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出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
もし念仏するものは、これ人中の分陀利華なり。 |
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うちの婆ちゃん八十五。 息子はすぐに怒鳴ります。 婆ちゃん念仏称えます。 惚けて念仏忘れたら、叱りつけても念仏を、させてくれとの頼みです。 町から田舎に嫁に来て、牛馬の如くはたらいて、 それでも時々思います。 聞いて聴いて聴き抜いて、何十年も聴きました。 きぃみょうむぅりょおじゅにょおらい。 信じることも、知ることも、みんな忘れて なぁ、みんな忘れていいんやざ。 なんまんだぶつの船に乗り、 なんまんだぶつのおやさまの、
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昔はどこにでも、お念仏を称えなんまんだぶつを喜んだ人がいたものである。 今ははや西方仏国の住人になってしまったが、小生の母親もそのような中の一人だった。まわりから「後生願い」と揶揄されながらも遠近を問わず聴聞に出かけ御法義をよろこんだものである。 観仏を勧める観無量寿経の結語には『もし念仏するものは、まさに知るべし、この人はこれ人中の分陀利華なり』とある。なんと、無量寿仏(なんまんだぶつ)を口称する者を仏様がほめて下さるというのである。 善導大師はこの「分陀利華」を、分かりやすく「もし念仏するものは、すなはちこれ人中の好人なり、人中の妙好人なり、人中の上上人なり、人中の希有人なり、人中の最勝人(観経疏)と仰って下さっている。 才市さんや田原のお園同行だけが妙好人ではないのである。ろくなものが出入りしない自らの口からおねんぶつを称えることが妙好人なのである。 「母ちゃん惚けてお念仏忘れたら、怒りまくってでもお念仏さしてくれなぁ。おや様のご恩報謝のお念仏やさけ、オメちゃんと忘れんと母ちゃんにお念仏さしてくれなぁ」、と常に言っていた母であった。 念々称名即嘆仏、念々称名即懺悔。仏様の功徳は仏様しか讃嘆する事ができないが、一声一声のお念仏が、仏様をほめたてまつることになるとなり、煩憂悩乱に明け暮れる慚愧になるとなり、とは何とも有り難いことである。 「葬式や法事のお斎に金を掛けるより、一人でもたくさんの方がお念仏を喜んで下さるようにしてくれ」、という母の願いでこのサイト群は出来ています。 なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・称名相続
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