選択本願念仏集 (七祖)
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
- 1選択本願念仏集
- 選択本願念仏集
南無阿弥陀仏[往生の業には、念仏を先となす。]
【1】 道綽禅師、聖道・浄土の二門を立てて、聖道を捨ててまさしく浄土に帰 する文。
『安楽集』の上にいはく、「問ひていはく、一切衆生はみな仏性あり。遠劫よりこのかた多仏に値ひたてまつるべし。なにによりてか、いまに至るまでなほみづから生死に輪廻して火宅を出でざるや。
答へていはく、大乗の聖教によらば、まことに二種の勝法を得てもつて生死を排はざるによる。
ここをもつて火宅を出でず。何者をか二となす。一にはいはく聖道、二にはいはく往生浄土なり。
それ聖道の一種は、今の時証しがたし。一には大聖(釈尊)を去れること遥遠なるによる。二には理は深く解は微なるによる。このゆゑに『大集月蔵経』にのたまはく、〈わが末法の時のうちの億々の衆生、行を起し道を修せんに、いまだ一人として得るものあらじ〉と。
当今は末法、これ五濁悪世なり。ただ浄土の一門のみありて通入すべき路なり。このゆゑに『大経』にのたまはく、〈もし衆生ありてたとひ一生悪を造れども、命終の時に臨みて、十念相続してわが名字を称せんに、もし生ぜずといはば、正覚を取らじ〉と。
また一切衆生はすべてみづから量らず。もし大乗によらば、真如実相第一義空、かつていまだ心を措かず。もし小乗を論ぜば、見諦修道に修入し、乃至、那含・羅漢、五下を断じ五上を除くこと、道俗を問ふことなく、いまだその分あらず。
たとひ人天の果報あれども、みな五戒・十善のためによくこの報を招く。しかるを持得するものは、はなはだ希なり。もし起悪造罪を論ぜば、なんぞ暴き風&M044625;き雨に異ならん。ここをもつて諸仏の大慈、勧めて浄土に帰せしめたまふ。
たとひ一形悪を造れども、ただよく意を繋けて専精につねによく念仏せば、一切の諸障自然に消除して、さだめて往生することを得。なんぞ思量せずしてすべて去く心なきや」と。
- わたくしにいはく、ひそかにはかりみれば、それ立教の多少、宗に随ひ
- て不同なり。
- しばらく有相宗(法相宗)のごときは、三時教を立てて〔釈尊の〕一代の聖教を判ず。いはゆる有・空・中これなり。無相宗(三論宗)のごときは、二蔵教を立ててもつて一代の聖教を判ず。いはゆる菩薩蔵・声聞蔵これなり。華厳宗のごときは、五教を立てて一切の仏教を摂す。いはゆる小乗教・始教・終教・頓教・円教これなり。法華宗(天台宗)のごときは、四教五味を立ててもつて一切仏教を摂す。「四教」といふは、いはゆる蔵・通・別・円これなり。「五味」といふは、いはゆる乳・酪・生・熟・醍醐これなり。真言宗のごときは、二教を立てて一切を摂す。いはゆる顕教・密教これなり。いまこの浄土宗は、もし道綽禅師の意によらば、二門を立てて一切を摂す。いはゆる聖道門・浄土門これなり。 問ひていはく、それ宗の名を立つることは、本、華厳・天台等の八宗・九宗にあり。いまだ浄土の家においてその宗の名を立つることを聞かず。しかるをいま浄土宗と号する、なんの証拠かあるや。答へていはく、浄土宗の名、その証一にあらず。元暁の『遊心安楽道』にいはく、「浄土宗の意、本凡夫のためなり、兼ねては聖人のためなり」と。また慈恩(窺基)