顕浄土真実証文類
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
目 次
証文類四
必至滅度の願 難思議往生
顕浄土真実証文類 四
愚禿釈親鸞集
真実証
総標
- 【1】 つつしんで真実の証を顕さば、すなはちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり。すなはちこれ必至滅度の願(第十一願)より出でたり。
大証釈義
- また証大涅槃の願と名づくるなり。しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即のときに大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る。かならず滅度に至るはすなはちこれ常楽なり。常楽はすなはちこれ畢竟寂滅なり。寂滅はすなはちこれ無上涅槃なり。無上涅槃はすなはちこれ無為法身なり。無為法身はすなはちこれ実相なり。実相はすなはちこれ法性なり。法性はすなはちこれ真如なり。真如はすなはちこれ一如なり。しかれば弥陀如来は如より来生して、報・応・化、種々の身を示し現じたまふなり。
経文証
本願文
【2】 必至滅度の願文、『大経』(上)にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、国のうちの人・天、定聚に住し、かならず滅度に至らずは、正覚を取らじ」と。{以上}
『無量寿如来会』(巻上)の文
【3】 『無量寿如来会』(上)にのたまはく、「もしわれ成仏せんに、国のうちの有情、もし決定して等正覚を成り、大涅槃を証せずは、菩提を取らじ」と。{以上}
成就文
【4】 願(第十一願)成就の文、『経』(大経・下)にのたまはく、「それ衆生ありて、かの国に生るれば、みなことごとく正定の聚に住す。ゆゑんはいかん。かの仏国のうちにはもろもろの邪聚および不定聚なければなり」と。
【5】 またのたまはく(同・上)、「かの仏国土は、清浄安穏にして、微妙快楽なり。無為泥洹の道に次し。それもろもろの声聞・菩薩・天・人、智慧高明にして、神通洞達せり。ことごとく同じく一類にして、形異状なし。ただ余方に因順するがゆゑに、人・天の名あり。顔貌端正にして世に超えて希有なり。容色微妙にして天にあらず、人にあらず。みな自然虚無の身、無極の体を受けたるなり」と。
【6】 またのたまはく(如来会・下)、「かの国の衆生、もしまさに生れんもの、みなことごとく無上菩提を究竟し、涅槃の処に到らしめん。なにをもつてのゆゑに。もし邪定聚および不定聚は、かの因を建立せることを了知することあたはざるがゆゑなり」と。{以上抄要}
釈文証
曇鸞『浄土論註』五文
【7】 『浄土論』(論註・下)にいはく、「〈荘厳妙声功徳成就とは、『偈』に、《梵声悟深遠微妙聞十方》といへるがゆゑに〉(浄土論)と。これいかんぞ不思議なるや。『経』にのたまはく、〈もし人ただかの国土の清浄安楽なるを聞きて、剋念して生ぜんと願ぜんものと、また往生を得るものとは、すなはち正 定聚に入る〉と。これはこれ国土の名字仏事をなす。いづくんぞ思議すべきやと。
〈荘厳主功徳成就とは、『偈』に、《正覚阿弥陀法王善住持》といへるがゆゑに〉(浄土論)と。これいかんが不思議なるや。正覚の阿弥陀、不可思議にまします。かの安楽浄土は正覚阿弥陀の善力のために住持せられたり。いかんが思議することを得べきや。〈住〉は不異不滅に名づく、〈持〉は不散不失に名づく。不朽薬をもつて種子に塗りて、水に在くに瀾れず、火に在くに燋れず。因縁を得てすなはち生ずるがごとし。なにをもつてのゆゑに。不朽薬の力なるがゆゑなり。もし人、ひとたび安楽浄土に生ずれば、後のときに意に三界に生れて衆生を教化せんと願じて、浄土の命を捨てて願に随ひて生を得て、三界雑生の火のなかに生るといへども、無上菩提の種子、畢竟じて朽ちず。なにをもつてのゆゑに、正覚阿弥陀のよく住持を経るをもつてのゆゑにと。
〈荘厳眷属功徳成就とは、『偈』に、《如来浄華衆正覚華化生》といへるがゆゑに〉(浄土論)と。これいかんぞ不思議なるや。おほよそこれ雑生の世界には、もしは胎、もしは卵、もしは湿、もしは化、眷属そこばくなり。苦楽万品なり。雑業をもつてのゆゑに。かの安楽国土はこれ阿弥陀如来正覚浄華の化生するところにあらざることなし。同一に念仏して別の道なきがゆゑに。遠く通ずるに、それ四海のうちみな兄弟とするなり。眷属無量なり。いづくんぞ思議すべきや」と。
【8】 またいはく(論註・下)、「往生を願ふもの、本はすなはち三三の品なれども、いまは一二の殊なし。また淄澠の一味なるがごとし。いづくんぞ思議すべきや」と。
【9】 また『論』(同・下)にいはく、「〈荘厳清浄功徳成就とは、『偈』に、《観彼世界相勝過三界道》といへるがゆゑに〉(浄土論)と。これいかんぞ不思議なるや。凡夫人の煩悩成就せるありて、またかの浄土に生ずることを得れば、三界の繋業、畢竟じて牽かず。すなはちこれ煩悩を断ぜずして涅槃分を得。いづくんぞ思議すべきや」と。{以上抄要}
道綽『安楽集』(巻下)の一文
【10】 『安楽集』(下)にいはく、「しかるに二仏の神力また斉等なるべし。ただし釈迦如来おのれが能を申べずして、ことさらにかの長ぜるを顕したまふことは、一切衆生をして斉しく帰せざることなからしめんと欲してなり。このゆゑに、釈迦、処々に嘆帰せしめたまへり。すべからくこの意を知るべしとなり。このゆゑに、曇鸞法師の正意、西に帰するがゆゑに、『大経』に傍へて奉讃していはく(讃阿弥陀仏偈)、〈安楽の声聞・菩薩衆・人・天、智慧ことごとく洞達せり。身相荘厳殊異なし。ただ他方に順ずるがゆゑに名を列ぬ。顔容端正にして比ぶべきなし。精微妙躯にして人・天にあらず。虚無の身、無極の体なり。このゆゑに平等力を頂礼したてまつる〉」と。{以上}
善導『観経四帖疏』の二文
【11】 光明寺(善導)の『疏』(玄義分)にいはく、「弘願といふは、『大経』の説のごとし。一切善悪の凡夫、生ずることを得るは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁とせざることなしとなり。また仏の密意弘深なれば、教門をして暁りがたし。三賢・十聖測りて闚ふところにあらず。いはんやわれ信外の軽毛なり。あへて旨趣を知らんや。仰いで惟みれば、釈迦はこの方より発遣し、弥陀はすなはちかの国より来迎す。かしこに喚びここに遣はす。あに去かざるべけんや。ただねんごろに法に奉へて、畢命を期として、この穢身を捨てて、すなはちかの法性の常楽を証すべし」と。
【12】 またいはく(定善義)、「西方寂静無為の楽には、畢竟逍遥して有無を離れたり。大悲、心に熏じて法界に遊ぶ。分身して物を利すること、等しくして殊なることなし。あるいは神通を現じて法を説き、あるいは相好を現じて無余に入る。変現の荘厳、意に随ひて出づ。群生見るもの罪みな除こると。また讃じていはく、帰去来、魔郷には停まるべからず。曠劫よりこのかた六道に流転して、ことごとくみな経たり。到るところに余の楽しみなし。ただ愁歎の声を聞く。この生平を畢へてのち、かの涅槃の城に入らん」と。{以上}
総結
- 【13】 それ真宗の教行信証を案ずれば、如来の大悲回向の利益なり。ゆゑに、もしは因、もしは果、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまへるところにあらざることあることなし。因、浄なるがゆゑに果また浄なり。知るべしとなり。
還相回向
総標
- 【14】 二つに還相の回向といふは、すなはちこれ利他教化地の益なり。すなはちこれ必至補処の願(第二十二願)より出でたり。また一生補処の願と名づく。また還相回向の願と名づくべきなり。『註論』(論註)に顕れたり。ゆゑに願文を出さず。『論の註』を披くべし。
引証
天親『浄土論』の文
【15】 『浄土論』にいはく、「出第五門とは、大慈悲をもつて一切苦悩の衆生を観察して、応化の身を示す。生死の園、煩悩の林のなかに回入して、神通に遊戯して教化地に至る。本願力の回向をもつてのゆゑに。これを出第五門と名づく」と。{以上}
釈文 曇鸞『浄土論註』の九文
【16】 『論註』(下)にいはく、「還相とは、かの土に生じをはりて、奢摩他・毘婆舎那・方便力成就することを得て、生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、ともに仏道に向かへしむるなり。もしは往、もしは還、みな衆生を抜いて生死海を度せんがためなり。このゆゑに、〈回向を首として大悲心を成就することを得たまへるがゆゑに〉(浄土論)とのたまへり」と。
【17】 またいはく(同・下)、「〈すなはちかの仏を見たてまつれば、未証浄心の菩薩、畢竟じて平等法身を得証す。浄心の菩薩と、上地のもろもろの菩薩と、畢竟じて同じく寂滅平等を得るがゆゑに〉(浄土論)とのたまへり。平等法身とは、八地以上法性生身の菩薩なり。寂滅平等とは、すなはちこの法身の菩薩の所証の寂滅平等の法なり。この寂滅平等の法を得るをもつてのゆゑに、名づけて平等法身とす。平等法身の菩薩の所得なるをもつてのゆゑに、名づけて寂滅平等の法とするなり。この菩薩は報生三昧を得。三昧神力をもつて、よく一処・一念・一時に、十方世界に遍じて、種々に一切諸仏および諸仏大会衆海を供養す。よく無量世界に仏・法・僧ましまさぬ処にして、種々に示現し、種々に一切衆生を教化し度脱して、つねに仏事をなす。初めに往来の想、供養の想、度脱の想なし。このゆゑにこの身を名づけて平等法身とす。この法を名づけて寂滅平等の法とす。未証浄心の菩薩とは、初地以上七地以還のもろもろの菩薩なり。この菩薩、またよく身を現ずること、もしは百もしは千、もしは万もしは億、もしは百千万億、無仏の国土にして仏事を施作す。かならず心を作して三昧に入りて、いましよく作心せざるにあらず。作心をもつてのゆゑに、名づけて未証浄心とす。この菩薩、安楽浄土に生じてすなはち阿弥陀仏を見んと願ず。阿弥陀仏を見るとき、上地のもろもろの菩薩と畢竟じて身等しく法等しと。龍樹菩薩・婆藪槃頭菩薩(天親)の輩、かしこに生ぜんと願ずるは、まさにこのためなるべしならくのみと。
問うていはく、『十地経』を案ずるに、菩薩の進趣階級、やうやく無量の功勲あり。多くの劫数を経。しかうしてのち、いましこれを得。いかんぞ阿弥陀仏を見たてまつるとき、畢竟じて上地のもろもろの菩薩と身等しく法等しきやと。
答へていはく、畢竟はいまだすなはち等しといふにはあらずとなりと。畢竟じてこの等しきことを失せざるがゆゑに、等しといふならくのみと。
問うていはく、もしすなはち等しからずは、またなんぞ菩薩といふことを得ん。ただ初地に登れば、もつてやうやく増進して、自然にまさに仏と等しかるべし。なんぞ仮に上地の菩薩と等しといふやと。
答へていはく、菩薩、七地のなかにして大寂滅を得れば、上に諸仏の求むべきを見ず、下に衆生の度すべきを見ず。仏道を捨てて実際を証せんと欲す。そのときにもし十方諸仏の神力加勧を得ずは、すなはち滅度して二乗と異なけん。菩薩もし安楽に往生して阿弥陀仏を見たてまつるに、すなはちこの難なけん。このゆゑにすべからく畢竟平等といふべし。
また次に『無量寿経』(上)のなかに、阿弥陀如来の本願(第二十二願)にのたまはく、〈たとひわれ仏を得たらんに、他方仏土のもろもろの菩薩衆、わが国に来生して究竟じてかならず一生補処に至らん。その本願の自在の所化、衆生のためのゆゑに、弘誓の鎧を被て徳本を積累し、一切を度脱せしめ、諸仏の国に遊びて、菩薩の行を修し、十方の諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して無上正真の道を立せしめんをば除く。常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん。もししからずは正覚を取らじ〉と。
この『経』を案じて、かの国の菩薩を推するに、あるいは一地より一地に至らざるべし。十地の階次といふは、これ釈迦如来、閻浮提にして一つの応化道ならくのみと。他方の浄土は、なんぞかならずしもかくのごとくせん。五種の不思議のなかに、仏法もつとも不可思議なり。もし菩薩かならず一地より一地に至りて、超越の理なしといはば、いまだあへて詳らかならざるなり。たとへば樹あり、名づけて好堅といふ。この樹、地より生じて百歳ならん。いましつぶさに一日に長高くなること百丈なるがごとし。 日々にかくのごとし。百歳の長を計るに、あに脩松に類せんや。松の生長するを見るに、日に寸を過ぎず。かの好堅を聞きて、なんぞよく即日を疑はざらん。人ありて、釈迦如来、羅漢を一聴に証し、無生を終朝に制すとのたまへるを聞きて、これ接誘の言にして称実の説にあらずと謂へり。この論事を聞きて、またまさに信ぜざるべし。それ非常の言は、常人の耳に入らず。これをしからずと謂へり。またそれ宜しかるべきなりと。
〈略して八句を説きて、如来の自利利他の功徳荘厳、次第に成就したまへるを示現したまへるなりと、知るべし〉(浄土論)と。これはいかんが次第なるとならば、前の十七句は、これ荘厳国土の功徳成就なり。すでに国土の相を知んぬ、国土の主を知るべし。このゆゑに次に仏荘厳功徳を観ず。かの仏もし荘厳をなして、いづれの処にしてか座すると。このゆゑにまづ座を観ずべし。すでに座を知んぬ、すでによろしく座主を知るべし。このゆゑに次に仏の身業を荘厳したまへるを観ず。すでに身業を知んぬ、いかなる声名かましますと知るべし。このゆゑに次に仏の口業を荘厳したまへるを観ず。すでに名聞を知んぬ、よろしく得名のゆゑを知るべし。このゆゑに次に仏の心業を荘厳したまへるを観ず。すでに三業具足したまへるを知んぬ、人・天の大師となつて化を受くるに堪へたるひとは、これたれぞと知るべし。このゆゑに次に大衆の功徳を観ず。すでに大衆無量の功徳いますことを知んぬ、よろしく上首はたれぞと知るべし。このゆゑに次に上首を観ず。上首はこれ仏なり。すでに上首を知んぬ、おそらくは長幼に同じことを。このゆゑに次に主を観ず。すでにこの主を知んぬ、主いかなる増上かましますと。このゆゑに次に荘厳不虚作住持を観ず。八句の次第成ぜるなり。
菩薩を観ぜば、〈いかんが菩薩の荘厳功徳成就を観察する。菩薩の荘厳功徳成就を観察せば、かの菩薩を観ずるに、四種の正修行功徳成就したまへることありと、知るべし〉(浄土論)と。真如はこれ諸法の正体なり。体、如にして行ずればすなはちこれ不行なり。不行にして行ずるを如実修行と名づく。体はただ一如にして義をして分ちて四つとす。このゆゑに四行、一をもつてまさしくこれを統ぬ。
〈なにものをか四つとする。一つには、一仏土において身、動揺せずして十方に遍す、種々に応化して実のごとく修行してつねに仏事をなす。『偈』に、《安楽国は清浄にして、つねに無垢輪を転ず、化仏・菩薩は、日の須弥に住持するがごとし》といへるがゆゑに。もろもろの衆生の淤泥華を開くがゆゑに〉(浄土論)とのたまへり。八地以上の菩薩は、つねに三昧にありて、三昧力をもつて身本処を動ぜずして、よくあまねく十方に至りて、諸仏を供養し、衆生を教化す。〈無垢輪〉は仏地の功徳なり。仏地の功徳は習気・煩悩の垢ましまさず。仏、もろもろの菩薩のためにつねにこの法輪を転ず。もろもろの大菩薩、またよくこの法輪をもつて、一切を開導して暫時も休息なけん。ゆゑに〈常転〉といふ。法身は日のごとくして、応化身の光もろもろの世界に遍ずるなり。〈日〉といはばいまだもつて不動を明かすに足らざれば、また〈如須弥住持〉といふなり。〈淤泥華〉とは、『経』(維摩経)にのたまはく、〈高原の陸地には蓮華を生ぜず。卑湿の淤泥にいまし蓮華を生ず〉と。これは凡夫、煩悩の泥のなかにありて、菩薩のために開導せられて、よく仏の正覚の華を生ずるに喩ふ。まことにそれ三宝を紹隆して、つねに絶えざらしむと。
〈二つには、かの応化身、一切のとき、前ならず後ならず、一心一念に大光明を放ちて、ことごとくよくあまねく十方世界に至りて、衆生を教化す。種々に方便し、修行所作して、一切衆生の苦を滅除するがゆゑに。『偈』に、《無垢荘厳の光、一念および一時に、あまねく諸仏の会を照らして、もろもろの群生を利益す》といへるがゆゑに〉(浄土論)と。上に〈不動にして至る〉といへり。あるいは至るに前後あるべし。このゆゑに、また〈一念一時無前無後〉とのたまへるなり。
〈三つには、かれ一切の世界において、余なくもろもろの仏会を照らす。大衆余なく、広大無量にして、諸仏如来の功徳を供養し、恭敬し、讃嘆す。『偈』に、《天の楽・華・衣・妙香等を雨りて、諸仏の功徳を供養し讃ずるに、分別の心あることなし》といへるがゆゑに〉(浄土論)と。〈余なく〉とは、あまねく一切世界、一切諸仏の大会に至りて、一世界・一仏会として至らざることあることなきことを明かすなり。肇公のいはく、〈法身は像なくして形を殊にす。ならびに至韻に応ず。言なくして玄籍いよいよ布き、冥権謀なくして動じて事と会す〉と。けだしこの意なり。
〈四つには、かれ十方一切の世界に三宝ましまさぬところにおいて、仏法僧宝功徳大海を住持し荘厳して、あまねく示して如実の修行を解らしむ。『偈』に、《なんらの世界にか、仏法功徳宝ましまさざらん。われ願はくはみな往生して、仏法を示して仏のごとくせん》といへるがゆゑに〉(浄土論)と。上の三句は、あまねく至るといふといへども、みなこれ有仏の国土なり。もしこの句なくは、すなはちこれ法身、所として法ならざることあらん。上善、所として善ならざることあらん。観行の体相は竟りぬ。
以下はこれ、解義のなかの第四重なり。名づけて浄入願心とす。浄入願心とは、〈また向に観察荘厳仏土功徳成就と荘厳仏功徳成就と荘厳菩薩功徳成就とを説きつ。この三種の成就は願心の荘厳したまへるなりと、知るべし〉(浄土論)といへり。〈応知〉とは、この三種の荘厳成就は、もと四十八願等の清浄の願心の荘厳せるところなるによりて、因浄なるがゆゑに果浄なり。因なくして他の因のあるにはあらずと知るべしとなり。
〈略して入一法句を説くがゆゑに〉(浄土論)とのたまへり。上の国土の荘厳十七句と、如来の荘厳八句と、菩薩の荘厳四句とを広とす。入一法句は略とす。なんがゆゑぞ広略相入を示現するとならば、諸仏菩薩に二種の法身あり。
一つには法性法身、二つには方便法身なり。法性法身によりて方便法身を生ず。方便法身によりて法性法身を出す。この二の法身は異にして分つべからず。一にして同じかるべからず。このゆゑに広略相入して、統ぬるに法の名をもつてす。菩薩、もし広略相入を知らざれば、すなはち自利利他するにあたはず。
〈一法句とは、いはく清浄句なり。清浄句とは、いはく真実の智慧、無為法身なるがゆゑに〉(浄土論)とのたまへり。この三句は展転してあひ入る。なんの義によりてかこれを名づけて法とする、清浄をもつてのゆゑに。なんの義によりてか名づけて清浄とする、真実の智慧無為法身をもつてのゆゑなり。
真実の智慧は実相の智慧なり。実相は無相なるがゆゑに、真智は無知なり。無為法身は法性身なり。法性寂滅なるがゆゑに法身は無相なり。無相のゆゑによく相ならざることなし。このゆゑに相好荘厳すなはち法身なり。無知のゆゑによく知らざることなし。このゆゑに一切種智すなはち真実の智慧なり。真実をもつてして智慧に目づくることは、智慧は作にあらず非作にあらざることを明かすなり。無為をもつてして法身を樹つることは、法身は色にあらず非色にあらざることを明かすなり。非にあらざれば、あに非のよく是なるにあらざらんや。けだし非なき、これを是といふなり。おのづから是にして、また是にあらざることを待つことなきなり。是にあらず非にあらず、百非の喩へざるところなり。このゆゑに清浄句といへり。清浄句とは、いはく真実の智慧無為法身なり。
〈この清浄に二種あり、知るべし〉といへり。上の転入句のなかに、一法に通じて清浄に入る。清浄に通じて法身に入る。いままさに清浄を別ちて二種を出すがゆゑなり。ゆゑに知るべしといへり。
〈なんらか二種、一つには器世間清浄、二つには衆生世間清浄なり。器世間清浄とは、向に説くがごときの十七種の荘厳仏土功徳成就、これを器世間清浄と名づく。衆生世間清浄とは、向に説くがごときの八種の荘厳仏功徳成就と、四種の荘厳菩薩功徳成就と、これを衆生世間清浄と名づく。かくのごときの一法句に二種の清浄の義を摂すと、知るべし〉(浄土論)とのたまへり。
それ衆生は別報の体とす。国土は共報の用とす。体用一ならず。このゆゑに知るべし。しかるに諸法は心をして無余の境界を成ず。衆生および器、また異にして一ならざることを得ず。すなはち義をして分つに異ならず。同じく清浄なり。器は用なり。いはくかの浄土は、これかの清浄の衆生の受用するところなるがゆゑに、名づけて器とす。浄食に不浄の器を用ゐれば、器不浄なるをもつてのゆゑに、食また不浄なり。不浄の食に浄器を用ゐれば、食不浄なるがゆゑに、器また不浄なるがごとし。かならず二つともに潔くして、いまし浄と称することを得しむ。ここをもつて一つの清浄の名、かならず二種を摂す。
問うていはく、衆生清浄といへるは、すなはちこれ仏と菩薩となり。かのもろもろの人・天、この清浄の数に入ることを得んや、いなやと。
答へていはく、清浄と名づくることを得るは、実の清浄にあらず。たとへば出家の聖人は、煩悩の賊を殺すをもつてのゆゑに名づけて比丘とす、凡夫の出家のものをまた比丘と名づくるがごとし。また灌頂王子初生のとき、三十二相を具して、すなはち七宝のために属せらる。いまだ転輪王の事をなすことあたはずといへども、また転輪王と名づくるがごとし。それかならず転輪王たるべきをもつてのゆゑに。かのもろもろの人・天もまたまたかくのごとし。みな大乗正定の聚に入りて、畢竟じてまさに清浄法身を得べし。まさに得べきをもつてのゆゑに、清浄と名づくることを得るなりと。
善巧摂化とは、〈かくのごときの菩薩は、奢摩他・毘婆舎那、広略修行成就して柔軟心なり〉(浄土論)とのたまへり。〈柔軟心〉とは、いはく広略の止観、相順して修行して、不二の心を成ぜるなり。たとへば水をもつて影を取るに、清と静とあひ資けて成就するがごとしとなり。
〈実のごとく広略の諸法を知る〉(浄土論)とのたまへり。〈如実知〉といふは、実相のごとくして知るなり。広のなかの二十九句、略のなかの一句、実相にあらざることなきなり。
〈かくのごとき巧方便回向を成就したまへり〉(浄土論)とのたまへり。〈かくのごとき〉といふは、前後の広略みな実相なるがごときなり。実相を知るをもつてのゆゑに、すなはち三界の衆生の虚妄の相を知るなり。衆生の虚妄を知れば、すなはち真実の慈悲を生ずるなり。真実の法身を知るは、すなはち真実の帰依を起すなり。慈悲と帰依と巧方便とは、下にあり。
〈なにものか菩薩の巧方便回向。菩薩の巧方便回向とは、いはく、礼拝等の五種の修行を説く、所集の一切の功徳善根は、自身住持の楽を求めず。一切衆生の苦を抜かんと欲すがゆゑに、作願して一切衆生を摂取して、ともに同じくかの安楽仏国に生ぜしむ。これを菩薩の巧方便回向成就と名づく〉(浄土論)とのたまへり。王舎城所説の『無量寿経』を案ずるに、三輩生のなかに、行に優劣ありといへども、みな無上菩提の心を発せざるはなけん。この無上菩提心は、すなはちこれ願作仏心なり。願作仏心は、すなはちこれ度衆生心なり。度衆生心は、すなはちこれ衆生を摂取して有仏の国土に生ぜしむる心なり。このゆゑに、かの安楽浄土に生ぜんと願ずるものは、かならず無上菩提心を発するなり。もし人、無上菩提心を発せずして、ただかの国土の受楽無間なるを聞きて、楽のためのゆゑに生ぜんと願ずるは、またまさに往生を得ざるべきなり。
このゆゑに、〈自身住持の楽を求めず、一切衆生の苦を抜かんと欲すがゆゑに〉とのたまへり。〈住持楽〉とは、いはく、かの安楽浄土は、阿弥陀如来の本願力のために住持せられて、楽を受くること間なきなり。おほよそ〈回向〉の名義を釈せば、いはく、おのれが所集の一切の功徳をもつて、一切衆生に施与して、ともに仏道に向かへしめたまふなりと。〈巧方便〉とは、いはく、菩薩願ずらく、〈おのれが智慧の火をもつて一切衆生の煩悩の草木を焼かんと、もし一衆生として成仏せざることあらば、われ仏に成らじ〉と。しかるに衆生いまだことごとく成仏せざるに、菩薩すでにみづから成仏せんは、たとへば火&M049170;して、一切の草木を擿(擿の字、排ひ除くなり)んで焼きて尽さしめんと欲するに、草木いまだ尽きざるに、火&M049170;すでに尽きんがごとし。その身を後にして身を先にするをもつてのゆゑに、巧方便と名づく。このなかに〈方便〉といふは、いはく作願して一切衆生を摂取して、ともに同じくかの安楽仏国に生ぜしむ。かの仏国はすなはちこれ畢竟成仏の道路、無上の方便なり。
障菩提門とは、〈菩薩かくのごとくよく回向成就したまへるを知れば、すなはちよく三種の菩提門相違の法を遠離するなり。なんらか三種。一つには智慧門によりて、自楽を求めず、わが心自身に貪着するを遠離せるがゆゑに〉(浄土論)とのたまへり。進むを知りて退くを守るを〈智〉といふ。空無我を知るを〈慧〉といふ。智によるがゆゑに自楽を求めず、慧によるがゆゑにわが心自身に貪着するを遠離せり。
〈二つには慈悲門によれり。一切衆生の苦を抜いて、無安衆生心を遠離せるがゆゑに〉(浄土論)とのたまへり。苦を抜くを〈慈〉といふ。楽を与ふるを〈悲〉といふ。慈によるがゆゑに一切衆生の苦を抜く。悲によるがゆゑに無安衆生心を遠離せり。
〈三つには方便門によれり。一切衆生を憐愍したまふ心なり。自身を供養し恭敬する心を遠離せるがゆゑに〉(浄土論)とのたまへり。正直を〈方〉といふ。おのれを外にするを〈便〉といふ。正直によるがゆゑに一切衆生を憐愍する心を生ず。おのれを外にするによるがゆゑに自身を供養し恭敬する心を遠離せり。〈これを三種の菩提門相違の法を遠離すと名づく〉(浄土論)と。
順菩提門とは、〈菩薩はかくのごとき三種の菩提門相違の法を遠離して、三種の随順菩提門の法、満足することを得たまへるがゆゑに。なんらか三種。一つには無染清浄心。自身のためにもろもろの楽を求めざるをもつてのゆゑに〉(浄土論)とのたまへり。菩提はこれ無染清浄の処なり。もし身のために楽を求めば、すなはち菩提に違しなん。このゆゑに無染清浄心は、これ菩提門に順ずるなり。
〈二つには安清浄心。一切衆生の苦を抜くをもつてのゆゑに〉(浄土論)とのたまへり。菩提はこれ一切衆生を安穏する清浄の処なり。もし作心して一切衆生を抜きて生死の苦を離れしめずは、すなはち菩提に違しなん。このゆゑに一切衆生の苦を抜くは、これ菩提門に順ずるなりと。
〈三つには楽清浄心。一切衆生をして大菩提を得しむるをもつてのゆゑに、衆生を摂取してかの国土に生ぜしむるをもつてのゆゑに〉(浄土論)とのたまへり。菩提はこれ畢竟常楽の処なり。もし一切衆生をして畢竟常楽を得しめずは、すなはち菩提に違しなん。この畢竟常楽はなにによりてか得る、大乗門によるなり。大乗門とは、いはくかの安楽仏国土これなり。このゆゑにまた〈衆生を摂取してかの国土に生ぜしむるをもつてのゆゑに〉(浄土論)とのたまへり。〈これを三種の随順菩提門の法、満足せりと名づくと、知るべし〉(浄土論)と。
名義摂対とは、〈向に智慧・慈悲・方便の三種の門は般若を摂取す。般若方便を摂取すと説きつ、知るべし〉(浄土論)とのたまへり。〈般若〉とは如に達するの慧の名なり。〈方便〉とは権に通ずるの智の称なり。如に達すればすなはち心行寂滅なり。権に通ずれば、すなはちつぶさに衆機に省く。機に省くの智、つぶさに応じて無知なり。寂滅の慧、また無知にしてつぶさに省く。 しかればすなはち智慧と方便と、あひ縁じて動じ、あひ縁じて静なり。動、静を失せざることは、智慧の功なり。静、動を廃せざることは方便の力なり。このゆゑに智慧と慈悲と方便と、般若を摂取す。般若、方便を摂取す。〈知るべし〉とは、いはく、智慧と方便はこれ菩薩の父母なり。もし智慧と方便とによらずは、菩薩の法則成就せざることを知るべし。なにをもつてのゆゑに。もし智慧なくして衆生のためにするときには、すなはち顛倒に堕せん。もし方便なくして法性を観ずるときには、すなはち実際を証せん。このゆゑに知るべしと。
〈向に遠離我心貪着自身・遠離無安衆生心・遠離供養恭敬自身心を説きつ。この三種の法は、障菩提心を遠離するなりと、知るべし〉(浄土論)とのたまへり。諸法におのおの障碍の相あり。風はよく静を障ふ。土はよく水を障ふ。湿はよく火を障ふ。五黒・十悪は人・天を障ふ。四顛倒は声聞の果を障ふるがごとし。このなかの三種は菩提を障ふる心を遠離せずと。〈知るべし〉とは、もし無障を得んと欲はば、まさにこの三種の障碍を遠離すべきなり。
〈向に無染清浄心・安清浄心・楽清浄心を説きつ。この三種の心は略して一処にして、妙楽勝真心を成就したまへりと、知るべし〉(浄土論)とのたまへり。楽に三種あり。一つには外楽、いはく五識所生の楽なり。二つには内楽、いはく初禅・二禅・三禅の意識所生の楽なり。三つには法楽楽、いはく智慧所生の楽なり。この智慧所生の楽は、仏の功徳を愛するより起れり。これは遠離我心と遠離無安衆生心と遠離自供養心と、この三種の心、清浄に増進して、略して妙楽勝真心とす。妙の言はそれ好なり。この楽は仏を縁じて生ずるをもつてのゆゑに。勝の言は三界のうちの楽に勝出せり。真の言は虚偽ならず、顛倒せざるなり。
願事成就とは、〈かくのごとき菩薩は智慧心・方便心・無障心・勝真心をもつて、よく清浄仏国土に生ぜしめたまへりと、知るべし〉(浄土論)とのたまへり。〈知るべし〉とは、いはく、この四種の清浄の功徳、よくかの清浄仏国土に生ずることを得しむ。これ他縁をして生ずるにはあらずと知るべしとなり。
〈これを菩薩摩訶薩、五種の法門に随順して、所作意に随ひて自在に成就したまへりと名づく。向の所説のごとき身業・口業・意業・智業・方便智業、法門に随順せるがゆゑに〉(浄土論)とのたまへり。〈随意自在〉とは、いふこころは、この五種の功徳力、よく清浄仏土に生ぜしめて、出没自在なるなり。
〈身業〉とは礼拝なり。〈口業〉とは讃嘆なり。〈意業〉とは作願なり。〈智業〉とは観察なり。〈方便智業〉とは回向なり。この五種の業和合せり、すなはちこれ往生浄土の法門に随順して、自在の業成就したまへりとのたまへりと。
利行満足とは、〈また五種の門ありて、漸次に五種の功徳を成就したまへりと、知るべし。なにものか五門。一つには近門、二つには大会衆門、三つには宅門、四つには屋門、五つには園林遊戯地門なり〉(浄土論)とのたまへり。この五種は、入出の次第の相を示現せしむ。入相のなかに、初めに浄土に至るは、これ近相なり。いはく大乗正定聚に入るは、阿耨多羅三藐三菩提に近づくなり。浄土に入りをはるは、すなはち如来の大会衆の数に入るなり。衆の数に入りをはりぬれば、まさに修行安心の宅に至るべし。宅に入りをはれば、まさに修行所居の屋宇に至るべし。修行成就しをはりぬれば、まさに教化地に至るべし。教化地はすなはちこれ菩薩の自娯楽の地なり。このゆゑに出門を園林遊戯地門と称すと。
〈この五種の門は、初めの四種の門は入の功徳を成就したまへり。第五門は出の功徳を成就したまへり〉(浄土論)とのたまへり。この入出の功徳は、なにものかこれや。
釈すらく、〈入第一門といふは、阿弥陀仏を礼拝してかの国に生ぜしめんがためにするをもつてのゆゑに、安楽世界に生ずることを得しむ。これを第一門と名づく〉とのたまへり。仏を礼して仏国に生ぜんと願ずるは、これ初めの功徳の相なりと。
〈入第二門とは、阿弥陀仏を讃嘆し、名義に随順して如来の名を称せしめ、如来の光明智相によりて修行せるをもつてのゆゑに、大会衆の数に入ることを得しむ。これを入第二門と名づく〉(浄土論)とのたまへり。如来の名義によりて讃嘆する、これ第二の功徳の相なりと。
〈入第三門とは、一心に専念し作願して、かしこに生じて奢摩他寂静三昧の行を修するをもつてのゆゑに、蓮華蔵世界に入ることを得しむ。これを入第三門と名づく〉(浄土論)。寂静止を修せんためのゆゑに、一心にかの国に生ぜんと願ずる、これ第三の功徳の相なりと。
〈入第四門とは、かの妙荘厳を専念し観察して、毘婆舎那を修せしむるをもつてのゆゑに、かの所に到ることを得て、種々の法味の楽を受用せしむ。これを入第四門と名づく〉(浄土論)とのたまへり。〈種々の法味の楽〉とは、毘婆舎那のなかに、観仏国土清浄味・摂受衆生大乗味・畢竟住持不虚作味・類事起行願取仏土味あり。かくのごときらの無量の荘厳仏道の味あるがゆゑに、種々とのたまへり。これ第四の功徳の相なりと。
〈出第五門とは、大慈悲をもつて一切苦悩の衆生を観察して、応化身を示して、生死の園、煩悩の林のなかに回入して、神通に遊戯し、教化地に至る。本願力の回向をもつてのゆゑに。これを出第五門と名づく〉(浄土論)とのたまへり。〈応化身を示す〉といふは、『法華経』の普門示現の類のごときなり。〈遊戯〉に二つの義あり。一つには自在の義。菩薩衆生を度す。たとへば獅子の鹿を搏つに、所為はばからざるがごときは、遊戯するがごとし。二つには度無所度の義なり。菩薩衆生を観ずるに、畢竟じてあらゆるところなし。無量の衆生を度すといへども、実に一衆生として滅度を得るものなし。衆生を度すと示すこと遊戯するがごとし。〈本願力〉といふは、大菩薩、法身のなかにおいて、つねに三昧にましまして、種々の身、種々の神通、種々の説法を現ずることを示すこと、みな本願力より起るをもつてなり。たとへば阿修羅の琴の鼓するものなしといへども、しかも音曲自然なるがごとし。これを教化地の第五の功徳の相と名づくとのたまへり」と。{以上抄出}
総結
- 【18】 しかれば大聖(釈尊)の真言、まことに知んぬ、大涅槃を証することは願力の回向によりてなり。還相の利益は利他の正意を顕すなり。ここをもつて論主(天親)は広大無碍の一心を宣布して、あまねく雑染堪忍の群萌を開化す。宗師(曇鸞)は大悲往還の回向を顕示して、ねんごろに他利利他の深義を弘宣したまへり。仰いで奉持すべし、ことに頂戴すべしと。
顕浄土真実証文類 四