行道となすという釈まったく作(な)さざりしなり。
弁長の浄土宗名目問答の抜粋

と述べて、

自力の善根無しといえども 他力に依て往生を得ると云はば、一切の凡夫の輩、今に穢土に留まらず、みな悉く淨土に往生すべし。

と阿弥陀仏の救済が全分他力だといふならば、一切の凡夫はすでに往生してしまっているのではないか?と論難されていた。これに対抗されたのが覚如上人の「宿善論」であり「信心正因論」であった。→宿善


  1. 仏の加備力。→加備力
  2. 『十住毘婆沙論』にある陸道の難行道と、水道(乗船譬喩)の易行道のこと。
  3. 極端な一念義系の主張であろう。一念義系の者は一念または一声の称名は本願であるから、多念は仏の本願に背いていると非難する。現代に於いても「信の一念」に固執する輩は信の相続行としての〔なんまんだぶ〕を軽視する。御開山は「真実の信心はかならず名号を具す」(信巻 P.245)とされておられた。
  4. 善導大師の全著作の中には一箇所も他力といふ言葉は無い。師の道綽禅師が盛んに使われた他力の語が俗語化して善導大師の宗教的内面世界をあらわす語としてはふさわしくないと思われたからであろう。